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短編まとめ

星姫物語

作者: 山下真響

再掲ですが、よろしくお願いいたします。






 目が覚めるような赤だった。帝が住まう御殿の庭に咲く花のように艶やかで、死ぬるまで纏うことができるのは都の貴族と星姫ほしひめのみ。深緋(こきあけ)とも呼ばれるその色の大袖には同じ色の小袖と、白緑(びゃくろく)青竹(あおたけ)青碧(せきへき)といった縦の縞模様に纐纈(こうけち)の文様が入った()を合わせている。浅葱(あさぎ)(ひらみ)に至るまで、全てに赤子の肌よりも滑らかな布が使われており、紕帯(そえひも)には金糸まで織り込まれていた。女官の衣装を元にしたものとは言え、下々の民草からすれば贅の限りを尽くした衣装なのである。


 七番目の月の七日目。今年も大切な宮中行事が行われようとしていた。(けが)れを祓い、五穀豊穣を祈るのだ。昨年は大飢饉が起こり、多くの民が生命を落として、数々の村が廃墟と成り果てた。都には地方から税として納められるはずの品々が届かなくなり、傲慢で利己主義な貴族達の中にも流行り病で倒れる者が増えている昨今。今生帝に物の怪が取り憑いたとの噂が都中を駆け巡って久しいが、あながち嘘ではないことを星姫は知っている。


 今年の星姫であるナツメは、うら若き乙女。宮中行事を執り行う御役目を授かっている。恐ろしい程に豪華な衣装を着せつけられて、その時を待っていた。肩から垂らしてある領巾(ひれ)と呼ばれる細長く薄い布の端をぎゅっと握り締め、神妙な顔つきをしているが、頭の中では夢に現れる男のことが気にかかって仕方がない。幼い頃から繰り返し見る同じ夢。それは恐ろしいわけでもなければ、楽しいわけでもない。そこには空虚な時間が流れている。貴族のように身なりの良い男が現れて、ナツメに何かを告げるのだ。宮中に上がってからというもの、毎晩見るようになっていた。


「星姫よ。分かっておるな」

「はい」


 やってきた年嵩の女官は、足元でうずくまるナツメを一瞥すると、小さくため息を漏らした。外は日が沈みかけて、赤黄色の澄んだ空に薄く長い雲が棚引いている。無事に晴れそうだ。儀式は晴れた夜でなければならないとされている。


 飢饉で荒れ果てた村に住んでいたナツメは、人買いに攫われてこの都にやってきた。そのまま、とある貴族の慰み者になるはずが、なぜだか星姫の候補として宮中に入れられてしまった。ナツメを買った貴族は、星姫候補を帝に献上することで、国に貢献するという体をとり、自らの地位の責務を果たしたのだ。


 当初、候補はナツメの他にも何十人といた。殆どがナツメのような出自の者で、栄養不足や宮中における行き過ぎた躾の結果、日に日にその数を減らしていった。最終的には残ったのは僅か八人。ナツメは凡庸な面立ちだが、身綺麗にして清潔な衣を纏えば貴族の子女と遜色ない見目になったことと、常に控えめに振る舞い、宮中における暗黙の了解や年嵩の女官の言いつけにも素直に従うことで、その身をどうにか守り抜くことができていた。貧しい村で培われた健康な身体も役に立っていたのだろう。一方、亡骸となった若い女達は、毎日決まった時間にどこかへ運ばれていく。見送るナツメは、胸元に野犬の鋭い爪で引っ掻かれたかのような痛みを感じていたが、次第にそれにも慣れていく己が何よりも怖かった。


 八人の中からナツメが選ばれた理由は単純なものだった。戸籍を調べたところ、ナツメの誕生日は七番目の月の七日目だと記録されていたからだ。この国では七という数字がとりわけ大切にされている。七番目の月の七日に執り行う儀式の主役である星姫には、できるだけ七のつく験を担ぐべきだという声があがったのは自然なこと。ナツメはその身を儀式へ捧げることになった。


「選ばれたのは、この上なき名誉なことぞ」


 女官は、頭を下げたまま動かないナツメの手に、自身の手を静かに添えた。ナツメは、意外にも温かなその手に、この鬼のような女官も人間であったのだと思い、気づかれぬように口元を緩めるのである。


「この身が御代の為になるのであれば、それ以上の幸せはござりません」


 綺麗ごとは時に人を切り裂く刃となる。女官は眉間に皺を寄せた。模範的な回答ができるようにナツメを躾けたのは、その女官に他ならない。だが、半年以上も寝食を共にし手自ら育て上げてきた娘のような女が、今夜その手を離れ、あちらの世へと旅立っていく。多少なりとも思うところがあるが故、これは女官なりのけじめと(はなむけ)なのだ。


 ナツメ以外の星姫候補は皆、高位の貴族に下賜されることになった。こうなることは分かっていたため、星姫候補は皆生き残りをかけて鎬を削ってきた。最終的な星姫として選ばれることは外れ(くじ)なのである。


 女官は、自身も冷たい板張りの床に身を屈めると、ナツメの顔を覗き込んだ。


「最後に申したいことはないかえ」


 不気味な程に優しげな声。ナツメは長い睫毛をゆっくりと持ち上げて、黒曜石のような瞳を女官に向けた。輪を作るようにして緩く結い上げられた黒髪は、兎の耳のように揺れて軽くしなった。


「毎晩夢を見るのです」


 もうここまで来れば、変な話をすると叱られて、硬い扇が飛んでくることはないだろう。ナツメはそう考えて口にしたものの、結局最後まで話すことができなかった。


 夢に出てくるのは細面の凛々しい男で、いつもナツメに助けを求めるかのような仕草をする。何かナツメに伝えようとしているようなのだが、聞こえるのはどこまでも広がる『無』の音のみ。不自然な程に静かで真っ白な場所に二人はいるのだ。男はこちらに来いと手招きをしているが、ナツメはいつも墨を流したような霧に阻まれて、近づくことさえままならなかった。


 このようなことが続くと、遠からず夢がうつつになるのではないか。期待とも予感とも分からぬ何かの兆しを感じてはいたものの、ついに儀式当日を迎えてしまった。


 ナツメは死ぬことを怖がってはいない。死はあまりにも身近になり、ただ皆の元へ行くだけだと考えている。しかし、それとこの世における心残りとはまた別の話であった。


 ナツメは、夢に出てくる男に一度で良いので触れてみたいと思っていた。ナツメは夢の中で男に日常の話をした。女官のこと。覚え立ての古い歌のこと。住んでいた村のこと。年に一度だけ行われていた祭りの話。幼い頃に遊びに行った森深くにある池の畔での思い出。家族のこと。男は時折小さく頷きながら、ナツメの声に聞きいっているように見受けられた。


 そうなると、ナツメの男に対する思いはより強くなっていく。強くなればなるほど、ナツメと男の距離は遠くなる。儀式の練習で織り上げた布が夢にまで現れて、それがナツメの身体を縛り上げ、身動きがとれなくなるのだ。力を振り絞って手を伸ばしても、すぐに強い風が吹き荒れてどこからか黒い霧が立ち込め、男の顔を隠してしまう。まるで、御簾越しにしかまみえることができないかのような、絶対に超えられない隔たりがそこにはあった。だが、男とは目が合い、語り合うことができるのだ。男の瞳はいつも熱を帯びている。触れていないはずなのに全身で互いの身体を受け止めているかのようで。いや、むしろナツメが男であり、男がナツメであるかのような一体感がある。無条件に恋焦がれてしまうのだ。ずっと昔からの知己であり、未だに何者か分からぬその男には、何らかの縁を感じて仕方の無いナツメであった。


 もしかすると、男がこの現し世で本当にナツメを訪ねてくるようなことがあるかもしれない。しかしナツメは、間もなく儚きものとなるのだ。女官に何か言伝を頼もうかなどと大胆なことを思い立ったが、どんな男かなんて説明のしようもない。以前、教養のために宝物殿に収められている絵巻物を見る機会があったのだが、そこに描かれていた男よりも美しかったと言えば、頭がおかしくなったと判断され、宮中から追い出されてしまうだろう。同じ亡骸になるにしても、飢餓による終わりを待つよりも、星姫としてその時を迎えた方が良いに決まっている。


 女官はナツメが言葉を詰まらせたので、もうしまいかと考えて立ち上がった。手を軽く二度打つと、乾いた音が辺りに響く。すぐに別の女官が数人現れて、ナツメの背後に控えた。


「この儀式が成功すれば、帝の病も治り、国の行く末も必ずや明るきものとなるであろう。其方そなたは其方が成すべきことを成すのじゃ」


 帝は大飢饉の前後からずっと臥せっており、高名な僧が百日間も祈祷を上げても容態は優れないまま。実質的に帝が不在になった朝廷は、私利私欲に目が眩んだ貴族が思うままに政をなし、地方の役人の腐敗も進んでいると聞く。国が傾くのも無理はない。真の物の怪は人間であり、人間を巣食っているのは不安や恐れ、妬みや嫉妬、恨みや辛み、忍び寄る死の足音だ。儀式の成功が、人々にそれを忘れさせてくれるような契機となり、帝も病から解き放たれるのならば、どこかで生きているかもしれないナツメの兄弟の暮らし向きも幾分良くなるかもしれない。


 ナツメは畏まって返事をすると、女官に促されるままに立ち上がり、表にある長い廊下へと進み出た。一行の歩みに合わせて、木の軋む音と、ナツメの頭に付けられた冠の飾りが揺れる音が一定間隔で鳴り響く。神に、星姫が儀式の場に向かっていることを知らせているのだ。


 廊下は、ある場所から両側が朱色に塗られた柵に変わった。ここからは神域とされている。神官や役人が廊下の脇にある広い庭に集まり、篝火かがりびもたかれていた。儀式が行われるのは海に向かって張り出した奏織殿そうしょくでんと呼ばれる御殿。部屋一つ分ぐらいの小さなもので、吹けば吹き飛ぶような粗悪な造りではあるが、柱や屋根に彫り込まれた装飾の数々は有名な職人によるもの。この儀式のために一年近くも前から少しずつ建設されて、この程ようやく完成した。廊下の先は奏織殿へと繋がっていて、ここからはナツメ一人が歩いて向かうことになっている。


 ナツメは練習通りに衣を捌いて体の方向を変えると、女官たちに完璧な礼をとった。女官たちや神官達はそれに呼応して、一斉に礼をする。ナツメがこの世に別れを告げた瞬間であった。


 ナツメは奏織殿の扉を内側から閉めると、中に置かれてある織機の腰掛けに身を落ち着かせた。横を見ると、海に面した方角には壁がなく、天井からは神域を表す白く細長い紙が垂れ下がって揺れている。海は凪いでいて、月明かりが映り込み、ちらちらと白く光っていた。これからナツメは三日間かけて布を織らねばならない。この国から穢れを祓うための祝詞を唱えながら、色鮮やかで緻密な吉祥柄を作り上げていくのだ。これは神を讃え、万物に感謝を捧げ、御代が永く栄えるように祈願するための大変目出度い柄である。機織りは、毎日欠かすことなく練習を積んできた。全ては身体が覚えている。ナツメは身体が動くままに任せた。もはやそこに自分の意思はない。月明りに照らされたナツメの白い腕が、織機の上で踊る。冠の飾りが織機と共に音を奏でる。それにナツメの声が乗る。


 気づけばいつの間にか外が明るくなって、また暗くなっていた。ナツメは火打石で小さな火をおこすと、篝火にそれを移す。水瓶から竹筒で温い水を掬い、少しだけ口に含んだ。




 ナツメは布を織りながら夢を見ていた。


 あの男が現れたのだ。もう風や霧に阻まれることはなかった。海の水面の上に浮かび立ち、じっとナツメの手元を見守っている。もう、手招きは一切しない。どこか安心しきった面立ちで佇んでいた。それを見たナツメもまた、これまで感じたことのないような安堵感に包まれるのである。




 三日が過ぎた。


 ナツメがそれに気が付いたのは、奏織殿の外からの騒めきだった。ちょうど奉納用の布は出来上がり、ナツメはふらふらと奏織殿の扉を押し開ける。目の前は、見渡す限り人で埋め尽くされていた。宮中にいるほぼ全ての人間が出揃ったのではないかと思えるほどの集まり様だ。ナツメは突き刺さる視線を避けるようにして頭を下げると、出来上がった布を空に向かって高く掲げた。そのまま跪いたナツメに神官が近づいてくる。


「ここに七の祈りの織り布あり」


 神官はナツメの手から布を取り上げて、高らかに叫んだ。群衆は同じ言葉を繰り返す。


「星に尋ねむ御代の行く末」


 別の神官がこう告げると、ナツメの前には黒くて大きな皿と水瓶が運ばれてきた。これから占いが行われるのだ。


 水瓶には神が宿るとされている笹の葉が数枚浮かんでいた。ナツメは水瓶から竹で作られた柄杓で水を掬うと祝詞を呟く。織り布の上に置かれた黒い皿へその水を流し込むこと七回。いつの間にかナツメの周囲にあった篝火は全て消し去られ、黒い皿の水面には満天の星空が映り込んでいた。その中には、一際輝く星が二つある。それをみとめた神官は、吉兆が出ていることを高らかに告げた。辺りから歓声があがる。暗闇が沸き立って、魑魅魍魎ちみもうりょうまでが起き出してきそうなうごめきを見せる。事物のうねりがここから始まることをナツメは肌で感じ取っていた。


 儀式は終盤を迎えている。


 ナツメは、水面に映りこんだ右方の強い光の星を掬うようにして、皿の水を掠めとった。それを口に含んでゆっくりと飲み干す。左方の星も同じ様にして、星の息吹をその身に移す。神と会うための支度は出来上がった。これからナツメは神に限りなく近き場所へ行く。星姫がこの世の穢れを一身に背負い、灰になることで、御代の安寧は約束されるのだ。


 ナツメが皿の前から立ち上がると、白装束の女官が二人、ナツメの横に並び立ち、ナツメが纏う艶やかな衣を一枚一枚剥いでいった。白い衣一枚になると、その上からこれまた白い別の衣を何枚も重ねて着せつけられる。最後に神官から織り布を手渡されたナツメは、自ら扉を開いて再び中へと足を踏み入れた。


 目の前に広がる海は今宵も月明かりを映して神聖な輝きを放っている。薄暗い奏織殿の中。白装束になったナツメは、ぼんやりと浮かぶ蛍のように、今にも消えてしまいそうな危うい存在となっていた。魂は既に神の元へと歩み始めているのかもしれない。扉は神官が行儀しい所作で固く閉ざし、辺りは静寂に包まれた。集まった群衆は神官の合図で奏織殿から少し距離をとる。いよいよ、星姫と織り布を天の星々に住まう神々へ捧げる時がやってきた。


 松明に火が灯された。




 今上帝が即位したのは四年前のことだ。大飢饉が起きたのは、帝の唯一の肉親であり、後ろ盾でもあった祖父、左大臣を亡くしてすぐの頃だった。日々多くの者が帝に仕え、侍り、奉るが、帝はどこまでも孤独である。心の拠り所は、幼い頃から見続けている一つの長い夢。全て同じ夢なのだが、内容は物語のようにひと続きになっている。いつも見知らぬ少女が現れて、帝にものを申すのだ。少女が独り言のようにぽつぽつと喋ることもある。昔は草鞋わらじや籠を編むといった手仕事をしていたが、半年前からは機織りをしながら話すようになった少女。織り上げられた布は錦と呼ぶに相応しい仕上がりなのだが、なぜだか生きもののように動いて少女に絡みつくこともある。少女はいつの間にか美しい女性になり、帝は天から下された神の化身だと思うようになった。


 帝は夢を見る。夢を見るために、生きながらえているのかもしれない。夢が現になれば良いのにと思い始めた頃から、その身体は高熱を蓄えて、全く動けぬようになってしまった。


 帝は夢を見る。女性とまみえることで、自身がそこに存在していることを知る。もしかすると既にこれは現なのかもしれない。そうであれば良いのにと思った帝は、歌を詠んで女性に囁き続けた。泥水を啜り、砂利や石が転がる土の上で眠るような生活を朗らかに話す女性。まさかそんな下賎な女にここまで自分が入れ込むことになろうとは考えてもみなかった。しかし、誰よりも帝の傍にいて、誰よりも真の帝の姿を見続けてきたのがこの女性である。


 女性は、帝の言葉に毎度困ったように眉を下げるのだが、もしかすると音が聞こえない者なのではないかと思い立ったのは最近のこと。その落胆様といえば酷いものだったが、それならば、いや、さればこそ、女性に近づきたくて仕方がなくなった。訳の分からぬ病に臥せっていても、帝が望めば大抵の物は手に入る。だが、この女性だけはどうにもならなかった。自ら近づけないならば、女性を呼び寄せれば良い。毎日手招きをするが、女性との間には深い川が横たわっている。川と言っても水が流れているわけではない。恐らく、この世に存在するありとあらゆる闇がそういった形をとって、帝を遮っているのだ。


 そして七番目の月の七日目の夜がやってきた。本来ならば儀式に主賓として参加せねばならない身。しかし病は重く、蒸し暑い寝殿で独り横たわっていた。


 それは一瞬の出来事だった。全身に痺れにも似た衝撃が頭から足元へと走り抜け、気づいた時には病が消えたかのように身体が軽く感じられた。空を飛ぶ鳥のごとく翼が生えた心地なのだ。誰かが呼んでいる。帝はそれに引き寄せられるかのようにして、寝殿をふわりと抜け出した。


 辿りついたのは儀式が行われている奏織殿。なんと機織女は帝がよく知る女性であった。儀式に身を捧げる女は星姫と呼ばれている。帝は女性に向かって姫と呼びかけたが返事はない。女性は帝の存在をみとめているが、やはり音は聞こえない様子である。帝は星姫が布を織り上げるまでずっと海の上から見守っていた。


 再び、身体が重くなったのは、星姫が織り布を仕上げた瞬間だった。見慣れた寝所が目に映り、異常な程に汗が噴き出て床を濡らす。久方ぶりに自力で起き上がった帝に、隣の部屋で控えていた官吏が駆けつけてきた。


「儀式に参る。早く支度を」


 寝殿から奏織殿までは牛車で移動する。低い天井からぶら下がる紐を握りしめて、激しい揺れに耐える。帝の車が現れると、広場にはどよめきが広がった。人垣は右へ左へと分かれて道が出来上がり、帝は瞬く間に儀式を執り行っている神官の元へ辿り着いた。


 松明には、もう火が点けられている。


 帝は声を出そうとしたが、口から漏れるのはひゅうひゅうという掠れた吐息のみ。こうべを垂れて集まってきた位の高い神官に助けれ、牛車から降りた時にはもう、松明を掲げた神官が最後の祝詞を唱え始めていた。白装束の女官が祝詞に合わせて鈴を鳴らし、舞を舞っている。場が清めてられていく。朗々と続いていた神官の声が止んだと同時。松明の炎は奏織殿の木柱に添えられた。


 火はすぐに燃え移る。壁や扉、職人の技が光る大屋根に至るまで、あっという間に勢いよく炎が広がった。辺りが真っ赤に染まる。群衆の瞳に、大地に、その赤は宿り、燃やし尽くしていく。ぱちぱちと弾けるような音と共に時折空高くへ火花が吹き飛ぶ。まるで天が炎と共にこの世の災い全てを吸い込もうとしているかのように見えた。


 帝の視界はゆらゆら揺れる。全ては手遅れになってしまった。これが夢ならば、女性はまた帝という男の元に現れるかもしれない。だが陽炎のようにゆらめく目の前の風景は現であり、あの女性はこの炎の中にいる。帝は強い眩暈がして、すっと背後にその重心を移したが、突然現れた光に目を奪われてすぐに正気を取り戻した。


「御殿が光っているぞ」


 それまで静まり返っていた群衆から次々に声が上がる。赤く燃える御殿の内部から、この世のものとは思えぬ程に強い光、それも金色こんじきの色を成したものが漏れい出ているのだ。


 ついに、奏織殿の入口となる扉が焼け落ちた。途端に強い光が一直線に突き進んで、帝の姿を照らし出す。光の源には人が立っていた。いや、源が人なのだ。人は、扉があった方へと歩み寄る。奏織殿は半分程焼け落ちていたが、その光る人の周りには火の気が無い。あらゆるものを弾き返して、その人は守られている。


「星姫」


 初めにそう呟いたのは、鈴をもった白装束の女官だった。星姫と呼ぶ声は小波のように広がっていく。ナツメは、白装束の上に織り布を肩からかけて、無表情で立っていた。まるで神が乗り移ったかのよう。凛とした佇まいは人々を惹きつけて離さぬ妖しい美しさがある。織り布はとりわけ強い光を放っていた。


 有り得ないことが起こっている。


 それを最も実感しているのはナツメだった。自分が自分ではなくなっている。奏織殿に炎がついた瞬間、すっと頭上から涼やかな煌めきが降りてきたのだ。


 ナツメの光に照らし出された帝は、急激に身体が軽くなり、活力さえも感じられるようになっていった。落ち込んでいた目元も、痩せこけていた頬も、そのまだ若い年齢相応に膨らみ、血の気を帯びて赤みが差していく。瞳に、胸に、ほとばしみなぎってゆく。帝は、侍従が駆け寄ってきたのを振り払い、星姫に向かって力強い一歩を踏み出した。


 奏織殿はすっかり焼け落ちている。まだ小さな火を噴いている箇所もあるが、概ね炎はなくなって、神々しい光だけがそこにはあった。やがてその光は縄のような形に姿を変えて、星姫と帝を結びつける。帝の身体も同じく金色の光を纏い始めた。


「星姫」


 帝の呼びかけに、ナツメは仄かに笑みを浮かべた。あの男が、目の前にいる。あれだけ毎夜逢瀬を重ねてきたのだ。見間違えようもない。腹の底から何かが沸き上がってくる。それは元々ナツメの中に眠っていたもので、まるでずっとこの時を待っていたかのように開花してゆく熱くて赤い何か。男は、深い憂いを湛えており、その物腰はどこまでもたおやかだ。その真剣な眼差しに、ナツメはつっと胸を射抜かれる。


 ついに、男がナツメの前に現れたということ。夢の中ではナツメを縛り苦しめてきた織り布が、炎からナツメを守ったということ。これはもう、ナツメが現から離れて神の所へ参った証拠であるかのように思われた。しかし、男はあまりにもしっかりとした存在感を示している。ナツメは男の厳かな出で立ちに気圧されて、畏れのあまり指一歩動かせなくなってしまった。


 帝は、星姫の手を取った。同時に、二人を繋ぐ縄が絡まりあって太い結び目を一つ作る。見つめ合う二人。やんごとなき貴人と下賤の娘。夢でも現でもないその場所で、互いが互いの存在を真の意味で理解した。すると繋がった星姫の手と帝の手に全ての光が集中する。二人が眩い光に火傷をしそうな程の熱さを感じたその時、神官が高らかにこう告げた。


「神を宿せし星姫、ここに現れり」


 神官の声は天にも響き渡ったらしい。見る間に幾つもの星が煌めく長い尾を引いて流れ、二人の頭上に降り注いだ。星姫と帝の出会いを祝福するかのような神秘だと群衆は口々に声を上げる。一連の儀式における奇跡は、瞬く間に都から国中へと広がっていった。




 その後、星姫は帝の正室として入内。その生涯を終えるまで、毎年七番目の月の七日目には布を織り、国の安寧を祈念したと伝えられている。


 星姫のように身分の低い生まれであっても、見事な布を織る技術を身につけ、慎ましやかに過ごすことが出来れば、必ずや良縁に恵まれるとして、この星姫物語は永く語り継がれることになるのであった。









お読みくださり、ありがとうございました。





〈用語解説〉

纐纈(こうけち):奈良時代の絞り染めの一種。

():ひだのついた巻きスカートのようなもの。

(ひらみ):裙の下に着る下裳したも

紕帯(そえひも):腹に巻く飾り帯。

領巾(ひれ):首から肩にかけ、左右に垂らして飾りとする布。

赤黄色:オレンジ色のような色。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 新着の短編小説欄で見掛けて読ませて頂きました。 星姫と帝の出逢いが最終的に成ったわけですが、ハッピーエンドに落ち着いて良かったです。 [気になる点] 誤字・脱字等の報告 ①こうなることは分…
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