02 入杜試験(中)
「二十秒経ちました。残り十秒です」
不意に記録係の345が桃に警告する。この台詞も幾度となく聞かされた。三十秒沈黙が続いてしまうと、次の絵へと強制的に質問が移るのだ。このミスを踏むと、採点上、大幅な失点に繋がることはまぬがれない。それは桃も薄々承知していた。だが、ひとたびそのことに意識の根が伸びてしまうと、与えられた羊の絵画を眺めながら、九、八、七…、と思わず心のうちで秒読みを始めてしまい、まとまりかけていた意識がほろほろと散逸しそうになる。
六、五…。面接官242が次の絵を取り出そうと、腰をかがめて、椅子の横に立てかけた茶色の紙袋へとおもむろに手を差し伸べる。四、三…。記録係345が電子帳の方に首を傾ける。二、一…。
と、そのときになって、桃がようやく顔をあげ、
「羊の魂が感じられなかったからです」
と慌てた口調で答えた。
「羊の魂…ちょっと抽象的ですね。もう少し詳しく説明してくれますか?」
と面接官242は、紙袋に入れかけた手を引き戻しつつ言った。
桃はゆっくりと深呼吸して、
「はい。つまり………ここに描かれた羊は草を食むという生活行動をしていますが、にもかかわらず、私にはおよそ生気を感じ取ることができませんでした。むしろ絵具の使い方や、遠近、羊が後ろを向いているという構図そのものによって、羊の存在が遊離? 希薄? されて、ひいては魂を刈り取られ、結果として絵画全体にアンバランスな欠落感を生んでいると感じました。もし羊自ら群れを抜け出したのなら、むしろ群れにおいてアンバランスさが現れているはずで、一匹羊になってもそれがぬぐえないのは、私にはとても考えられませんし耐えられません」
「…だからこの羊は取り残されたと?」
「はい」
桃の解答が終わると、面接官242と記録係345は思わず顔を見合わせた。桃はそれを見て、あ、と思った。「抽象的だから、もう少し詳しく説明せよ」という問いに対して、またも抽象的に答えてしまったのではないか? そう自問してじわじわと胸が波立った。しかし言い終えた手前、ふたたび口を開くのもおかしな感じがしたし、そもそもこの絵に対してはこれ以上うまく言語化する自信もなかった。桃は歯がゆい思いを堪えながら、二人の次なる対応を待った。
すると面接官242はゆっくりと桃の方に向き直って、
「結構です」
と一言放った。それを待って隣の記録係345が例の電子帳をいじくる。心なしか、二人の顔にはそれぞれ微妙な笑みが浮かんでいるように見えた。このような光景は面接が始まって以来見たためしがない。桃は二人の意外な反応に驚き、しばらく両者の顔を交互に見比べていた。が、そのイレギュラーはほんのわずかのできごとで、桃が冷静な分析をこころみるより先に、二人の表情は以前の硬さへと戻ってしまった。そして耳に焼きつくほど聞かされた、242の冷然な台詞が突きささる。
「それでは次の質問です。この絵を見てどのような印象を受けますか?」
面接は午後一時から始まって現在は午後六時を過ぎようとしていた。いったいいつ終わるのだろうか? 途中休憩は一切なしの、異常なほどの長時間面接に、もはや桃は疲労の色を隠せなくなっていた。気がついてみると、いつしか、硬い木椅子に座りっぱなしで腰から下は完全に痺れているし、喋り続けで喉もいがらっぽくなっていて、身体もだいぶ熱っぽく感じられた。
桃は募る気だるさを払拭する意味合いも込めて、座りながら身体の重心を左右前後に揺さぶってみせた。と、それにつられて、桃に取りつけられた測定器のコード束が床にあたって、ぴしゃりと音を鳴らした。その音が小教室内に鋭く反響して、思わず桃は面接官242と視線が合わさった。けれども、242は依然として無表情のままである。その瞬きすらしない、静止画のような表情には、彼女の心情や思考をけっして汲みとらせまいとする、鉄壁の堅牢さを窺わせた。
やがて桃は二人の間に何とも言えない気まずい空気感が醸成されつつあるのを悟ると、何ごともなかったように絵画答弁の続きを再開した。気だるさは充分に解消できなかったが、薄れていた緊張感がよみがえってふたたび桃を奮い立たせたのだ。
ちなみに測定器とは、脳波測定器と血液測定器の二種類で、前者はもちろん頭部に、後者は左手背部に針を通して、それぞれ繋げられていた。それら測定器は、二台とも記録係345の電子帳に接続されており、常時345によってモニタリングされていた。
明らかに普通の面接ではない。桃が中学の制服を着ていることも、この光景の違和感を助長した。普通、中学生が面接に挑むとすれば、およそ高校受験を除いてほかに考えられない。いったい、身体に実験器具的な装置を取りつけられた状態で、しかも五時間にも及ぶ長きにわたって、ひたすら絵画の感想だけを延々と答え続ける面接入試がこの世に存在するだろうか。少なくとも現在の―つまり西暦二〇三六年の―日本国においては、存在しないはずである。