第一章 -8-
豊庭に最後に会った時のことを、堅魚はふいに思い出した。
その時、豊庭はいつもと違って訪れを告げる文も寄越さず、夜が更けてからふらりと石上の館に現れた。そして、既に眠っていた諸魚の顔を見て、堅魚としばらく何気ない世間話をした後、石上神宮にちょっと用事があるからと言って出て行った。
そして、そのまま戻って来なかった。
以後、豊庭の訪れはなくなり、それまでは時々送られていた堅魚への文も来なくなった。
心配した堅魚は豊庭に文をやったが、それにも返事はない。そんなことは、今までの豊庭にはなかったことだ。
驚いた堅魚は悩んだ末に、兄の安否を尋ねる文を書いて父に送ってみた。だが、それにも音沙汰がない。
とうとう、豊庭にまで見捨てられたのか。
堅魚はそう思ってひどく傷ついた。そして、父と同じように、もう兄のことも忘れてしまおう……そう決心した矢先に、石上の堅魚の元へ、思いがけない父からの使者がやってきたのである。
無愛想な切り口上で、使者は父の命令を伝えた。直ちに身の回りの品をまとめ、諸魚を連れて、奈良の都へ来るように、と。
今更、父は何を言っているのだろうか。
堅魚は激しい怒りと反発を覚え、使者に食って掛ろうとした。
だが、それを堅魚の横で聞いていた諸魚は、嬉しそうに喜びの声をあげた。
どうやら諸魚も、内心父に見捨てられている我が身を哀しんでいたらしい。それが、思いがけず父からの呼び出しがかかったのだ。
涙を浮かべながら、父に会えることを喜んでいる諸魚を見ると、堅魚はそれ以上何も言えなくなってしまった。
堅魚は結局使者の言うなりに荷物をまとめた。そして、病身の諸魚を使者が運んできた輿に乗せ、堅魚自身は慣れない騎馬で、奈良の都へ発つことになったのである。
あまりにも慌しい急な出立のせいで、石上の神域を巡って名残を惜しむことも、長い間世話になった神官たちの全てに別れの挨拶をすることもできなかった。
石上から奈良の都までは、徒歩でゆっくり進んでも半日程度の道のりだ。
初めて見る平城京は、堅魚が思い描いていたような煌びやかで美しい花の都ではなかった。
埃っぽい街路は騒音に溢れ、密集した建物が互いに相手を退けようとするかのようにへし合っている。美衣を纏った人々の群れも、よく見ればそこかしこに貧民が混じり、路傍の隅には麻布を腰に巻いただけの行き倒れが幾人も捨て置かれている有様だった。
初めて訪れた父の屋敷も、堅魚にとってはただ広いばかりの重苦しいものだった。
石上の館にあったような慎ましやかな安らぎは、ここでは微塵も感じられない。仕えている者たちも皆冷たく無愛想で、堅魚たちを胡散臭そうにじろじろ眺めているだけだった。
長旅に疲れた諸魚は、少し熱を出してしまったので、すぐに屋敷の奥まったところにある離れの一棟へ連れて行かれた。
堅魚もしばらく諸魚の側にいてやりたかったが、僅かの間も寛ぐことが許されぬまま、すぐに父の前へ呼び出された。
思いがけないことに、父は病床にあった。
ここ数年会わなかった間に、見る影もないほど老け込んでいる。いや、単に老けたというだけでなく、病のせいかすっかり痩せ衰え、今や病床から降りることもできないようだった。
だが、その瞳だけは、昔と同じように炯々と光っている。
その目でじろりとねめつけながら、父は堅魚にただこう言った。
「お前に石上の家を譲ることにした」