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赤い海の化け師  作者: 寒月アキ
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第三章 明日のための約束

 リーム市に夜のとばりが下ろされた。

 結局その日は、ベルント宅に泊まることにした。例の不審者がまだどこかに潜んでいるかもしれないからである。人目のある日中に出立したほうがマシ、という判断だった。

 ルイゼはうなった。

「さて、どうしよっか」

 目下の問題は寝台の数だった。ベルントとルイゼの分はある。しかし、ほかに余っている寝台はない。

 老齢のベルントにはもちろん寝台で寝てもらう。そうなると、ルイゼの寝台で誰が寝るかという話になる。そもそもルイゼは居候で、この寝台も借りているだけなのだが。

(ま、私はいいや)

 ルイゼは早々に柔らかな寝具をあきらめた。華奢で繊細そうな兄妹を床で寝させるのは気が引けたのだ。昨晩の寝床だって、決して寝心地がいいとは言えない土の上だったのだから。

「私の寝台は君たちが使って。ひとり用だけど、ふたりで寝られないこともないし」

「ルイゼはどこで?」

 すかさずフェイが尋ねた。反対される予感がしたので、ルイゼはぼそぼそと答える。

「私は床で……」

「ダメだよ。女の子を床に寝させて、男のぼくが寝台なんて、絶対ない」

 案の定、フェイからはありふれた反論が返ってきた。だがルイゼも引く気はない。

「遠慮しないで。私は平気だし」

「遠慮するよ。当然でしょ。寝台はルイゼとレネが使えばいい。ぼくが床で寝る」

「フェイが床なら、あたしも床で寝るわ」

 横合いから、レネがさらに事態を混乱させてくる。

 貴重な睡眠時間を浪費した議論の結果、ルイゼたちは三人とも床で寝ることになった。――果てしなく馬鹿げているように感じるのは、おそらく気のせいではない。

「もったいない。せっかく空いた寝台があるのに……」

 床に敷いた寝具の上で、ルイゼは独りごつ。すると隣で横になっていたフェイがこちらに体を向けた。

「だからルイゼが使ってって、何度も言ったのに」

「そんなこと言ったって、落ち着かないよ。フェイたちは床なのに」

「それはぼくたちも一緒。これは全員の意見を合理的にまとめた結果だよ」

 さも名案と言うように、フェイは自信満々に言い放つ。そうかなあと、ルイゼはため息をつくしかない。

 さほど広くない部屋だ。お互いに手を伸ばせばたやすく触れられる距離にいる。

(……そういえば、なんでこの配置なんだろう)

 流れでフェイを主導に寝具を並べた結果、いつの間にか彼が真ん中になっていた。だがこの組み合わせなら、普通はレネが中央ではなかろうか。

(というより、一緒の部屋である必要すらないじゃないか)

 今更なことに気づいて、ルイゼは上体を起こした。フェイにはベルントの部屋で寝てもらおう。

 しかし耳に入ったのはふたつの静かな寝息だった。ルイゼはがっくりと肩を落とす。

「相変わらず素晴らしく寝つきがいいな……」

 変に気を張っているだけ無駄のようだ。自分もさっさと寝てしまおう。

 夜の静寂に耳を澄ましていると、不意にフェイたちの歌声が思い起こされた。

 歌と聞いてルイゼがまず思い出すのは母親だった。ルイゼは母の歌声が大好きだったのだ。

(母さんも歌が上手だった……)

 彼らと一緒にいると、生前の母が瞼裏によみがえる。


 ルイゼは夢を見ていた。目前にはクラッセン家の屋敷がある。

 白い館に、緑あふれた広大な庭。人里離れた森の中にある、自然と動物との触れ合いには事欠かない立地。頭上から降り注ぐ陽光は、木の葉にさえぎられて木漏れ日となる。適度な温かさと明るさを持った光が心地よい。

 ルイゼは幼い姿に戻っていた。背中にかかる赤髪の感触が懐かしい。着ている服も、裾がふわりと広がる少女のものだ。

 木陰で読書する母に、小さな体で突進する。

「お母さま、お歌を聴かせて!」

「まあ、ルイゼ」

 父親似のルイゼと母との共通点はあまりない。母の髪は透き通るような金色で、大層憧れたものだ。

「歌うのはいいけれど、ルイゼは途中で眠ってしまうでしょう。子守唄でもないのに」

「う……」

 ルイゼは言葉に詰まる。

 幼いルイゼにとって、母の歌声は世界で一番美しいものだった。だが赤ん坊の頃から母の子守唄に親しんできたせいか、歌声を耳にするたび条件反射のように眠りに落ちてしまうのだ。母の歌に包まれて眠ると、最高に幸せな気分になれるのである。

 母はくすくすと笑った。

「いいわ。愛しい我が子のために、歌を歌ってあげましょう」

「ありがとう!」

 瞳を輝かせ、母の膝の上で腹ばいになる。母の歌を聴く時は決まってこの体勢だった。

 まもなく、形のよい唇から澄んだ声が響き渡った。ルイゼはうっとりと瞳を閉じる。否応なしに睡魔に襲われ、快いまどろみにたゆたう。

 ところが幸福な午睡は唐突に破られた。低い声とともに肩を揺すられる。

「ルイゼ。起きろ」

 ルイゼはむにゃむにゃと寝ぼけ眼をこすった。せっかくいい気分で寝ていたのに。

「なに? どうしたの?」

「寝ぼけるな。忘れたのか?」

 聞き覚えのある男の声だったので、一瞬、父かと思った。だが違う。父とよく似ているが、父ならもっと優しく発声するはずだ。

 怒ったような声の主は叔父だった。姿は視認できない。ただ声だけがルイゼの傍らで発せられる。

「今日は葬式だぞ」

 ルイゼの前にふたつの棺桶が現れた。蓋は両方とも開いており、横たえられた遺体を確認できる。

 赤髪の男と、金髪の女。彼が持っていた茶色い瞳と、彼女が持っていた新緑色の瞳は、目蓋に隠れて見えない。

「土砂崩れに巻きこまれたんだ。……残念だ」

 ルイゼは頬をひきつらせた。棺にすがって絶叫する。

「お父さま! お母さま!」

 すると棺が幻影のように薄れだした。

「待って! お願い、行かないで!」

 ルイゼは引き止めようと懸命になったが、棺は無情にも消失した。

 取り残されたルイゼは、なにもない空間でひとりきりになった。叔父のとげとげしい声ですらもう聞こえない。

 虚無の中、ルイゼは人を求めてひた走った。

 やがて複数の人影を発見する。

 喜んだのも束の間、人影は冷たくあざ笑った。

「クラッセン家の者が、先日、事故でお亡くなりになったそうよ」

「変人一族のご当主と、卑しい禽獣人だな。動物しか愛せない、社交界の鼻つまみ者か」

 耳から入る毒のような言葉が、ルイゼの足を止めさせた。人影はルイゼに気づくことなく続ける。

「禽獣人と添い遂げるなんて、大層気味の悪いこと。外見こそ人間でも、所詮やつらの本性は蛮夷ですのね」

「あの一族は禽獣人の血が濃いんだ。もはや禽獣そのものだろう。けだもの同士が、けだものの子を作っているだけさ」

「まあ、なんて下品な物言いですこと」

 くすくすと、艶美で耳障りな笑い声がこぼれる。

「それでも、大切にせねばなりませんわね。彼らの力があるからこそ、使い捨ての兵士を量産できるんですもの。そのためだけに、我らが皇帝は彼らに爵位を与え、つなぎ止めているのですから」

「より豊かな暮らしのためだ。仕方ない。……でなければ、貴族に迎えてなるものか。考えただけで虫唾が走るよ。我らと同等に扱わねばならないなんてな」

「下賎な一族の下賎な行為は、この際、目こぼしするしかないということですわね。ほかでもない、わたくしたちの安全と富のために」

 しばし響いた哄笑がふとやんだ。

「おや、噂をすればだな。クラッセン家のご令嬢と、その後見人殿が参られた」

「相変わらず辛気くさい顔ですこと」

「あの少女が親の仕事を継ぐそうだ。前当主も復職せざるをえないだろうな。病が原因で引退したらしいが……」

「それが彼らの務めですもの。情けは無用ですわ」

「おい、こっちにやってきたぞ。せいぜい持ち上げて、職務に心血注いでいただこうではないか」

 ルイゼはうずくまった。いくつもの笑い声が重なって降りかかる。気が狂いそうだ。

 耳を両手でふさぎ、今度は誰もいない場所を目指してがむしゃらに駆ける。

 そうして嘲笑から逃げて、逃げて、逃げ回っているうちに、周りから誰もいなくなっていることに気づいた。広い空間にぽつねんとたたずむ。

 誰かにそばにいてほしい。だが傷つくのは嫌だ。友達をたくさん作れば笑われなくなるのだろうか。どうすればみんなの仲間入りできるのだろうか。

(誰もいない。音もしない。色もない。なにもない)

 発狂しそうなほどの静寂の世界に音の振動をもたらしたのは、つい最近聞いた言葉だった。

「ルイゼ様。……おれを殺してくれませんか」

 ルイゼは頭を抱えた。血を吐くように絶叫する。

「やめて! 謝るから、お願い、そんなこと言わないで! 私から離れないで、そばにいて、ひとりにしないで……!」

 不意に不思議な声が聞こえてきた。不思議だと感じたのは、それを聞き取ったのが耳ではなく心だったからだ。

――ぼくがそばにいるよ。

 人の手ではないなにかがルイゼを慰めるように触れる。すると徐々に心が安らいでいった。それがあまりにも心地よかったので、ありったけの勇気を振り絞り、誰にも言えなかった本音を打ち明けた。

「友達になってくれる? ひとりは寂しいの。ひとりは嫌なの……」

――もちろん。

 現れたのは、さらさらの金髪を持つ、空色の瞳の少年だった。

「約束するよ。ずっとそばにいるって。それから……」

 声音はあたかも歌のごとく軽やかに響く。まるで亡き母の子守唄を聴いているようで、泣けた。


「ルイゼ!」

 ルイゼははっと目を開けた。心配そうな瞳が鼻先にあり、ぎょっとする。

「フェ、フェイ?」

「大丈夫? うなされていたよ」

「え……?」

(ああ、そうか。悪夢を見たから……)

 フェイの胸をさりげなく押し、距離を取ってから顔を背ける。

「うるさかったよね。ごめん」

「……悲しい夢だったんだね。ルイゼ、泣いてた」

「……嘘……」

 自覚がなかったので驚いた。瞬きすると、確かにしずくが頬を伝う。

(子どもみたい。寝ながら泣くなんて)

 手で涙を拭おうとすると、フェイがそっと遮った。ルイゼに戸惑う間も与えず、慰撫するように舌で涙をすくう。ルイゼは悲鳴を上げてフェイを突き飛ばした。

「なにするんだ!」

「え? ダメ? 慰めたかったんだけど……」

 フェイはぽかんとしている。怒られる理由がわからないらしい。

「まったくもう……」

 こういう時はフェイの純真さが恨めしくなる。こちらばかりドキドキさせられて不公平ではないか。

 それでも彼の気遣いが心に染みた。また離れがたくなってしまいそうだ。

(……明朝、こっそり出立するつもりなのに)

 ルイゼの葛藤など露知らず、フェイはいつもの調子で尋ねる。

「ねえ、どんな夢だったのか聞いてもいい?」

 ルイゼは嘆息した。レネも含めて、この兄妹は無邪気すぎやしないか。

「無神経って感じる人もいるよ、きっと。いい夢じゃないってわかっててそんな質問したら」

「でも、必要だと思うんだ。悲しい気持ちを分かち合うのも」

 フェイは再びルイゼとの距離を詰めた。

「ほんの少しでもいい。ルイゼの苦しみを和らげてあげたいんだ」

「……またそんなこと言って……」

 どうして彼はこんなにも欲しい言葉を言ってくれるのだろう。

 差し出された手に、もしも救いがあるのなら。泣いてすがりたいと思ってしまった。

(――でも、できないよ)

 夢の光景が、ルイゼの心を痛めつける。

 いや、夢の中だけの話ではなかった。

 人ではない存在と交流を持ちすぎたクラッセン一族は、人の世界では白眼視されている。ルイゼはそれが嫌だった。子どもの頃はなにも知らず、ただ大切なものを純粋に愛していたけれど。そうすることで、より人の世界から遠ざかってしまう。

 ルイゼは両手で顔を覆った。

(私、最低だ)

 フェイたちをもとの姿に戻したいのは、彼らのためではない。人外への拒絶を示すことで、人から外れた自分を、人の世界に戻したいだけなのである。結局は自分のため。自分を守るため。だがどんなに卑怯でも、誰にも必要とされなくなるよりマシなのだ。人として生まれたのに、人の世界に疎まれたら、生きてはいけないから。

 ルイゼは無理やり口角を上げた。

「ありがとう。フェイの気持ちは嬉しいよ。……だけど私は大丈夫だから。夢は所詮夢に過ぎない」

 フェイの表情に目に見えて落胆がよぎった。胸が痛むが、気づかないふりをする。

「じゃあ、代わりにぼくの夢を聞いてよ」

 気を取り直して、といった調子でフェイは言った。ルイゼは面食らう。

「夢?」

「そう、夢。眠る時の夢じゃなくて、未来の希望のほうの夢」

 彼は空色の瞳を輝かせた。

「ぼくの夢は、家族を持つことなんだ」

「……家族?」

 意外に思って聞き返すと、フェイは力強くうなずいた。

「心から愛する人と結婚して、その人と子どもと一緒に、末永く幸せに暮らすんだよ」

 結婚。つまり彼は人としての生き方を想定しているのだ。フェイはぶれないなあと、ルイゼは感心してしまった。

 しかしながら、完全に肯定はできなかった。素敵な夢ではある。だがはたして実現可能なのだろうか。彼が普通の人ではない以上、平凡な夢も当たり前には手に入らない。

(どうしよう……)

 なんと言っていいかわからず黙っていると、フェイは熱っぽくルイゼを見つめてきた。

「だからさ、ぼくと結婚してよ、ルイゼ」

「…………は?」

 あまりの突拍子のなさに、軽い目眩を覚えた。フェイのことだから冗談ではないことは想像できたが、子どもの約束事のように実現性に乏しい。

「なにその軽薄な台詞」

「えっ? 気持ちを率直に伝えただけなんだけど、いけなかった?」

 フェイは目をぱちくりさせる。

「いけないってわけじゃないけど……」

 正直、嬉しくないわけではない。現に頬が熱くなっているし、鼓動も早くなっている。ただその甘さだけに酔える純情さは、残念ながら過去に置いてきてしまったようだ。

「そういうの、軽々しく言うもんじゃないよ」

「ぼくなりに精一杯心を込めたつもりだったんだけど……。もっと雰囲気作りをしたほうがよかったってことかな……?」

 フェイは本気で困ったように考えこむ。

 こういう時、ルイゼの戸惑いは本当にフェイには伝わらない。そしていちいち翻弄されてしまう自分も腹立たしくて、ぶっきらぼうにつぶやいた。

「そもそも結婚なんて、どうして突然……」

「……忘れちゃったんだね」

 フェイの表情が寂しげに陰った。ルイゼはきょとんとする。

「なんの話?」

「やっぱり忘れている」

 彼はしょげて眉尻を下げる。ルイゼは困惑した。申し訳ないが、本気で心当たりがない。

「えっと……?」

「もういいよ。無理しないで」

 フェイはすごすごと退散するように毛布をかぶり直した。

「返事はいつまでも待つよ。時間はたっぷりあるからね。明日も明後日も。来月も再来月も。来年も再来年だってあるんだ」

 暗にルイゼの目的を拒むような言い方だった。

「…………」

 ルイゼは返事ができなかった。フェイと過ごす未来が想像できなかったからだ。たとえ彼らをもとに戻さなかったとしても、どれだけの時間を共有できるのだろう。

(叔父貴に見つかったら、全て水泡に帰すのに)

 明日のことさえ、本当はわからない。

 そんな心情を読み取ったのだろうか。再び上体を起こしたフェイは、脈絡のない問いを口にした。

「ねえ、行きたい場所、どこかある?」

「なに、突然」

「いいから、行きたい場所教えて。どこでもいいんだ。思い出の場所とか、行ったことのないところとか」

「うーん。……海、かな?」

 ルイゼは目を細めた。

「小さい頃、両親と一度だけ行ったことがあって。あの時見た景色は、今でも覚えている」

 波のさざめき。潮の香り。海鳥の鳴き声。波の打ち寄せる砂浜。

 浜に埋もれた靴に砂が入ってしまい、その場で脱ぎ捨てる。柔らかい砂を蹴って、波打ち際まで走る。引いては寄せる波をしばらく眺めてから、恐る恐る足を浸す。水が足にかかった時の、こそばゆい心地よさ。思わぬ高波から逃げては戻り、逃げては戻りを繰り返して。はしゃいで海水を散らし、塩の香りを肺の奥まで吸いこみ、全身に潮風を浴びる。吹き乱れる髪も気にならない。

 目を閉じれば、絶え間ない波の感触を、その音を感じる。森の中では絶対に感じることのできない世界。幼さとは裏腹に鮮明に残る思い出。

「海かあ。まだ見たことないな。歌劇の題材では、よく使われるんだけどね」

 フェイはしみじみと言う。そういえば昨夜の演目も海の精霊だった。

 じゃあ、と彼は続けた。

「明日は海へ行こっか」

「は、はあ?」

「いいじゃない。行こうよ、海。レネやベル爺も誘ってさ、みんなで」

 唐突な提案に面食らうルイゼをよそに、フェイはとても楽しそうである。ルイゼはやれやれと片手で額を押さえた。

「気楽に言うけどさ、リームは沿岸部からとても遠いんだ。何日もかかる。ベル爺の店を出てすぐの商店街を歩くのとは全然訳が違うよ」

 帝国の国土は広大だ。海に面した部分も少なくないのだが、山間にあるリーム市からは遠すぎた。

 だが、フェイは引かなかった。

「どんなに遠くたって、目指せばいつかはたどりつくよ」

「それはそうだけど……」

「ぼくとレネは旅慣れているから、それくらいへっちゃらだよ」

「あのね、そういう問題じゃなくて」

「ルイゼやベル爺が大変ならゆっくり進めばいいよ。時間はある。そうでしょ?」

「…………」

 彼はなにかと未来の話を口にする。まるでルイゼの決意を鈍らせるかのように。

「約束だからね」

 一方的に押しつけて、彼は眠りに就いた。ルイゼも仕方なく毛布に潜る。

 約束を無下にはできない。明日も一緒にいる口実ができてしまった。

(まあ、ここに留まるよりは安全かもしれない……)

 ベルントのことは叔父も知っている。ルイゼがベルントを頼ると予測するのはたやすいだろう。逆に言えば、リーム市以外でルイゼが向かう場所の特定は難しいはずだ。実家とリーム市のほかに所縁のある場所はないのだし。

(……ああ、また私、問題を先送りにしている)

 それでも、四人で海を目指す旅を想像すると、胸が高鳴った。


「海?」

 昨夜の約束を朝一番に告げると、ベルントは驚いた顔をした。

「どれだけ距離があると思っておるんじゃ。ここから最も近い海岸へ行くとして、少なくとも……」

「どんなに遠くても行くんだ。……フェイと約束しちゃったんだよ」

 兄妹がまだ寝ている部屋を、ルイゼはちらりと見る。ベルントは嬉しそうに笑った。

「早起きの上に荷造りしておるから、叔父上からの逃避準備は順調じゃなと思ったんじゃが」

「もちろん、それもあるよ。どうせリームから離れなきゃいけなかったんだ。目的地があっても支障はないし」

「……みんなと行きたいと素直に言えば、かわいげがあるんじゃがの」

 嘆息しつつも、ベルントは喜色を隠さない。

「さて、わしも支度しようかの」

「ベル爺も?」

「当たり前じゃろう。おまえひとりじゃ危なっかしくておちおち店にも立てんよ」

 彼の気遣いはありがたかった。

 昨夜までは叔父に見つかるのではと鬱々としていたが、今はそれほどでもない。悪い方向には進まない気がしてきた。

 その時、寝室の扉が開いた。のろのろと姿を見せたフェイに、ルイゼは笑顔で声かけた。

「フェイ。ベル爺も海へ行くって」

 寝ぼけ眼だったフェイだが、一瞬で表情を輝かせた。

「やった! 急いでレネも起こすね!」

 そうしてようやく目覚めたレネが着替えるため、フェイはベルントの部屋へ引っこんだ。朝食の用意のため台所へ足を向けたルイゼを、レネが引き止める。

「ねえ、ルイゼ。話があるの」

「なに?」

 促されるまま、ふたりで部屋に籠もる。

 彼女は早々と寝間着を脱ぎ捨て、下着として着用する白い薄衣姿になっていた。体の線があらわな格好になると、彼女の理想的な体型が明確に見て取れた。手足の細さは衣服の上からもわかったが、胸も形よく膨らんでいるのだ。つくづくこの世は不公平である。

 ルイゼがひっそりと劣等感にさいなまれていると、そんな心中など想像もしないレネが、にやにやしながら耳打ちしてきた。

「実は昨夜、あたし、起きていたのよ」

 だからなんだろうと一瞬思う。それから、もしやと蒼白になった。顔の青さは徐々に赤みへと変化し、全身の血が沸騰しそうになる。

「ま、まさか……」

「ええ、聞いていたわ。ルイゼがうなされているのに、あたしも気づいたもん。だからその辺りから、ずっと」

 それでは、フェイとの会話をほぼ最初から聞かれていたことになる。恥ずかしさで悶絶しそうだった。込み上がってくる絶叫を喉で詰まらせ、間抜けに口をぱくぱくさせる。

「それならそうと、その場でちゃんと言ってよ! 盗み見なんて悪趣味!」

「だって邪魔しちゃ悪いもの。フェイ、いつになく嬉しそうだったし。あんなふうにはしゃぐこと、滅多にないのよ」

 レネは悪びれずに緑の瞳を細めた。亡き母と同じ色だと、ルイゼはふと思う。

「……そうかな。なんかいつもにこにこしていそうだけど」

 意外だった。再会してからまだ二日だが、ひたすら天真爛漫で、いつも楽しそうに見えていたのだが。

 レネはこくりとうなずいた。

「あたしたち歌は好きだから、歌っている時はいつも最高の気分だったわよ、もちろん。だけどそれ以外では気詰まりなことが多かったもの」

 フェイの背中の傷跡を思い出したルイゼは眉根を寄せた。でもね、とレネは寝台の上に腰を下ろす。

「ルイゼはあたしたちに自由の翼をくれたわ。それがどれだけ幸福なことか」

 彼女は女神を彷彿とさせるような美しい笑みを浮かべた。

「これはあたしの勝手な言い分だけど……ルイゼとフェイには一緒になってほしいな。フェイはあたしの自慢の兄よ。きっとルイゼも好きになるわ」

「……それは……」

 フェイの魅力はルイゼも認めている。しかし、だから恋人同士になれるわけでもない。

「意外だな。レネはお兄さんを取られたくないのかと思っていた」

「嫌ね。あたし、そこまでフェイに執着してないわ」

 彼女はからからと笑った。

「フェイとあたしはすごく近いけど、近すぎることはないのよ。フェイのことは大好きだし、一緒にいると安心するけど、それだけじゃ物足りないのよね」

 少し考えてから、彼女は続ける。

「きっとドキドキしないからね。フェイに抱きしめられたら、ルイゼはドキドキするでしょ?」

 ルイゼは赤面した。正直な気持ちを口にできるほど素直ではないため、目が泳いでしまう。その様子を一瞥したレネはほらね、と訳知り顔になった。

「あたしはそうじゃない。あまりにも自然すぎて、ときめかないのよ。だからあたしも出会いたいな。触れるか触れないかの距離の緊張感を楽しめる人と」

 レネはうふっと笑みをこぼす。ルイゼは苦笑した。いかにもレネらしい発想である。視点を変えれば、自分も彼女のように現状を楽しめるようになるのだろうか。

(いや、まずは叔父貴から逃げることが先決だな)

 これからのことは安全が確保できた時に考えればいい。そんな時間が無事に訪れることを、ルイゼは願った。

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