第五章 不穏な戦線
夕刻、ルイゼたちはロンベルク兵士養成所に到着した。
兵士養成所では主に歩兵の教練を行っている。火縄銃の扱いに慣れさせることが第一の目標だが、接近戦もできるように剣術や体術の習得にも力を注いでいる。一定の技術を習得した兵士はその後、駐屯地に送られた。そこでは隊伍を組んで行進し、かつ拍子に合わせて火縄銃の装填と発射を行えるよう反復練習をさせる。そうした訓練が戦場での威力を増加させるのだ。
とはいえ、軍隊に所属する者の全てが禽獣人ではない。補給の統帥権は文官が握っており、将校と下士官から成る幹部は全員、普通の人間である。皇帝の私兵である常備軍も同様だ。つまるところ、禽獣人は兵卒以上に出世できないようになっているのだ。彼らは死ぬまで前線で戦うしかない。
そんな兵士養成所は、ルイゼが不在にしていた数日の間にずいぶんと様相を変えていた。兵士の数が圧倒的に少なくなっていたのだ。すっかり閑散とした兵舎に入って、ルイゼは唖然とする。
「彼らはどこに……?」
「ここは一時的に閉鎖することになった。おまえ以外の監督官もすでに異動している。そもそも私がこんな辺境にわざわざ赴いたのは、その処理を命じられたからなのだが」
叔父の説明に目を丸くする。寝耳に水だった。
「そんなの聞いてない」
「ここは帝都から遠いからな。伝令の到着も遅れる」
「いったいどうして」
「用済みだからだ。この養成所はもともとタカーチュへの侵攻を見越した施設だった。だがもうその必要はないと、陛下が判断されたのだ」
「タカーチュの反乱を完全鎮圧したということか?」
ルイゼは声を弾ませた。制圧自体に喜んだわけではない。戦争が終わるという期待が沸きあがったのだ。
叔父はうなずいた。
「ああ。無力化に成功したらしい」
レーゼル帝国は北部をタカーチュ国と接している。昔から反目し合うタカーチュを併呑することはレーゼル皇帝の悲願であり、四年前にそれを達成した。しかしながら地下に潜伏した反抗勢力は抵抗をやめず、予断を許さない状況が続いていたが、ついに治めたようだ。
「これまで北方に注いできた兵力は、東部遠征に回せとのご命令だ。従ってここは一時閉鎖。おまえは東部に異動だ」
「……今度は東部……」
ルイゼは落胆した。どうやら戦争はまだ終わらないらしい。
市場で見た、香辛料の値下がりが思い出される。
「香辛料が多少値下がったくらいじゃ満足できないのか」
「陛下のお考えなど、我々には関係ない。命令には私心を挟まず従う。それが、クラッセン家が生き延びる道だ」
叔父は迷いなく断じた。こういう時、いつも叔父を羨ましく感じる。自分も叔父のように揺らぐことなく使命を全うできたら、もっと楽に生きられただろうに。
沈黙するルイゼに向かって叔父は続ける。
「私は物資と人材の処置を任されている。兵士の多くはすでに采配済みだから、仕事の半分は片づいたといっていいだろう。だがな、本来ならおまえも担うべき務めだぞ。まったく、仕事が増えるばかりだ」
叔父は眼鏡越しにルイゼをにらんだ。彼の怒りはもっともである。しかし嫌味な叔父に大人しく謝罪するほどルイゼは殊勝ではなかった。だから叔父を無視して私室へ向かう。叔父はわざとらしいほど大きなため息をついたあと、ルイゼの背中に声をかけた。
「荷物を整理しておけ。近日中にここを出立するからな」
命令口調がルイゼの癇に障った。足を止めて振り返り、かみつくように叫んだ。
「私たちはいつになったらお役御免になるんだ? 戦争が終わったら? それはいつ? ……どうせそんな日は来ないんだ。骨身を惜しまず働いたってなにも変わらない。それなのに『わかりました』なんて言えるわけない」
従順に戦争の道具を演じたくない。そんな思いがルイゼの反抗心に火をつけていた。そんなルイゼに、叔父は幼子を諭すように言った。
「相変わらず自分のことばかりだな。いいか? おまえの能力は一族で一番。だから皇帝はおまえを重用しようとするんだ。……だが傍系の者は違う」
「……それは……」
ルイゼは言葉に詰まった。叔父は続ける。
「滅多に会わない遠縁の者なんてどうでもいいか? だがな、彼らは肩身の狭い思いに耐え忍んでいるんだ。そしておまえの行いの結果は、そんな彼らに跳ね返る」
冷酷そうな声音で、彼は存外思いやり深いことを話す。
「ゆえに我々は皇帝に逆らえない。一族を世間の誹謗中傷から守り、正々堂々と生きていくためにな」
「…………」
ルイゼは決まりの悪い思いで唇をかんだ。だから彼は皇帝への貢献を重視するのだ。全てはこの帝国内に一族の居場所を作るため。
「……叔父貴が当主だったら、クラッセン家はもっと幸福になれたのに」
「考えても詮ないことだ。おまえが先代当主の一人娘という事実は変わらん。私以上の能力の持ち主ということもな」
叔父はただ事実を述べるだけといった無感情さで返す。ルイゼにとって幸いなのは、彼に次期当主に対する恨みや妬みといった感情がないことだった。だから、例えどんなに心馳せに欠けようとも、ルイゼを見放すことはない。
沈黙するルイゼを見かねたのか、叔父は話題を変えた。
「そんなに務めが嫌なら、ほかの人間に押しつければいい」
唐突に意見を翻されて、ルイゼは面食らった。
「叔父貴が当主に? これまで散々否定してきたくせに」
「私に家督を譲れとは言っていない。さっさと結婚して子どもを産み、継がせればいいという話だ」
ルイゼは絶句した。叔父が強引な性格だということは嫌になるほど知っているが、まさかこんなにも雑な提案をしてくるとは。
「私が結婚? まさか、ありえない」
「だがそれ以外に方法はないぞ。いや、むしろ早々に実行してもらいたいものだ。やる気のない次期当主に、私が愛想をつかす前にな」
彼は真顔で言う。どうやら冗談ではないらしい。
「そんなの無理だ……。相手だっていないんだし……」
ルイゼが戸惑っていると、叔父は驚くべき発言をした。
「候補はいる。ロルフはどうだ?」
「――は……?」
聞き間違いかと思うほど想定外の名前に、心がざわついた。しかしそれは、かつての想い人を慕う気持ちからではなく、もっと別のところから発生している気がした。
「……なんで、ロルフ?」
声が裏返りそうになったので、意識して落ち着かせる。叔父は意外そうに眉を上げた。
「ほかの兵士から聞いた。おまえたちは親しい間柄だと」
ルイゼは卒倒しそうになった。
「それは誤解だ。私とロルフはなんでもない」
「そうか。残念だな。……まあ、これからのことはわからんが」
「もしかして、だからロルフを人間に戻したのか? こんなふざけた提案のために」
「そうではない。ただ報告を受けただけだ。付近を不審な狼がうろついている、とな」
「え……?」
ぽかんと口を開ける。ロルフは北の森へ逃げたのではなかったのか。
「どうして……」
「私も彼に尋ねた。これはどういうことだとな。彼は正直に答えたよ。おまえが彼の変化を解いた経緯をな」
「…………」
「ここから離れなかったのは、心配だったからだそうだ。脱走の手引きをしたおまえへの罰を恐れたんだ。まさかおまえも脱走していたとは思いもよらずに」
「そんな……」
「罰を与えられるのは自分だけにしてほしいと、彼は希望した。悪いのは全て自分で、おまえを巻きこんでしまっただけなのだと」
「……ロルフ……!」
ルイゼは愕然とした。なんてことだろう。彼のためを思って変化を解いたのに、裏目に出てしまうとは。
(でも、優しいロルフなら十分ありえる。……私、そんなことも予想できなかったんだ……)
これはルイゼの落ち度だった。自分のことしか考えていないと叔父にたしなめられても、否定の余地さえないではないか。
(ごめん、ロルフ……)
ああ、どうしてこんなにも後悔するようなことばかりしてしまうんだろう。
「……ロルフを偵察に使ったのも、叔父貴なんだろ?」
フェイたちにリーム市を案内している時に感じた、強い視線の持ち主。それはロルフに違いないとルイゼは考えていた。しかし叔父の反応は想像どおりではなかった。
「偵察? なんの話だ?」
「とぼけないでほしい。昨日の昼近く、リームの商店街でのことだよ。私が気づかないと思ったのなら甘い……」
「おまえ、なにか勘違いしているぞ」
なおも言い募ろうとしたルイゼを、叔父は心外そうに遮った。
「私がリームに着いたのは昨日の夜だ。日中のことは知らん」
「……なんだって?」
ルイゼは驚いて叔父を見つめた。その瞳に虚偽の色は見えない。それに彼の性格からしてこんなたわいない嘘をつかないだろう。そもそも嘘をつく理由がない。
それでも、あの気配は錯覚ではなかったはずだ。フェイも感じていたのだから間違いない。
(じゃあ、あの不審者は……?)
背筋がぞっと冷えた。まさかフェイの予想どおり団長だったのだろうか。いや、むしろそうであってほしい。彼がその時点でフェイを捕らえようとしなかった理由に説明がつかないが、それでも見知らぬ第三者であるより数倍マシである。
不安に駆られるルイゼをよそに、叔父は窓の外に視線を移した。西の空はすっかり茜色に染まっている。山間に沈みゆく太陽が一日の終わりを告げていた。
「話を戻すぞ。もしロルフと結婚するなら、彼の除隊は許可されるだろう。花婿に戦死されたら困るからな」
ルイゼはうつむきかけていた面を上げた。退役はロルフが切望していたことだ。彼と結婚すれば正攻法で彼を自由にできる。少なくとも戦役からは。
叔父は心を揺らすルイゼを観察するように見た。
「まんざらでもなさそうだな。ならば本人とじっくり話すがいい」
「ま、まんざらって、そんなわけじゃ……」
「おい、ロルフ!」
叔父は動揺するルイゼなどお構いなしにロルフを呼びつけた。程なくしてロルフが姿を見せる。琥珀色の瞳が申し訳なさそうにルイゼを映した。せっかく逃げる機会を与えられておきながら、むざむざ捕まってしまったことに、罪悪感を抱いているのかもしれない。
「私は仕事に戻る。おまえはロルフとよく話し合え」
叔父はそう言って立ち去った。残されたルイゼは気まずい思いで沈黙する。
結婚で彼を自由にできる。一瞬、そう思ってしまったが、それ以外の問題が山積みではないか。
「ルイゼ様……」
名前を呼ばれると、どきりと心臓が高鳴った。ロルフは逡巡するように言葉を切ったあと、覚悟を決めたようにかすれた声を絞りだした。
「本当にすみません。せっかくの配慮を……」
「ロルフが謝ることなんてないよ。私のほうこそ、いろいろごめん。――またこうして話せるなんて……」
ルイゼは声を詰まらせた。慎重に言葉を選ぶ。
「……その、バルドゥルからなにか聞いた?」
叔父が余計なことを言っていたら大変だ。突拍子もない婚姻話にロルフがどんな反応を示すのか、あまり知りたくない。好意的な反応は期待できないだろうから。
ルイゼの希望に反して、ロルフは静かに首肯した。
「はい、提案されました」
「まさか……」
「結婚です。ルイゼ様との」
ルイゼは天を仰いだ。心中で叔父を激しく罵倒する。
「変なこと言ってすまない。気にしないでくれ、本当に。ロルフも困るよな。叔父貴の奴、本当に強引で……」
「別に、おれは困りません」
「――は……?」
「結婚もいいと思っています。ルイゼ様が望むなら」
思いがけず肯定的な返事が返ってきた。ルイゼは目をぱちくりさせる。
「もしかして、バルドゥルに脅されでもした?」
「違います」
彼は至極真面目だった。冗談でこんなことを言う人ではないし、事実、からかうような素振りはない。
「……えっと……」
ルイゼは大いに戸惑った。もともと彼に思いを寄せていたことを思えば、嬉しい展開のはずである。しかし心は大して高揚しなかった。なぜなら彼の表情は恋する人のそれではなかったからだ。確かにロルフは普段からあまり感情を表に出さない。だとしても淡泊すぎた。
「その、どうして結婚したいんだ?」
「知りたいんです。人を愛する気持ちを」
予想外の返事だった。ルイゼは返す言葉に窮してしまう。
「……愛したいから、結婚?」
ロルフは小さくうなずいた。
「男女の婚姻は愛情に基づくものだと聞きました。でも、おれにはその気持ちがわからない。それで、結婚したら理解できるかも、と」
「……そっか……」
ルイゼは打ちのめされた気分になった。やはりロルフは自分に恋してなどいないのだ。
一方で、どこかでほっとしている自分もいた。その理由を探して脳裏に浮かんだのは、金髪の若者だった。
(いけない。忘れろ、ルイゼ)
ルイゼは強くかぶりを振る。ロルフは不思議そうな顔をした。
「ルイゼ様?」
「な、なんでもない」
動揺をごまかすために話を戻す。
「どうして愛情を知りたいんだ?」
「人間に近づけるかもしれないから」
ルイゼはぎくりとした。ロルフは淡々と、だが内に決意を秘めた口調で続ける。
「おれはたぶん、この生を受け入れるしかないんです。だったら本当の人間になるしかない」
「ロルフ……」
「人間は他者を愛するものだと聞きました。それならおれも誰かを愛したい」
ロルフはルイゼを見つめた。怖いほどまっすぐな美しい琥珀色の瞳に、ルイゼはどぎまぎする。
「ルイゼ様と結婚したら、ルイゼ様を愛せる。ルイゼ様なら、愛せる気がする」
彼の声が熱を帯びた。少し前のルイゼなら舞い上がっていたかもしれない。
だが、気づいてしまった。彼を熱くさせているのは、ルイゼへの恋の予感では決してない。将来への期待がそうさせているだけなのだ。たとえ彼と培う絆が未来にあるとしても、それはただの仮定である。もしも期待どおりにならなかったらどうするのだろう。
ルイゼは小さく息を吸って吐いた。自分の考えを言葉にするのに少し勇気がいった。
「ロルフ。無理して誰かを愛する必要なんてない」
自傷行為のごとき痛みを感じながら、ルイゼは続ける。
「そういうのは自然に芽生える感情なんだ。この人が好きだ、ずっと一緒にいたい――そう心から感じた人と結婚するものなんだよ」
彼はわずかに狼狽したようだった。
「感じるためには、どうすれば……?」
「考えてできることじゃないよ」
「でもおれは早く人間になりたいんです」
焦ったようにロルフは言う。そう言わせる原因を作ったのは自分だ、とルイゼは思った。責任を感じて、返す言葉を一生懸命に探す。
その時、叔父の怒声が階下から聞こえてきた。
「いったい何事だ!」
ただならぬ様子に、ルイゼはロルフと目を見交した。
「どうしたんだろう?」
ロルフを伴って階下へ下りると、騒然とした空気を肌で感じた。階段そばの戸口にいた兵士たちが色めき立っている。叔父の前では、全身を砂埃で汚した伝令兵がひざまずいていた。疲労の色が濃い。姿勢を保つのもやっとの様子で、彼は言った。
「タカーチュの急襲により、カールハインツ総司令官が戦死! 我が軍はやむなくゼクレス要塞を捨て、こちらに向かっています!」
「なんだと!」
叔父は眉間にしわを寄せた。思いがけない事態に、ルイゼも動揺を隠せない。
ゼクレス要塞はタカーチュ国征圧の拠点として北方に設けられた砦だった。この兵士養成所からも近い。
(でも、おかしい)
長きにわたるタカーチュ国との戦いは、帝国側の勝利で決着が着いたのではなかったのか。だからこそ、この兵士養成所の閉鎖が決まったのに。
ルイゼは叔父のそばに駆け寄った。
「叔父貴、これはいったい?」
「私にも訳がわからん。まさかカールハインツ殿下が敗れるとは……」
叔父は口惜しげに唇をかんだ。
ルイゼはカールハインツと面識がない。しかし軍才に恵まれた猛将だと聞き及んでいる。タカーチュを制圧できたのは、彼がいたからこそだとも。
カールハインツは庶出の皇子だが、現皇帝の血を引く唯一の男子として皇太子の座に就いていた。次期皇帝を失うのは帝国にとって大きな痛手である。
叔父は壁を強くたたいた。
「ゼクレスが落ちたとなれば、次はこのロンベルクだ。だが、迎え撃つには兵士が足りなすぎる!」
兵士の大半はすでに東部へ送りだしたあとである。残っているのはわずかな見習い兵ばかりだと、叔父は吐き捨てた。
ルイゼはいぶかしんだ。あまりにも敵に都合よく進んでいやしないか。
「これじゃあまるで、攻められるために閉鎖準備をしたみたいだ」
「まったくそのとおりだ。おい、おまえ、いったいどうしてこのような事態に? ゼクレスはたやすく陥落するほど脆い要塞ではなかっただろう?」
叔父は伝令兵に尋ねた。彼はごほごほとせきこみながら答える。
「我が軍から裏切り者が出て……。敵を手引きして、それで……」
そこで彼は意識を失った。彼を休ませるよう、叔父が手近の兵士に命じる。
ルイゼは戦慄した。こんなにも間の悪い襲撃は、内部事情に精通した者が関与したためということか。
「どうして敵に寝返ったりなんか……」
「私としても追及したいところだが、大して猶予はないぞ。ゼクレスからここまでさほど距離はない。敗走する我が軍の背後には、追撃する敵軍がいると思え」
「それくらいわかっているよ……!」
叔父の指摘に、ルイゼは苦々しく同意する。
ロンベルクでの迎撃に失敗すれば、次の戦場はリーム市だ。ルイゼの脳裏にベルントたちの顔が浮かぶ。リーム市が戦渦に巻きこまれることだけは、絶対に避けねばならない。ひとつ深呼吸をしてから、決然と顔を上げた。
「叔父貴、リーム市長に協力を要請しよう」
「ルイゼ?」
「市長の私兵を借りるんだ。叔父貴は市長に話をつけてきてくれ。その間に私は」
唾液を飲み下してから、続ける。
「ここで時間稼ぎをする」
叔父は驚いたように目を見開き、次いで眉をつりあげた。
「バカ言うな! 戦場にクラッセン家の次期当主を置いていけるわけないだろう! 私が残るから、おまえがリームへ行け!」
「叔父貴のほうが適任じゃないか。ここで引きこもっていた私と違って、叔父貴はちょくちょく社交場に顔を出していたんだし……」
「あのな、わかっているのか? おまえは戦争の立役者のひとりなんだぞ。異能がばれたらどんな目に遭わされるか……!」
「……叔父貴……」
叔父の心配が痛いほど伝わってきた。たとえ一族のためだとしても、その気持ちはありがたいと思う。それでも、決意を変える気はなかった。ルイゼは固く握ったこぶしを胸元に押しつけた。手の震えを隠すため、もう片方の手で包みこむ。
「頭のいい叔父貴なら、これが最良の方法だと理解しているはずだ。大して猶予はないんだろう?」
「くっ……」
叔父は唇をかんだあと、傍らの兵士に支度を命じた。――リーム市へ向かうために。
彼はルイゼに背を向け、ぽつりとつぶやいた。
「……死んだら許さんぞ」
「……ありがとう」
叔父とは犬猿の仲だが、それでもその一言が嬉しかった。
ルイゼはロルフに視線を移した。
「叔父貴の護衛として、共にリームへ行ってくれ」
「ですが……」
「これは命令だ、ロルフ」
きっぱり言うと、ロルフは口をつぐんだ。ルイゼは無理やり口角を上げ、笑みを作る。
「君が叔父貴に付いていてくれれば心強い。安心して敵に挑めるよ。だから頼む」
「……承知」
彼が大人しく首肯するのを確認してから、ルイゼは歩きだした。敗走兵の受け入れと、敵軍の追撃を阻む準備を進めなければならない。居合わせた兵士たちも自らの役目を果たすため、三々五々に散っていく。
ルイゼは緊張する己を必死で叱咤しなければならなかった。
(私にどれだけのことができるだろう)
ルイゼが生まれてからの帝国は負け知らずだ。いざ戦闘が始まったら、ルイゼにとっては未知の領域になる。多少の教練は受けているものの、実戦経験のないルイゼには荷が重すぎる役だった。
(それでも、できるのは私だけなんだ)
不安に押しつぶされそうになる心を、無理やり奮い立たせる。リーム市を戦場にしたくない一心で。
翌早朝。ゼクレス要塞から撤退してきた敗走兵が、ロンベルク兵士養成所に到着した。
屋上からその様子を見ていたルイゼは、その人数に顔をしかめた。
「熾烈な戦いだったんだな」
昨日の伝令兵がルイゼのほうを見た。まだ回復しきっていないが、緊急事態のため、無理を押して任務に就いているのだ。
「と、おっしゃいますと?」
「人数が少ない」
的外れな指摘ではないはずだが、伝令兵はかぶりを振った。
「戦死者はさほど出ていません。少ないのは、ほとんどが敵と結託したからです」
ルイゼはぎょっとした。それが本当なら、大半が敵に寝返ったことになる。
「そんなバカなことが……!」
「そう思われも仕方ありませんが、事実です」
伝令兵は暗い表情で視線を床に落とした。言いにくそうにルイゼの顔色をうかがう。
「彼らはタカーチュの条件を呑んだんです」
「条件? なんだ?」
「……『戦争に勝利したら、兵役から解放する』」
「…………」
ルイゼはなにも言えなかった。皇帝は戦争をやめない。禽獣人の兵は、死ぬまで戦場に行かされるのだ。彼らが反意を抱いても、全く不思議ではなかった。
「実は、総司令官の命を奪ったのはその裏切り者たちなんです。彼らはタカーチュ側に付く証として総司令官を殺し、その首を手土産にしました」
「そうなのか……?」
ルイゼは不思議に思った。だとしたら、なぜ敗走兵たちは寝返らなかったのだろうか。禽獣人の兵士であれば、タカーチュの提案は誰にとっても甘い蜜なはずである。帝国に義理立てする意味もない。忠心という言葉で安易に解釈してはいけない気がする。
もう一度、眼下の敗走兵たちを見やる。彼らは味方のはずだ。それなのに、妙な胸騒ぎがする。
今のロンベルクには心から信頼できる仲間はいなかった。気心の知れた兵士の多くはすでに東部へ出立していたのだ。やはりロルフにはここに残ってもらえばよかっただろうか。
(……今は敵襲に備えるのが先決だな)
ルイゼは気を引き締めるために頬をたたいた。作戦会議を行うため、室内へ戻る。そうして打ち合わせをしている最中、ついにその時が訪れた。
「北方にタカーチュの軍勢を確認!」
慌ただしく入室した兵士の一言で、室内に緊張が走った。
(いよいよだ……!)
ルイゼは逃げだしたくなる自分から懸命に目を背けた。少しでも犠牲を減らすため、しっかりしなければ。
「私は表へ出る。敵の様子をこの目で確認したい」
そう言って部屋を出ようとしたルイゼの腕を、ひとりの兵士がつかんだ。
「我々の兵力では到底かなわないでしょう」
「え……?」
ルイゼはその真意を理解できなかった。――否、理解したくなかった。
「おまえ、なにを言っている?」
「ルイゼ様、降伏なさいませ」
「なにを弱気な! 我々が引けば、次はリームだ! 戦う前から投降してなるものか!」
「それが無駄だと申し上げているのです。我々を犬死させるおつもりですか?」
「なんだって……?」
兵士は手に力を込めた。ルイゼは痛みに顔をしかめる。胸騒ぎが増していった。それを払拭したくて、より大きく声を出す。
「なにをぐずぐずしているんだ! 各自、ただちに持ち場へ戻れ!」
「我々は、忠実に上官の命に従っております」
「うそぶくな! 今こうして上官である私に……」
「いいえ」
瞬間、背筋がぞくりと凍った。ルイゼは周囲を見回す。誰も止めようとせず、黙ってこちらを見ていた。なぜか彼らは驚くほど真摯な顔をしている。
「残念ながら、我々の上官はあなたではないのです」
別の兵士にもう片方の腕を取られる。
「放せ!」
振りほどこうと全力で腕を振るものの、相手の力は強く、抗えない。
「放してくれ……!」
思わず泣きそうな声が出た。敵に退路を断たれたような感覚だ。味方の戎衣に身を包んだ者たちに囲まれているというのに。
「もしかして……」
考えたくもない予想に行きついて身震いした。ルイゼは居合わせた兵士たちを睥睨する。
「おまえたち、謀ったな!」
「我々としても本意ではないのです。ですが、上官の命令には従うしかありません」
「あなたの身柄の確保も、条件のひとつだったんです」
伝令兵が淡々と述べる。視界が真っ暗闇に覆われるような心地がした。
「撤退と見せかけて、最初から私を捕らえることが目的だったわけか……」
自嘲ぎみに笑う。これは報いかもしれなかった。
がくりと膝が折れた。抵抗する気力もないルイゼを、兵士たちはしっかりと拘束する。
「予定どおり、クラッセンの化け師を捕虜といたします」
自分でも驚くほど冷静に、ルイゼはその宣言を耳に入れた。ある意味、自業自得である。だから自分の処遇に対しては甘んじて受け入れることもできた。それでも悔やまれるのは、この結果、リーム市が戦場になることだった。
(どうしよう……)
ルイゼが愕然とする中、兵士養成所の正門が勝手に開かれた。
その日、ロンベルク兵士養成所はタカーチュに無条件降伏をした。