第七章 大望を抱く皇子
さて団長探しを再開しようとルイゼが腰を上げた時、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「誰か来る……」
ルイゼのささやきにフェイがうなずいた。ふたりで壁に体を寄せ、じっと様子をうかがう。
「この辺りで声がしたようだが……」
足音に紛れるようにして耳に届いたのは、なじみのある声だった。ルイゼは安堵して小路から出た。
「叔父貴!」
「ルイゼ、やっと見つけた」
黒服をまとった叔父が、いつもと変わらぬ様子で姿を見せた。その背後にはロルフが控えており、さらにはベルントとレネまでいる。フェイがほっとしたように言った。
「レネ、ベル爺! 無事だったんだね。よかった!」
「それはこっちの台詞じゃよ」
「そうよ。もう、本当に心配したんだから!」
泣きそうに柳眉をゆがめたレネがフェイに抱きついた。兄妹の抱擁をほほえましく思いながら、ルイゼは叔父を見る。
「叔父貴はどうしてここに?」
「おまえを探していたんだ。そうしたら偶然彼らと会ってな」
叔父は歌劇座がある方向を一瞥した。
「皇帝暗殺事件の容疑者、おまえだそうだな。衛兵が探し回っているぞ」
相変わらずなにをやっているのだと、その冷たい声音が語っている。ルイゼはばつの悪さに目をそらした。
「軽率だったよ。まんまとカレルにはめられたりして」
「カレル?」
「タカーチュ軍の将校。叔父貴が出立したあと、軍を率いてやってきたんだ」
「……なるほどな」
叔父は思案するように顎に手を添えた。
「とにかくオーピッツをとらえねばな。場所は……」
「知っているのか?」
「一応、協力者だからな。ロルフ、案内してやれ。私は別件を片づけてくる」
「別件?」
この緊急事態でほかになにを優先するのかと、ルイゼは眉をひそめた。叔父はうんざりしたように指で眼鏡の位置を直す。
「行きがけの駄賃というか……火急の仕事があってな」
「仕事? 団長の命令で?」
「まさか。クラッセン家のためになることしか私はやらん」
断固として主張する姿は叔父らしかったが、ルイゼは不安に感じた。
「そんなんで大丈夫なのか? もし団長に気取られたら……」
そもそもなぜここに叔父がいるのだろう。こんなところを単独でほっつき歩いていいのだろうか。
「私のせいで叔父貴に不本意なことさせて……ごめん」
申し訳なさに耐えられず、謝罪を口にする。だが殊勝に頭を下げるルイゼに向かって、叔父はまるで犬でも追い払うような仕草をした。
「ぐずぐずするな。オーピッツが逃げるぞ」
どうやら火急の仕事とやらを詳しく説明する気はないらしい。憎らしいが、このようなあしらいは今に始まったことではなかった。
「わかったよ。……なにするつもりか知らないけど、気を付けて」
「おまえに案じられるほど、私は落ちぶれてなどいないぞ」
相変わらずの仏頂面で、叔父はロルフに目配せした。
「餞別だ」
「ルイゼ様、これを」
「剣?」
ルイゼはロルフから細剣を受け取った。叔父は鹿爪らしく言う。
「ルイゼ。これはあくまで護身用だ。おまえはしっかり守られていろよ。余計な手出しはするな。そのほうが事態を悪化させそうだからな」
「それじゃあ、叔父貴は姪の育て方を間違えたな」
皮肉を返すと、叔父は珍しく笑みを浮かべた。
「そうかもしれんな。……さて、無駄話は終わりだ。ロルフ、くれぐれもこの跳ねっ返りを頼んだぞ」
「承知しました」
ロルフは顎を引き、素早く先導を始める。ルイゼたちはその背に付いていった。
ロルフが案内したのは街外れの雑木林だった。兄妹を旅籠から連れだした時、一夜を過ごした場所でもある。
夜目の利くルイゼたちは明かりを持たずとも林の中を歩けた。慎重に落ち葉を踏みしめ、先を急ぐ。
しばらく進むと、乱立する木々の向こうから息を殺す気配があった。ルイゼたちは無言で視線を交わし合い、ひそかに得物を構える。
全員の呼吸が合ったのを感じ取った瞬間、ロルフとサイモンが先制を仕かけるべく駆けた。それに呼応するように数人の男たちが木陰から姿を見せる。彼らは一様になめし革の戦袍――タカーチュ人特有の武装に身を包んでいた。
フェイはあきれたように言った。
「華麗なる歌劇団が、物騒な連中の集まりだったとはね」
確かにちらほらと見覚えのある顔が混ざっているのは、彼らが役者として舞台に立っていたからだろう。かの歌劇団は団長と志を同じくしたタカーチュ人で主に構成されていたのかもしれない。
「おまえら、なにしに来た!」
「知られたからには生かしておけねえ!」
怒号と共に繰りだされる刃を、ベルントやロルフは器用によける。否、敵のほうが無謀なのである。夜目の利くルイゼたちとは違い、この暗闇では視界も狭まる。その上、身体能力も高いロルフたちに、明らかに分があった。
ルイゼは声を張り上げた。
「団長はどこだ!」
「教えるかよっ!」
野太い奇声を上げた男が横の茂みから現れ、剣で切りつけてきた。気づいたロルフが慌てて駆け寄ろうとする。
「ルイゼ様!」
「大丈夫!」
ルイゼは悠然と攻撃をかわし、男のみぞおちに剣柄をめりこませた。ルイゼの腕前は、ロルフやベルントには劣る。だがこの男たちが相手では問題なさそうだった。
ロルフとベルントは圧倒的な速さで敵をなぎ倒していく。そうして一通り戦闘不能にしたところで、ルイゼたちは軽く息をついた。
団長はまだ姿を見せない。
「ロルフ、団長はどこに?」
彼は小さくかぶりを振った。
「しばらくここに潜伏して、頃合を見計らってタカーチュに戻るとしか……」
「じゃあ、もう逃げたかもしれないのか……」
「逃げた、とは人聞きが悪いな」
声と同時に、何者かが一陣の風のごとく舞いこんできた。帝国軍の兵士である。おそらくタカーチュに鞍替えした禽獣人だ。
彼が目指す先にいるのはレネだった。ルイゼは青ざめた。
「しまった……!」
間に合わないとわかっていても、阻止したくて駆けだす。ベルントとロルフも動こうとしたが、彼女との距離がありすぎた。ふわふわの金髪が風にさらわれる。
「きゃあっ!」
「レネ!」
フェイが伸ばした手は、彼女には届かなかった。
暗闇に松明が浮き上がる。
「とんだ来客のお出ましじゃねえか。礼儀ってやつを知らねえようだな」
オーピッツだった。彼も仲間と同様、なめし革の戦袍に着替えている。言葉遣いがだいぶ変わっているが、おそらく素はこちらなのだろう。
彼の傍らに立つ兵士の腕の中に、レネはいた。
「ちょっと! 放してよ!」
レネは長い金髪を振り乱してもがいた。しかし兵士は微動だにしない。鍛え抜かれた禽獣人に、彼女がかなうわけがなかった。ルイゼはぎりりと奥歯をかむ。
「随分と卑怯な真似をするじゃないか」
「はっ。他国を平然と踏み台にする帝国人がよく言うぜ」
松明の下で、団長はルイゼに侮蔑の眼差しを向ける。
「貴様、昨日の小僧だな。はん、フェイもそろいやがって」
彼はルイゼが男だと誤解したままらしい。ルイゼたちを睥睨したあと、ロルフに視線を止めた。
「貴様、クラッセンの護衛じゃねえか。なんでここにいる? ……そうか。情報を漏らしたのは貴様の主人か」
ロルフは答えず、眼光を鋭くする。オーピッツは口角をゆがめた。
「ま、別にどうでもいいけどよ。目的は果たしたんだ。化け師なんぞに用はねえ」
彼は余裕ぶって背後を見やった。いつの間にやら十を超える元帝国兵たちが集まってきている。
「貴様らをなぶり殺すなら、これで十分だろ?」
団長はせせら笑った。おもむろにレネに近づく。
「いや、こいつをいたぶるのを忘れちゃいけねえな」
彼は兵士から彼女の身を預かると、その細い顎を力任せにつかんだ。レネは痛みに顔をしかめる。
「痛っ……!」
「禽獣人なんぞ大嫌えだ。が、顔と声はとびきり上物だからな。このおきれいな顔がどれだけゆがみ、どれだけ甘美な悲鳴を奏でるのか、確かめてみようじゃねえか」
「やめろ! レネを放せ!」
フェイは怒りに震え、一歩足を踏み出した。それ見た団長は懐から短剣を取りだし、レネの首筋に押しつける。
「動くんじゃねえ! 大事な妹を殺されたくなかったらな!」
「くっ……!」
やむなくフェイは衝動をこらえる。
しかしレネはおびえるだけの少女ではなかった。毅然とした態度で団長をにらみつける。
「あんたに殺されるくらいなら、こっちから舌をかみ切って死んでやるわよ!」
「威勢のいいこった。……だがな」
団長はレネの首筋に刃を食いこませた。白く滑らかな肌に、朱色の線が一筋浮かぶ。
「大人しくしねえと、舌かむ前に痛い目見るぜ」
「レネ!」
フェイが顔を青くする。レネはぐっと言葉を呑みこんだ。
兵士たちは火縄銃の銃口をルイゼたちに向ける。動けば撃たれる。とはいえ、仮に恭順にしてみせたところで結果は変わらないだろう。
「解放する条件は?」
ルイゼの問いに、団長はバカにしたような顔をする。
「条件なんてねえよ」
「その気は一切ないってことか?」
「貴様らにはここで全員死んでもらって、オレが無事に国境を越えられたら、ってことにしてやろうか? その時、こいつが生きている保障はねえが」
「……そうか」
ルイゼは目線だけ動かしてフェイを見た。察したフェイもルイゼを見る。彼の覚悟を見て取り、ルイゼは再び団長に話しかけた。
「交渉の機会さえもらえないのは残念だ。……だから、こっちのやり方に従ってもらう。フェイ!」
それが合図のようにフェイが駆けだした。団長は舌打ちする。
「恨むなら、阿呆な兄にしろよ」
「バカね」
喉を突こうとする短剣にも動じず、レネは不敵に笑った。
「フェイを恨むことなんて一生ないわ」
彼女は自由になる足で団長の股間を思い切り蹴り上げた。団長は「ぎゃっ」と情けない悲鳴を上げ、転がるようにレネから離れる。解放されたレネを、フェイはしっかりと抱きしめた。
「あー清々した。あたしのこと、見くびるからよ」
「傷、痛くない?」
「フェイったら心配性ね。これくらい、へっちゃらよ」
首筋の切り傷を気遣うフェイに、レネは気丈に笑ってみせる。
「き、き、貴様ら……!」
団長は涙目だった。痛みに身もだえしつつ、兵士たちに命令する。
「そいつら全員、皆殺しにしろ!」
しかしその時すでにロルフとベルントも動いていた。兵士たちが放った弾は目標を外れ、手近の樹木をうがつ。ふたりは次の弾を装填する猶予を与えず得物を奪った。
団長はその隙に逃げようとしていた。
「させない!」
ルイゼは急いで追いかけ、団長の前に回りこんだ。団長は苦々しい面持ちになる。
「こんなところで死ぬもんか!」
団長はほえた。短剣を捨て、腰に携えていた太めの刀剣に持ち替える。
「タカーチュの再興のために!」
団長は大地を蹴った。遮二無二肉薄し、剣を振りかざす。
「速い……!」
その太った体格からは思いもよらない俊敏さに気おされ、ルイゼは対処が遅れた。
「死ね! 帝国の化け師め!」
「しまった……!」
ルイゼが痛みを覚悟した瞬間、団長の背後で光芒が閃いた。夜の涼風になびく短い金髪――フェイだ。団長も気配を察して跳躍した。団長が捨てた短剣を拾ったのだろうフェイの攻撃は目標を外し、団長の右上腕を傷つけるに留まった。しかし右は団長の利き腕でもあった。彼は痛みで重い剣を取り落とす。
「くそっ……!」
「させない!」
慌てて刀剣を拾おうとする彼の前で、ルイゼはその剣を蹴飛ばした。
「ルイゼ様!」
ロルフが駆けつけ、団長を地面に押さえこんだ。団長は苦悶のうめきを漏らす。
「ぐっ……!」
彼の目から戦意は失われていなかったが、ロルフが右腕を軽くひねると、くぐもった声を出して大人しくなった。残りの兵士たちを片づけ終えたベルントもやってくる。敗北を悟った団長はいらだたしげに吐き捨てた。
「役立たずな禽獣人め!」
「それなんじゃが、どうにも妙だぞ。あいつら、全く強くなかったんじゃ。どうにも手を抜かれたような気がしてならん」
ベルントは釈然としない顔で指で後方を指した。そこにはベルントやロルフにのされた兵士たちが転がっている。
「そうなのか? ロルフも?」
ルイゼが尋ねても、彼は団長を組み敷いたまま、相変わらずの無表情で沈黙した。しかし寡黙ではあっても必要なことは話す男である。その彼が無言を貫くので、ルイゼは違和感を覚えた。
「ロルフ?」
そんな頭上でのやりとりに団長は我慢ならなかったようである。
「畜生! 畜生! 畜生! 帝国人なんて呪われてしまえ!」
彼はもはや呪詛を叫ぶことしかできないのだ。その原因が帝国にあると思えば哀れではあるが、ルイゼは冷然と答えた。
「なんとでも言えばいい。私をリームへよこしたのは貴様の息子だぞ。身内に足元をすくわれたな」
「息子だと……?」
団長の怒りにさらなる火が付いた。
「ふざけるな! 我が息子カレルはとっくの昔にあの世だぞ! 貴様ら帝国兵が殺したんじゃねえか!」
「――え……?」
背筋がすっと冷えた。それではあの青年はいったい誰だ――?
「ロルフ、叔父貴はどこへ行ったんだ? 今頃なにをしているんだ?」
ルイゼはロルフを見た。彼は嘘をつくのが下手なようだ。少しだけ顔に出た動揺を、ルイゼは見逃さなかった。さらに言い募ろうとした時、馬蹄の響きが聞こえた。暗闇の向こうから複数の松明が近づいてくる。
「間に合ったようだな」
聞き覚えのある声だった。ルイゼは夜闇に目を凝らす。
隣に控えた人物が掲げる明かりのもと、悠々とこちらに向かってくるのは、栗色の髪が精悍な輪郭を覆う隻眼の青年――カレルと名乗った男だった。なぜか今はタカーチュ式の武装ではない。帝国の戎衣、しかも地位の高さを示す勲章を付けている。そして伴っているのはタカーチュ兵ではなく帝国兵だ。
彼が姿を現した途端、ベルントたちが倒した帝国兵たちが一斉に起立し、整列した。
「な、なんだ……?」
訳がわからずぽかんとするルイゼに、カレルは鷹揚な笑みを見せる。
「礼を言う。よくぞ俺の思惑どおりに動いてくれたな」
ご満悦といった表情でねぎらうカレルを、ルイゼは思い切りにらみつけた。
「貴様、結局何者なんだ?」
ぞんざいに尋ねると、帝国兵たちが顔色を変えた。
「お控えください! このお方は……」
「待て」
叱責しようとした帝国兵を、カレルは片腕を上げて遮った。怪訝に眉をひそめるルイゼの前で、彼はいかにもおかしそうに目元を細める。その飾らない振る舞いは兵士養成所で会った時と変わらない。
彼は馬を降り、兵士たちを下がらせた。馬の手綱を預ける代わりに松明を受け取った彼は、ひとりでこちらに歩み寄ってくる。
「タカーチュ軍の将校カレル……俺はそう名乗ったはずだが?」
「団長の証言によると、彼の息子であるカレルはとうの昔に亡くなったらしいが」
「……残念。ばれてしまったか」
彼はぺろりと舌を出した。
「確かに、オーピッツは俺の父親ではない。だがまあ本当の父上もリームにいたんだがな。それにオーピッツとも無関係ではない」
「意味がわからないな」
「そう怒るな。先に問題を片づけさせてくれ」
彼はすぐには答えを与えず、兵士に団長の身柄の確保を命じた。ロルフから団長を引き受けた兵士は、彼を引っ立てながら遠ざかる。団長は去り際、憤怒の表情でカレルをにらみつけ、口惜しげに唾を吐き捨てた。
「そういうことか……。この二枚舌め!」
「…………」
顔色ひとつ変えずにその背を見送ったあと、カレルはやれやれと嘆息した。
「あいつの前で正体を明かすのは、さすがにな。この俺でも気が引ける」
「それは……」
意味深な言葉の真意を問うためルイゼが口を開きかけると、カレルの背後から名前を呼ばれた。
「ルイゼ」
叔父だった。なにやら神妙な顔つきである。
「叔父貴、どうしてここに。仕事は?」
「私の仕事は、殿下をここまでご案内することだ」
「え? 殿下って?」
叔父は隻眼の青年を恭しく見やった。
「このお方はカールハインツ皇太子殿下であらせられる」
「――は……?」
あまりにも衝撃的で、二の句を継げられなかった。
庶子ではあるが皇族唯一の男子で、レーゼル帝国北方守備を一任された、勇名高き闘将カールハインツ。
言われてみれば、この青年には確かに為政者の風格が備わっている、ような気もする。
当の本人は、悪戯をばらされた子どものような顔をしていた。ベルントは間抜けにぽかんと口を開ける。
「なんと……皇太子殿下だったとは……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
ルイゼは混乱しながら口を挟んだ。
「総司令官は戦死されたのでは? それに、兵士養成所でのタカーチュの戦袍は……」
「敵をだますにはまず味方からって言うだろう?」
「ってことは、戦死は嘘? 団長の入国に手を貸した内通者も、まさか……」
「ご明察。タカーチュがゼクレス要塞を落とした――というところからすでに嘘だ。挙兵したのはタカーチュではなく、この俺なのだからな」
「……なんてこと……!」
悪びれることなく打ち明けられた事実に、驚くことしかできない。要するにこの男はタカーチュを利用して皇帝を――彼にとっては実の父親を殺したのである。
「なぜそんな……?」
理由を全く想像できずに尋ねると、彼の目元に冷たい陰りが生じた。兵士養成所でも垣間見せていた目だ。
「無論、帝位簒奪のためだ。……兵士養成所に引きこもっていたおまえは知らなかったのだろうが、宮廷では有名だったんだ。俺たち親子の確執はな。……俺の母親はタカーチュ人だったから」
「え?」
ルイゼは瞳を瞬かせた。皇子の母親は帝国人で、出産で命を落とした――表向きはそうなっていたはずだ。
彼の表情に寂寥感がよぎる。
「……捕虜の娘に手を出したのがいけないんだ。だからこんな面倒なことになる」
ずっと飄然としていた青年は、本音を押し隠すように眉根を寄せた。安易に触れてはいけない傷を感じ取り、ルイゼは押し黙る。
その告白からは私怨がうかがえたが、彼の瞳はひたすら一途で真摯だった。おそらく彼は私欲だけのために王位をねらったのではない。深い思慮と覚悟の上でこの計画を実行したのだろう。未来の皇帝として彼を信じていいのかもしれない――そう思わせるなにかを彼は持っていた。
わずかな沈黙のあと、彼は再び笑みを作った。
「前に言っただろう。俺は平和主義だとな。他国を武力で蹂躙するやり方には常々不満だったんだ。このままでは、いつかこの国はダメになる」
それに、と彼は続ける。
「戦争は一度始めるとあとに引けなくなる。誰かが終わらせない限り、陛下は死ぬまで侵略をやめられなかっただろう。……それは息子である俺の役目だったんだ」
慧眼の士とも言うべき顔で、彼は前を見据える。
「どうだ? 歌劇にふさわしい筋書きだろう? いつかどこかの歌劇団が舞台にして広めてくれるだろうな」
茶化すように言う彼は、飄々とした態度に戻っていた。
ルイゼは瞳を伏せた。レーゼル帝国に身を置く者として、皇帝は守るべきだと信じて疑わなかった。しかし皇帝の軍事戦略に関しては賛成していたとは言い難い。
顔を上げて皇太子を見る。彼は導いてくれるだろうか。無闇に戦争をしない、平和な国へ。
視線を横に動かすと、夜闇に溶けるような黒服をまとった叔父が視界に入った。
「叔父貴は全て知っていたのか?」
「ひそかに打ち明けられたのだ。オーピッツと行動を共にしていた、殿下の兵からな」
「それで殿下に賛同して、団長に協力する振りを?」
「そうだ」
叔父はいけしゃあしゃあと答える。怒る気力もわかないくらいに全身から力が抜け落ちた。ひとりであれこれ心配していたのがバカみたいである。
皇太子は声を立てて笑った。
「クラッセン卿、心強い支援に感謝する。予定どおり陛下は鬼籍に入った。こたびの功労に免じて、クラッセン家にはしばらく暇を出してやろう」
「へ?」
ルイゼは目をぱちくりさせた。聞き間違いでないことを確かめるように皇太子を見つめる。
彼は頭上を見上げた。いつの間にか雲が晴れ、上天にはさやかな満月が浮かんでいる。
「東方の遠征軍には完全撤退を命じる。タカーチュ国の土地も返上するつもりだ。戦争がなくなれば、おまえたちの異能に頼る必要はなくなる。当面はゆるりと過ごせ。……ただし、一連の出来事についておまえたちが沈黙してくれるなら、だが」
皇帝暗殺はタカーチュ人だったオーピッツの仕業――彼はそのように押し通したいのだろう。皇太子が裏で手を引いていたことは伏せ、父の仇を討ったように見せかけたほうが都合がいいに決まっている。
だが、たとえ口止めのためだとしても、ルイゼにとってこれ以上ない提案であることは違いなかった。
「もう戦争しなくていいんだ……!」
覚えず、声が弾んだ。皇太子は念を押す。
「恒久的な約束ではないぞ。おまえたちの力は軍事以外にも利用できるだろうしな」
「それでも構いません」
晴れ晴れとした気分で、口元に笑みを刻む。
「私が再び戎衣に袖を通す日は、しばらく先のことになるでしょう。今後、あなたが今の言葉どおりのことを実行してくださるのなら」
「……買い被ってくれるな。未来のことなんて誰にもわからないんだぞ。こっちが矛を収めた途端、牙を向く輩もいるかもしれん」
皇太子は真顔になった。ルイゼは長身の彼を見上げる。
「気持ちの問題だから、いいんです。……僭越ながら、あなたがこれから作り上げる帝国に期待します。……その上で、私たちの異能が必要になる日が来たら」
姿勢を正し、敬礼する。
「クラッセン家は協力を惜しみません。……次期当主として、お約束します」
生まれて初めて抱いた皇族への敬意を込めて、ルイゼは言った。視界の端で、叔父が珍しく口角を上げているのを認める。皇太子は目を細めた。
「責任重大だな。善処しよう」
そうして彼はやるべきことを果たすために踵を返した。その後ろ姿が見えなくなってから、レネはルイゼの服の袖を引っ張った。
「それじゃあ、ルイゼ」
「今度こそ一緒に行けるね」
レネの隣では、フェイがにこにことほほえんでいる。ルイゼは兄妹の手を取った。今なら心の底から笑うことができる。
「うん、行こう。みんなで、海に」
これからは、なにかを気にすることなく、行きたいところへ行けるのだ。