第一章 歌劇座の至宝
オーピッツ歌劇団には、麗しの美声で評判の兄妹フェイとレネがいる。その歌劇団が、帝国の都市リームへ興行に訪れているという。
ルイゼは椅子の上で足を組み直した。婦人服の裾からのぞく白い足――ではなく、男物の動きやすい下衣なので、はしたないと思われるようなこともついやってしまう。
「昨日の初演、だいぶ好評だったらしいね」
「さすが格が違うのう」
手元のビラを、老人が横からのぞきこんだ。
白髪混じりの灰色頭の彼はベルント。浅黒い肌にひげを生やしており、身長は低いが、年齢のわりには筋肉質な体型だ。
彼はルイゼの祖父ダミアンの親友だった。祖父の死後も、実の孫のようにルイゼの世話を焼こうとしてくれる。両親がすでに他界しているルイゼにとって、信頼できる数少ない大人だ。
兵士養成所を飛びだしてから三日。ルイゼはリームに住むベルント宅の厄介になっていた。
リームは芸術をめでる都として古くから栄えてきた。由緒正しき歌劇座は、皇帝もたびたび訪れるほど格調高い。
そんな歌劇座での上演権は、実力がある一座にのみ与えられる。芝居小屋で安価な喜劇を披露する、大衆向けの歌劇とは訳が違うのだ。
(フェイとレネ……か)
覚えのある名前を、心の中で反芻する。
忘れようとしても、忘れられない名前だった。
だから、この歌劇を観に行くと決めた。
「今夜、行ってこようと思うんだ。たまたま席取れたから」
「それまた急じゃな。……わしも同行できればいいんじゃが、さすがになあ……」
ベルントは歯切れ悪く言う。その意味を理解して、ルイゼは苦笑した。
選ばれた一座の歌劇は、選ばれた者しか見ることはできない。すなわち身分だ。
小さな服屋を営む彼に、当然ながら爵位はない。それは観劇する資格がないことを意味していた。
一方、ルイゼの実家は男爵家であった。しかし特殊な事情で与えられた爵位であり、誇りに思ったことは一度もない。
「ひとりで大丈夫だよ。……私も本当は嫌なんだけどね。こういう時くらい役立ってくれないと」
社交界の末端男爵家のルイゼに、選民意識はない。だが、無理を通して不愉快な扱いを受けるのはベルントである。そんな場所にわざわざ連れ立つ必要はなかった。
それにしても、とベルントは怪訝そうにルイゼを見た。
「引きこもりのおまえが歌劇とはな……。なにか、よからぬたくらみでもしておるんじゃないのか?」
ルイゼはぎくりとした。気取られぬよう、努めて明るく笑う。
「やめてくれよ。人聞きの悪い。歌劇を楽しみたいだけに決まっているじゃないか」
「ふーん? おまえにそんな趣味があったとは知らなんだ。……で、なぜ目をそらす?」
(しまった……)
無意識のうちに外していた視線を、ルイゼはぎくしゃくとベルントに戻した。
「別に、気のせいじゃないか?」
「社交場なんて大嫌いだと、耳にたこができるくらい言っておったじゃろう。歌劇座も大差ないぞ。贅沢をまとった人間がわんさと集まってくるんじゃからな」
一瞬、言葉に詰まった。驕慢に満ちた場所に出かけるのは、確かに気が引けたからだ。
「……でも、仕方ない。この機会を逃したら、もう二度と観られないかもしれないし」
「ほう。なぜそこまで?」
ベルントは追求をやめない。勘繰りから逃れたくて、ルイゼは日が傾きかけてきた窓の外を見やった。
「ああ、もうこんな時間! さっさと支度しないと遅刻しちゃうな。ベル爺、ドレス貸してくれ。あと付け毛も」
それを聞いて、服屋の主人は大仰に肩を落とした。
「もう十六なんじゃから、いい加減に自前のを仕立てたらどうじゃ。髪も短くしおって。正装のたびに付け毛なんて、年頃の娘のやることではないぞ」
「そんなこと言われてもさ。たとえ今伸ばすことに決めたって、今夜には間に合わないだろ。ほら、早く適当なの見繕ってよ。なんでもいいからさ」
「せめて色の指定くらいしろ。若い娘は細かい部分にもうるさいものじゃぞ」
ぶつぶつとこぼしつつ、ベルントは店の在庫置き場へ姿を消す。
小言から解放されたルイゼは、やれやれと息を吐きだした。一度始まると長いのだ。今日はどうにか止められてよかった。
ふと、窓に映る自分の姿が目に入った。頬にかかる赤髪を一房、指でつまむ。
短い髪ではドレスが似合わない。日常的にドレスを着用する淑女は、当然のように髪を長く伸ばしている。
(……そういう生活だったら、私だってこんな短くしないし)
兵士養成所でドレスを着ることはまずない。長い髪なんて邪魔なだけだ。だから普段着も男物になった。
(子どもの頃は、私もお姫様に憧れていたんだけどなあ)
いったいいつから、こうなってしまったのか。
そんなことを悶々と思考している間に、ベルントが戻ってきた。
「これはどうじゃ? ここにふんだんにレースをあしらうのが今の流行なんじゃぞ」
得意気に披露されたのは、常盤色の繻子織りのドレスだった。大きく開いた襟ぐりから胸元にかけて、豪奢なレースが揺れている。
ルイゼは顔を引きつらせた。
「派手すぎじゃないか? もっと地味なのがいいんだけど……」
「年頃の娘が悲しいことを言うな。流行遅れのドレスは、逆に注目を浴びるぞ」
ベルントはルイゼの肩をたたいた。
「大丈夫、おまえにはこれが似合う。わしの見立てを信じろ」
「そ、そうかな……?」
「ほら、つべこべ言わずに着替えるんじゃ。わしは馬車を手配してこよう」
ベルントは腰が引けているルイゼにドレスを押しつけ、その場を去った。ルイゼは仕方なく奢侈なドレスに袖を通す。
細く締めた腰はきついし、空いた胸元が空気にさらされて落ち着かない。華奢な靴は歩きにくく、やはり自分には向いていないと痛感する。
それでも、付け毛を足して髪を結い上げ、化粧を施した姿で鏡をのぞけば、不思議とまんざらでもない気分になった。
それから、慌ててかぶりを振る。
(ま、馬子にも衣装だから!)
少し着飾ったくらいで浮かれるなんて恥ずかしい。歌劇座へ行けば、付け焼刃の美では到底及ばない令嬢たちがあふれているのに。
「馬車が来たぞ。支度はどうじゃ?」
戸口からベルントが声をかけてきた。ルイゼはドレスの裾をさばいて部屋を出る。
「終わったよ。今行く」
表に出ると、一頭立ての辻馬車が待機していた。
ルイゼの正装に、ベルントは目を細める。
「思ったとおり、よく似合っておる。ついでにいい男でも捕まえてこい」
「あのねえ……変な虫が付かないか心配してよ。私を女扱いするならさ」
内心うんざりしつつ、ベルントの手を借りて馬車に乗りこむ。ルイゼが腰を落ち着けたのを見計らって、御者が馬に鞭をくれた。
薄闇に包まれ始めた街路を、馬車は静かに走りだした。
オーピッツ歌劇団を迎えた劇場は、正装した紳士淑女でにぎわっていた。
高貴な人々をもてなす劇場は、市内で最も伝統ある建築物だった。門に施された女神とその使いの浮き彫りは、二百年以上も昔に、さる偉大な彫刻家が彫った作品だと伝えられている。前庭は広く、女像が抱えた壺から水が流れ落ちる噴水が目を引いた。
静々と歩みを進めると、不意に声をかけられた。
「おひとりですか?」
凡庸な面立ちだが仰々しく着飾った青年だった。女遊びに慣れているのだろう。気取った所作で軟派な笑みを浮かべている。
彼は自分の名前を名乗ったあと、ルイゼの名前を尋ねた。若い娘がひとりで訪れるのは珍しいから興味津々なのだろう。
ルイゼは辟易した。嫌味のつもりで、満面の笑みを作る。
「ルイゼ・クラッセンと申します」
すると周囲の客たちまでもがこちらを向いた。大声で言ったわけでもないのに、社交場に集う者はなぜこうも耳ざといのか。
「クラッセンだって?」
「あの変人男爵家? 動物にしか心を許さないって話の」
「珍しい。社交場には滅多に出てこないのに」
周囲のさざめきが否応なしに耳に届く。
珍獣を目の当たりにしたような無遠慮な視線と、中傷のささやき。
目前の青年は、声をかける相手を誤ったと、激しく後悔している様子である。
ああ、だから社交場は嫌なのだ。
(良家の子女じゃなくて悪かったな)
ふんと鼻を鳴らす。多方から向けられる視線を無視してずかずかと、厳粛な貴人が見たら眉をひそめるだろう荒さで、劇場の中に入った。
帝国の社交界においてクラッセンは変人の代名詞だった。それはクラッセン一族が持つ異能が故である。
クラッセン一族には動物と心を通わせる力がある。特にその力が強い者は動物を人の姿に変化させることもできた。
先祖は忌み嫌われることを恐れ、森の奥でひっそりと生活していたという。
そんな中、俗世を避けた生活を嫌がった一族の男が町へ繰りだした。そして芸人のように異能を披露して金を稼いだのである。
その異能はやがて皇帝の耳に届いた。皇帝は興味を覚え、その真偽を確かめた。
そうして判明したのは、その異能で人間に姿を変えた獣は、常人より身体能力が優れているということだった。
皇帝はその力を買った。軍事利用することを条件として、一族に爵位と財産を授けたのである。
俗世で生きたかった一族の男はそれを受け入れた。
ルイゼは、そんなクラッセン一族の本家の一人娘として生まれた。
ルイゼが五歳の時、両親は馬車の事故で亡くなった。さらにその二年後、祖父も鬼籍に入った。現在は叔父が後見人を務めており、ルイゼは成人と同時に家督を相続することになっている。
(ああ、叔父貴は厄介だ……)
叔父の仏頂面を思い出し、ルイゼは憂鬱になった。ルイゼが兵士養成所を脱走した報は、そろそろ叔父の耳に入ったかもしれない。
一族の生活の保障は、ルイゼが務めを果たすからこそである。叔父はなにがなんでもルイゼを探しだそうとするだろう。
胸がずきりと痛んだ。責任放棄に対する罪悪感はある。
(だけど、あの兵の奥にはもう戻りたくない。だから、できることからやり直すんだ)
そのために、ここに来た。
劇場の内部は、外観から抱く期待を裏切らない、贅を凝らした内装だった。金に光る壁に、豪奢な装飾。客席から見上げれば、二階の貴賓席がうかがえた。扇で顔を隠した麗人の、瀟洒な衣装が目にまぶしい。あのように美人で、重いドレスも堂々と着こなせたら、世の中はとても生きやすいに違いない。
一階席で大人しく開演を待っていると、定刻どおりに幕が開いた。荘厳な音楽が奏でられ、語り手の口上が始まる。海の精霊と人間の若者が出会い、恋に落ち、ついには悲劇的な結末を迎える――数十年前にリーム出身の劇作家が作った、帝国では有名な物語だ。
噂の兄妹は、主演の恋人たちを演じるらしい。本日の観客は、兄妹が目当てと言っても過言ではないだろう。麗しの美声への期待感が客席にいても伝わってくるようだった。
やがて口上が終わり、舞台にひとりの役者が登場した。細身で白皙の若者だ。さらさらの金髪が舞台照明に映えている。
その形のいい唇から、若者らしい瑞々しさを備えた歌声が発せられた。
途端、舞台の空気が変わった。歌声に思考を奪われるがごとく、観客たちは虚構の世界へ導かれる。
(すごい……!)
ありきたりな表現しか出てこない自分が恨めしかった。そんな言葉だけでは、この感動を到底言い表せないのに。
次第に演目は進み、海の精霊役の娘が登場した。こちらは柔らかそうなふわふわの金髪で、小柄で華奢な容姿と相まって愛らしい。ひと目で恋に落ちた若者への想いを、彼女は調べに乗せる。
そのあどけなさとは裏腹に、魔性味を帯びた高い声は、天上まで届くようだった。会場からは恍惚としたため息がこぼれる。彼女もまた、若者に負けず劣らず、稀有な歌声の持ち主であることは疑いなかった。
ひとりでも十分すぎるくらい見栄えする彼らだが、ふたり並ぶと、あたかも一幅の絵のごとき完成された美を感じさせた。
(このふたりが、オーピッツ歌劇団の至宝フェイとレネ)
聴く者全てを魅了する、圧倒的で人間離れした歌唱力。歌声そのものに魅惑の魔力が吹きこまれているようだ。この兄妹ならば、どんなに陳腐な脚本でも、その歌だけで絶賛に足る舞台を作れそうな気さえする。
(間違いない。……この歌声、知っている)
記憶の中の少年は変声期前だったから少し自信がない。それでも、少なくとも少女の歌声は確かに聞き覚えがあった。
ルイゼは兄妹と面識があった。両親を亡くして、間もなくの頃だ。寂しさで泣くルイゼの前に、兄妹は舞い降りたのである。
(だから、私が終わらせる)
手遅れにならないうちに。――ロルフのように追いつめられる前に。
やがて上演が終わった。観客席からはどっと喝采が上がり、奇跡のごとき舞台を称賛する声が方々から発せられる。
感想を述べあう観客たちに紛れるようにルイゼは歌劇座をあとにした。一座の投宿先へ向かうためである。場所は調査済みだった。兄妹たちが寝静まった頃合いを見計らい、潜入する算段である。
ドレス姿では動きにくいことこの上ない。着替えのため、そしてベルントの目をごまかすため、何食わぬ顔でいったん帰宅した。就寝と称して早々に自室へ戻ると、ドレスを脱ぎ捨て、こっそり窓から抜けだす。
雲越しのかすかな月明かりしかない深夜は、森閑とした空気に満ちている。
そうしてたどり着いた目的の旅籠は、平凡な造りの二階建てだった。たとえ観客が金持ちでも、所詮は役者。豪勢に滞在できるほど裕福ではないのだ。
この程度なら侵入もたやすい。旅籠の周りを歩きながら、適当な窓を探す。
間もなく、蝶番ががたついた両開きの窓を発見した。音を立てないように注意しつつ、木板を外す。
内部はどうやら物置きで、扉に鍵もかかっていなかった。多少埃をかぶったことを除けばさして難もなく、すんなりと廊下へ身を滑らせる。
さて、くだんの兄妹はどこにいるのだろうか。
忍び足で階段を上る。常人よりも鍛えられた感覚で、客室ひとつひとつの気配を確かめる。
一階を調べ終わったので二階へ移動すると、奥の部屋が目に付いた。鍵をかけた上に、わざわざつっかえ棒で用心しているのだ。
嫌な予感がした。
手早くつっかえ棒を外し、扉の取っ手に手をかけるが、やはり開かない。そこで懐から細い針金を取りだし、鍵穴に差しこんだ。少しずつ感触を確かめながら針金を動かし、なんとか鍵を外すことに成功する。古く単純な構造だったのが幸いした。
ほんのわずかな音にも気をつけながら扉を押し開け、室内をのぞく。夜目が利くので、明かりがなくても不便はない。
ふたつの寝台をうかがうと、規則正しく上下する毛布の下から、金髪がそれぞれのぞいていた。オーピッツ歌劇団一の兄妹である。彼らは舞台の華やかさとは裏腹に、粗末な寝床で眠っていた。
(一番の稼ぎ頭だろうに、この扱い……)
痛ましさに胸を締めつけられながら、息を殺して接近する。よく見ると入口側の寝台で眠る金髪はまっすぐで短かった。こちらは兄のようだ。
こうして間近で眺めると、眉目秀麗さが一層際立つようだった。思わず見とれそうになる自分に気づき、慌てて頬をたたく。
(なにやっているんだ、私!)
しっかりしなければ。目的を忘れてはいけない。
こういう時はロルフを思い出せばいいのだ。そうすれば心が定まる。
(……よし)
気を取り直して、もう片方の寝台を見やる。ふわふわの長い金髪が敷布の上に広がっており、間違いなく妹のほうだと確信する。
(さて……)
仕事に取りかかろうと改めて兄の寝台に視線を移し、ルイゼはぎょっとした。鮮やかな空色の虹彩と目が合ったからだ。
「こんばんは。こんな夜更けに、なんの用だい?」
ゆったりと上体を起こした彼は、呑気に挨拶をした。一方のルイゼは冷や汗を垂らすばかりで、会話を続けられない。
「あ……その……」
「どうしたの、フェイ?」
次いで発せられた眠たげな声に、さらに焦った。妹も起きたようだ。どうしよう。
兄はにこにこと妹に話しかけた。
「お客さんだよ、レネ。まるで物語の王子様みたいだね。真夜中に忍んでくるなんてさ」
「まあ、とらわれのあたしたちを迎えに来てくれたのね。素敵!」
彼女は歓声を上げる。ルイゼは頭を抱えた。なんて気楽な発想だろう。
(というか王子って……私は女なんだけど……)
それにしても、「とらわれのあたしたち」とは、いったい。
(――とらわれの……?)
ルイゼははっとなった。つっかえ棒で閉ざされた扉を思い出す。
「ちょっとごめん」
断りを入れてから、少女を覆う毛布をはぎとる。すると普通であれば寝台の中では決して見ることのない、異常なものを発見した。少女の片足は、鎖で寝台につながれていたのだ。
「これは……」
「団長の日課だよ」
事もなげにフェイは言い、毛布から片足を出した。レネと同様、彼の足にも鎖が巻きついている。
ふたりを戒める鎖は寝台の脚にくくりつけられ、施錠で外れないようになっている。
「待ってて」
座視するに忍びなかった。この部屋に侵入したのと同じ手順で、鍵穴に針金を差しこむ。かちゃかちゃと少しの間いじると、鍵はなんとか外れた。
赤くなった足首をさすりながら、フェイは感嘆した。
「すごいね。これって魔法?」
「まさか。……護身術だよ」
適当にごまかす。兵士養成所で鬱屈しのぎに体得した技術だったが、そう素直に告白するのはためらわれた。
(それにしても、これが団長の日課だなんて……)
毎晩のように囚人のごとき扱いを受けて、兄妹は苦痛だったはずだ。
(それなのに、不思議だ)
ふたりそろって、笑顔に暗さが一切ない。
レネは無邪気に目を細めた。
「あなた、本当に王子様みたいね。見ず知らずのあたしたちを助けてくれるなんて」
「違うよ、レネ。彼女は、見ず知らずの王子様じゃない」
フェイは心得顔で妹を見る。
(な、なんだ……?)
いったいなにを言いだすのかと、ルイゼがいぶかしんでいると。
「話し声? ……おい、つっかえ棒が……」
新たに出現した明かりが、扉の隙間からこぼれた。
「おい、どうした!」
ばんと勢いよく扉を開けたのは、風采の上がらぬはげた肥満男だった。目がぎらぎらと光っていて、抜け目がなさそうである。
「団長!」
兄妹がそろって男を呼んだ。ルイゼにも見覚えがある。本日の歌劇で、団長として挨拶をしていた男だ。つまり彼は兄妹が所属する歌劇団の団長オーピッツにほかならなかった。
「貴様、何者だ? こいつらをどうするつもりだ!」
団長に強くにらまれる。ルイゼは己の不運を嘆いた。
(これはまずい。どうしよう)
逡巡するルイゼは、袖を誰かに引っ張られた。フェイだ。
「ルイゼ。こっち」
事態の切迫さをまったく意に介さない悠長さで、彼は窓を指差した。それがなんなのだと不審に思っている間に、レネが窓の桟に足をかける。
「フェイ、先に行っているわね」
「なにを言って……って、ちょっと!」
止める間もなく、白い寝間着がひとつ、窓の外に消えた。
ここは二階である。
「ぎゃああああ! レネェェェ!」
団長は旅籠を揺るがさんばかりに絶叫した。この声で目を覚ました者は多いに違いない。
「レネ!」
ルイゼは血相を変えて窓の下をのぞく。だが、こちらの心配をよそに、レネは平然と地面に降り立っていた。そればかりか、笑顔でこちらに手を振っているではないか。
ひとまず無事だったことに安堵するが、それ以前に大きな疑問が残った。なぜレネは窓から飛び降りたのだろう。
「いったいなんなんだ……?」
事態を把握できないでいるルイゼの体を、フェイがひょいと抱えた。細い体からは想像もつかない力に、混乱はさらに極まる。
「ちょっと、なにする……」
「ほら、しっかりつかまって」
「え? え?」
「行くよ」
フェイは問答無用で窓枠をくぐると、軽やかに跳躍した。叫び声を上げることさえできないまま、ルイゼはフェイにしがみつく。
階上から飛び降りることは、ルイゼにとって大したことではなかった。だが、自分の意思で飛ぶのとは訳が違った。他人に体を預けるのは不安定で、大層心もとないのだと知る。
フェイは危なげなく着地し、壊れものを扱うような丁重さでルイゼを下ろした。
「無理やりごめん。怖かったよね? 怪我はない?」
「へ、平気……」
強がってみせるが、心臓は落ち着かなかった。心の準備もなく飛び降りたこともそうだが、異性に横抱きにされていることへの動揺も大きい。
(な、なに? なんなんだこの状況は!)
しかし、のんびり状況理解に努めている場合ではなかった。
「こらあ、待ちやがれ!」
二階からは怒号が降ってきた。どたばたと階段を下りる騒音が、古い旅籠を震えさせる。
(逃げるなら今だ)
とりあえず脱出には成功した。長居は無用である。あらかじめ想定していた逃げ道を、ルイゼは脱兎のごとく駆けた。その後ろを、兄妹も当たり前のように付いてくる。
やがて荒涼とした雑木林にたどりついた。地面に降り積もった枯れ葉を踏みしだき、乱立する木立の間を通って、林の奥へ逃げこむ。特別に歩調を合わせたわけではないが、兄妹も遅れず並走している。
「えいっ!」
ルイゼは落ち葉を滑り台に高台から下へ降りた。そこに横穴があり、表からは死角になりやすいことは、下調べ済みだった。腰を折らねば入り口すら通れない大きさの横穴だが、無理すれば三人とも入れるだろう。
兄妹を横穴へ押しこみ、ルイゼ自身も隠れる。周囲を覆う蔦をかき寄せて入り口をふさぎ、屏息する。
やや経ってから、複数の足音が近づいてきた。カンテラの明かりが蔦越しにちらつく。
「くそう、なんて逃げ足の速い!」
団長の声だ。かなりの距離を走ったはずだが、存外呼吸が乱れていない。運動には不向きな体型だが、意外に体力があるらしい。
彼は団員を数人連れているらしく、話し声が風に乗って流れてきた。
「団長。林を抜けたら、市外に出ますぜ。やつらはリームを脱出する気じゃ……」
「ならば追うしかない! 行くぞ!」
荒々しい足音が、次第に遠ざかっていく。
ルイゼが横穴から恐る恐る顔を出すと、周囲には誰もいなかった。
「……行ったみたいだな」
張り詰めていた緊張を緩める。市外へ逃げたと思われたのなら、逆に市内へ戻ったほうが安全だろう。
「ねえ、ふたりとも、これから……」
言い差して、鼻白んだ。土壁にもたれた兄妹が、すでに眠りに落ちていたからだ。
「ちょっと、起きなよ!」
手近にあったフェイの肩を揺さぶってみるが、いっこうに目覚める気配がない。仕方なくレネのほうにも手を伸ばしてみるが、彼女からも反応はなかった。
「なんて図太いんだ……」
どこまでも自分たちの調子を崩さない。身元の知れない人間に付いてきたかと思えば、いつの間にか寝ているし。
とはいえ彼らを放っておくことはできなかった。今夜はここで夜を明かすしかないだろう。
「最悪だ……」
ルイゼはがっくりとうなだれた。直立することもままならない横穴では、満足に足も伸ばせない。服は土で汚れるし、虫だってそこらにいるだろう。
そんなルイゼの気も知らず、兄妹は安らかな寝息を立てている。ルイゼは恨みがましい目つきで彼らを軽くにらんだ。
「こんな場所で、よく熟睡できるな」
寄り添って眠る姿は、大変むつまじい。ひとりっ子のルイゼは、少し羨ましく思う。
それから、ふと気づいた。
(これって好機なんじゃ……)
兄弟は無防備である。今ならなんの障害もなく目的を果たせるではないか。
ルイゼはごくりと喉を鳴らした。それから手を伸ばしかけ――結局引っこめる。
「……起こすの、悪いし」
そう言い訳して、もう一度外を見やった。
団長たちが戻ってくる可能性もある。不寝番で見張りをしなければ。
そよぐ風に頬をなでられ、ルイゼは目を覚ました。
外が明るい。朝だ。
真っ先に視界に入ったのは、一面の土壁だった。
(――土の、壁?)
「そっか。昨日、野宿したんだった」
寝ずの番をするつもりだったのに、不覚にも睡魔に勝てなかったようだ。狭い横穴を寝床にしたせいか、関節がきしむ。
凝り固まった体をほぐすように小さく伸びをし、ふと横にぽっかりと空間ができていることに気づいた。
(あれ? なんで私、端っこで固まっていたんだっけ?)
寝ぼけ眼をこすりながら、ぼんやりと昨晩の出来事を思い返し――血の気が引いた。
そもそも野宿をすることになった元凶が、隣で寝ていたはずだった。
「フェイ! レネ!」
慌てて外へ飛びだすも、目に見える範囲に人影はない。
「どうしよう……」
途方に暮れていると、不意に哀願するような小鳥のさえずりが耳に入った。よく見ると、木の根元でひな鳥が転がっている。巣から落ちてしまったようだ。
(あ、これって……)
子どもの頃、ルイゼは似たような体験をしていた。つい口元を緩めてしまう。
片手に乗るほど小さなひな鳥を両手ですくった。見上げると、すぐに巣を発見できた。服の隠しにひな鳥を納め、慣れた動作でするすると木に登る。そうしてほかのひな鳥たちの傍らにそっと返した。
「これからは気を付けなよ」
そっとほほえみかけて、木から軽やかに飛び下りる。
その時、背後から声をかけられた。
「やっぱりルイゼは優しいね」
驚いて振り返ると、兄妹が立っていた。寝乱れた金髪が朝日で輝いている。風に翻る白い寝間着は土の汚れが否応なしに目立った。それでも天の使いを彷彿とさせる美しさがあるから、不思議なことこの上ない。
ルイゼは深く安堵した。
「無事でよかった。心配したんだよ」
「ごめんね。ひなを巣に戻してあげたかったんだけど、うまくいかなくて」
己の有り様を示すように、フェイは両腕を広げた。確かにフェイの汚れは木の幹にこすったように見える。
「仕方ないから、踏み台にできるものを探しに行ったの。結局、見つからなかったけど」
言葉を継いだ妹に向かって、フェイはうなずいた。それから羨望の眼差しをルイゼに向ける。
「ルイゼは木登りが上手なんだね」
ルイゼは頬を赤らめた。いくら男の格好をしていたって、一応年頃の娘なのだ。木登りを褒められても喜ばしくはない。話題を変えたくて、咳払いをする。
「そんなことより、君たち、どういうつもりなんだ?」
「なにが?」
フェイは小首をかしげる。ルイゼはいらだった。
「なぜ私に付いてきたんだ? 君たちにとって、私は素性の知れない人間だろう? ……自分で言うのも変な話だけど」
至極当然のことを言ったつもりだが、フェイはにこにことした笑みを崩さない。
「やだなあ。君はルイゼだってこと、ぼくはちゃんと知っているよ」
「……え?」
よく考えれば、昨晩から名前で呼ばれていた気がする。まだ名乗っていないのに。
「……もしかして、覚えているのか?」
「どうして忘れているって思うの?」
あくまで笑顔のフェイとは対照的に、ルイゼの心臓は早鐘を打ち始めていた。痛みを伴うほどに。
脳裏にちらつくのは、先日別れたロルフの顔だ。
(またあんなこと言われたらどうしよう)
額から脂汗が流れた。喉を締められたように息をするのも苦しい。声も出せない。
(嫌だ、怖い……)
そんな動揺に、フェイとレネは気づく素振りもない。
「ぼくたち、ずっと外に出たかったんだよね」
「見た? 団長の青い顔。いい気味よ」
兄妹の会話は、ルイゼをさらに追いこんだ。私のせいだ、とルイゼは思う。
「ごめん……」
謝ると、フェイは不思議そうな顔をした。
「なんで謝るんだい?」
「ルイゼはあたしたちの恩人よ。謝ることなんてないわ」
レネもフェイに同調する。
「ねえ、どこへ行く? ぼく、いろんなものを見てみたいな」
「あたしも! ルイゼ、これからどうするの?」
若者の空色の瞳と、娘の新緑色の瞳が、好奇心に輝いた。髪はぼさぼさで、寝間着も土に汚れて、せっかくの美貌が台なしなのに。まったく頓着せず、屈託ない笑みを浮かべている。
その天真爛漫さに、心安らぐ思いがした。ルイゼもつられて口角を上げる。
罪悪感を、胸の奥にそっとしまって。