終章
父皇の喪が明けてから、カールハインツは皇位を継いだ。
彼は気炎を揚げるだけでなく、宣言どおりのことを成し遂げようとしていた。
まずは補給線が伸びきって兵糧を賄えなくなったことを理由に、東征軍を引き上げさせた。タカーチュ国からも軍を完全に撤退させた。国境警備兵を完全になくすのは難しいが、今後、彼はかの国の領土に土足で踏み入る真似はしないだろう。現在、彼はタカーチュ国との国交回復に腐心しているようだ。
侵略国家として近隣諸国に悪名をとどろかせてきたレーゼル帝国は、ようやく矛を収めたのだった。
「なかなかやるなあ」
「……ぼく以外の男のこと、考えていたでしょ」
思わずつぶやいたルイゼに、フェイがうろんげな眼差しを送ってきた。揺れる馬車の中で、ルイゼは慌てる。
「そ、そんなことないよ」
「そっかなあ。怪しいなあ」
あてずっぽうなのか、鋭いのか。疑ってくるフェイに、ルイゼは苦笑する。
「殿下はちゃんと戦争をやめたなって、ふと思っただけだよ」
「もう皇太子殿下じゃない。皇帝陛下じゃぞ」
向かいに座るベルントが、すかさず訂正を入れてくる。
外の景色を眺めながら、ルイゼはロンベルク兵士養成所のことを思った。
禽獣人の兵士たちの身柄は、カールハインツが引き受けた。除隊を望む者にはそれをかなえたが全員ではなかったので、残りは彼の私兵に仮配属となっている。一時はそうした対応に忙殺されたが、それが終わった今、化け師としてのルイゼは長期の休みを手に入れていた。
めでたいことは続くものだ。叔母――つまりバルドゥルの妻が懐妊したのだ。それを打ち明けた時の叔父の照れた顔は実に見物であった。
(叔父貴でもあんな表情するんだなあ)
戦場とは無縁の場所で、彼と穏やかに会話できる日が来るとは思いもしなかった。いとこの誕生が今から楽しみである。
ルイゼは改めて馬車の中に視線を移した。そこにはフェイとレネ、そしてベルントがいる。御者席で手綱をさばいているのはロルフだ。
ルイゼたちは旅に出た。もちろん海を見るためだ。
ロルフはルイゼたちと旅をすることを選んだ。自分の身の振り方をしばらく考えたいのだそうだ。
そうして数日に渡る旅の末、レーゼル帝国西部の海岸にたどりついた。小さな漁村からやや離れた、人気のない、浜の美しい海だ。
広大な海は、想像とは違う色をしていた。ルイゼは感嘆の息を漏らす。
「海が、赤い……」
奇しくも時は夕刻。西の水平線に沈む太陽が、海を真紅に染めていた。
「赤い海なんてあるんだ……」
無論、落陽を映した色であることはわかっている。これは一時的な景色で、夜になれば星空を映した深い紺碧が、朝が来れば輝く日に照らされた明るい青が現れることも。だが常とは異なる趣を見せたこの風景を、ルイゼは美しいと感じた。沈む直前の陽の輝きに、ひたすら魅入る。一瞬でも目を放すのが惜しい気さえする。
フェイとレネは波打ち際に足を浸してはしゃいでいた。日が沈む前にはここを出て、今日の宿を探さないといけないのだが――もうしばらくは好きにさせていよう。
「ねえ、ベル爺。前に言っていた『海を見れば赤いと言い、雪を見れば黒いと言う』って話」
「うん?」
素直になれないルイゼのことを、ベルントはかつてそう表現していた。隣に立つベルントに向かって、ルイゼはいたずらっぽく笑う。
「あったね。赤い海」
「……そのようじゃな」
ベルントはまぶしそうに夕日に染まる海を見つめる。
ロルフもそばで夕日を眺めていた。寡黙な彼は道中も聞き手に回ることが多い。その表情に以前よりも感情がのぞくようになったと感じるのは、おそらく気のせいではない。
「ルイゼ、ロルフ」
不意にレネがやってきた。彼女はルイゼとロルフを交互に見やる。
「ロルフって、本当はルイゼが好きだったんでしょ?」
「は?」
出し抜けになにを言い出すのやら。ロルフも虚を衝かれたようだ。
「おれがルイゼ様を……?」
「そうよ。あ、この話、フェイには内緒ね」
レネは無邪気に片目をつむる。まさか、とルイゼは脳内で否定した。ロルフは無口で、表情の変化も乏しい。ルイゼの前でも基本的にそれは同じだ。特別に恋情を感じたことはない。
「それはないよ。前、ロルフにも言われたし」
「ルイゼも鈍いわねえ……。ロルフは自分の気持ちに気づけなかったのよ」
レネは負けずに持論を説く。
「ロルフ、誰かを愛する気持ち、あなたはもう知っているはずだわ。……でも、ちょっと恋とは違うのかも。言わば家族愛かしら」
レネはロルフの前に立った。彼はほうけたような顔をする。
「おれにもあるんだろうか。そんな人間みたいな感情が……」
「あるに決まっているでしょ。もう人間なんだもの」
レネに断言され、ロルフは黙考を始める。
そんなロルフに、レネはおもむろに抱きついた。ルイゼはぎょっとする。
「ちょ、レネ?」
「……?」
ロルフは琥珀色の瞳をかすかに見開き、無言で意図を問う。レネは上目遣いで彼と目を合わせた。
「ねえ、どうしてあたしにはそれがわかるんだと思う?」
「……どうしてだ?」
甘い声を出すレネに、ロルフは感情の乏しい声音で尋ね返す。レネは背伸びして彼の首に両腕を回した。
「それはね、ずっとあなたを目で追っているから、よ」
彼女はさらに爪先立って顔を寄せる。
「あたしに恋して、ロルフ。教えてあげるわ。あなたが知りたい、愛する気持ちを。どきどきする感覚を一緒に楽しみましょうよ」
「……?」
戸惑うロルフの顎を捉えて、レネは大胆にも唇を重ねた。ルイゼは驚いて声を出せない。ベルントも目を丸くしているようだ。滅多なことでは動じないロルフも、珍しくたじろいでいるようだ。彼をここまで揺さぶれるのはレネだけかもしれない。
(案外お似合いなのかも)
ベルントはそそくさと離れていった。ルイゼも気を利かせることにして、フェイのいる波打ち際へ歩く。
フェイはいぶかしげにレネとロルフを見ていた。
「あのふたり、なんの話を?」
彼の位置からは背の高いロルフの後ろ姿にレネが隠されて、ふたりの行為まではうかがえない。
「さ、さあ。なんだろうね」
声を裏返させてとぼける。フェイは不満そうな顔をした。
「教えてよ」
「そんなに気になるなら、なんでここでひとり待っていたの?」
「レネに釘を刺されたから。付いてくるなって」
「それを律儀に守って? 真面目だなあ」
「笑うなよ」
吹きだしたルイゼに、フェイはむくれて唇をとがらせた。そんな姿がなんだか愛おしい。
潮風がルイゼの赤髪をさらった。今さら女の格好に戻るのは気恥ずかしくて、すぐには男装はやめられない。だが最近、髪を伸ばそうと決めた。
「そういえば、フェイは前、言っていたよね。『忘れちゃったの?』って」
「ああ、うん。思い出してくれた?」
フェイは瞳を輝かせるが、ルイゼは頭を下げた。
「ごめん、それはまだ……。だから、なんのことか教えてほしくて」
「なんだ。そっか……」
フェイはあからさまに落胆を示した。ルイゼは申し訳ない気分になる。
「本当にごめん」
「……仕方ない。教えてあげる。……十年前、ぼくたちは将来を誓い合ったんだよ」
「え……?」
「大きくなったら結婚しようって。ルイゼがひとりじゃ寂しいって言うからさ。ずっと一緒にいるための、約束」
「ええっ!」
ルイゼは唖然とした。生憎ながらさっぱり覚えていない。
「子どもだったんだなあ、私。そんな約束するなんて……」
「……そうかもね。……だけど、ぼくにとっては、それが人として生きることの意味だった」
フェイは足元の貝殻を拾った。薄い桃色の巻貝だ。それをそっとルイゼに握らせる。
「ここに指輪があったらいいのにね」
彼は真摯な眼差しをルイゼに注ぐ。
「もう一度同じこと言ったら、ルイゼは応えてくれる?」
ルイゼは返答に窮した。フェイのことが好きな気持ちに偽りはない。しかし今はあちこち旅をして見聞を広めたり、緩やかな時の流れを満喫したかった。
「……私も、これからもフェイと一緒にいたい」
フェイがくれた巻貝を、手のひらでそっと包む。
「フェイが隣にいてくれるだけで、行きたい場所へ行く勇気が出るんだ」
重たいドレスを堂々と着こなす器量は、相変わらず持ち合わせていないけれど。腰の細いドレスに袖を通しても、以前ほどの息苦しさは感じない気がする。そうしてきっと、ほんの少しでも多く、笑顔でいることができる。
「でも今は、みんなと過ごす時間を大切にしたいかな。……ごめんね」
「十分だよ」
フェイの屈託のない笑顔が心に染み入った。潮の香りを胸いっぱいに吸いこむ。
ふと思いついて、かつて母が愛した歌を口ずさんだ。特別美しくもない声で、うまくもない歌を思いきり歌う。不思議と恥ずかしさはなかった。他人が聞けば笑われるしかない、稚拙な歌声なのに。楽しいという気持ちのほうがはるかに勝っていた。
フェイは嬉しそうにルイゼの歌に混ざった。ルイゼなんて比べものにならない流麗な歌声である。彼の歌を間近で聞ける幸福にルイゼは酔いしれた。
「やっぱり歌うのは気持ちいいな。好きだなあ」
彼はしみじみと感想を漏らした。ルイゼも同意する。
「そうだね。……本当にそうだね」
日が完全に沈みきるまで、ルイゼたちは潮風を浴び続けた。