第二章 -1-
なだらかな緑濃い山々が、龍の背を思わせるようにどこまでも続いている。
出雲の自然は、雄大な中にも、どこか穏やかで瑞々しい静寂に満ちていた。
それは、この地に縁の深い神々のうち、恐ろしい八岐大蛇を退治したという素戔嗚尊よりも、毛皮を剥がれて泣き苦しむ白兎を助けた心優しい大国主命を思わせる。
筑紫から浦伝いに長門、石見と東行した堅魚は、出雲の沖合いに着くと船を止めてもらった。できるだけ人目につかないよう、ここからは小船を出してもらおうと思ったのだ。
そう申し出ると、官船の船長は快く承知してくれた上に、供の者をつけようかとまで言ってくれた。だが、このような極秘の旅には、一人の方がかえって身軽で良い。
その代わり、船長からはこの辺りの地図を貰い受けた。出雲の山河や海岸の浦や浜、大きな道や町の在り処が、名前とともに墨で大まかに書かれてあるだけの素朴なものだが、それでも何の知識もない堅魚にはありがたい。
それによると、古麻呂の言った楯縫郡は、出雲国北部の真ん中に位置していた。高善史のいるという郡家は、その郡内でも出雲国独特の巨大な入海(注)に面した辺りに置かれているようだ。
堅魚は船長に礼を言い、更に目立たないよう日が暮れるのを待ってから、小船で一人出雲の地へ降り立った。
地図によれば、堅魚が小船を降りた場所は去豆浜といい、ここから郡家までは十里余りの道のりのようだ。方角は、ほぼ真東。
幸い、今宵は晴天で、夜空には星々がはっきりと見える。
堅魚は小船を官船へ帰すと、一人で出雲の奥地へ分け入った。
そして、人里を避けて山裾伝いに歩を進め、時折星を頼りに方角を確かめながら郡家を目指したのである。
夜明け近くになってようやく、堅魚は一筋の川に辿り着いた。
この都宇川を渡って少し行った辺りに、楯縫郡の郡家があるはずだ。
堅魚はほっとして額の汗を拭った。
夜通し歩き続けたせいで、顔は埃と夜露にまみれている。両足は疲れきって、少し熱を持っているようだった。
川岸には、一本の大きな柳の木が立っている。その下には平らな飛び石がいくつか置いてあり、浅瀬を伝って向こう岸まで渡れるようになっていた。
山の端に朝日が昇り始め、川面には薄い朝霧が立ち込めている。
飛び石の周りを渦巻く水は清らかで、堅魚は思わず喉を鳴らした。あの冷たげな水を飲み干し、顔を洗って足を濯げば、どれほど気分がさっぱりするだろう。
堅魚がそう思って、水辺に下りようと側の柳の幹に手をかけた、その時だった。
鋭い音がして、何かが堅魚の目の前をかすめ飛んだ。
それと同時に、幹の上の左手に微かな衝撃が走る。
堅魚が驚いて自分の左手を見ると、親指からほんの二寸ほど離れた幹上に、鳶色の羽のついた矢が一本突き刺さっていた。
堅魚は肝を冷やして辺りを見回した。
朝霧の向こうの対岸に、弓を構えた馬上の人影がある。
それは、微動だにせず、こちらを見つめているようだった。だが、こちらが動けば、また容赦なく矢を射掛けてくるだろう。
堅魚は諸手を挙げ、その人影に向かって叫んだ。
「怪しい者ではない。どうか、弓を射るのは止めてくれ」
*注「入海」……宍道湖のこと。