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第一章 -7-

旅人が部屋を出て行くと、堅魚は再び窓の外へ目をやった。


暗闇の中に白い花陰は見えないが、確かにどこかで咲いているらしく、あの梔子の濃厚な薫りが漂ってくる。


堅魚は自分の手の中にある新羅の金の指輪を握り締めた。


それは、あの逞しい美丈夫だった兄の指には、あまりにも小さくて儚いものだった。


豊庭に初めて会った日のことを、堅魚は眩しく思い出す。


あの頃、豊庭は十歳代の半ばくらいだったのだろうか。


背は既に見上げるほどに高く、腕にも脚にも若々しい筋肉が躍動していた。


逞しい肩の上に載った、まだ僅かに初々しさを残した精悍な顔。


秀でた額に、濃い男らしい眉。


切れ長の眼差しには幾分厳しさがあったものの、ふっと笑うとそれが明るい快活な光を帯びて輝くのだ。


ああ、日本武尊やまとたけるのみことというのは、こんな風な人だったのだろうか。


幼い堅魚は素直にそう思った。


そして、憧れを込めた眼差しで兄を見上げ、これほど立派な兄を持つ誇りで胸の中がはちきれそうになるのを感じたのだった。


その優れた外見だけでなく、豊庭はほかの全ての面においても他に抜きん出た存在だった。


武勇においては、誰一人並ぶ者などいない。どんな暴れ馬であっても苦もなく乗りこなし、宮中の競馬の節会では何度も一等になったと聞いている。剣を振るわせても、太刀打ちできる者は都でも片手に満たないくらいだろう。


弓も得意で、石上の森で堅魚も何度かその腕前を見せてもらったが、たとえ木の葉一枚の小さな的であっても、外したことなど一度もなかった。


それだけではない。


豊庭は頭もよく、四書五経に通じ、唐や新羅の言葉もいくらか話せた。都の大学寮にも通っていたそうで、堅魚の守役もそこで知り合った豊庭の推薦で石上の館へやってきたのだという。


宮中の職務にも実に有能で、何をやらせてもそつなくこなした。豊庭が出仕してから次々に要職についたのも、あながち父の威光のおかげばかりではないだろう。


そうかと言って、豊庭は頭でっかちの堅物ではなかった。


性格は明るく闊達で、誰に対しても物怖じしない。武官の割には言葉つきは柔らかで、人懐っこい笑顔は全ての人から愛された。


特に、宮中の女たちからは。


堅魚が石上家を継いで出仕するようになり、時折後宮へも出入りするようになると、豊庭の弟だというだけで大そう騒がれたものだ。


だが、それも長くは続かず、堅魚は少々寂しい気分を味わった。


堅魚だって、そう見た目が劣るわけではない。


兄ほどではないものの、堅魚は十分背も高く、亡くなった母に似た上品で優美な顔立ちをしていた。


だが、男にしては少々白すぎる顔色や、ほっそりとした痩せぎすな身体つきは、豊庭のような堂々とした威丈夫を期待していた女たちを失望させたようだった。


豊庭が結局生涯定まった妻を持たなかったのは、あまりにも女たちにもてすぎたせいなのかもしれない。


もちろん、豊庭にも通う女の二、三人はいただろうが、その誰にも深入りしてはいなかったようだ。


だから、豊庭には子供もいない。もしいたのなら、堅魚が石上家を継ぐこともなかっただろう。


雄々しい容姿、類い稀なる武術の腕前、男としての才覚、懐かしい魅力的な人柄……堅魚にとって、兄の豊庭とは、神話に出てくる英雄のような存在だった。


子供の頃の堅魚は、豊庭が石上へ来る度に飛び上がって喜び、帰る時には泣いてその後を慕ったものだった。


豊庭の方も、そんな堅魚のことを特別に可愛がってくれていたような気がする。


母の元への訪れが間遠になった父と入れ替わるように、豊庭は石上へ度々やってきてくれるようになった。


母も豊庭を頼りにしていたようで、度々豊庭を側近くまで呼び寄せ、様々な頼みごとや相談をしていたのを覚えている。


母が亡くなった後も、豊庭は堅魚たちが不憫だったらしく、できる限り石上へやってきて、いろいろ面倒を見たり遊んでくれたりしたものだ。


確かに、豊庭が朝廷の要職について忙しくなってからは少なくなったが、それでも豊庭は僅かな時間を見つけては時々堅魚たちに会いに来てくれていた。


ところが、豊庭はある日を境に、ぴたりと石上へ姿を見せなくなったのである。

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