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赤い海の化け師  作者: 寒月アキ
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第二章 かつて泣いていた少女

 太陽は昇ったばかりで、街行く人の数は少なかった。

(よかった……)

 ルイゼはほっとした。兄妹の容姿は黙っていてもとにかく目立つ。誰かに見られたら、団長の耳にも入ってしまうかもしれない。

 石畳の道を足早に進みながら、ルイゼたちはベルント宅へ急いだ。

 間もなく到着した家の戸を、無言でそっと開ける。すると、すでに起きていたらしいベルントが、すぐさま姿を現した。

「ベ、ベル爺……」

 ルイゼは恐る恐る声を発した。ベルントは紛れもなく怒っていたからだ。

「ルイゼによく似た貴様は何者じゃ? 本物のルイゼなら、まだ自室で眠っておるはずじゃが。だって観劇後、きちんと帰宅したしの」

 完全な嫌味である。ルイゼは首をすくめた。

「……私が抜けだしたの、気づいてた?」

「当たり前じゃ。わしを出し抜こうなんざ百年早いわ」

 幾ばくか怒りを収めた彼は、深々と嘆息した。

「おまえももう幼子ではない。おまえなりの考えがあるのじゃろうと見過ごしてやったが……まさか朝帰りとはな」

「そ、そうそう、それだそれ。ベル爺、言っていたじゃないか。いい男、捕まえてこいって。朝帰りの理由、実はそれだったりして」

「下手な嘘をつくでない」

 なおも説教を続けようとしたベルントは、ようやくルイゼの背後の存在に気づいた。極上の美貌だが、みすぼらしく汚れた兄妹が、物珍しげにきょろきょろしている。

 フェイに視線を止めたベルントは、あんぐりと口を開けた。

「まさか、本当に捕まえてきたのか?」

「似たようなものだよ。……女の子もいるけど」

 はは、とルイゼは乾いた笑い声を立てる。ベルントは眉をしかめた。

「すごく嫌な予感がするんじゃが」

「その予感、たぶん当たってるよ」

 観念したルイゼは、ベルントの前に兄妹を引きだした。

「ベル爺、ふたりはオーピッツ歌劇団の歌手フェイとレネだ。フェイ、レネ、彼はベルント。私がお世話になっている人だ」

「初めまして、ベル爺。ぼくはフェイ」

「あたしはレネよ。よろしくね」

 兄妹は無邪気に挨拶する。ベルントは天を仰いだ。

「まさかとは思ったが、本当に例の至宝とは……。ルイゼ、宝石泥棒に転職したのか?」

「話せば長くなるよ。事情は海より深いんだ」

 ルイゼがぼそぼそと言い訳すると、ベルントは観念したように息を吐きだした。

「わかった。あとで説明してくれるならよしとしよう。とりあえず朝飯じゃな」

「私も手伝うよ」

「そんな格好で台所に立つんじゃない。あの兄妹も、おまえが責任持ってなんとかしろ」

「う……」

 申し出を即座に断られて、ルイゼは言葉に詰まる。

 ベルントの指摘はもっともだった。土で汚れた自分たちには、確かに台所に立つ資格はない。ひとまず全身から土埃をはたきおとすことに専念すると決めた。


「ほう。それであの兄妹を連れ帰ってきた、と言いたいわけか」

 朝食後。台所でベルントが洗う食器を拭きながら、ルイゼは事の顛末をベルントに説明した。兄妹は居間でくつろいでもらっているため、この会話は聞こえていない。

 ベルントはあきれてものも言えない、という表情をしている。ルイゼは居心地が悪い。

「だからさっきも言ったけど、そんなつもりなかったんだってば。あのふたりがどさくさ紛れに勝手に付いてきただけで」

「そうは言うけどな、おまえはオーピッツから兄妹を解放したかったんじゃろう? だったら結果は同じじゃろうが」

「それはそうだけど……。すぐに別れるつもりだったし、ベル爺に迷惑かけるつもりもなかったし」

「迷惑なんて気にせんでいい」

 ベルントはちらりと後ろを振り返った。たわいもない話題で盛り上がっている兄妹を一瞥して、難しい顔をする。

「今頃、歌劇団は大騒ぎじゃろうな。最大の売りの失踪じゃ。代役でしのいでも、観客の野次は免れまい。面目は丸つぶれ。死活問題じゃな」

「そんなの自業自得だよ。あのふたりは単なる気まぐれで逃げたんじゃないし」

 兄妹を戒めていた鎖が脳裏をよぎる。本当はもっと制裁を加えたいくらいだ。

 全ての食器を洗い終えたベルントは、濡れた手を手ぬぐいで拭う。

「おまえの気持ちはよくわかった。それで? これからどうするんじゃ?」

「……もちろん、目的を果たすよ」

 固い決意を込めて言うと、ベルントは静かに問いを返した。

「本当にそれでいいのか?」

「……え?」

「やりたいことを、やりたいようにやればいいだけじゃろうに。意固地になるのは、おまえの悪いところじゃな」

「……なんのことだか、さっぱりなんだけど」

「まったく手が焼けるものじゃ」

 ルイゼはむっとした。つい食器を拭く手に力が入ってしまう。割れるのではと危ぶんだベルントは、ルイゼから食器を取りあげた。

「おまえは幼い頃からひねくれていたからなあ。雪を見ては黒いと言い、海を見ては赤いと言う。こじらせると、ろくなことにならんぞ」

「……ひどい言い草だな」

 ルイゼはそっぽを向いた。

 感情を表現することが苦手なのは事実だ。幸せな時はなんでもない顔をして、不幸せな時はわざと明るく振る舞う。幸せな時に笑顔でいると、そうでない人に申し訳ない気がするのだ。逆に不幸せな時は、周囲に気遣われるのが嫌で、笑顔を作る。

 だが、いくらなんでも白い雪に「黒い」、青い海に「赤い」とは言わない。

(でも、海、か……)

 ルイゼが海を見たのは、過去に一度きりだ。両親がまだ生きていた頃、連れて行ってもらったのだ。紺碧の大海原は、今でも目に焼きついている。

(懐かしいな……)

 そんなしみじみとした追想を破ったのは、耳に心地よい若者の声だった。

「まだかかりそう? やっぱり手伝おうか」

 フェイだ。すぐ終わるからと手助けを辞退していたのだが、すっかり話しこんでしまったようだ。

「もう終わるよ。待たせてごめん」

「そうよ、早く行きましょう! とっても楽しみ!」

 フェイの後方から、レネが弾んだ声を上げる。

 レネが期待しているのは、リームの市内観光だった。朝食の最中、兄妹から市内を案内してほしいとせがまれたのである。

 手早く残りの食器を片しながら、ルイゼは小声でベルントに話しかけた。

「大丈夫かな。どこに歌劇団の目があるか……」

「確かに注意すべきじゃが、向こうも大々的には動けまい。せいぜい団員総出で血眼になって捜索するくらいじゃろう。なんたって至宝の不在じゃからな。大っぴらにはできまいよ」

「それもそっか。当面はごまかすよね。仮病とかで」

 現在のオーピット歌劇団の観客の大半はこの兄妹が目当てで、今回の興行も彼らあってのものだ。そんな看板役者が不在という事実は、歌劇団としては極力隠し通したいに違いない。

「リームはそれほど狭くない。気をつけていれば、まあ大丈夫じゃないかのう」

 ルイゼはベルントの楽観的な意見について考えてみた。それがまるきり的外れということはないだろう。兄妹は市外に出たという誤解を、オーピットに与えてもいる。余程の不運でなければ、追っ手に遭遇することはないかもしれない。

「なにより、行きたいんじゃろう、おまえ」

「そ、そんなことは……」

 ルイゼは口ごもる。ベルントはにやにや笑った。

「そうと決まれば、まずは変装じゃな」

 食器を片づけ終えたので、兄妹には店の在庫で変装してもらうことになった。ベルントはうきうきと衣服を見繕い、兄妹に渡すと、かつらも必要だと言って在庫置き場へ取りに行った。

 あとは着替えの場所である。ルイゼはまずレネに話しかけた。

「レネは私の部屋で着替えるといいよ。場所は二階の奥」

「ありがとう」

 場所を案内するルイゼの後ろに、レネはいそいそと付いてくる。

 さて次はフェイだ。彼にはベルントの部屋を貸そう。そう考えながら居間に戻り、「フェイ」と呼びかけたところで硬直した。

 目の前で、彼がするりと寝間着を脱いだのだ。しなやかな筋肉が付いた上半身があらわになる。

「なっ……!」

 思わず頓狂な声を上げてしまった。妙に頬が熱い。男ばかりの兵士養成所時代のせいで、こんなの見慣れているつもりだったのに。

「ま、前触れもなく脱がないでくれ!」

「なんで? 脱がなきゃ着替えられないよ」

 きょとんとするフェイの神経が理解できない。

「場所を選べって言っているんだ!」

 怒鳴ってから、ふと目に付いた痕跡に体がこわばった。若者の背中に走るいくつもの線――鞭の痕である。

 フェイはルイゼの狼狽を察したようだ。傷痕の痛ましさなんて感じさせない、気楽な調子で説明する。

「団長のお仕置きだよ。レネの分もあるけど」

「……レネの分?」

「女の子だからね。こんなの付けさせられないでしょ」

 ルイゼはぞっとした。

「……もしかして、歌劇団にいる間、ずっと?」

「いいや。今の団長になってからだよ。前の団長はこんなことする人じゃなかったし。優しい人だったよ、本当にね」

 フェイは懐かしむように目を細めた。その瞳から寂しさを感じ取り、ルイゼの声もしぜんと沈む。

「……どうして変わったんだ?」

「もともとぼくたち、別の歌劇団にいたんだよ。でも、団長が急死して解散になっちゃって。路頭に迷っていたぼくたちを拾ったのが、今の団長」

「そっか……」

 若者の背中にそっと手を当てる。すると彼はびくりと震えた。

「ルイゼ……?」

 その反応がより一層痛ましさを募らせた。鞭を受けて、苦痛でなかったはずがない。あっけらかんとした態度の裏で、どれほどの屈辱を味わってきたのだろうか。

「……そんなに見ないで。醜いでしょ」

 彼は努めて明るく振る舞おうとしていた。それでも、かすれた語尾は隠しきれない。

 そんなことはないと、言葉にするより確かに伝えたかった。傷ついた背中に、なかば衝動的に唇を押し当てる。するとフェイが息をのむのが肌を通して伝わってきた。

「……ルイゼ……」

 戸惑いを含んだ声に、ルイゼは我を取り戻した。

「ご、ごめん」

 そそくさと離れる。顔から火を噴きそうだった。自分の行為が信じられない。異性の肌に口づけるなんて、とんでもないことをしたものだ。

 そんなルイゼに向けたフェイの笑顔は、まさに極上と表現していいものであった。

「ありがとう」

 虐げられた過去は微塵も感じさせない明るさで、彼は礼を述べた。

 歌劇団の至宝とは言い得て妙だ。彼は、そしてその妹も、まるで宝石のように魅惑的な表情をする。

 かつて出会った時も、彼らはこんな雰囲気だった。あの頃からなにも変わっていないように思える。

(……私は変わっちゃったな)

 子どもの時分は、ちゃんと少女らしい感性を持っていた。髪を伸ばし、フリルやレースにも素直に心を躍らせることができていたのだ。

 ふと、窓に映った自分の姿が目に入った。短髪で、男服で、まさに少年としか言いようがない。こんな未来なんて、あの頃の自分は想像もしなかった。昔と比べると、なんて滑稽なことだろう。

 ルイゼは窓から顔を背けた。まるで現実から目をそらすようだと、自分でも思いながら。

 逃げた視線の先にいたのはフェイだった。そのままぼんやりしていると、彼がにこにこしながら尋ねてきた。

「続けていい? 着替え」

「え? ……あっ!」

 沸騰した湯のごとく顔が熱くなった。無意識とはいえ、異性の裸身を眺めていたのだ。恥ずかしさで頓死しそうである。

「ご、ごめん!」

 慌てて視線を外すと、呆気に取られた様子の少女に気づいた。

「……なにをしているの?」

 レネだ。灰褐色で、襟元が閉まった裾の長い婦人服を着ている。腰の細さを強調した仕立てが、痩身の彼女によく似合っていた。

(いいなあ……)

 ルイゼは改めて自分の男装を見やった。せめて男装の麗人のような美々しさがあれば救われたのだが、ルイゼの場合、ただの小僧になるだけだった。女としての優劣を突きつけられたようで、軽く落ちこんでしまう。動きやすいからと、自らの意思で選んだ服なのに。この惨めさはなんだろう。

「裸でなにをやっているのよ、フェイ!」

 レネは柳眉を逆立てた。誤解させてしまったとルイゼがおろおろしている間に、つかつかとフェイに歩み寄る。

「女の子を誘うなら、順番ってものがあるでしょう! いきなり脱ぐなんて、フェイったら不潔!」

「って、え? そっち?」

 想像とは違う発言に、ルイゼは脱力した。怒りの論点が違うように感じたのだが、気のせいだろうか。

 フェイは腹を抱えて笑った。

「ごめん、ごめん。ぼくもすぐ服着るから、待ってて」

 彼は白いシャツにすばやく袖を通した。その上からレネに似た色の膝まで届く上衣を羽織って、革帯で締める。

 そうこうしているうちに、ベルントが戻ってきた。着替え終えた兄妹を一瞥し、満足そうにひげをなでる。

「よく似合っておるのう。わしの見立てに狂いはなかったようじゃわい」

 しみじみと自画自賛したあと、彼は両手に持った明るい茶のかつらを差しだした。

「最後はかつらじゃな。そしたら、いよいよ出発じゃ」

「出発って、ベル爺も?」

 ルイゼはきょとんとした。てっきり彼は店で留守番かと思っていたのだ。

 ベルントは心外そうな顔をする。

「おまえひとりでは心もとないからな。今度はなにを拾ってくるかわからん」

「そんな犬じゃあるまいし。店は?」

「臨時休業じゃよ」

 そんな適当なことでいいのだろうか。

 気にするルイゼをよそに、兄妹は表情を綻ばせている。

「楽しみだなあ。ねえ、レネ」

「本当ね、フェイ」

 無邪気なふたりは、見ているだけで心が和むようだった。

 ルイゼは四人で街をそぞろ歩く様子を想像してみた。なんだか、とてもにぎやかそうだ。しぜんと口角が上がるのを感じる。

(確かに、楽しみかもしれない)

 うきうきと高揚する感情を、止められそうにない。


 露店が立ち並んだ街路を、ルイゼたちは少し離れたところから眺めた。

「よく考えたら、リームの一番の名所は劇場なんだよね」

 その劇場を、オーピッツ歌劇団も利用した。要するにリーム随一の観光名所を、兄妹はすでに知っているのである。

「ほかは、よその街と同じような石造りの街並みが、よその街と同じように広がっているだけなんだよね。商店街も一緒。よその街と似たような商品が、よその街と似たような店に並んでいるだけ」

「……悪かったな。うちもよその街と似たような店で、よその街と似たような商品を扱っておるしの」

 ルイゼの発言に、ベルントがつむじを曲げた。ルイゼは慌てて言い繕う。

「ベル爺の店は別格だよ。遠方から劇場へ訪れたお客が、わざわざ立ち寄るくらいだし」

「いまさらおだてたところで遅いわい」

 そんな会話をしているそばで、兄妹は街歩きを楽しんでいた。かつらもよくなじんでいて、彼らが例の至宝だと感づいた者は今のところいない。

「あんな果物、初めてみたな。あ、あれレネが好きそう。あのお菓子!」

「ねえ、あっちも見て。あの耳飾り、すごくきれい! ああ、向こうの腕輪も素敵だわ!」

 まるで子どものようなはしゃぎっぷりである。

(そんなに浮かれるものかな)

 ルイゼにとっては、取り立てて特徴のない普通の商店街でしかなかった。しかしこの兄妹といると新鮮さを覚えてくるから不思議である。

 冷やかしながら歩いていると、ふと、異国の品物を扱った露店が目に止まった。

「あ……」

 気になったのは香辛料だ。厳密に言うなら、その値札である。

「……値段、だいぶ安くなったんですね」

「そうなんですよ、お客さん。最近また値下がりしたんです。貴族様しか買えなかった時代なんて、もう思い出せませんねえ」

 どうです、おひとつ、と愛想よく売りこんでくる店主を断って、ルイゼは再び歩きだした。

 香辛料は東方の国でしか産出されない。これまではあらゆる商人の手を経て、高額で取り引きされた品であったが。

「……東方遠征、順調なんだな」

 ぽつりとつぶやくと、ベルントが複雑そうな面持ちでうなずいた。

「そのようじゃな。そのうちもっと安くなるかもしれん」

 肉や魚料理に合うその食味から、帝国では香辛料が重宝されていた。だが手に入れる手段が東方からの輸入しかない。だから高値で売りつけられる。

 足元を見られている限り、値段は下がらない。だったらその土地ごと手に入れてしまえばいい――それが、帝国が他国に侵攻する理由のひとつだった。値が下がれば、国民の負担は軽くなる。帝国はさらに住みやすい国になる。――戦場へ赴く兵士と、他国の領民を犠牲にして。

「……おまえも功労者のひとりじゃろう。確かに豊かさは増しておる」

 ベルントが慰めるように言った。だがルイゼは沈黙する。

 功労者と呼べるほど大層なことはしていないが、間接的に関わっていたのは確かだ。

 甘い蜜を吸うだけの帝国民にとっては喜ばしいことかもしれない。しかし自分を正当化していいものだろうか。

「ねえ、あれ! あれ、なに? 甘いにおい、おいしそう!」

 レネの浮かれた声に、ルイゼははっとして顔を上げた。彼女が指差した先には、行列のできている店がある。ああ、とルイゼはうなずいた。

「あれはパイだよ」

「パイ?」

 レネは小首をかしげた。ルイゼは解説する。

「具材を生地に包んで焼いた食べ物のことだよ。肉や魚、野菜とかを詰めた料理もあるけど、これは果物を使ったデザートだね」

「今人気なのは、さくらんぼうのパイじゃぞ」

 ベルントが補足した。さすがリームに長く住んでいるだけあって、下調べに抜かりがない。

 それにしても、レネの反応を見る限り、どうやら彼女はパイを知らなかったようだ。

(パイも知らないなんて……)

 帝国ではありふれた料理である。それさえ食した経験がないのは気の毒だった。痩躯な兄妹ではあるが、もともとの体質というだけでなく、食事が不十分だったとも考えられるかもしれない。

「いいなあ。あたしも食べたい」

 きらきら輝いたレネの目は、パイから離れない。ベルントは相好を崩した。

「それなら、一緒に買いに行くかい?」

「いいの?」

「もちろんじゃよ」

 ベルントの声は弾んでいる。見かけによらず、彼は無類の甘党なのだ。甘味に興味のないルイゼは、彼の話題に付いていけなかったことがしばしばあったくらいだ。

「嬉しい! じゃあ、早速並びましょう!」

 喜んだレネは、ベルントの腕をぐいぐい引っ張って行列に並んだ。人数を数える限り、彼らが目的の品を手に入れまでしばらくかかりそうである。

「仕方ない。適当に時間を潰そうか」

 手持ち無沙汰になったので、手近の露店でりんごを二個購入した。そのうち一個をフェイに渡し、道の隅へ移動する。

「これでも食べながら待ってようよ」

「そうだね。ありがとう」

 フェイはおいしそうにりんごをほおばった。一心不乱に食いつき、あっという間に食べきってしまう。ルイゼは呆気に取られた。

「そんなにお腹が空いていたのか? もっと早く言ってくれればいいのに」

「そうなの? でも、歌劇団ではそんなに食べられなかったし」

 フェイの返答に、ルイゼはさらに唖然としてしまった。彼が痩せているのは食事の量が足りなかったせいだと、勝手に決めつけることにする。

「これからは遠慮しないでくれ。フェイ……いや、レネとふたり分の食費が増えても、こっちは大丈夫だから」

「随分と気前がいいんだね。ベル爺のお店、繁盛しているんだ?」

「ベル爺に頼りきってはいないよ。自分の分は自分で払っている。厄介になっているのはこっちだし、フェイたちのことも、私の問題だし」

「そうなんだ。そのお金はどうやって?」

「……それは……」

 当然の疑問だったが、ずきりと胸が痛んだ。兵士養成所での勤めのことは話したくなかったので、適当に言葉を濁す。

「……死んだ祖父の遺産があるんだ」

 祖父はクラッセン家の義務を果たすことに熱心だった。皇帝はそんなダミアンの功労をねぎらい、その遺族に莫大な褒賞を与えていた。その管理は叔父に任せているが、ルイゼが自由に使える金銭も十分にある。

 フェイはルイゼの言葉をそのまま受け取ったようである。そうなんだ、と軽く返したあと、ルイゼの手元のりんごに視線を移した。

「食べないなら、ぼくにちょうだい」

「あ、うん。どうぞ」

 惜しむ気持ちも特になかったので、ルイゼはひと口かじっただけのりんごを手渡した。食べたくなったら、また買えばいいだけの話である。

 それよりも、彼の関心が変わらずりんごにあることに安堵していた。もしも彼が遺産に過度な興味を示したら心底悲しかっただろう。

 渡されたりんごを、彼は先程よりも大切に食べ始めた。ゆっくり味わったあと、指に付いた汁をぺろりとなめる。

 その仕草を見ていたら、妙に気恥ずかしくなった。

「ごちそうさま。おいしかったよ」

「う、うん……」

 ルイゼは曖昧にうなずいた。食べかけなんてあげずに、新しいのを買えばよかった。

 なんとなくフェイを直視できずに目をそらす。すると親子連れに目が留まった。幼い少女が両親と手をつないで歩いている。ルイゼの視線を追うように、フェイも同じ方向を見た。

「羨ましいな。ぼくにはレネしかいないから」

「……うん。私も似たようなものだし」

 ルイゼは物思いに沈む。

 優しい両親は一人娘であるルイゼを慈しんだ。彼らの愛情を一身に受けて育ったルイゼは、自らの幸福を疑いもしなかった。

 両親の死という形で、その幸福は突然失われた。馬車での移動中に、大雨による土砂崩れに遭ったのである。

 それは、ルイゼの六歳の誕生日が間近に迫った日のことだった。なんとか当日に間に合わせたいと、天候の悪さを押して帰着を急いだらしい。そう人づてに聞いた。

(だから、私は……)

 ルイゼは隣のフェイを盗み見た。

 友達もおらず、動物を話し相手にしていた子ども時代。そんなルイゼの先行きを危惧した叔父は、強引にその話し相手を取り上げた。

(それが、君たち)

 彼らが歌劇団に売られたと知った時の喪失感は、今でも覚えている。

(フェイたちの運命を変えたのは、私だ)

 だから戻すのだ。ねじまげてしまった彼らの運命を、本来あるべき状態へ。

(だから本当は、こんなことしている場合じゃないんだ)

 ルイゼはこっそり拳を固める。

 そんなルイゼに向かって、フェイは唐突に話題を変えた。

「ルイゼの声っていいよね。少し低めなところとかさ。包容力って言うのかな。すごく安心する」

 ルイゼは目をぱちくりさせた。突然なにを言いだすのだろう。

「……私はあまり好きじゃないな。レネのほうがずっときれいじゃない?」

 レネの歌声は高く遠くまで伸び、聴き手を圧倒させる。普段話す声も明るく色づいていて、聞いているだけで元気になるようだ。それに比べて、ルイゼの喉は高音に適していない。男装でも違和感がないのは、女としては低めな声も一因だった。

「フェイの声も素敵だよね。普通に話しているだけでも、声に力みたいなのを感じる。天性の素質ってやつなんだろうね」

 フェイは照れたようにほほえんだ。

「ありがとう。嬉しいよ。あまり褒められないからさ」

「え? まさか……」

「昔はもっと高い声が出たからさ。その時のほうがよかったみたい。舞台に出る上ではね」

「そんな……」

 少年の高音は、ある意味で少女にも勝る。変声期前のフェイを知る者からすれば、惜しまれることだったのかもしれない。その気持ちもわからないでもないが、今の声が評価されないのは悲しいことだと思った。たとえ低くなったって、とても魅力的であることに変わりはないのに。

「私は好きだよ、フェイの歌。昨日の舞台だって聴き入っちゃったし」

「本当?」

 彼は瞳を輝かせた。

「それじゃあ、なにか歌ってあげるよ。なにがいい?」

 尋ねるそばから、口ずさみ始める。ルイゼは慌てて彼の口を手で押さえた。

「ちょっと待った!」

 彼の歌声には通行人の足を止める力がある。こんなところで注目を浴びたら、団長に発見してくれと言っているようなものではないか。

 軽くにらむと、フェイはぺろりと舌を出した。

「そういえばそうだった。ごめんね。すっかり忘れていたよ。……でも、どうせなら唇でしてくれればよかったのに」

「は?」

「キスで口止めってことだよ」

「……は?」

 ぽかんとするルイゼの耳元に、フェイは顔を寄せた。

「そうすれば全ての言葉を呑みこんで、キスに集中するのに」

 耳朶に熱い吐息がかかった。瞬時に頬が赤くなるのを自覚する。ルイゼは大慌てて後ずさった。

「さ、さらりとなんて破廉恥な!」

 いったいどうしてそんな発想に至るのか。すぐそばを大勢の通行人が行き交っているというのに。誰かに聞かれたら恥ずかしいことこの上ない。

 そんなルイゼの動揺は、フェイには理解できなかったらしい。

「どうしてそんなに怒るの?」

「どうしてそんな疑問が出るのか、こっちが聞きたいよ」

 天然なのかなんなのか。脱力してしまいそうになる。

 ところがフェイは妙な方向に解釈したようだ。

「ああ、そっか。やっぱりこういうことは、男性から女性にするものだよね」

 言うなり、彼はぐいとルイゼの腕を引き寄せた。

 彼の短い金髪がさらりと揺れた。端整な顔が、至近距離にある。

 ルイゼが息を呑みこんだ直後。

「フェイ、ルイゼ、お待たせ!」

 レネが戻ってきた。ルイゼはフェイを突き飛ばすようにして離れる。フェイは多少よろめいたものの動じることなく、何事もなかったようにレネを迎えた。

「お帰り、レネ」

「うふふ。きっとほっぺたが落ちるくらいおいしいわ。楽しみにしてて、フェイ」

 期待に頬を紅潮させたレネは、とろけるような笑みを浮かべている。彼女の背後からは、パイの包みを抱えたベルントがほくほく顔で現れた。

「思ったより時間を食ってしまったな。ま、それだけ期待できるというものじゃ」

「あ、そう……」

 ルイゼは適当に返事をしながらフェイを見た。レネと談笑する彼はまるで普段どおりだ。ほんの少し前の出来事が白昼夢だったのではないかと錯覚するほどである。

(でも、心臓が治まらない)

 ルイゼは両腕で自分を抱きしめた。もしもレネたちが戻ってこなかったら、どうなっていたのだろうか……?

「ルイゼ、どうしたんじゃ? 顔が赤くなっておるぞ」

 ベルントに指摘されて慌てたルイゼは、顔の前で両手を左右に振った。

「な、なんでもないよ」

「本当に大丈夫か? 熱でもあるんじゃ……」

「へ、平気だって。私が丈夫なのは、ベル爺もよく知っているでしょ」

「そうか……?」

 ベルントのうろんげな視線をかわしていると、レネがベルントの服の袖を引っ張った。待ちきれない様子である。

「ねえ、早く帰っていただきましょうよ」

「ああ、そうしよう。いいよな、ルイゼ?」

「う、うん。もちろん」

 ベルントの問いに、ルイゼは大きくうなずいた。

 ふと隣を見ると、フェイと目が合った。たったそれだけのことなのに、心臓が跳ね上がる。

 フェイはふっと口角を上げた。さりげなくルイゼの手を取り、歩きだす。

「ほら、ベル爺たち行っちゃうよ。ぼくたちも急ごう」

 つながれた手から伝わる温かな体温に、否応なく戸惑ってしまう。それでも振り払う気にはなれなかった。誰かと手をつなぐのはかなり久し振りだ。不必要なほど緊張してしまうのは、きっとそのせいに違いない。

 こういうのも悪くない、と思う。というより、好きかもしれない。

(ずっとこのままでいられたら……)

 そんな期待を胸にフェイを見つめる。澄んだ空色の瞳に心を奪われた。彼がほほえむと、ルイゼもつられて笑顔になる。頬をなでる暖かい風が心地よい。頭上から注がれる太陽の光は、地上の人々を祝福するためにあるかのようだ。まるで未来さえも明るく染めてくれるかのごとく思える。

(浮かれている、私)

 このような時間を、人は幸福と表現するのだろうか。

 高揚した気分は、しかし、不意に訪れた強い視線に打ち消された。

 ルイゼは立ち止まり、温かい手を振りほどいた。フェイが不思議そうな顔をする。

「ルイゼ?」

 答えている余裕はない。ルイゼは辺りを見回した。気配の出所を探り、駆けだす。

 フェイも後ろから追ってきた。

「待ってよ、ルイゼ!」

 耳を貸さずに、人混みを擦り抜ける。通行人は怪訝そうにルイゼたちを見送る。

 視線の持ち主は、いずこかへ逃げようとしているらしい。気配はどんどん遠ざかっていく。

 裏道へ入り、幾度も角を折れたら、行き止まりに突き当たった。視線の持ち主は、もうどこへ消えたのかわからない。

 額に浮いた汗を、手の甲で拭う。結構な距離を走ったので、さすがに呼吸が乱れた。

「ま、待ってってば……」

 やや遅れて、フェイが追いついてきた。息が上がっており、肩を上下させている。

「ルイゼってば、どうしちゃったの? いきなり走りだして、こんな路地に……」

「フェイはなにも感じなかった?」

 質問に質問で返すと、彼は眉をしかめた。

「……ちょっと変だなって気はしたけど……」

 眉間のしわを深くして、彼は重々しく唇を動かす。

「……団長、かな」

 ルイゼは軽くかぶりを振った。

「こんな俊足、太ったおっさんだとは思えない」

「あれでも筋力はあるよ。舞台は体力勝負だからね」

「そうかもしれない。でも、オーピッツがずば抜けた脚力の持ち主だったとしても、彼には逃げる理由がないよ」

 ルイゼは話しながら思考を整理する。

「彼には権利がある。逃げた団員と、それを唆した犯人を捕まえる権利がね。だから逃げる必要はないはずなんだ」

「じゃあ、ほかに誰が?」

「……それは……」

 フェイに問われて、ルイゼは唯一の肉親のことを思った。兵士養成所を脱走したルイゼを探しているはずの男だ。

 だが、言葉にするのはためらわれた。その存在を口にすることで、今の時間が壊れてしまう気がしたのだ。

「……わからない……」

「……そっか。そうだよね」

 フェイは言葉の裏を読もうとしない。塀に背中を預けた彼は、深く追求することなく、そのままずるずると地面にへたりこんだ。

「疲れたあ。一応体力には自信があったんだけどなあ。ルイゼ、足、すごく速いね」

「そ、そっかな……?」

 ルイゼはぎこちなく答えた。フェイは真面目な顔つきで続ける。

「ぼく、これでも普通の人よりは速いんだよ」

「え、えっと……」

「気配にも敏感なほうだって思っていたけど」

「…………」

「ルイゼは……ぼくたちと一緒なんだよね?」

 曇りのない視線が一途にルイゼを射る。その瞳から逃れるのは不可能そうだった。

(……仕方ない、か)

 ルイゼは観念して口を開いた。

「……少なくとも、半分は。……母さんが禽獣人だから」

 禽獣人。それは、動物から人間に化けた存在の総称だった。――込められているのは明らかに侮蔑だったが、それ以外の呼び方はなかった。

「クラッセン……私の家系は、禽獣人と結ばれることが多くて。でも純血ではないから、人以外の姿は持っていないんだけどね。つまり、どっちつかず」

 自嘲の笑みが口の端に上った。

 それ故、クラッセン家は疎まれる。動物としか親しまない変人一族だから。人とは異なる力を持った、異常な一族。爵位を与えられてはいるが、社交界でははみだし者だ。兵士養成所以外に居場所なんてないのだ、本当は。

「フェイ、覚えているよね? 君に人の姿を与えた人間のこと」

「……覚えているよ。忘れるわけない。……だってルイゼのことじゃないか」

 彼の優れた声質のせいだろうか。声量が小さくても、鮮明に耳に届く。

「君の名前も、顔も、ずっとずっと覚えていた」

「…………」

 彼の声に責める響きはない。それはわかっていたが、それでも顔を合わせられずにうつむいた。

 フェイだけではない。レネも含めて、彼ら兄妹に人としての生を強要したのは幼いルイゼの過ちだった。

(フェイの背中は私のせいだ)

 鞭打たれた彼の傷跡が目の前にちらつく。ロルフから告げられた言葉も耳から離れない。

『……おれを殺してくれませんか』

(ロルフ!)

 そんな言葉、言わせてはならなかったのだ。

 だから、もう自由にする――そう決意していたのに。人の姿で笑うフェイたちと過ごす時間を、いとおしいと感じてしまっていた。

 甘えたら、また繰り返してしまうのに。彼らをロルフの二の舞にしてはいけないのだと、頭では理解しているのに。

「……ルイゼ」

「え……?」

 フェイがついと歩み寄ってきた。ルイゼの手をそっと取り、自分の手と重ねる。

「フェ、フェイ……?」

「ルイゼ。ぼくはね、君ともう一度会いたかったよ。……寂しいって泣いている女の子を、置き去りにしてきちゃっていたから」

 ルイゼは息を呑みこんだ。

 脳裏によみがえる、幼き日々。両親を失ったばかりの孤独に押しつぶされて、確かに泣いてばかりいた。

 それが理由だった。だが、それを理由にしてはいけなかったのだ。そう思うことで突き放そうとしているのに、フェイの声には全てを包みこんでくれそうな包容力がある。

「ねえ、ぼくらが歌劇団から逃げなかった理由、わかる?」

「……逃げられなかったからじゃ?」

 言うと、彼は少しむっとしたようだった。

「あのさあ、いくらなんでも見くびりすぎじゃない? ぼくたちだって、その気になれば自分たちでどうにだってできるよ。でも、そうしなかったのは……ぼくらが有名になったら、ルイゼに気づいてもらえるかもって思ったから」

「え……」

 胸先三寸に迫るほどの距離で、フェイはほほえんだ。

「この広い帝国内を、レネとふたりでがむしゃらに探すのは賢くないからね。がんばってこられたのは、ルイゼと再会するためだから」

「フェイ……」

 頬が熱を帯びた。フェイは優しい。癒やしの言葉を、いとも簡単に届けてくれる。相手にそれを受け取る資格があるかどうかなんてお構いなく。

「……どうしてそこまで?」

 ためらいがちに尋ねると、彼はうーんとうなった。

「どうしてだろう。知りたかっただけかもしれないな。君の涙はもう止まったのか、とか」

 そこで彼はいったん言葉を切った。表情に陰りが差す。

「……もしくは、説明がほしかったのかもしれないな。ぼくたちが歌劇団に売られた理由を」

「それは、本当にごめん! 体裁が悪いからって、叔父が独断で……」

 ルイゼは目線を下げた。言葉で済ませていい問題ではないと思ったが、とりあえず今できることとして誠心誠意謝罪する。

「本当に、本当にごめん……。こっちの都合でフェイたちを振り回して……」

 ルイゼはフェイの手を握り返した。今こそ目的を遂行せねば。

 フェイはきょとんとしている。

「ルイゼ?」

「だから、今度こそ解放してあげる」

 フェイを無視して、握る手に力を込める。フェイの顔は直視できない。真正面から向き合ったら、またためらってしまうだろう。その甘えが未来の傷を増やすのに。

「レネもあとでちゃんと戻すよ。とりあえずフェイだけでも先に……」

「……ルイゼ」

 その声音からかすかな怒りを感じて、ルイゼはびくりと肩を震わせた。

「また勝手に話を進めようとしている。……ねえ、こっち向いて」

 どんな叱責が待っているのだろうと、恐る恐る視線を持ち上げる。

 いつの間にか、彼は吐息がかかるほどそばにいた。柔らかい感触が唇に降りてくる。

「……口止めはキスで、だよ」

 なにが起きたのか、すぐには理解できなかった。

「フェイ……?」

 数拍置いてからようやく現実を受け止め、口元を手で押さえる。瞬時に耳まで赤く染まったのが自分でもわかった。

「な、な……?」

「ねえ、ぼくの話も聞いてよ」

 フェイは優しい声で続ける。

「ぼくが知りたかったのは、ぼくたちは不要だったのかどうかってことだよ。嫌われたから売られたんじゃないかって」

「まさか! それは違う!」

「それならいいんだ」

 彼は破顔した。ルイゼの悩みなど吹き飛ばすように。

「ぼくは今の人生を楽しんでいるんだよ。たぶんレネもね。だから寂しいこと言わないで。これからも一緒にいようよ」

「……本当に?」

「当たり前だよ!」

 疑わしい思いでフェイを見ると、曇りのない笑顔が返ってくる。その顔を前に、疑うことなどできそうにない。

 ルイゼは困ってしまった。

(どうしよう……)

 本当にこれでいいのだろうか。こんな簡単に許され、受け入れられて、平穏な幸福を手に入れていいのだろうか。

(だって私は、兵士養成所にたくさんの兵士を残してきてて)

 ああ、そうだ。忘れていいはずがない。フェイとレネが人のままでいいと言うのなら、次に選ぶべきはその温かい懐ではなく、暗く冷たい塀の中ではないのか。

「それよりさ、ルイゼはどうして男の格好をしているの?」

 沈む思考を打ち破ったのは、フェイの無邪気な声だった。

「昔はふわふわのかわいい服着ていたじゃない。髪も長かったし」

「ああ、そうだったっけ……」

 ルイゼは曖昧に答えた。過去を知っている人に昔話をされるのは面はゆい。

(そんな時期もあったなあ)

 二度と戻れない時間に思いを巡らせる。

「……男の人にはわからないかもしれないけど、ドレスって結構不便なんだよ。重くて、動きにくくて……邪魔でしかない」

 兵士養成所では男物の戎衣しか着ないから捨てた。ただそれだけだ。そもそも大して似合わないのだし、かえってすっきりすると思った。――結果、見込み違いが多分にあると思い知るのだが。

 兵士養成所にいる間はいい。だが、ひとたびそこを出ればルイゼは「女」だ。公式な場ではドレスの着用を求められるし、女らしい立ち居振る舞いはできて当然と思われる。

 ルイゼは冗談めかして笑う。

「生まれてくる性別を間違えたんだよ、きっと」

「……それって本心?」

「え……?」

 フェイのつぶやきは、小さな声だったにもかかわらず、やけに大きく胸に響いた。

 彼はまっすぐこちらを見ている。

「自分をごまかしてない? 周囲の身勝手な言い分を言い訳にして」

「……そんなの……」

 バカなことを、と喉まで出かかった。人は集団の中で生きている。そこでは与えられた役割を演じるしかない。その役が不満だとか、別の役をやりたいとかは、考えても詮ないことではないのか。

「ほ、本心だよ。そうに、決まっている」

 つっかえ気味で説得力には欠ける調子で、ルイゼは反論を続ける。

「別に、誰に言われたわけじゃないよ。自分で選んだんだ。こういう生き方を」

「そう? でも、少なくともぼくは思うけどな。ルイゼが女の子でよかったって」

 心臓が跳ねた。にわかに口づけの感触がよみがえる。

「フェイ、冗談は……」

「ドレスを着てって話じゃないよ。なにを着ていてもいいんだ。どんなルイゼでも大切にしたいからね。……ルイゼが好きで選んだものなら」

「……!」

 ルイゼは反駁の言葉を失い、唇をかんだ。無遠慮に土足で踏みこまれたような不快感に、心が波立つ。

「フェイにはわからないよ」

「……そうだよね。ごめん。……でも」

 殊勝に振る舞いつつ、フェイはなおも続ける。

「十年前の涙、まだ止まってないみたいだから」

 一瞬、息が止まった。心臓を素手でわしづかみにされた心地がした。

(そんなことない。あるわけない)

 両親の死に涙する時期はとうに過ぎた。弱虫な自分からは卒業したのだ。再会してからフェイに泣き顔を見せた覚えもない。なのに、なぜそんなことを言われなければならないのか。

 否定しようとして口を開けた。具体的な文句も脳内を巡った。しかし喉から吐きだされるのは呼吸の音だけだった。

 ルイゼはぐっと奥歯をかみしめた。フェイの指摘は的外れだ。そうに決まっている。決まっているのに。

(……どうして黙っているんだ、私)

 これではフェイの言い分を認めたようなものではないか。

「ルイゼ! ここにいたのか!」

 ルイゼははっと顔を上げた。息せき切って現れたのはベルントだった。レネもその後ろに続いている。

「びっくりしたわよ。いつの間にかいなくなっているんだもの」

「ベル爺、レネ……」

 唐突に話題を中断させられても、すぐには思考を切り替えられない。反応できずに固まっていると、レネは不思議そうに小首をかしげた。

「どうしたの? 珍しいものでも見つけた?」

「珍しいものって……」

 能天気な発言に、ルイゼは思わず吹きだした。

 救われた気がした。硬直していた空気が時間を取り戻したようだ。

「そんなところだよ、レネ。でも、ごめん。逃げられたみたいだ」

「そうなの? 残念だわ。あたしも見たかったのに」

「そんながっかりするほどのものじゃなかったよ。それより、寄り道してごめんね。今度こそまっすぐ帰るよ」

 わざと明るく振る舞い、先頭切って歩きだす。すると、大股で距離を詰めたベルントが耳打ちしてきた。

「団長絡みか?」

「いや、たぶん違う。でも、あの逃げ足の速さ……禽獣人かもしれない」

「……それはぞっとしない話じゃな」

 ベルントが渋い顔をした。

 クラッセン一族以外にこの異能を持つ者はいない。もし禽獣人なら関与者は限られた。

「叔父貴、かな……」

 ここしばらく会っていない後見人を思い浮かべる。兵士養成所を脱走したルイゼを、彼は探しているだろう。

 ベルントは思案しながらひげをなでさする。

「おまえの叔父上なら、もっと強硬に事を進めるんじゃないか?」

「叔父貴は強引だけど、慎重な人でもある。頭もいい。なにか考えがあるんだろうけど……今日はただの様子見だったとか……?」

「まずいな。用意周到に攻められたら、こっちは降伏するしかないぞ」

「私も同意見だ。……だから、私はリームを出ようと思う」

 静かな決意とともに考えを口にすると、ベルントはますます渋い顔をした。

「なんじゃ、藪から棒に」

「叔父貴の狙いは私だ。私がいなくなればベル爺に迷惑はかけない」

「……うーん……相変わらずおまえらしい発想じゃが……」

 彼はなにか言いたげな様子だったが、曖昧に言葉を濁した。それから、ちらりと後ろに視線を流す。

「で、どうするんじゃ? あの兄妹は」

「それは……」

 ルイゼは返答に窮した。兄妹を巻きこむわけにいかないのは明白だ。叔父は兄妹を歌劇団に売った張本人なのである。彼は捕まえた兄妹を団長のもとへ返すだろう。フェイたちが望もうと望むまいと、関係なく。

「なんの話?」

 突然話に割りこんできたのはレネだった。ベルントとルイゼの間に身を滑らせるようにして首を突っこんでくる。

「いやらしいわ。ひそひそ話なんて」

「大した話はしてないよ。無理に走るな、年を考えろって、そういう話」

 咄嗟のごまかしは、ベルントの癇に障ったようだ。

「人を年寄り扱いしおって」

「でも、事実だ。もうじき七十歳なんだし」

 真に受けたベルントにルイゼはあえて言葉を重ねた。レネの注意をそらすためだ。

 ベルントは胸を張った。

「そんなことを言えるのは、昔のわしを知らんからじゃ。これしきでへばるほど老いておらんよ」

「昔のベル爺……?」

 ルイゼは首をかしげた。確かに過去のことはよく知らない。祖父の紹介で初めて会ったベルントは、すでにリームで小さな服屋を営む老人だった。

 レネは「ふうん」と相づちを打つと、興味を失ったようにフェイとの会話に戻った。ほっとしたルイゼは、再び今後のことに思考を巡らせる。

(わかっていたはずだ。こんな時間が続かないことは、最初から)

 全て覚悟していた――はずなのに。

(迷うな、私)

 ルイゼは唇をかみしめた。

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