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第一章 -2-

少し濁った筑紫の酒を注ぎながら、旅人は懐かしげな眼差しで堅魚を見つめながら尋ねた。


「勅使殿の父上や兄上が亡くなってから、もう何年くらい経つかな」


「そうですね。兄の豊庭とよにわが亡くなってから十年。父はその前年でしたから十一年ですか」


「もうそんなになるのか。月日が経つのは早いものだ。私が年を取るのも当たり前だな」


「私の父や兄をご存知なのですか」


 堅魚が問うと、旅人はにこやかに答えた。


「もちろん、宮中では何度もお目にかかったことがある。特に、豊庭殿とは同じ官職だった頃もあったから、生前はよく話をしたものだ。でも、お父上の麻呂殿とは、あまり親しい付き合いはなかったな。年もずっと離れていたし、私より遥かに位の高い方だったしね」


 堅魚の父である石上麻呂は、古来の名族物部氏の嫡流に生まれ、のちに改姓して石上氏の祖となった人物である。長年に渡って朝廷の重職を勤め、ついには位人臣を極めるに至った。


父が死んだ頃といえば、旅人はおそらくまだ従四位程度であったと思われるから、父とはあまり面識がないのも不思議はない。旅人も頭を捻りながら言った。


「それに、あの方は厳めしい感じで、あまり人と気安く口をきくこともなかったからな。そのせいか、あなたのようなお子がおられることを、お亡くなりになるまで知らなかった」


「私は石上の地にずっと引き篭もっておりましたから。父が死ぬまで、生まれ育った彼の地を離れたことはありません。奈良の都へ出たのは、父と兄が亡くなって、石上の家を継いでからのことです」


「そうか。それならば、あなたのことを知らぬのも無理はない。だが、珍しいな。普通なら、都の屋敷へ呼んで、本人が嫌がっても無理矢理学問などさせるものだが」


 堅魚の返杯を受けながら、旅人はそう言って笑った。だが、堅魚は僅かに顔を強張らせて呟いた。


「きっと父は私のことなど忘れていたのでしょう。私は父の側女の子だし、父には他にも大勢子がおりましたから」


「そんな馬鹿な。確か、麻呂殿のお子たちは、みな麻呂殿が四十歳を過ぎてからもうけた方々だっただろう。老いてから生まれた子ほど可愛いものはないよ」


「そうでしょうか」


 きっぱりと言い切る旅人に、堅魚は苦笑にも似た溜め息を漏らした。だが、旅人は悟り澄ました顔で、少し離れた席に向かって目配せする。


そこには十歳を過ぎたばかりに見えるみずら髪の少年が座っていた。旅人の嫡子、大伴家持である。


「あれも、この間亡くなった正妻の子ではなく、側女が産んだ子だが、可愛いことに変わりはない」


 旅人はにっこりと笑って堅魚を見た。その曇りのない笑顔には、まぎれもなく年若い息子への慈愛の情が溢れている。


だが、その笑顔に頷き返しながらも、堅魚は心の中で呟いていた。


親は全ての子が平等にみな可愛いもの……それはただの建前に過ぎないのだ、と。


堅魚は父である麻呂の二番目の子供として、奈良の都の南東に位置する石上の地で生まれた。


母のことはよくわからない。堅魚の同母弟である諸魚もろいおを産んだ時、難産で亡くなってしまったからだ。


その時、堅魚はまだ七歳だった。だから、今では母の顔の記憶も、ずいぶんと朧になっている。


覚えているのは、ただ抜けるように青白い肌をしていて、睫の長い黒目がちの大きな瞳が大そう愛らしかったこと。ふんわりと結い上げられた髪が、重たげに見えるほどに豊かで艶やかだったことくらいだろうか。


それ以外のことで、堅魚が知っていることと言えば、時折母が話してくれた僅かな思い出話に過ぎない。


石上には、石上氏の本姓である物部氏が、神代の昔から祭ってきた古い社である石上神宮がある。


社殿を囲む鬱蒼とした深い森には、容易に人の足を踏み入れさせない神聖な力が漲っていた。


その鎮守の森の片隅にある、社殿と同じくらい古い小さな館。母は物心ついた時にはそこにいて、ただ一人の年老いた乳母だけに見守られて大きくなったのだという。


館では、ただ単に媛君ひめぎみとだけ呼ばれていた。その呼び名からして、母はそれなりの身分の人の娘だったのだと思うが、母を訪ねてくれる身内の人間は誰一人としていなかった。


唯一時々顔を見に来てくれたのは、堅魚の父である麻呂だけ。そして、その麻呂がいつの頃からか、母の元へ夫として通ってくるようになったのだそうだ。


父にも乳母にも、母は自分の身の上について何度も尋ねてみたのだという。だが、二人とも母の問いには一切答えてくれなかったらしい。


母はその孤独な館で、ただ父の訪れを待つだけの寂しい日々を過ごした。そして、堅魚らを生み、結局一度もあの古い森の神域を出ることのないまま、ひっそりとその短い生涯を閉じたのである。


母の葬儀に、父は来なかった。


そして、母の死後も、堅魚と弟の諸魚は石上のその館に留め置かれたままだった。母親が死んでその親族がいないのなら、子供たちは父親の手元に引き取られるのが常なのに。


生まれたばかりの弟に乳を与えるための新しい乳母と、堅魚の学問の師となった守役の老人がやってきたこと以外は、堅魚の生活には何の変化もなかった。


だが、堅魚にとって幸いだったのは、その守役が暖かい人柄と豊かな学識を持つ人物だったことだ。


守役は石上神宮の神官の家の出で、若い頃は都に出てずいぶんと学問の修行を積み、一時は大学寮の博士を勤めていたこともあったのだそうだ。


そして、麻呂から堅魚の養育を任されたのを喜び、堅魚に自分が知っている限りのことを教えてくれたばかりでなく、守役として以上の愛情を堅魚に注いでくれたように思う。


父に全く省みられなかった堅魚が、何とか健やかでそれほど道にはずれずに育ったのも、この守役のおかげだったのかもしれない。


守役は石上へ戻ってきたのをさいわい、自分の先祖や故郷の伝承についてまとめようと思いついたらしい。それで、堅魚の世話や勉学の相手の時間を除いては、一日中石上神宮にある宝物や書物の類いを調べていた。


堅魚もいつしかそれらに興味を覚え、一緒に宝物を分類して手入れしたり、古い書物を修復したり写し直したりするようになった。


母と同じく、堅魚も石上神宮の神域を出ることを許されていなかったから、堅魚は来る日も来る日も自分の館に篭り、ただ勉学のみを友として大人になったのである。

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