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赤い海の化け師  作者: 寒月アキ
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第六章 今宵の歌劇の演目

 ロンベルク兵士養成所がタカーチュ国によって落とされてから、一日が経過した。

 所内はタカーチュ軍で埋め尽くされていた。そこに元帝国兵が多く混ざっていることが、ルイゼの絶望をあおる。

 ルイゼは兵舎の一室に軟禁されていた。牢屋などではなく、ごく普通の居室である。寝台はもちろん、着替えもあるし、十分な食事も出された。扉と窓の外には常に監視の目があるが、手足の拘束はない。自分の立場を考えると悪くない待遇だった。――精神状態は最悪だが。

 今日は雲が多く、太陽の半分は垂れこめる暗雲に隠されていた。窓から弱々しく差しこむ午後の日光は、室内の陰りをかえって強調しているかのようだ。

 床石をたたくようなせっかちな靴音が、廊下から近づいてくる。寝台の上で膝を抱えて座っていたルイゼは、ゆっくり目蓋を持ち上げた。

(誰か来る……)

 程なくして扉が乱暴に開かれた。

「ほう。これが噂の化け師か」

 現れたのは、栗色の髪を襟足部分だけひょろりと伸ばした、精悍な青年だった。年齢は二十代半ばほどか。左目は革の眼帯で覆われているが、右目には才気に満ちた光が宿っている。

 腰にはいているのは太い大剣だ。銃や細剣を標準的な武装とする帝国で育った身からすると、古風な武器に見えた。タカーチュは火薬文明が遅れており、それが原因で帝国に敗れたという見解を思い出す。

 そして身にまとうなめし革の戦袍はタカーチュ式の武装だった。青年はその上からさらに白い毛皮を羽織っている。かの国における白い毛皮は、位の高さの表れだったはずだ。

 ルイゼにじろじろと観察されるのも構わず、青年はずかずかと室内へ足を踏み入れた。

「そんな冴えない顔をするな。おまえ、名はなんと言う? 俺は『化け師』としか聞いてないんだ」

 促されても、会話をする気になれない。だんまりを決めこむルイゼに、青年は値踏みするような眼差しを向けた。その瞳が、思いがけないことを発見したように見開かれる。

「ひょっとしておまえ、女か?」

 大変失礼な質問である。素直に答えるのは癪なので、ルイゼは仏頂面で黙殺する。

 青年はにやりと口角を上げた。下卑た笑みではなく、むしろ快活であることを、ルイゼは視界の端で認める。こんな状況でなかったら好青年で通ったかもしれない。

「答えろ。女なんだろ?」

 確信に満ちた口調で再度問われた。ルイゼはなおも唇を引き結ぶ。

 すると彼はおもむろにルイゼの胸元へ手を伸ばした。ルイゼは驚いて身を引く。

「なにをする!」

 抵抗もむなしく、やすやすと組み敷かれた。彼は左手でルイゼの両手首を拘束し、右手で無遠慮に乳房をつかんだ。堪らず消え入りそうな悲鳴が喉からこぼれた。

「嫌……!」

「やっぱり女だ」

 青年はからかうような笑みを口元に刻むと、さっさと寝台から離れた。ルイゼは跳ねるように上体を起こし、威嚇するようににらみつける。そんな警戒など気にも留めず、彼は室内をぐるりと見回した。

「まずまずかな。不自由な思いはさせないようにと命じたんだが」

 部屋の造りや調度をつぶさに調べては、逐一感想を添える。純粋な調度品としての評価だ。

 ルイゼは困惑した。高価な家具をそろえる必要のない兵士養成所内の一室で、なぜ意味があるとは思えない感想を聞かねばならないのか。

「……貴様は何者だ」

 無視しようと思っていたのに、我慢できなかった。青年は調度を調べる手を止め、ルイゼのほうを振り返った。

「ああ、これは失敬。先に名乗らなかった無礼をどうかお許し願いたい。俺はカレルだ」

 場にそぐわない朗らかさで彼は名乗った。

「それで、おまえの名前は? それとも『化け師』と呼ばれたいか」

「……ルイゼ・クラッセンだ」

 ルイゼは正直に答えることにした。どうせ調べればすぐにわかることである。開き直って、別の質問をぶけつる。

「貴様はタカーチュ軍の将校か?」

「そのようなものだ。現在はこの兵士養成所を支配する人間、だが」

 厚かましい発言にルイゼは眉をつりあげた。

「貴様、なにが目的だ? なぜ私を生かす?」

「もちろん、化け師に死んでもらっては困るからだ。俺に味方してくれた帝国兵のためにな」

「なんだと……?」

「我らが勝利した暁には自由を与えると約束したのだ。自由とは、本人の意思で生き方を選べるということだ。意味、わかるだろう?」

 希望する者は本来の姿に戻す。そのためにルイゼが必要らしい。ルイゼは口の端に皮肉を乗せて笑った。

「その役目が終われば、私は用済み。晴れて始末できるというわけか」

「そう願う者もいる。特にあいつはそうだろうな」

「あいつ?」

「タカーチュ軍将校カレルの父親さ」

 持って回った言い方である。とても自分の父親を表現したものとは思えない。

 彼は食えない笑みを崩さない。

「数年前になるが、秘密裏に帝国へ潜入した奴さ。祖国の恨みを晴らすためにな」

「そんな……」

 信じられないとつぶやくルイゼの前で、彼は悠然と腕を組んだ。

「信じようが信じまいが、事実は変わらん」

「でも、国境はそう簡単に越えられるものじゃない」

「不可能ではないだろう。協力者がいればな」

 まるで当然のように彼は言う。ルイゼはいらだった。

「帝国側が手引きしたとでも?」

「おまえも思い知ったんじゃないのか? 帝国の結束なんて脆いものだ」

 片側しか見えない彼の虹彩が残虐な光を帯びる。ルイゼは言葉に詰まった。彼の言うとおりだ。そのせいで自分は虜囚の身に落ちたのだから。それでも悔し紛れに反論する。

「……たとえ潜入できたとしても、そうやすやすと好機をつかめるはずない」

「そうでもないみたいだぞ。現にあいつはもうすぐ決行しようとしている」

「なにを?」

「皇帝暗殺」

 まるで天気の話をするような気楽さで彼は答えた。だからその言葉の意味をすぐには捉えられなかった。

「それって……」

 ようやく理解してから、あまりの荒唐無稽さにあきれた。

「正気じゃないな。無謀にもほどがある」

 皇帝ひとり守りきれぬほど、帝国は脆弱ではない。どうせ成功しないと鼻で笑おうとしたルイゼは、彼の視線に気づいて硬直した。

「それは違うな。皇帝が自分から罠にはまるんだよ」

 軽薄な口調とは裏腹に、底冷えしそうなほど彼の瞳が冷たい。

「リームの歌劇座は格調高さで有名だ。だから皇帝も訪れる」

 ルイゼは引っかかりを覚えた。歌劇座。皇帝。それらの言葉を、ごく最近、誰かの口から聞いた気がする。

(思い出せ、ルイゼ。どこで聞いた……?)

 カレルはくくっと喉で笑った。

「オーピッツと言えば、わかるか?」

「まさか……!」

 事実の符合に、ルイゼは青ざめた。そうだ、叔父に捕まった時だ。団長は言っだ。近々皇帝が歌劇座を訪れると。もしかしたら皇帝は今頃リーム市入りしているのかもしれない。

「類い稀な歌声が奏でられた瞬間、皇帝は最期の時を迎える」

 まるで歌劇の語り手のごとく流暢に彼は言葉を紡ぐ。

 だが、ルイゼはそこで大事なことに思い至った。

(そうだ。フェイとレネはもういないじゃないか)

 至宝を失った公演の価値は暴落しているだろう。皇帝は観劇を取りやめるかもしれない。そうすれば団長の思惑どおりに事は進むまい。

(やっぱり皇帝暗殺なんてうまく行くはずないんだ)

 光明を見出したようにほっと息をつくと、彼は訳知り顔で話しだした。

「歌劇団の至宝、どうやら行方をくらましたようだな」

 ルイゼはぎくりと冷や汗を垂らした。彼はルイゼの反応を楽しむように目を細める。

「あいつにとってはとんだ大番狂わせだっただろう。計画は頓挫し、全てが水泡に帰すところだった」

 だが抜かりはない、と彼は確信を持って言い添えた。

「化け師はおまえひとりではないんだろう?」

 ルイゼは青ざめた。脳裏には、いつも黒服をまとった男の姿が浮かぶ。相性はよくない。犬猿の仲といっても過言ではない、煙たい存在であることは否定しない。――それでも捨て置くことのできない身内。

 ルイゼはかみつくように叫んだ。

「バルドゥルになにをした!」

「彼ならすでに俺たちの仲間だぞ。自ら協力を買って出てくれたんだ」

 ルイゼは我が耳を疑った。職務に忠実な叔父が、皇帝反逆の片棒を担ぐなんて。

「貴様……叔父貴を脅したんだな!」

「さあ。その場に居合わせてない俺にはなんとも言えんな」

 彼はとぼけてみせた。ルイゼは唇をかみしめる。

「もしかして、リームの商店街で私たちを見ていたのは、貴様の手の者だったのか?」

「敵情視察は必要だろう?」

 彼は冷たく微笑する。

「バルドゥル殿の力でかの兄妹は再び人間に姿を変え、舞台の世界へ戻った。あとは予定どおり歌劇座を訪れた皇帝を殺すだけだ」

 正午を過ぎた太陽は西に傾いていた。雲間からこぼれる弱い日差しが室内に差しこむ。その光を遮るように、彼は窓の前に立った。精悍な造作に、冷酷で苛烈な影が落ちる。

「時は熟した。今宵の歌劇は、レーゼル帝国史に永久に刻まれることだろう。後の人々は語り継ぐ。武力で他国を蹂躙した愚かな皇帝が、無様な屍をさらした日だと」

 その光景を想像すると、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。

(まさか本当に皇帝が暗殺される?)

 そんなことはあってはならない。

(今からでも、なにか打つ手を……)

 必死で考えを巡らせるルイゼに、カレルは真顔で話しかけた。

「心配しないでほしい。我々が奪うのは皇帝の命だけだ。無闇な殺戮は自らを貶める。皇帝と同類にな」

 自分たちは皇帝とは違うと言いたいらしい。だまされるものか。

「そんなのきれい事だ。カールハインツ総司令官も殺したくせに」

「ああ。そういえばそうだったな」

 指摘されて初めて思い出したような言い方だった。こいつは信用ならない、とルイゼは改めて憤る。

「皇帝ひとりで済むと本気で思うのか? 皇帝の護衛は? 抵抗する市民は?それを守ろうとする兵士は? ……結局、みんな無傷じゃ済まないだろう」

「おまえがそれを言うなんてな」

「……それは……」

 皮肉げに言われて、続ける言葉を失った。確かにそうだ。被害者ぶったことを訴えても、所詮自分は加害者なのだ。

 彼がやろうとしていることは、自分が他国にしてきたことだ。たとえ直接的でなかったとしても。

(だから私にはなにも言う資格がない……?)

 タカーチュ国からしてみればそうだろう。痛みから目を背けるように、ルイゼは固く目をつむる。瞼裏に浮かぶのは、ベルントやロルフ、フェイとレネ、そして叔父の姿だった。今、彼らはリーム市にいる。不穏分子が潜む市街に。

(……助けたい)

 痛切な叫びがルイゼの心中を木霊した。誰になんと言われようとも。自分勝手な望みだとしても。化け師としてではない。皇帝の命令だからでもない。ルイゼという、ただひとりの人間として、この望みを譲るわけにはいかなかった。

「……自分がしたことから逃げるつもりはない。けれど」

 ルイゼは顔を上げた。彼と真正面から向き合う。

 他者とは異なる自分が嫌いだった。異能はもちろん、常人よりも高い身体能力も。それらをなるべく隠そうとしてきたし、できることなら捨てたいと願ってきた。だけど今はその力に感謝する。徒人にはできないことがきっと自分にはできる。大切な人を守ることができる。

「私には守りたい人がいる。だから戦うんだ!」

 揺るぎない決意を胸に、ルイゼは宣言した。

 それは彼にとって宣戦布告に等しいはずだった。だが彼は興味深そうに目を細めるのみで、是非を述べることはなかった。

「迎えが来ている。行け」

 目顔で扉を指し示された。脈絡のない発言に、ルイゼはきょとんとする。

「は……?」

「バルドゥル殿が我々に組したのは、おまえを解放するという条件の上でだ。約束を反故にするわけにはいかん」

 ルイゼは唖然とした。まさか本当に自由にするつもりだろうか。皇帝暗殺計画に対抗すると主張したばかりなのに。なにを考えているのか皆目見当がつかない。十分な覇気を持っていながら、陽気な笑顔も垣間見せてくるので調子が狂う。

「……真の目的はなんだ? 皇帝暗殺は通過点に過ぎないのでは?」

 情報を逃すまいと、じっと彼を見つめる。彼は冗談めかして片目をつむった。

「俺は平和主義なんでね。皇帝に恨みはあるが、強硬に事を進めるのは趣味じゃない」

「私を侮っているのか? 私ひとり解放したところで、なにもできやしないと」

「そういう言い方もできるな。……しかし」

 ルイゼの剣呑な視線を物ともせず、彼は鷹揚に両腕を広げた。

「立場上、表立って動くわけにはいかんが、一縷の望みは抱いている。おまえが戦禍を最小限に抑えてくれるのではないかとな」

「はあ?」

 ルイゼは露骨に顔をしかめた。その発言は明らかに敵国の将のものではない。与太話もいいかげんにしてほしかった。それではまるで彼は獅子身中の虫ではないか。

(……いや、もしかして……)

 ルイゼはふとひとつの可能性に思い至った。もしも彼が本当に獅子身中の虫だとしたら、一見支離滅裂な言動にも一応の説明がつく。

 しかし、すぐに棄却した。

(……ありえないな)

 あまりにも荒唐無稽だ。考えるだけ無駄な気がする。

 彼は改めて持論を口にした。

「皇帝は死ぬべきだ。それが帝国のためでもある。……ただ、俺の望むところではないのだ。リームを軍靴で蹂躙するのはな」

「……わからないな」

 彼の真意がどこにあるのか、ルイゼは量りかねていた。はたして本心なのか、あるいは演技か。しかしこれ以上の情報は望めそうになかった。それならば一刻も早くリーム市へ向かいたい。

(本当に行かせてくれるんだろうか)

 危ぶみながらも部屋の扉に手をかける。言葉どおりカレルは阻まなかった。やはり解放するつもりらしい。彼はルイゼの背中に話しかける。

「帝国を救う方法は皇帝暗殺を未遂に終わらせることではない。それだけは心得ておけ」

「なんだと……?」

 言葉の意味を理解しようと、ルイゼは彼の顔を見る。

 その時、聞き知った声が廊下から響いた。

「おい、まだ待たせるつもりか! ルイゼは無事なんじゃろうな!」

「え……ベル爺?」

 ルイゼが目を丸くすると、カレルは苦笑した。

「長話が過ぎたようだな。行け。敵陣に乗りこんできた勇敢なるご老人を、早く安心させてやれ」

「…………」

 結局彼の真意を見抜けないまま、ルイゼは部屋を出た。

 廊下にいたのは、思ったとおりベルントだった。その顔を見ただけで、ルイゼは気が緩みそうになる。ベルントもルイゼに気づき、駆け寄ってきた。

「ルイゼ、無事か?」

「問題ない。ベル爺こそどうして?」

「バルドゥル殿に頼まれたんじゃ。思ったより元気そうで安心したわい」

 長居は無用だと、ベルントは足早に玄関口まで急ぐ。ルイゼもそれに続く。

「バルドゥル殿がリーム市長に会う前に、団長が協力を迫ったんじゃ。おまえの身柄と引き換えにな。彼はおまえを選び、わしに迎えを頼んだんじゃよ」

「……叔父貴……」

 熱くなる目頭から涙がこぼれないよう、ルイゼは歯を食いしばった。彼の選択の結果、皇帝は命の危機に瀕することになった。それでも叔父の選択が嬉しいことに変わりない。だからこそ皇帝暗殺を阻止しなければならなかった。叔父の選択がつらい未来を引き寄せないために。

 ルイゼはベルントに尋ねた。

「フェイとレネは?」

「団長に強要されたバルドゥル殿によって再び人間に戻り、歌劇座へ連れて行かれた」

「やっぱり……。時間がない。急ごう!」

 ルイゼはカレルの計画をかいつまんで説明しながら、厩へ急ぎ、馬に乗った。カレルがあらかじめ指示していたらしく、阻む者はいなかった。ベルントも馬丁に預けていた自分の馬にまたがる。

 雲間から辛うじてのぞいている太陽の位置を確認する。リーム市に着く頃には夜を迎えているだろう。皇帝が観劇するだろう公演の幕が上がってしまう。

(急がなきゃ。絶対に間に合わせるんだ!)

 ルイゼたちはリーム市へ向かってひた走った。


 汗で滑りそうになる手綱を何度も握り直し、疲労で軽い目眩を起こしかけた頃、夜闇に沈んだリーム市の街並みが見えてきた。

 遠目には、なにか騒動が起こっているようには感じられない。

(間に合った……?)

 目的地が見えたことで、気持ちが引き締まった。ルイゼは全力で馬を走らせる。

 やがてルイゼたちはリーム市街にたどり着いた。

 市内は特に変わった様子はなかった。家の中からこぼれる明かりが優しく街路を照らしている。夜のしじまを打ち破るのは酒場のにぎわいだ。

「事件はまだ起きていないようじゃな」

 ベルントは慎重に辺りをうかがった。ルイゼはうなずく。

「歌劇座へ急ごう。……ごめん、もう少しがんばってくれ!」

 呼吸の荒い馬の首をねぎらうようにたたき、先を急ぐ。

 そうして前方に現れた歌劇座に、唖然とした。門衛たちが眠りこけていたのだ。

 ルイゼは馬から飛び降りた。ベルントも下馬し、門衛に近づく。彼らの口元に鼻を寄せ、眉をしかめた。

「これは睡眠薬じゃな」

「まずい……」

 不吉な予感に、心臓が早鐘を打った。中に入ろうとすると、裏手から数人の男たちが姿を見せた。服装からして下男のようだ。

「お客様、恐れ入りますが、途中入場はご遠慮ください」

 真面目そうな顔つきで、ごく自然に歩み寄ってくる。しかし下男には不似合いな細剣が彼らの腰にはあった。

「タカーチュ人か?」

 ルイゼが問うと、男たちはむっつりと黙りこんだ。穏健そうだった表情が一変する。

「……坊主。妙に訳知り顔じゃねえか」

 男たちの目元に険が宿った。坊主ではないと訂正を入れるのも煩わしく、ルイゼは無言で扉を押し開ける。男たちはがなり声を上げた。

「てめえ、無視するんじゃねえ!」

「邪魔するなら容赦しねえぞ!」

 彼らは腰の剣をいっせいに抜き放ち、上段に振りかざした。身を翻そうとしたルイゼの前に影が差す。

 懐から取り出した短剣で応戦したのはベルントであった。金属がかちあう音が夜の街に響き渡る。

「ここはわしに任せろ!」

「そんな、無茶だ!」

「おまえはわしの現役時代を知らんからな」

 ベルントはしわの多い顔に不敵な笑みを刻む。

「ダミアンとともに戦場に立っていた頃は、もっと大勢の敵と戦ったものじゃぞ。この程度、即刻片づけてくれるわ!」

 ベルントは男たちに向かって切りかかった。その達者な剣さばきに、男たちは度肝を抜かれている。

「な、なんだこのじじい?」

「オレら相手に、ひとりで立ち回る気か?」

 ルイゼもまたベルントの技量に驚いていた。彼が戦えることは知っていた。しかしこれほど強かったとは。

「くれぐれも気を付けて!」

 ベルントを信頼することにし、歌劇座に押し入る。無人の広間を通り過ぎ、客席へ続く扉へ接近すると、哀調を帯びた歌声がかすかに漏れ聞こえた。小さく扉を開けると、舞台で演じる金髪の兄妹が見える。

(フェイ、レネ……)

 一瞬、複雑な思いが去来するが、すぐに思考を切り替える。

 この物語は海の精霊と人間の若者の悲恋である。舞台上で奏でられているこの歌は物語の終盤で歌われるものだった。幕は下りるまであと少しだ。

 観客の様子からして、騒動はまだ起こっていないようだった。ここから貴賓席をうかがうことはできないが、どうやら皇帝はまだ無事らしい。

 喜んだのも束の間、やにわに銃声が鳴った。表のベルントたちではない。舞台の演出でもない。その音は確かに客席から聞こえてきた。

 けたたましい悲鳴が即座に上がる。

(しまった!)

 蒼白になった紳士淑女らが我先へと出入り口へ殺到した。ルイゼは押し寄せる人の波をなんとか避けながら舞台に駆け寄る。

「フェイ、レネ!」

 フェイたちは演技をやめ、二階席――貴賓席のほうを凝視していた。レネの美しい顔が恐怖にゆがむ。その整った唇からは裂帛の悲鳴が上がった。

「きゃああああああっ!」

 ルイゼはその視線を追い、絶句した。貴賓席からの落下物が、重く鈍い音とともに床にたたきつけられる。

 それは紛れもなく人だった。ぐったりと動かないその体をルイゼは抱き起こす。

「しっかりしてください……!」

 その言葉に意味がないことはすぐさま察せられた。

 品のいい面立ちの、五十代くらいの紳士だった。金糸で細かい刺繍を施した上衣に、ぴったりとした白の下衣を合わせている。その腰には細身の剣が差してあったが、抜かれた形跡はなかった。おそらく抵抗する間もなかったのだろう。彼の胸部には生々しい銃痕があり、最高級の絹で仕立てた衣服を真っ赤な血で染め上げていた。呼吸はすでに止まっている。

 痛ましい躯から顔を背けると、二階で絶叫がほとばしった。

「陛下、皇帝陛下!」

 見上げれば、付き人と思しき男が泣きわめいていた。もうひとりの付き人が二階から下りてきて、ルイゼからひったくるように亡骸を抱える。

 状況や身なりから想像はついたが、遺体の正体は皇帝で確定だった。

(間に合わなかった……!)

 悔しむルイゼの傍らで、付き人は憎悪に瞳を燃え上がらせた。

「貴様、クラッセン家の化け師だな!」

「え……?」

「見覚えがあるぞ。兵士養成所の視察で会ったのは、確かに貴様だった」

 予期せぬ凶行に錯乱した彼は、とんでもないことを口走った。

「貴様が犯人だな!」

「……は?」

 あまりに突拍子のない詭弁に、開いた口が塞がらなかった。面食らうルイゼをかばうため、兄妹が舞台から飛びだす。

「ルイゼは無関係だ!」

「黒幕は団長よ!」

「その団長がどこにいるというんだ!」

 ルイゼを一方的に犯人だと決めつけた付き人は、わなわなと震えながら大声を出す。

 公演中にこのような事件が起きれば、普通、真っ先に責任者が姿を見せるはずだ。しかし一向に現れないということは、団長は逃亡したと考えるのが自然である。

 だが冷静さを欠いた付き人に、まともな思考は望めなかった。彼は声高に断定する。

「私は犯人を見たんだ。奴の身のこなし……あれは禽獣人だ! つまり化け師の貴様が関与している証拠だ!」

「だから違うって!」

「言いがかりよ!」

「うるさい、黙れ!」

 フェイとレネが言い募っても、付き人の耳には入らない。社交界での居心地の悪さが思い出されて、ルイゼは目線を落とした。結局クラッセン家はそんな立ち位置なのだ。信用されていない。

 しかし今は傷ついている場合ではなかった。団長を取り逃がすことはなんとしてでも避けねばならないのだ。こんなところで足止めを食らっている場合ではない。できるだけ真摯に聞こえるよう、ルイゼは努めて落ち着いた声を発する。

「誤解です。私はある筋から団長の陰謀を知り、阻止するために来たんです。だから団長を追わせてください!」

「逃げる気だな! そうはいかない!」

 踵を返そうとしたルイゼの腕を、付き人ががしりとつかんだ。

「放してください!」

 無理やり振りほどこうとすると、表から複数の足音が近づいてきた。騒ぎを聞きつけた衛兵たちだ。火縄銃で武装している。

「何事だ!」

「まさか、皇帝陛下?」

 彼らは皇帝の遺体を目にして言葉を失う。皇帝の付き人は彼らにすがるような眼差しを向けた。

「犯人はこいつだ! クラッセン家の化け師だ! 禽獣人を使って陛下の命を奪ったんだ!」

 切々とした訴えに、衛兵たちがルイゼにうろんな視線を送る。ルイゼは慌てて否定した。

「私じゃありません! 犯人は団長です! オーピッツです!」

 だが衛兵らがルイゼの抗弁に耳を貸す様子はなかった。皇帝の付き人のほうが真実味があるように聞こえるのだろう。衛兵たちは銃口をルイゼに向ける。

「皇帝暗殺の容疑で、貴様を逮捕する!」

「だから違うんです! 私はルイゼ・クラッセン。ロンベルク兵士養成所の者です。ロンベルクはタカーチュ軍に制圧されて、オーピッツはタカーチュの人間で……!」

「見え透いた嘘をつくな!」

「本当です! これはタカーチュの陰謀で!」

「申し開きはあとで聞こう。抵抗すれば撃つぞ!」

「そんな……!」

 ルイゼは泣きたくなった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ふと、捉えどころのない笑みを浮かべるカレルが脳裏をよぎった。

(もしかして、はめられた?)

 オーピッツへの嫌疑をルイゼになすりつけるため、ぎりぎり現場にたどりつく時刻にルイゼを解放したのではなかろうか。ルイゼは激しい憤りを覚えた。

(なにが平和主義だ! あいつ、絶対に許さない!)

 銃を構えた衛兵らがじりじりと迫ってくる。八方ふさがりだ。

「ルイゼ……!」

 フェイはルイゼと衛兵の間に入り、両腕を広げてかばう姿勢を見せた。おびえたレネはルイゼの背にしがみつく。

 ルイゼはぎりりと奥歯をかみしめた。

(こうなったら、力尽くで突破するしか……!)

 フェイとレネを連れてどう立ち回ろうかと、ルイゼが真剣に検討を始めた時。

 ルイゼを囲う衛兵の一角がいきなり乱れた。

「誰だ、貴様! ……ぐっ!」

 衛兵のひとりがうめき声を発する。どうやら剣で切りつけられたらしい。ほかの何人かも同様に攻撃を受け、悲鳴を上げた。

 くずおれた衛兵の背後から姿を現したのは、表で孤軍奮闘していたベルントだった。

「ルイゼ、無事か!」

 隙のない老人の登場に、衛兵たちの間に動揺が広がった。

「貴様、いったい何者だ!」

「貴様、とはご挨拶じゃな。わしがダミアンと一緒に活躍していた時代は、そんなに昔のことじゃったかのう」

 衛兵らの剣呑な視線を、ベルントは飄然とかわす。衛兵らは互いに顔を見合わせた。年かさの者が、眉間にしわを寄せる。

「ダミアンだと? それは、昔の上官の名だが……」

「ベルント! この人、伝説のベルントだ!」

 別のひとりが頓狂な声を上げた。彼の驚きは瞬く間に仲間へと波及する。

「それは本当か?」

「間違いない。一度だけ見かけたことがあるんだ」

「じゃあ、ほ、本当にこの人が……」

 彼らはごくりと唾液を飲み下す。

「まさか、本当に軍神ベルントなのか? 疾風のように戦場を駆け抜け、あまたの戦を勝利へと導いたと噂の」

「……わしは軍神などではない。血を浴びることをなによりも恐れる、ただの臆病な老人じゃよ」

 一斉に注目を集めたベルントは、気後れしたようにぽりぽりと頬をかいた。あれ、と誰かがつぶやきをこぼす。

「確か、とうの昔に戦死したはずじゃ……」

 ベルントはぎくりと視線を泳がせた。衛兵たちは眉をつりあげる。

「なぜ軍を抜けた! いまだ前線で戦う同胞に報いたいと思わないのか!」

「許されないぞ! 持てる力を使わないなんて!」

 死ぬまで戦う――その掟から外れたベルントを、彼らは快く思わないようだった。ルイゼは思わずベルントを見る。

「ベル爺……」

 ベルントの表情に苦々しさが宿った。

「ダミアンにかけあった上での除隊じゃ。文句はあの世で本人に言っておくれ。……それに」

 ベルントは遠い目をする。

「どれだけ戦果を挙げても万能ではない。わしが軍に残っていたとしても、できることは限られておるのじゃろう」

 重い沈黙がその場に降りる。ベルントはその隙をついた。先程倒した衛兵が落とした火縄銃を拾い上げ、衛兵らに向かって投げつける。咄嗟に飛びのく彼らを尻目に、ベルントはルイゼの手を引いた。

「逃げるぞ! あの世でダミアンに恨まれるのは勘弁じゃ!」

 さあ、と彼はフェイたちにも目配せした。フェイたちは一も二もなくあとに続く。

「待て! 逃がすな!」

 衛兵たちは火縄銃の引き金を引いた。だが慌てて撃ったせいかどれも外れる。

 火縄銃の扱いは難しい。一度弾を撃ったら、次の準備を整えるまでに時間を有する。発火装置から火縄を外し、装填に至るまでの手順が煩雑なのだ。だから一度発射させてしまえばしばらく撃たれる心配がない。

「表は人目が多すぎる。裏から出たほうがよさそうじゃな」

「じゃあ、こっちに回ろう。付いてきて」

 ベルントの提案を受けて、フェイが人目のない場所へ誘導した。全員で搬入口から外に出て夜闇に紛れる。

 背後からはもちろん衛兵たちが追ってきていた。しばらく通りを走ってから、不意に細い小路に逃げこむ。するとうまくいったようで、衛兵たちの足音は明後日の方向に遠ざかっていった。ルイゼはほっと息をつく。

「なんとかまけたみたいだな」

 改めて周囲に注意を向けると、そばにはフェイしかいなかった。

「あれ? ベル爺とレネは?」

「そういえばいないね。はぐれちゃったみたいだ」

 フェイも言われて初めて気づいたらしく困惑顔になる。ルイゼはぐったりと塀にもたれた。

「参ったな……」

 兵士養成所から馬を飛ばしてきたこともあり、疲労が津波のごとく押し寄せてきた。足を止めたことで、驚くほど体が重いことに気づいてしまう。塀に背中を預けたまま、ずるずると床に座りこむ。フェイは呼吸を整えながらルイゼの隣に座った。

「とにかく、ルイゼが無事で本当によかったよ。捕虜になったって聞いて心臓が飛び出るかと思った」

「ごめん。心配かけた。……その上、皇帝暗殺なんかに巻きこんで……」

 謝って済む問題ではない。自分はこの兄妹を振り回してばかりだ。罪悪感に押しつぶされそうになりながら、小さく吐息する。

「ふたりは大丈夫かな……」

「ベル爺と一緒なら、レネはきっと無事だよ。ぼくはベル爺を信じている」

 それよりも、とフェイはルイゼを見た。

「『伝説のベルント』ってなに? ベル爺、やたら強かったけど」

「ああ、ベル爺はもともと兵士だったんだよ。猛者として勇名をはせて、『軍神ベルント』と渾名されたんだって。昔のことだから、私も話に聞いただけだけど」

 ルイゼも正直、驚いていた。齢七十を迎えようとしているベルントが、これほど見事に立ち回れるとは。そしてこれほどまでに強かったとは。若き日に培った力は、いまだ完全には衰えていないらしい。

 そっか、とフェイは短く相槌を打った。

「……ベル爺も禽獣人だったんだね」

 ルイゼは苦笑した。

「私の祖父も軍で働いていたからね。祖父にとってベル爺は掛け替えのない友人だったそうだよ」

 だから戦争はもうこりごりだというベルントの頼みを、祖父はひそかに聞き入れた。ベルントを戦死したことにし、一般市民として生きる道を与えたのだ。

(きっとそれが、祖父なりの責任の取り方だったんだ)

 ルイゼは物憂いため息をついた。覚悟を胸に話を切りだす。

「落ち着いたら、フェイはベル爺たちを探して」

「え? ルイゼは?」

「衛兵たちの狙いは私だからね。私はひとりのほうがいい。あとは自力でなんとかする」

「だったら、ぼくもルイゼと一緒に」

「私は平気だから。それよりもレネを安心させてあげて」

「……平気なわけないよ。そんな疲れた顔して」

 フェイの細い指がそっとルイゼの頬に触れた。ルイゼは反射的に身を引く。それが癇に障ったらしく、フェイはむっと口をとがらせた。

「逃げないでよ」

「逃げるよ。当たり前じゃないか」

「どうして当たり前なの?」

「どうしてって……」

 ルイゼは言葉に詰まった。

 フェイには言えないことがある。

(またフェイの声を聞けて、優しい笑顔を見られて、私……喜んでいる)

 鳥から人間にしたのも、人間から鳥に戻したのも、全て自分なのに。あまりに身勝手で本当に嫌になる。

 フェイはルイゼから視線を外さない。続きを言うまで解放してくれなさそうである。

(でも言えない。フェイが期待する答えは、絶対に)

 だから代わりに全く違う話を振った。

「……フェイは本当に人間でいたい?」

「そうだよ?」

 一瞬きょとんとしながらも、フェイは素直に認める。ルイゼは抱えこんだ両膝の間に顔をうずめた。

「……私は逆だな。私、鳥になりたかった」

 通りの喧騒は裏通りまで届かない。ささやくような小声でも、フェイにはきっと聞こえている。

「何度も思った。青空へ向かって自由に飛んでいけたらいいのにって。余計なしがらみなんて全部捨てて」

 どうせまともな人間扱いをされないのなら、いっそ人でなければよかったのにと。

「だからよくわからないんだ。フェイの気持ちは……」

 我ながら、いつになくか細い声だと思う。

 ルイゼの短い髪を、フェイが指に絡めた。

「泣いているの?」

「いや、疲れただけだ……」

 語尾は喉の奥でかき消える。徒人ではない自分だからこそできるかもしれないと、少しはこの異能を受け入れられそうだったのに。結局、陰謀を阻止できなかった。挙句、皇帝暗殺の嫌疑をかけられるとは。

 悔しくて、情けなくて、顔を上げられない。一刻も早く団長を追わねばならないのに、疲れて動けない。

「私がフェイだったら、喜んで鳥になるのにな」

 地道に大地を歩くのに、疲れた。

 フェイは黙っている。

 思わず漏れそうになった嗚咽を、ルイゼはぐっとこらえた。

(泣き言はこれきりだ)

 どんなに望んでも鳥になるのは不可能だ。ルイゼは顔を上げ、無理やり笑顔を作った。

「ごめん。今のは忘れて」

「……そうやっていつも自分をごまかしてきたの?」

 ルイゼとは対照的に、フェイは悲しそうな表情をしている。

「つらいことがあっても我慢して。誰にも打ち明けずに呑みこんで」

 フェイの静かな声が穏やかに響く。心が引っ張られそうになるのを抵抗するように、ルイゼは強く首を振った。

「フェイこそいつも明るいじゃないか。大抵にこにこ笑っているし」

「そんなことないよ。歌劇団にいた頃のぼくはそんなに笑わなかった。愛想よくしろって、団長に怒鳴られたくらいだし」

 フェイは真摯にルイゼを見つめる。

「でもぼくにはレネがいた。レネがいたから耐えられたんだ」

 彼はルイゼの頭を優しくなでた。

「ルイゼも、もうひとりで頑張らなくていいよ。ぼくがいるから。ぼくがずっとルイゼのそばにいるから」

 頭をなでていた手が、自然に背中に回る。抱き寄せられたルイゼは反射的に抗おうとした。しかしフェイはしっかりとルイゼを抱きこみ、離そうとしない。

「フェイ……」

 甘えてはダメだと理性が訴える。だが疲れた心が他者の体温を求め、気力をなくしたように動けなかった。

 これでは十年前と同じではないか。両親との死別に耐えられず、フェイたちを人間にしたあの時。寂しさを紛らわせるために友人を欲した。しかし彼らと一緒にいられた時間は短くて。ひとりでも平気なように強さを手に入れたくて。もう泣かないつもりでいたのに。

 ルイゼはフェイにしがみついた。

「……本当は離れたくない……。フェイとずっと一緒にいたいよ……」

 心の奥底に封印していた本音を、ルイゼは初めて口にした。他人から奇異な目で見られるのが嫌で手放そうとしたのに。誰よりも欲していたのはルイゼのほうだった。

「男の格好、実は好きじゃないんだ。私だってドレスくらい着たい」

 ドレスを着ると心が躍る。でも似合わないから捨てた。不似合いなドレスを着て女をやるより、男を演じたほうが楽な気がしたのだ。なにより惨めである。ふさわしくないものに、いつまでも執着するのは。

 そうして男の振りを続けたけれど、求めるものは遠かった。周囲から望まれる自分と本来の自分がかけ離れすぎていて、迷宮に迷いこんだ気分になる。

「弱くてごめん……」

 自分が傷つきたくないあまりに、フェイたちを傷つけた。そばにいたかったのなら、誰になんと言われようと手放すべきではなかったのだ。フェイたちは常にまっすぐ感情をぶつけてくれたのに、こたえる勇気を持てなかった。ここで泣くのは卑怯だと思えば思うほど、熱い感情がこぼれそうになる。

 やや経ったあと、フェイは静かにささやいた。彼の声は本当に耳に心地よく響く。

「弱くてもいいよ」

 震える瞼をそっと持ち上げると、フェイがゆがんで見えた。彼は安心させるようにふっと笑い、指でルイゼの目尻を丁寧にぬぐう。自分が泣いていることに、ルイゼは遅ればせながら気づいた。

「ルイゼが弱くてもぼくは構わないよ。ぼくだって大して強くないしね」

「どうして……」

「一緒に歩きたいからさ」

 フェイは朗らかに笑った。

「ルイゼが強い人だったら、ぼくがいなくても先へ進めるでしょ。それじゃあ、ぼくはおもしろくない。同じ歩調で、手をつないで、並んで歩けるのがいいんだよ」

 ルイゼは目を瞬かせる。そんなこと、考えもしなかった。

「一緒に並んで、歩く……」

「そうだよ。守りたい時には守って、守られたい時には守ってもらう。それが支え合うってことじゃないのかな。それが、ふたりで生きる醍醐味なんじゃないのかな」

 心に熱い火がともるようだった。強張っていたものが、ゆるゆるとほどけていく。

「ぼくは今、こうしてルイゼを抱きしめているけどさ。ルイゼから抱きしめてほしいとも思うよ。口づけだって同じさ。したいし、されたいものだよね」

 ルイゼは瞬時に真っ赤になった。

「どうしてそうなるの! せっかくいい感じだったのに!」

「え? 変なこと言ったかな?」

「……あのね……」

 ぽかんとするフェイに、あきれてものも言えない。フェイはくすくす笑いながらルイゼを解放した。

「涙、止まったみたいだね」

 ルイゼは目尻に指を沿わせた。――乾いている。

「ねえ。一緒に生きていこうよ」

「フェイ……」

 屈託なく手を差しだされる。しかしその手を素直に取るには、まだ心の整理が付かない。

「どうしてそこまでしてくれるの? 私はなにもしていないのに」

「またそんなことを言う。初めて会った時には、巣から落ちたぼくらを助けてくれた。今回も歌劇団から連れだしてくれたじゃないか」

「それはそうだけど……」

 感謝されるほどのことではない。そう言いかけた唇に、フェイは人差し指を当てた。

「ぼくにとっては掛け替えのない思い出なんだ。この恩を、ぼくは生涯忘れないよ」

 フェイは空色の瞳を細めた。

「ぼくとレネはルイゼに二度も救われた。だから今度は、今度こそは、ぼくがルイゼの力になりたいんだ」

 夜風が彼の金髪をなでる。

「例えこの背に翼があっても、鎖で戒められたら飛ぶことはできないんだよ。そんなぼくらを解き放ってくれたのがルイゼだ。ぼくらにとって、ルイゼこそが翼なんだよ」

 ルイゼは乾いた瞳が再び潤むのを感じた。いつかレネもルイゼを翼に例えてくれた。その時は受け入れがたかったけれど、今度こそ自分を認めてもいいのだろうか。自分も誰かの力になれると思っていいのだろうか。

(もし私が翼なら、フェイは春風だ)

 窓の隙間からするりと入ってきて、閉じ籠もっていたルイゼに外の世界の温かさを教えてくれた春風。風と翼が一緒になれば、きっとどこまでも飛んでいける。ひとりよりもふたりで、ずっとずっと遠くへ。彼がそばにいてくれるだけで、新しい世界が広がる気がする。そこはどんな世界なんだろう。見てみたい。彼の隣で。

(ああ、私、フェイのことが好きなんだ)

 フェイは再び手を差しだした。今度こそ迷いなく、ルイゼはその手を取った。

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