序章
ロルフに呼びだされて、ルイゼは浮かれていた。
男みたいと言われる短い赤髪を、丹念にとかして。ドレスはないから男服で我慢するしかなかったけれど、せめて洗いたてに着替えたりして。
彼には女として見られたかった。
そんな努力も、徒労に終わったけれど。
「ルイゼ様。……おれを殺してくれませんか」
重々しく発せられた声に、ルイゼは凍りついた。彼が悪趣味な冗談を言うような人でないことは、長い付き合いでよく理解していた。
長い前髪の隙間からのぞくロルフの琥珀色の瞳に、感情らしい感情がうかがえない。それはいつものことだ。無造作に伸びた茶色の髪も、浅黒い肌も、肩幅の広いがっしりとした体格も、普段と一緒である。
普段どおりの姿で、普段どおりの表情で、なんて残酷な言葉を吐くことか。
「……それが、君の望みなのか」
震える唇からは、蚊の鳴くような声しか出なかった。
信じたくなかった。しかし、思い当たることがないかと言えば、嘘になる。
ここはレーゼル帝国北部のロンベルク兵士養成所だ。真夜中、兵舎の空き部屋に規律を破って忍んだ。
ロルフは見習い兵だった。レーゼル兵は兵士養成所で訓練を積んだあと、実戦に出る。彼の成績はほかと比べて抜きんでており、これからの活躍を期待されていた。――他国侵略のための捨て駒として。
十六歳という若さながら、ルイゼは兵士養成所の総監督だった。今この身にまとっているのも戎衣である。男言葉が染みついているのも、軍隊生活が長いせいだった。
彼が殺戮を嫌っていることは、前々から気づいていた。実のところ、彼だけに当てはまることではない。レーゼル兵の大半は自ら志願したわけではなかった。ロルフを含めた多くは、兵役に服すことを強要されていた。
(そう、私は気づいていた。気づいていながら、君と過ごす時間に甘えた)
彼と話す時間が好きだった。そばにいたかった。だから現状を変えようとしなかった。彼の気持ちを無視したのだ。鈍感な振りを通すことで。
「ルイゼ様なら、おれを殺せます。おれが発狂したことにすればいい。狂うやつはたまに現れる。おれが狂っても、別におかしくない」
彼はいつも真面目だ。だから今も、真面目な眼差しを向けてくる。
「兵士が自殺したら、責任を問われるのはルイゼ様です。だから、おれが狂ったことにしてほしい。だからその手で、おれを」
「それ以上言わなくていい!」
耐えきれず、ルイゼは顔を背けた。
「……こんな時まで、私を気遣ったりするな」
優しいロルフと比べて、自分はどうだろう。置かれた環境に甘んじて、彼を傷つけた。自業自得とはこのことだ。
「ごめん、ロルフ。本当に、本当にごめん……」
ありきたりな謝罪しか言えない自分が、心底情けなかった。泣きたくなったが、それは卑怯だとこらえる。加害者のくせに被害者ぶるのは最低だ。せめて彼に報いたい。――殺す以外の方法で。
ルイゼはロルフの手を握った。ロルフは一瞬、目を見開く。
朴訥としていて滅多に表情を変えない彼が、時折見せる感情の変化が好きだった。それも、もう見納めか。
「――〈解く〉」
全てを終わらせる、言の葉。ロルフの全身が柔らかな光に包まれ、その姿を覆い隠した。
やがて光が消えた頃、ルイゼがその手につかんでいたのは、狼の前足だった。
これが、帝国がルイゼを必要とする理由だった。
動物を人間に変化させる異能の一族がいる。ルイゼはその一族の人間だった。
もう何代も昔のことだが、帝国はその異能に目を付け、人に化けた動物を兵士として利用することを考えたのだ。レーゼル帝国が近隣諸国を次々と征服し、侵略国家の名を欲しいままにしているのも、人間よりも身体能力に優れた彼らを用兵しているためであった。
狼のロルフが目線を上げる。その琥珀色の瞳は心配そうに陰っていた。
ルイゼは苦笑した。一度人間になると、動物に戻っても仕草が人に似てくるのだ。
ルイゼの職務は兵士の管理である。戦争を続ける帝国にとって、兵士は大切な資源だ。私情で動物に戻したことが露見すれば、問題になるだろう。
だが、それでも構わなかった。ロルフの頭をそっとなでる。
「気にするな。……私が悪いんだ、全部」
ロルフは案ずるように小さく鳴いた。ルイゼは彼に笑顔を返す。少しでも気休めになることを願って。
それから部屋の窓を開ける。すると冷涼な空気が室内へ入りこんだ。
今夜は厚い雲が月も星も隠していたが、夜目が利くルイゼには関係なかった。眼下には丈の短い草が生えた裏庭が広がっている。
ここは四階だ。
(でも、大丈夫。いける)
「私に続いてくれ」
言うなり、四階から飛び降りた。風圧が髪を乱し、地面が迫ってくるのは一瞬のこと。身軽く着地を成功させる。
つい先程までいた部屋を見上げる。ロルフはためらいがちに窓から顔を出していたが、やがて観念したように窓から身を投げた。そして危なげなく裏庭に降り立つ。
「付いてくるんだ」
ルイゼは駆けだした。ロルフも並走する。
高くそびえる塀が、養成所全体を取り囲んでいた。出入り口はふたつ。常に監視の目がある正門と、食料などを運びこむための裏門である。
正門と違い、深夜の裏門には門衛がいない。定期的に巡回兵が見回りに来るだけだ。もちろん、門には強固な錠がかけられており、出入り自由なわけではない。
だが、養成所を預かるルイゼは鍵を持っていた。巡回兵が提げた明かりが遠ざかっていくのを確認してから、錠を開ける。
視界が開けると、深い森に囲まれた道が遠くまで続いていた。
「夜明けまでに、できるだけ遠くへ行くんだ」
ロルフが気遣うような鳴き声を上げた。その優しさから逃げるように、ルイゼは背中を向ける。
彼が好きだった。だからこそ、ここで決別したかった。もう二度と彼を傷つけないように。
「これで君は自由だ。もうなにも気にしなくていいんだ」
ロルフはそろそろと歩きだした。途中、何度も何度も振り返る。
その姿がようやく見えなくなってから、ルイゼは脱力したようにうずくまった。膝に顔をうずめて、長く息を吐きだす。
この森は帝国と国境を接するタカーチュ国まで続いている。かの国とは長らく敵対関係にあるが、だからこそ帝国の軍略から逃れるには打ってつけだろう。タカーチュでは捕らえた狼を兵士にすることはない。
ルイゼは力なく顔を上げた。頑丈な石壁がそそり立っている。
もう随分と長い間、ルイゼはこの石壁の中で生活してきた。そのわりには、古巣と思えるほどの愛着心は芽生えなかったようだ。なんの感慨も覚えない自分に苦笑する。
「……さて、私も行くか」
開け放たれた扉から表へ出て、鍵をかける。開いたままでは次の巡回で異変に気づかれてしまうだろう。ロルフが早々に捕まってしまうことだけは避けたい。
ここまで仕事を終えれば、手の中の鍵はもはや無用の長物だった。だからなんの未練もなく投げ捨てる。
(もっと早くこうすればよかったんだ)
ルイゼはもう一度石壁を振り仰いだ。この向こうでは、ほかにも大勢の見習い兵がとらわれている。本来は全員解放するべきだが、そうする時間や力はなかった。
「……やっぱり私は中途半端だな」
ただ死にたがっていた見習い兵をひとり救っただけだ。この行為さえ、単なる自己満足に過ぎない。根本を解決しなければ、いつかまた直面することになる。
「……それでも、もうここにはいたくない……」
去来する罪悪感を無視して、ルイゼは夜陰に紛れた。