第一章 -5-
記夷城から大宰府へ戻ってからも、堅魚は自分の宿舎に割り当てられた部屋の窓辺で、一人じっと物思いに耽っていた。
ここ何年もの間、忘れていた……いや、忘れようとしていたことだ。
だが、旅人に父と兄について問われたことで、堅魚は否応なく過去のことを思い出してしまっていた。
「もうお休みかな」
部屋を仕切る帳の向こうから、遠慮がちな声がする。堅魚が振り向くと、掻き寄せられた帳の陰から、旅人がこちらへ顔を覗かせていた。
「いえ。こうして外を眺めていると、どこからかとても良い薫りがしてくるのです。何の匂いか気になって」
堅魚がそう言うと、旅人は部屋に足を踏み入れながら答えた。
「ああ、あれは梔子だよ。大和にはないが、この辺りのような暖かい土地に生える樹でな。この季節になると、白い綺麗な花が咲き、大そう甘い薫りがするのだ」
「そうですか。くちなし……」
ただの花樹の名前だ。だが、堅魚はそっとそう呟いて唇を噛み締めた。
まるで、私のようではないか。
口に出すのを禁じられていることが、堅魚にはあまりにもたくさんあり過ぎた。
「お邪魔でなければ、しばらくの間構わぬかな。実は、勅使殿は石上で育って、あちらではいろいろ古い文物を調べておられたと言うと、息子が是非とも話を聞きたいと申すのだ」
よく見ると、昼間見た家持という少年が、旅人の後ろにちょっとはにかんだような顔で立っている。
堅魚が微笑んで頷くと、家持は堅魚の前に進み出て、目を輝かせながら尋ねた。
「石上にはとても変わった剣があると聞いています。七つの剣先を持つ神剣だとか」
「ああ、七支刀のことですね」
七支刀は、古代から石上神宮に伝わる名宝の一つである。一本の剣から六つの枝が分かれたようなその変わった形から、不思議な力を秘めた宝物として都でも名が知られていた。
「それは、神代の昔に素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したという天十握剣なのでしょうか」
家持は興奮した面持ちで問う。きっと誰かから聞いたか何かで読んだかして、そう思い込んでいるのだろう。
堅魚は家持がちょっと可哀想になったが、首を振りながら真面目な顔で答えた。
「いや、そうではありません。まあ、石上神宮にはっきりした謂われが伝わっているわけではありませんがね。実は、刀身には古代の銘文が刻まれているのですよ」
「銘文?」
「ええ。消えかかっていて、大そう読みづらいものではありますが。私の考えでは、この剣は神宮皇后の御世に百済から献上されたものだと思われます」
堅魚がそう言うと、家持はあからさまに落胆した顔で溜め息をついた。
「そうなんですか。百済で、普通の人間の手によって作られたものなんですね。やっぱり、神に作られ神によって振るわれた神剣なんて、この世には存在しないんだ。あの八岐大蛇の伝説も、ただのお伽話の創りごとか……がっかりだ」
素戔嗚尊の英雄物語を、家持は本当の出来事として信じたかったのだろう。
堅魚だって、少年の頃はそうだった。だから、守役の老人の仕事に興味を持ち、その手伝いを始めたのだ。
だが、石上で様々な神話や伝説を調べるうち、それらの多くは、大昔の政争や戦さ、人間同士の愛や憎しみが起こした様々な事件が、長い年月の間に形を変えて伝えられたものなのだということに、堅魚は気づいてしまった。
だから、正直に言ってしまえば、堅魚は石上神宮の神を祭る一族に生まれ、その祭祀の一端を担ってきたにも関わらず、神というものの実在を信じてはいなかったのである。
しかし、すっかり意気消沈している家持が、堅魚には不憫に思えた。それで、堅魚は家持を励ますように言った。
「いや、天十握剣はありますよ」
「本当ですか」
家持は再び目を輝かせる。堅魚は家持に話して聞かせた。
「天十握剣の他にも、神話に登場する宝物が、石上にはたくさんあるのです。例えば、神武帝東征の折、武甕雷神が天降られて邪神を破り国土を平定されたという平国之剣。それから、わが石上氏の祖神である饒速日命が天降られる折、天津神から託されたという天璽十種瑞宝。この二つと先ほどの天十握剣を合わせた三つが、石上神宮の主祭神として、社の奥深く大切に祭られているのです。ご神体なので直接目にすることはかなわないが、それが納められているという筥を、私は何度も見たことがあります」
「そうなんですか。本当に、石上には素戔嗚尊が手にされた実物の神剣があるのですね。あの神話は本当のことなんだ。すごいな」
家持はなおも目を輝かせて、堅魚にいろいろと聞きたそうだ。だが、側で二人のやり取りを見守っていた旅人は、家持の肩を叩いて促した。
「さあ、今日はもう遅い。勅使殿もお疲れだ。この辺りで、お前はお休み。話は明日にでもまたお手隙の時間を見つけて聞かせていただけば良い」
旅人にそう言われると、家持は素直に頷いた。
「はい、そうします。今日はありがとうございました」
にこりと笑って丁寧に頭を下げるその態度には、大切に育てられた良家の子弟らしい躾の良さと人柄の素直さが感じられる。
家持に対する旅人の愛情が垣間見えるようだった。