第66章ー第79章
第六十六章
船に乗ったとたんクーパーウッドは、自分も他の誰も、人生やその創造主のことを何も知らないと最後に認めながら、孤独を、精神的な孤独を、感じた。彼は今、何らかの理由で、自分に関係するこのすべての偉大で美しい謎に関わる変化に直面していると感じた。
ジェームズ医師に桟橋で会おうと電報を打つと、すぐに返事があった。「ニューヨークにようこそ。そこに会いに行く。敬具、モンテカルロのジェフ」クーパーウッドに笑いと平和な夜をもたらす内容だった。眠りにつく前に、紙とインクを取り出してベレニスに手紙を書いた。彼女はキャサリン・トレントという名前でSSキング・ホーコン号で旅をしていた。「私たちのたった一日の別れが、私には十数年よりもつらい。おやすみ、美しい魂よ、あなたがそばにいるだけで、私は慰められ、安らぎを覚えます」
日曜日の朝、クーパーウッドは前夜よりも元気がなくなり、体調不良を感じながら目が覚めた。使用人が着替えを手伝う頃には、体力の大幅な低下を感じた。実際、ベッドに戻って丸一日休むほどだった。最初、クーパーウッドはただくつろいでいるだけだと思われたので、ジェーミソンと、ジェーミソンの部下のハートリーと、身辺世話係のフレデリクソンとで構成される側近たちは不安を感じなかった。しかし、午後遅くなって、かなり気分が悪くなったので、ジェーミソンに船医を呼ぶよう頼んだ。キャムデン医師は検査後に華氏百五度の重病人と診断し、主治医に知らせて朝のうちに船に来てもらい、救急搬送の手配をするように勧めた。
この知らせを受けてジェーミソンは、アイリーンに、夫が重病であること、船からは救急車で移動させる必要があること、その先の手配をどうするのか彼女に提案があるか、と電報を打つ役目を引き受けた。すると、アイリーンはすぐに返事をして、クーパーウッドの自宅はアートギャラリーを増設するために改築中なので、騒音や混乱がひどいことを告げた。そこで、ウォルドルフ=アストリアに行くのが賢明だと考えた。そこなら適切な介護ができるし、明らかにクーパーウッドは快適でいられるからだ。
キャムデン医師がモルヒネの注射して患者を楽にさせた後で、ジェーミソンがクーパーウッドにアイリーンの返事の内容を伝えた。
「ああ、その方がずっといいな」彼は弱々しく言った。「手配してくれ」
しかし、全計画の頓挫と、このときひたることができた考えが、クーパーウッドを疲労困憊させた。自宅が! アートギャラリーが! 計画中の病院が! ロンドンと地下鉄の仕事に戻らなければならない! ふと、気がついてみたら、ベレニス以外のことは誰のことも、何も考えたくなくなっていた。
そして、船がニューヨークに近づいて着岸作業に入る朝まで、クーパーウッドはそのままだった。周囲の喧騒と動きで、到着しかけている事実に気がついた。
この時、水先案内船をチャーターしていたジェームズ医師は、SSエンプレス号がまだ湾内にいるうちに乗船した。所定の段取りについてキャムデン医師とジェーミソンに相談してから、クーパーウッドの船室に入った。
「やあ、フランク、ジェフのお出ましだ。どんな気分なのか、正確なところを知りたいな。適切な薬を投与できればすぐに回復すると思うんだ。だから、きみは何も心配しないでほしい。この私に、きみのモンテカルロの相棒に任せればいいんだ」
「きみが来てくれたんだから、ジェフ」クーパーウッドは弱々しく言った。「もう大丈夫だね」そして心から医者の手を握りしめた。
「救急車で、きみをウォルドルフに運ぶ手配をしたんだが」ジェームズは続けた。「それは構わないよね? 実際、そうする方がいいよ。きみの負担が随分軽くなるんだから」
「ああ」クーパーウッドは答えた。「私に異論はない。でも、せめてホテルに落ち着くまでは、新聞記者に悩まされないように手配してもらいたいな。きっとジェーミソンじゃ、連中の扱い方はわからないと思うんだ」
「私に任せてくれ、フランク。それは私がやるよ。きみにとって大事なのは、後で私がきみに話すまで何も喋らず休むことだ。どうせこれからは、私が面倒を見なければならなくなるんだ」
ちょうどそのとき、ジェーミソンが部屋に入ってきた。
「さあ、ジェーミソン」ジェームズ医師は言った。「まずは船長に会わないとならない」そして二人は一緒に部屋を出た。
四十五分後、下の通りで待機していた救急車が四番出口の占拠を許された。そこは、まるで下船を待っている乗客が誰もいないかのように空っぽだった。ジェーミソンの指示で、キャンバス地の担架を携えた二名の移送係がクーパーウッドの船室に向かい、彼は待機中の救急車に運ばれた。ドアが閉められ、運転手は鐘をならして走り去った。少し離れた位置にいた驚いた報道陣が次々に叫んだ。
「あれは何だ? 今回は裏をかかれたな! あれは誰だったんだろう?」
救急車で運ぶ必要があるほど容態の悪かった乗船者の正体を知ろうとする試みは失敗したが、船の看護婦の一人と親しいのを自慢しながら、記者の一人が、さっきのは有名な資本家のフランク・アルガーノン・クーパーウッドに他ならないという情報を持って戻ってくるまでに大した時間はかからなかった。しかし、どんな病気だったのか、どこに連れて行かれたのか、これは突き止めねばならない項目だった。ある記者がクーパーウッド夫人に連絡をとってみようと言うと、その場にいた数名が直ちに最寄りの電話に駆けつけ、SSエンプレス号から救急車で運び出されたのはご主人なのか、もしそうならどこにいるのか、とアイリーンに尋ねた。そうですとアイリーンは答えた。クーパーウッドは病気だった。後にニューヨーク市の所有物となる、追加の美術品や彫像のコレクションを収容する部屋を作るために、建物全体が改修中である事実がなかったら、彼は確実にクーパーウッド邸に運ばれていただろう。今の自宅では得がたい静寂と気遣いを得られるウォルドルフ=アストリアに運ばれたのは、クーパーウッドの希望でもあった。
したがって、同じ日の一時までに、クーパーウッドの到着と発病と、現在の所在についてのニュースが、市内すべての新聞の午後版に載った。しかし、ジェームズ医師は用心深かったから、面会は医師の書面による同意がない限り誰も許可されず、三名の看護婦が担当につけられた。
しかしクーパーウッドは、ベレニスが自分の発病についての不安なニュースを知るかもしれないと気がつき、ジェームズ医師にお願いして、まだ船にいる彼女に電報を打ってもらった。「私の病気についての記事はかなり誇張されている。すべてを計画通りに行ってください。主治医のジェームズ先生が、何をするべきかをあなたに知らせます。愛をこめて、フランク」
この電報がこれほど悲惨な知らせをもたらしたのに、ベレニスはクーパーウッドがとても元気づけてくれる電報を打ってくれたという事実のおかげで、何とか慰められた。それでも、ベレニスはこの病気の性質が定かでないのが気になって仕方がなかった。いずれにせよ、結果がどうであれ、自分の居場所は彼のそばだとベレニスは感じた。
それでも、午後遅く、船の大広間を歩いていて、ニュースの掲示板に貼られたニュースの貼り紙に驚いた。「アメリカの有名な資本家であり、ロンドンの鉄道界の大物、フランク・クーパーウッドがSSエンプレス号での航海中に倒れ、ニューヨーク到着後にウォルドルフ=アストリア・ホテルに搬送された」
この白黒の冷たい言葉に愕然として悲しくなったが、彼が自宅ではなくホテルにいると知って安心した。そこに部屋を予約してあったので、少なくとも、彼の近くにいることになる。しかしアイリーンと鉢合わせする可能性があった。そうなったら自分だけでなくクーパーウッドも大変なことになる。それでも当初の予定通りこのホテルに来て欲しいと頼むのだから、クーパーウッドは何らかの手立てを用意したに違いない。しかし、この新しい脆弱な社会的立場は、プライアーズ・コーブでの保護された隠れた暮らしとは完全に対照的だったので、これをやり遂げるのに必要な勇気や根気が自分にあるのか、ベレニスはこのとき疑問に思った。しかし、こういう困難や危険に直面しても、結果に関係なく、自分は彼の近くにいなければならないと感じた。クーパーウッドはベレニスを必要としていた。ベレニスはその必要に応えなければならなかった。
いったん決心がつくと、翌朝、船が接岸して、荷物を申告し次第、ホテルに直行し、そこでキャサリン・トレントという名前で落ち着いてチェックインした。しかし、ひとたび自分の部屋の私的な空間に入り込むと、ベレニスは自分の状況のさまざまな立場に向き合わされた。何をしようか? わかりきったことだが、アイリーンがすでに彼と一緒にいるかもしれない。しかし、ベレニスがこの問題を考えていると、ジェームズ医師から、クーパーウッドが会いたがっている、と電話がかかってきた。部屋は一〇二〇号室だった。ベレニスは心から感謝して、すぐに行くと言った。クーパーウッドは危篤ではないが、今は休養と安静が一番必要であり、数日間はベレニス以外の誰にも面会は許さないように命じた、とジェームズ医師は付け加えた。
部屋に着くと、ベレニスはそのままクーパーウッドの前に通された。クーパーウッドは枕を支えにして寄りかかり、顔色は悪く、かなり放心していたが、ベレニスが近づくと明るくなったのがわかった。かがみ込んでキスをした。
「あなた! ごめんなさいね。この旅はあなたに負担が大きすぎるかもしれないと心配してたのに。私ったら一緒にいてあげなくて! でも、ジェームズ先生が、これは深刻なものではないと保証してくれたわ。あなたは最初の発作から回復したのよ、だから気をつければきっと今度も回復するわ。ああ、せめてずっとあなたと一緒にいられたらいいのにね。私なら看護してあなたを健康な体に戻してあげられると思うわ!」
「いとしい、ベヴィ」クーパーウッドは言った。「あなたを見ると、私は気分がよくなるんです。あなたが私に会えるようにします。もちろん、今は世間がかなり注目しているから、あなたがあまり関わらない方が、私としても安心です。でも、ジェフにすべてを説明しました。彼は理解し、同情してくれます。それどころか、私に会う時間と場所についてあなたに連絡を取り続けます。知ってのとおり、ただ一人、全力で避けなければならない人がいます。でも、あなたが日々ジェームズ先生と連絡を取り合っていれば、私がここから出られるまで何とかできると思います。実際、私はやれると確信しています」
「フランク、あなたったらとても勇敢ね。わかってるでしょうけど、私はどんな立場でも、ここにいられたらうれしいわ。できるかぎり、慎重に慎重を重ねます。その間も、私はあなたのことを愛して、絶えず祈り続けるわ」ベレニスはかがみ込んでもう一度クーパーウッドにキスをした。
第六十七章
ニューヨークの地元紙によって最初に地元の読者に発表された、クーパーウッドが急病で倒れたというニュースは、全世界を驚かせた。これは銀行や銀行家は言うに及ばす、何千という利益と投資に影響し関係することだった。実際、彼が倒れた翌日、イギリス、フランス、そしてヨーロッパ中の主要な新聞社は、合同、連合通信社を通じて、ジェーミソンとジェームズ医師だけでなく、合衆国の著名な資本家たちにインタビューして、彼の死がどのような影響を及ぼすかについてコメントを求めた。
現に投資家の中には不安な意見や懸念の声がとても多かったので、ロンドンの地下鉄の残された経営者のほどんどが、クーパーウッドの病気の現実的な影響について自ら表明せざるを得なかった。一例をあげるなら、当時〈ディストリクト鉄道〉の会長代行で、クーパーウッドとはとても近い存在だったと言われたリークスの発言が引用された。「クーパーウッドさんの体調不良によっていつ生じるかもしれないあらゆる不測の事態に備えて、必要な手配はずっと前から講じてある。地下鉄の経営陣は」リークスは付け加えた。「一致団結しています。この偉大なシステムの今後の方針に関しては、混乱や障害は微塵もないと言っておきたい」
また、ロンドン鉄道設備建設会社の取締役ウィリアム・エドマンズは述べた。「すべてが完全に順調に機能しています。弊社はとても良好なので、クーパーウッドさんが病気でも一時的に不在でも支障は生じません」
ステイン卿はこうコメントした。「地下鉄は順調です。この業務は最初からクーパーウッドさんに管理されてきましたから、クーパーウッドさんがやむをえず不在になっても、システムに何ら重大な障害は起きません。クーパーウッドさんは偉大な組織人ですから、大企業を誰か一人の人間が必要不可欠なものにはいたしません。もちろん、私たちは皆、彼の速やかな回復と復帰を望んでおります。ここで彼は歓迎されているのですから」
ジェームズ医師は、こういう発表をクーパーウッドの目に触れないようにしてきたが、医者でもうまく抑えきれない、認めなくてはならない者が少しいた。一つ目は、クーパーウッドの娘のアンナと息子のフランク・ジュニアでどちらも何年も会ったことがなかった。子供たちとの会話から、クーパーウッドは自分の病気に対する世間の反応を感じ取ることができた。それは控え目に言うと、褒めてはいなかった。
二つ目はアイリーンだった。この頃のクーパーウッドは見た目も気力もとても弱っていたため、アイリーンは彼の容態にひどく動揺した。ジェームス医師は、どんな緊急の問題でも話し合うのはもう少し後まで待つように強く言った。アイリーンは医師の提案をすぐに受け入れ、配慮して最初の見舞いをかなり短時間で切り上げた。
アイリーンが去った後、クーパーウッドは精神的に追い詰められ、できれば彼が解決しなければならない問題として急病がもたらした、さまざまな社会的、経済的な側面を考えた。そのひとつが、現在やむを得ず空けている自分の職務を一時的に引き受ける人選に関するものだった。当然、最初にステイン卿を考えたが、多くの差し迫った問題を考えると、ステインは適任ではないと判断した。〈セントルイス電化交通〉の社長ホーレス・アルバートソンがいた。彼は以前の金融関係の知り合いで、アメリカで最も有能な鉄道の専門家の一人だった。こういう危機では、アルバートソンが完全に申し分のない相手だと感じた。そしてこれを考えついた直後にジェーミソンに、セントルイスにいるアルバートソンに会ってすべての問題を説明し、報酬は彼が自分にふさわしいと思う額でいいと指示した。
しかし、アルバートソンは、大変光栄だが、自分の仕事が絶えず増え続けているので、アメリカの戦場から退くことは考えられない、と言ってこの要請を断った。これは、クーパーウッドにとっては失望だったが、理解できたし、もっともなことだった。これが一時的にクーパーウッドを多少心配させたが、その日のうちにクーパーウッドもよく知っているハンフリー・バブス卿を一時的に事業の責任者に就任させたというステインとロンドンの地下鉄の取締役たちの電報を受けて安心した。この電報以外にも、エルバーソン・ジョンソンを含むロンドンの同僚から他にも数通届いて、病気のお見舞いと、一刻も早い回復とロンドン復帰を深く願っていると強調していた。
しかし、これほどの称賛があったにもかかわらず、クーパーウッドの心は、この時の自分のすべての問題がやや複雑で不吉な漂流を続けていることに悩まされた。一つは、彼の献身的な恋人ベレニスがここにいて、ジェームズ医師の協力と黙認を得ながら、夜か早朝密かに彼を訪ねる貴重な機会を求めて、大きな危険を冒していた。そして、ここにはアイリーンもいた……人生全般を理解しておらず、説明しようがないほど風変わりで気まぐれで……ベレニスがこのホテルにいるとも知らずに、彼女も時々クーパーウッドを訪ねてきた。クーパーウッドは生きる努力をしなければならないとは思ったが、努力しても体が衰えていくのを感じた。ある日、ジェームズ医師と部屋で二人っきりになったときに、これについて話し始めた。
「ジェフ、私が病気になってかれこれ四週間になる。一向に良くなっていないように感じるんだ」
「なあ、フランク」ジェームズはすかさず言った。「そういう態度でいるのはよくないな。元気になる努力をしないといけないよ。病は気からだ。きみのと同じくらい悪い症例にも改善した例はあったんだ」
「ああ、わかってるよ」クーパーウッドは友人に言った。「きみとしては、当然、私を励ましたいんだよな。しかし、回復しないだろうという気がまだしてるんだ。そんなわけだから、アイリーンに連絡してここに来てもらい、財産のことで話がしたいと伝えてほしい。しばらくこのことを考えていたんだが、もうこれ以上待たない方がよさそうだ」
「じゃあ、そうするよ、フランク」ジェームズは言った。「でもね、治らないって決めつけないでほしいな。そういうのはよくないんだ。それどころか、私はその反対だと思うよ。私に免じて、少し努力してもいいだろ」
「そうするよ、ジェフ、しかし、アイリーンに連絡してくれないか?」
「あれ、もちろんするよ、フランク、だけどね、あまり長話はだめだからね、忘れないでくれよ!」
そして、ジェームズは自分の部屋に戻り、そこからアイリーンに電話をかけて、夫に会いに来るように頼んだ。
「今日の午後、できれば三時頃、来てもらっても大丈夫ですか?」とアイリーンに尋ねた。
アイリーンはしばらくためらってから返事をした。「ええ、いいわ、もちろんです、ジェームズ先生」それから約束の時刻頃、アイリーンは動揺し、戸惑い、少なからず悲しんでやって来た。
クーパーウッドはアイリーンを見て、何年もの間しばしば彼女に対して経験してきたのと同じ疲弊を感じた。これは肉体的な疲弊というより美しさの疲弊だった。悲しいかなアイリーンには、ベレニスのような女性の特徴である希少な内面の洗練さが欠けていた。それでも、ここにいる彼女は依然として自分の妻であり、自分が最もそれを必要としたときに彼女が示してくれた優しさと愛情に対して、相応の配慮で報いる義務があるとクーパーウッドは感じた。そう考えると、アイリーンに対する気持ちがいくらか和らいだ。アイリーンが挨拶するとクーパーウッドは手を伸ばしてその手をとった。
「気分はどう、フランク?」アイリーンは尋ねた。
「実はね、アイリーン、私がここに来て四週間になり、医者は私がちゃんとよくなっていると考えているんだけど、私は自分がずっと弱っていることに気がついているんだ。きみに話しておきたいことがいくつもあるので、来てもらおうと思ってね。まず家のことで私に話したいことが何かあるかい?」
「ええ、まあ、少しはね」アイリーンは躊躇しながら言った。「でも、それが何であれ、あなたが良くなるまで待てばいいんじゃない?」
「でもね、アイリーン、私はもう良くはならないと思うんだ。そういうわけだから、今日、今、きみに会いたかったんだ」クーパーウッドは優しく言った。
アイリーンはためらい、答えなかった。
「いいかい、アイリーン、私は遺言の中で他の者、息子と娘にも残しているが、私の財産の大半はきみのところへ行くんだ。この財産を管理する大きな責任は、きみが負うことになる。これは大金だ。きみがこの仕事を自分でやれると思うかどうかを知りたいんだ。そしてやるのかどうか、私がきみのために遺言に書いた指示を忠実に実行してくれるのかどうか、をね」
「やります、フランク、すべてあなたの言うとおりにします」
クーパーウッドは内心ため息をついて続けた。「私はきみに全権を与える遺言を作った。だからこそ、誰かを過信するなときみに警告する必要があると感じるんだ。私が死んだとたんに、こういうわけだから、ああいうわけだから、この団体に、あの団体に何かしろと、あれこれ計画を持って、きみのところに来る連中がきっと大勢いる。私は、そういう連中がきみの承認を求めて、きみに提出するかもしれないどんな計画にも具申をするよう遺言執行者たちに指示することで、それに備えようとした。きみが判断することになるんだ。それが価値あるものなのかどうかを、きみが決めなくてはなりません。ジェームズ先生は遺言執行人の一人です。彼は私がその判断を信頼できる人物だからね。先生はすばらしい医療技術を持っているだけでなく、心も意志も善良な人なんだ。私は先生に、きみがアドバイスを必要とすることがあるかもしれないと伝えておきました。先生は自分の知識と能力の限りを尽くして、きみに誠実にアドバイスすると私に約束してくれました。このことは言っておきたいんだが、先生の尽力に対して私が遺産を残すと話したところ、きみのアドバイザーとして行動する気はあるが、金を受け取るのは断るほど、先生はとても正直な方なんだ。だから、もしどうしたらいいか自分が困ったと思ったら、まず先生のところへ行って先生がどう考えるかを聞いてみることだ」
「はい、フランク、ちゃんとあなたの言うとおりにします。あなたが信じる人なら、あたしも必ず信じます」
「もちろん、遺言には受益者が済んだ後で、配分されることになる特定の規定がある。そのうちの一つが、アートギャラリーの完成と維持なんだ。あの邸宅が現状のままの状態で残るようにしたい。つまり公共の美術館としてだ。私はその維持のために大金を残したので、できる限り最高の状態で維持されることを見届けるのがきみの義務になる。
実を言うと、アイリーン、あの場所が私にとってどれほど意味があったか、きみが理解していたかどうか私にはわからない。あれは、私がこの身を捧げなければならなかった終わりのない現実の問題をやり抜くのを、助けてくれたんだ。あれを建て、あそこのために物を買ったのも、私ときみの人生に、都市や仕事とは完全に無縁の美しさを取り入れようとしたからなんだ」
そして、クーパーウッドが話を続けるうちに、アイリーンはやっと、少なくともある程度は、そしておそらくは初めて、このすべてが夫にどういう意味を持っていたのかを理解した。そしてすべて彼の指示どおりにすると改めて約束した。
「もう一つある。それは病院なんだ。きみは私が長い間病院を作りたいと思っていたことを知ってるね。地価の高い場所に建てる必要はない。遺言では、かなり手頃なブロンクスが提案されている。さらに言うと、そこは貧しい人のためのものだ……他に行き場のあるお金のある人のためのものじゃない……そして、人種、宗教、肌の色のいずれも立ち入る権利とは無関係なんだ」
クーパーウッドがしばらく休む間、アイリーンは黙ってそこに座っていた。
「もう一つある、アイリーン。きみがこれをどう感じるか私には確信がなかったので、これまで言わずにきたんだ。私はグリーンウッド墓地に墓を建ている。もうじき完成するんだ。古代ギリシア様式を美しく再現したものだ。そこには青銅の棺が二つ入る。一つは私の分、そして、もしきみがそこに埋葬されることを選ぶのなら、一つはきみの分だ」
これを聞いてアイリーンは不安になった。クーパーウッドが自分の仕事をこなすのと同じように事務的に自分に迫る死を考えているようだったからだ。
「お墓がグリーンウッドにあると言うの?」アイリーンは尋ねた。
「そうだ」クーパーウッドは厳かに言った。
「すでに完成してるの?」
「私がすぐに死んでもそこに埋葬できるくらいほとんど完成している」
「まったく、フランクったら、あなたほどの変わり者はいないわよ! 自分の墓を建てるなんて……あたしの分まで……このまま死んじゃうって思ってんじゃないわよね……」
「でも、この墓はね、アイリーン、千年だって続くんだ」クーパーウッドはわずかに声を高ぶらせて言った。「それに、私たちはみんないつかは死ぬんだ。そこで私と眠りについてもいいじゃないか、もしきみさえよければだがね」
アイリーンは黙ったままだった。
「そういうことだ」クーパーウッドはしめくくった。「私たち二人にふさわしいと思うよ。特にそういう風に作られたわけだからね。だけど、きみがそこに入りたくないと感じるのなら……」
しかし、ここでアイリーンはクーパーウッドをさえぎった。「ああ、フランク、今はそんな話よしましょう。あたしがそこに入ることをあなたが望むのなら、あたしはそこに入るわ。わかってるでしょ」抑えたすすり泣きが声に現れた。
しかし、ここで、ドアが開いて、ジェームズ医師が入ってきて、これ以上の長話はクーパーウッドによくない、事前に電話をくれれば、別の日に来てもいいと告げた。アイリーンは夫のベッドのそばの自分が座っていた場所から立ち上がり、手を取りながら言った。「また明日来るわ、フランク、ほんのちょっとだけでも。もしあたしにできることがあれば何でもジェームズ先生に連絡させてね。でも、元気にならないとだめよ、フランク。そうなるって信じなきゃ。やりたいことがたくさんあるんでしょ。しっかりして……」
「ああ、わかったよ、アイリーン、最善を尽くすよ」クーパーウッドは手を振りながら言って付け加えた。「明日会おう」
アイリーンは向き直って廊下に出て行った。二人の会話を悲しみに暮れて考えながらエレベーターに向かって歩いていると、ちょうど女がエレベーターから出て来るのに気がついた。じっと見つめると、驚いたことに、その女がベレニスだとわかった。まるでその場に釘付けになったかのように二人は数秒立ちすくした。それからベレニスは廊下を横切り、ドアを開けて下の階に通じる階段に姿を消した。依然として釘付けのアイリーンは、クーパーウッドの部屋に引き返そうと決めたかのように向き直ったが、そうはせず、突然エレベーターと反対の方を向いた。しかし、何歩と進まないうちに足を止めて立ちすくした。ベレニス! このニューヨークに彼女がいる。明らかにクーパーウッドが頼んだのだ。あいつが頼んだに決まっている! しかも、今にも死にそうなふりまでして! この男の裏切りには限度がないのだろうか? 明日も来てほしいなどと、よくもぬけぬけと頼めたものだ! 一緒に眠ることになる墓の話までするなんて! よりによってあいつと! さあ、今度こそ終わりだ! 一日に千回電話をかけてきたって、二度と再びこの世であいつに会うものか! 使用人たちには、夫やその共犯者のジェームズ医師、あるいは彼らの代理を装う他の人物からの電話をすべて無視するように指示しよう!
エレベーターに乗る頃には、アイリーンの心は精神的な嵐の中心であり、怒りの波を激突させて轟く台風だった。この悪党のことを新聞に教えてやろう。散々尽くした妻を裏切り恥をかかせたことを! いずれ借りを返してやる!
ホテルを出ると、急いでタクシーに乗り込み、車を出せ、とにかく出せ、と嵐のように運転手にせっついた。その一方で、願わくば、呼び出せる限りの疾病のすべてが、クーパーウッドに降りかからんことを、降りかかりたまえ、と三倍の長さのロザリオを唱えるように心の中で繰り返した。そして、走っているうちに、アイリーンの震えるほどの怒りはすぐにベレニスに戻った。
第六十八章
一方、ベレニスは自分の部屋にたどりついて、そこでぼけっと座り込み、自分に考える力がなくなっていることに気がついたが、クーパーウッドと自分のことが心配でたまらなかった。アイリーンは彼の部屋に戻ったかもしれない。それは今の彼にどれほどの悪影響を与えるだろう! 実際に死をもたらすかもしれない! 彼のために何もできないのは、どれほどつらいか! 最終的にベレニスは、ジェームズ医師のところに行って、アイリーンのこの危険で無慈悲な態度を打ち破る方法を尋ねてみようと思った。しかし、また出くわすのではないかという恐怖に引き戻された。ひょっとしたら、アイリーンは廊下かジェームズ医師の部屋にいるかもしれない! この状況は次第に耐え難いものになり、最後に実用的なアイデアが出た。電話のところに行って、ジェームズ医師にかけた。ジェームズが出たのでベレニスはほっとした。
「ジェームズ先生」声を震わせて話し始めた。「ベレニスです。もしよろしければ、すぐに私の部屋まで来ていただけないでしょうか? 大変なことになりました。すっかり動揺してそれが治まらないので、先生に相談しないとなりません!」
「いいですとも、ベレニス。すぐに行きますよ」ジェームズは答えた。
それから、ひどく不安げな声でベレニスは付け加えた。「もし廊下でクーパーウッド夫人を見かけたら、くれぐれもここまで後をつけられないでくださいね」
しかし、ここで声が途切れた。ジェームズは危険を察して、急いで電話を切り、診療セットを持って、ベレニスの部屋に直行してドアをノックした。ベレニスはドアの陰からささやくように応えた。
「先生、お一人だけですか?」
一人だけだと告げると、ベレニスはドアを開けた。ジェームズは中に入った。
「どうしました、ベレニス? 一体、これは何ごとですか?」ろくに愛想もなく、同時に相手の真っ青な顔を観察しながら尋ねた。「どうして、そんなにおびえてるんだい?」
「ああ、先生、うまく話せません」ベレニスは実際に恐怖で震えていた。「クーパーウッド夫人なんです。廊下に出たとたんにそこにいた夫人と鉢合わせしたんです。むこうも私を見ました。その表情があまりにもすさまじかったので、フランクが心配なんです。私と別れてから、彼女がフランクに会ったかどうか、ご存知ですか? アイリーンはフランクの部屋に戻ったかもしれない気がするんです」
「それはないな」ジェームズは言った。「私はそこからここに来たんだから。フランクは大丈夫、何ともないよ。だが、こっちは問題だ」ジェームズは薬箱から小さな白い錠剤を少しとり、ベレニスに一錠渡した。「これを飲んで、しばらくは何も喋らないことだ。そうすればあなたの神経は落ち着きますよ。それからすべてを話せばいい」ジェームズはソファーの方へ行きながら、ベレニスに自分の横に座るように言った。ベレニスは徐々に落ち着きを取り戻している兆しを見せた。「さあ、いいかい、ベレニス」ジェームズは言った。「ここでのあなたの立場がとても厄介なものであることはわかっている。あなたがここに来たときから、私はそれを知ってたけど、なぜそんなにピリピリするんだい? クーパーウッド夫人があなたを個人的に攻撃するとでも思うのかい?」
「いえ、ちがいます、自分のことは心配してません」ベレニスは前より冷静に言った。「私が本当に心配しているのはフランクのことです。このところ、ずいぶん具合が悪く、衰弱し、無力です。生きていたくなくなるくらいひどく傷つくことを、アイリーンが言ったりやったりするかもしれないのが心配なんです。フランクはアイリーンに、とても寛大に、善意で向き合ってきたんです。そして、今、彼が憎しみではなく愛を必要としているときに、彼がアイリーンのためにすべてのことをしたというのに、アイリーンは、私には何だかわかりませんけど、フランクが病気をこじらせるかもしれないようなとてもひどいことをやろうとしています。アイリーンは嫉妬するといつも自分の感情をコントロールできなくなるとフランクは何度も私に話してくれました」
「ええ、私も知ってます」ジェームズは言った。「彼はとても偉大な男性だが、間違った女性と結婚してしまった。本音を言うと、私はこういうことを恐れていた。あなたが同じホテルにいることは賢明ではないと思った。しかし、愛は強い力です。それに、私はイギリスにいたときに、あなた方がどれほどお互いを深く思いやっているかを見ました。彼が奥さんとうまくいってなかったのは、多くの人と同じように私も知ってましたからね。ところで、あなたはアイリーンと何か言葉を交わしましたか?」
「いいえ」ベレニスは答えた。「エレベーターを降りたときに、会っただけですが、向うが私だと気づいたときの怒りと反発は本物で、私はそれを全身で感じました。もしできるのなら、アイリーンは私たち二人に何かひどいことをするかもしれないと思いました。それより、私は彼女がフランクの部屋に戻るかもしれないことを心配したんです」
ここでジェームズ医師は、この嵐がおさまるまで部屋にこもり、自分から知らせがあるまで待つようベレニスに勧めた。何よりも、ジェームズの指示どおり、クーパーウッドに再会しても、このことは一言も彼の耳に入れないことにした。容態が悪すぎて到底それには耐えられないからだ。とりあえず、ジェームズは気長に説明したように、クーパーウッド夫人の怒りに立ち向かって、夫人が公に何をやり何を言おうとしているのかを、可能であれば、見極めるためにも電話をするつもりだった。それから、ジェームズはベレニスと別れ、問題をよく考えるために自分の部屋に行った。
しかし、アイリーンに電話する余裕もなく看護婦の一人が部屋に来て、クーパーウッドを見に来てくれませんかと尋ねた。いつもより落ち着きがないようだった。ジェームズが行くと、クーパーウッドが居心地悪そうに、ベッドで動き回っているのに気がついた。そして、アイリーンとの面会はどうだったかと尋ねると、彼は弱々しく答えた。
「ああ、すべてうまくいったと思う。少なくとも、最も重要な点を確認したよ。だけど、何だか、ジェフ、長話をしたせいか、とても疲れた気分だ」
「それは私も予想してたことだ。次回は、こんなに長く話さないでくれよ。さあ、こいつを飲みなさい。これでしばらく休めるでしょう」そう言ってジェームズは、コップ一杯の水と粉末をクーパーウッドに渡した。医師が話を続ける間に彼はそれを飲み込んだ。「さて、今のところはこれでよし。午後、もう少ししたら、様子を見に来るからね」
それから、ジェームズは自分の部屋に戻り、アイリーンに電話をした。その頃には帰宅していた。メイドからジェームズの名前を告げられると、アイリーンはすぐ電話に出た。ジェームズは最も丁寧な口調で、ご主人との面会がどうだったかを知りたくて電話をしていると告げて、何か手伝えることはないか尋ねた。
話をするアイリーンの声は怒りで制御できなくなっていた。
「もしもし、ジェームズ先生、もしよろしければ、もうあたしに電話しないでいただけるととても助かるんですけど。あたしはやっと……ロンドンとここで……いわゆるあたしの主人とフレミングさんの間に何があったのか、わかりましたから。あの女が向こうで主人と暮らしていたことも、今だってあなたの目の前で、明らかにあなたが協力し承知の上で、主人と暮らしていることも、わかりました。それなのに、あなたはあたしが主人と満足いく話ができたかどうか、知りたいんですね! おまけに、あの女が同じホテルに隠れていたなんて! こんなひどい話はこれまで聞いたことがありません。さぞかし世間が喜んで聞きたがる話よね! まあ、楽しみにしてらっしゃい!」それから、怒りで声をからしながら付け加えた。「あなたは、お医者さまでしょ! 正しい生き方に関心があるはずの人が……」
ジェームズ医師は、アイリーンの怒りの激しさを感じながらも、何とか話をさえぎって、強引だが冷静に言うだけのことは言った。
「クーパーウッド夫人、あなたの批判は当たりませんな。私は自分に関係のない状況を判断するためじゃなく、専門的な能力を買われてこの件に呼ばれたんです。それに、私のことにしてもそうだが、ろくに知らない人についての人の動機を判断する権利なんてあなたにはありませんよ。あなたが信じようが信じまいが、あなたのご主人は重病なんです。もしあなたがどんな話であれ新聞にばらすなどという大きな間違いを犯したら、ご主人やご主人の関係者を傷つけるよりも、その千倍は自分を傷つけることになりますからね。何しろ、ご主人には強力な友人だけでなくて、崇拝者がいますから、ご存知でしょうが……友人がたは、あなたがなさろうとしている行動にえらく憤慨するでしょうし、ご主人を裏切りませんからね。もしご主人が亡くなたら、まあ、そうなるかもしれませんが……あなたが考えているような公然とした攻撃がどう受けとめられるか、自分で判断してみることですね」
この痛烈な言葉は、それほど遠くない過去に自分が犯した軽率な行為の数々をアイリーンに思い出させた。話しているうちに震えんばかりだった声が急に多少勢いを失った。
「あたしは、こういう問題の私的な側面について、あなたとも、他のどなたとも議論したくありません、ジェームズ先生、何が起きようと、主人に関することはどんなことも二度とあたしに電話しないでください。どうせ、フレミングさんが見舞いに来て、あたしの主人を慰めてくれるんでしょ。あの女に任せなさいよ。そして、あたしには電話しないでください。みじめな関係にはうんざりなのよ。これが最後よ、ジェームズ先生」ここで電話がチンと鳴った。アイリーンが電話を切ったのだ。
電話に背を向けたとき、ジェームズ医師の顔にかすかな微笑みが浮かんだ。ヒステリーの女性に接してきた長年の専門的な経験から、アイリーンの怒りの力がベレニスに会って数時間経過したので消耗したのを知っていた。結局、ジェームズも知っていたように、これはアイリーンにとって新しい話ではなかった。どうせ、アイリーンの虚栄心が自由に公言させまい、とかなり確信していた。過去にそうしなかったのだから、今回もしないだろう、と感じたのだ。ジェームズはこうして自信満々にベレニスのところへ行って報告した。見たところ、彼女はまだ緊張していて、彼からの知らせを待ちわびていた。
アイリーンは吠えるだけで噛みつきゃしないと思うと説明を続ける間ジェームズはずっとにこにこしていた。アイリーンはジェームズとクーパーウッドとベレニスをさらし者にすると脅したが、話すだけ話したら彼女の怒りはおさまり、もう激発することはなさそうだ、と確かな感触を持ったからだ。アイリーンは二度と夫に会わないと最後に宣言したので、ベレニスに世話を頼まなければならなくなったように見えた。そして二人は一緒にクーパーウッドに病を乗り越えさせられないかを確かめるつもりだった。ベレニスは四時から十二時までの夜の看護を受け持ってもよくなった。
「ああ、何てすばらしいことかしら!」ベレニスは叫んだ。「彼を助けるために私にできることはすべて喜んでやるわ……私にできることは何でも! だって、先生、フランクは生きていなければならないんです! 元気になって、自分が計画したことを自由にできなくてはならないんです。そして、私たちが彼を助けなくてならないんです」
「そうしてくれると、とてもありがたいよ。彼はあなたのことをとても気にかけていますからね」ジェームズは言った。「あなたが世話をすれば、間違いなくぐんと良くなるでしょう」
「ああ、先生、私の方こそ先生には感謝しています!」ベレニスは両手で相手の両手をとって叫んだ。
第六十九章
自分の死後アイリーンのものになる富の重要性と、その管財人として彼女が遭遇しそうな諸問題を現実的に理解する必要性を、アイリーンにはっきり説明しようとしたクーパーウッドの試みは、優しく見守ろうという気分を誘発するどころか、そのすべてが徒労だったかもしれない感覚を彼に残した。この問題が彼にとってもアイリーンにとってもどれほど重要であるかという認識が、アイリーンには欠けていることを彼が知ったからだった。アイリーンが人の性格や意図を読み取れないことをクーパーウッドはよく知っていた。自分がこの世にいなくなったら、遺産の多くが具体的に配分されるさまざまな理想を実現するのを、何が保証してくれるのだろう? この考えは、生きる意欲にいい影響を与えるどころか、実はクーパーウッドを落胆させた。その分、少し疲れただけでなく、少しうんざりし、人生そのものの重要性を精神的に疑った。
三十年以上にも及ぶ二人の共同生活が、ほとんど途切れることがない苛立ちだったとは、何とも不思議だった! まず、アイリーンが十七歳で、クーパーウッドが二十七歳だったときは、彼の初期の熱意があった。そして、その少し後ではアイリーンの美しさと肉体的な強さが、理解力の欠如を隠しているという発見もあった。だからアイリーンは彼の経済的・精神的な大きさに気がつかず、同時に、彼が彼女の不変の所有物である、だから彼女のいない方向をよそ見しただけでは変わったりしない、とアイリーンに思わせた。しかし、彼がちょっと気晴らしをすればその後で嵐が吹き荒れたのに、何年経っても、二人はここいた。アイリーンは、ゆっくりと確実に彼を現在の富へと導いた彼の資質について、ほとんど理解しないままだった。
それでもクーパーウッドは、自分の人生を、最高に価値あるものにしてくれる気質を備えた女性をついに発見した。彼はベレニスを見つけた。するとベレニスの方でも彼を見つけた。二人は一緒に、自分のことをそれぞれ相手に明らかにした。ベレニスの不思議な愛は、その声、目、言葉、触れ方の中で輝いた。時々彼の上にかがむようにしてベレニスが話しかけるのが聞こえた。「あなた! 愛しい人! 私たちのこの愛は今日限りじゃなくて、永遠なのよ。あなたがどこにいようとそれはあなたの中で生きているし、あなたの愛だって私の中で生きているわ。私たちは忘れちゃいけないのよ。あなた、安静にして、幸せな気分でいてください」
看護婦の白衣をまとったベレニスが部屋に入ってきたのは、クーパーウッドが考え事をしているときだった。ベレニスが挨拶したときクーパーウッドはその聞き覚えのある声に反応して体を動かし、目で見たものがよくわからないかのように凝視した。その衣装は、類まれな美しさを魅力的に演出した。クーパーウッドは頑張って頭を上げ、明らかに衰弱していたが叫んだ。
「あなたでしたが! アフロディテ! 海の女神! 純白の白!」
ベレニスはかがんでキスをした。
「女神よ!」彼はつぶやいた。「金色を帯びた赤い髪! 青々した目!」それから、ベレニスの手を握りしめるようにして自分の方へ引き寄せた。「今でも私にはあなたがいるんですね。あの日、青いエーゲ海に近いテッサロニキで、手招きしたときのあなたが見えます!」
「フランク! フランク! 私が永遠にあなたの女神だったらよかったのに!」
ベレニスは彼が錯乱したのがわかって、なだめようとした。
「その笑顔ですよ」クーパーウッドは続けた。「また私に微笑んでください。まるで太陽の光のようだ。私の手を握ってください、私の海のアフロディテ!」
ベレニスはベッドの横に座って、ひとりで静かに泣き始めた。
「アフロディテ、私から離れないで! 私にはあなたが必要です!」クーパーウッドはベレニスにしがみついた。
ここで、ジェームズ医師が部屋に入ってきた。クーパーウッドの容態に気づいて、彼のところに直行した。ベレニスの方を向いてその様子を見ながら、ジェームズは言った。「誇っていいですよ! 世界の巨人があなたに敬意を表してます。だけど、少し二人だけにしてほしい。彼を正気に戻さないとね。死にはしませんよ」
医者が気つけ薬を投与する間、ベレニスは部屋を離れた。クーパーウッドはすぐに錯乱状態から抜け出して言った。「ベレニスはどこですか?」
「彼女はすぐにきみのところに来るよ、フランク、だけど今は休んで静かにしているのがきみには一番いいんだ」ジェームズは言った。
しかし、ベレニスはクーパーウッドが自分を呼ぶ声を聞くと入って来て、ベッドの横の小さな椅子に腰掛けて待っていた。彼はすぐに目を開けて話し始めた。
「ねえ、ベレニス」まるで二人がこの問題を話し合ってでもいたかのように彼は話した。「あの屋敷を私の芸術品の家として、そのままの形で残すことがとても重要なんです」
「そうよね、フランク」ベレニスは優しく共感して答えた。「あなたはいつだって大事にしてましたものね」
「ああ、私はいつも大事にしていた。五番街のアスファルトを離れて、敷居をまたいで十秒もすれば、そこはヤシ園の中なんだ。花々や生い茂る植物の間を歩き、その中に腰掛けると、水が跳ねる音や、小さな池に落ちる細流のせせらぎが聞こえる。森の涼しい緑の中の小川のような、水が奏でる音楽の調べとなるようにね……」
「そうよね、あなた」ベレニスはささやいた。「でも、今は休まないといけません。あなたが眠っているときも、私はあなたのすぐそばにいるわ。私はあなたの看護婦なのよ」
そして、ベレニスはその夜も一夜あけた次の夜も、自分の務めを果たす間に、クーパーウッドがもうおそらく自分では管理できない多くのことに、あきらめずに関心を持ち続けていることに感動した。それがアートギャラリーの日もあれば、次の日は地下鉄、また次の日は病院だった。
ベレニスもジェームズ医師も実際には予想していなかったが、クーパーウッドは余命いくばくもなかった。それでもベレニスが彼と一緒に過ごす時間はいつもより元気そうに見えたが、それ以外の時は少し話をしただけでも、いつもひどい疲れを見せて眠りたがった。
「できるだけ眠らせてあげてください」ジェームズ医師は勧めた。「ああしてただ体力を温存しているだけです」という発言はベレニスをひどく落胆させた。彼のために何か他にできることはないんですか、と尋ねたほどだった。
「ありません」ジェームズは答えた。「彼には本当は睡眠が一番いいんです。乗り切れるかもしれません。私が知っている最高の強壮剤を試しているんですが、待つしかありません。回復に向かうかもしれません」
しかし、クーパーウッドが回復に向かうことはなかった。それどころか、亡くなる四十八時間前に、溶態は明らかに悪化した。ジェームズ医師は息子のフランク・A・クーパーウッド・ジュニアと今はテンプルトン夫人となった娘のアンナを呼び寄せた。しかし、駆けつけたとき、娘と息子はアイリーンの姿がないことに気がついた。ジェームズ医師は、どうしてクーパーウッド夫人がいないのかと尋ねられて、夫人なりの理由があってもう面会には来ないことを説明した。
しかし、この息子と娘はアイリーンとクーパーウッドの間が疎遠だったことは知っていたが、この大事なときにどうしてアイリーンがクーパーウッドに会いに来るのを拒むのか、自分たちなりにずっと腑に落ちなかったので、自分たちにはクーパーウッドの容態を知らせてやる義務があると感じた。
二人は急いで公衆電話に行き、アイリーンに電話をかけた。しかし、驚いたことに、二人はアイリーンがクーパーウッドや他の人たちのことを何か考えるどころではないことに気がついた。クーパーウッドのことは、ジェームズ先生とフレミングさんが本人の同意を得て、妻の意向を無視して手配しているので、きっとすべての世話ができるはずだと言い切った。アイリーンは来ることをきっぱり断った。
一方、二人はアイリーンのこの一見冷酷な行為に唖然としながらも、クーパーウッドの病状悪化の結末を見守るために戻る以外に自分たちにできることは何もないと感じた。恐怖がそこにいる全員、ジェームズ医師、ベレニス、ジェーミソン、確かなアイデアのひとつもなく無力に立ち尽くしていた全員、を支配した。彼らは何時間も待った。クーパーウッドの激しい呼吸かしばしの沈黙に耳を傾けた。そして二十四時間後、突然、ひどい疲れを終わらせようとするかのように彼は激しく体を動かし、まるで周囲を見回すかのように片肘をついて半身を起こし、それからいきなり後ろに倒れて、じっと横になった。
死! 死! 死があった……みんなの前に抗いようのない侘しさがあった!
「フランク!」ベレニスは体をこわばらせ、まるでこれ以上ない驚きに包まれたかのように見つめながら叫んだ。急いで彼の傍らに行き、膝をついて、彼の湿った手をつかみ、それで自分の顔を覆った。「ああ、フランク、愛しい人、あなたはもういないのね!」そう叫ぶと、ゆっくり床にうなだれ、気を失いかけた。
第七十章
クーパーウッドの死に続く混乱には、差し迫った問題もあれば、急がない問題も多くあったので、しばらくは全員が麻痺したかのように立ち尽くした。この全員の中では、医師が最も落ち着いていて、考えることでも行動でも最も手際がよかった。最初の指示は自分とジェーミソンとでベレニスをこの部屋にあるソファーのひとつに移動させることだった。これをやり終えると、葬儀の指図を仰ぐために直ちにクーパーウッド夫人に電話をするようジェーミソンに提案した。
ジェーミソンがこれを問い合わせたところ、アイリーンからとても衝撃的で困った反応が返ってきた。事実上、国家的スキャンダルを起こさないとどうも収まりそうもない問題を提起する構えを見せた反応だった。
「何で、あたしに聞くのよ?」アイリーンは言った。「ジェームズ先生とフレミングさんに聞いたらいいじゃない? ここに来てから、その前もそうだけど、主人の世話を完全に管理していたのは、その二人なのよ」
「しかし、クーパーウッド夫人」ジェーミソンは驚いて言った。「あなたのご主人なんですよ。自宅にご遺体を移したくないと言うのですか?」この質問にアイリーンから返ってきたのは辛辣で歯切れのいい返事だった。
「あたしは、主人にも、主人の主治医や愛人にも個人的に無視され嘘をつかれてきたんです。主人の遺体は葬儀場に運んで、そこで葬儀を行うよう二人に手配させなさい」
「しかし、クーパーウッド夫人」ジェーミソンは動揺した声で言った。「これは前代未聞の出来事です。新聞がいっせいにかぎつけますよ。ご主人のような超大物をそんな目に遭わせることは、あなただって望まないでしょう」
しかし、ここで、この衝撃的な発言を聞いていたジェームズ医師が進み出て、ジェーミソンから受話器を取った。
「クーパーウッド夫人、ジェームズです」彼は冷静に言った。「ご存知でしょうが、私は、帰国の際に、クーパーウッドさんから呼ばれた医者なんです。クーパーウッドさんは私の親戚ではありません。私はあなたを含め、他の患者に接するように彼の治療に当たってきました。しかし、自分のご主人であり、その財産を相続することになっている相手に、あなたがこんなとんでもない態度を取り続けるなら、この醜態は取り消しがききませんよ。あなたが死ぬまで生涯あなたについてまわるんです。事の重要性をしっかり認識しないといけませんよ」
ジェームズは少し待ったが、アイリーンは黙ったままだった。
「今、私はあなたに、私のために何かをしてほしいと頼んでいるのではありませんからね、クーパーウッドさん」ジェームズは続けた。「あくまであなた自身のことなんです。もしあなたがそうお望みなら、ご主人の遺体は葬儀屋に移して、どこにでも埋葬できますよ。じゃあ、それからは? おわかりでしょうが、新聞はご主人の遺体がどうなったのか、私からだって葬儀屋からだって聞き出せるんです。でも、もう一度、そして最後に、自分のためにも、このことをよく考え直してほしい。もしあなたが自分の言ったとおりのことをやれば、明日の新聞に事の全容が載りますよ」
ここで、ジェームズは話すのをやめて、もっと人間味のある返事を待ち望んだ。しかし、電話のカチッという音を聞いて、相手が受話器をかけたのがわかった。すぐにジェームズはジェーミソンの方を向いて言った。
「あの女は、当分、まともじゃない。我々が自分たちでこの問題を手掛けて、彼女に代わってやるしかない。クーパーウッドさんは使用人にはとても好かれていたから、彼女に知られないように、遺体を自宅に搬送して、ちゃんと墓に埋葬できるようになるまで、そこに安置しておけるよう、使用人と連絡をとることは難しくないと思います。これなら、我々にできるし、しなくてはならないことだ。こんな悲劇が起きるのを許してはおけない」
そして、ジェームズは帽子をとって出ていった。しかしその前に、この時にはもう落ち着きを取り戻していたベレニスの様子を見て、自分から連絡があるまで部屋に戻って待っているように頼んだ。
「あきらめちゃだめだよ、ベレニス。私を信じなさい。これは、最も正しくて、できるだけ控え目な方法で、すべて手配されますから。約束したっていい」ジェームズは優しくベレニスの手をにぎった。
次の行動は、クーパーウッドの遺体をホテルの近くの葬儀屋に運ぶことだった。次に、クーパーウッド家の使用人の性格と考え方についてジェーミソンと相談するつもりだった。きっとその中の一人か二人には、協力してもらえるかもしれない。ジェームズは、アイリーンが本気でやるとは、まともに信じていなかった。越権行為をしなければならないかもしれないが、それ以外の方法はわからなかった。ジェームズはこのずっと前から、アイリーンとクーパーウッドとでは根本的に意見が違うと感じていた。ジェームズがその目で見たとおり、アイリーンは本当は夫を深く愛していたが、夫のあらゆる行動に強く嫉妬するあまり、自分の幸福な夢を苦痛の乗り物にしてしまった。
奇妙にも、ジェーミソンはこのとても大変なときに、クーパーウッド家の執事長バックナー・カーの訪問を受けた。彼はシカゴ時代からクーパーウッドに仕えていた。結局、彼の訪問の目的は、クーパーウッドの死に対する自分の大きな悲しみと落胆をジェーミソンに伝えに来ただけでなく、立ち聞きしてしまった電話の会話の件だった。どうやらクーパーウッド夫人が不当な言いがかりで夫を責め立て、何より恐ろしいのは、夫が自宅に搬送されるのを拒んでいる雲行きだったので、そのような悲劇を回避するために自分が協力することを申し出たかったのだ。
ホテルに戻ると、ジェーミソンとカーが一緒にいるのを見つけたので、ジェームズ医師は自分の頭で練り上げた計画をすぐに説明した。遺体を埋葬する準備をし、手頃な棺を用意し、今後の指示を待つよう葬儀屋には手配した。今問題なのは、遺体をいつ自宅に搬送するかと、使用人たちが自宅で密かに何も言わず遺体を受け入れ、適切な部屋に運ぶ作業を手伝い、少なくとも翌朝まで遺体が到着したのをクーパーウッド夫人に気づかれることのないよう騒がないでいてくれるか、を見極めることだった。これが邪魔されずにやり遂げられる、とバックナー・カーは思いますか? これから一、二時間クーパーウッド邸に戻ってもよければ、ジェームズ先生に説明された条件がちゃんと成立するかどうか、折り返し連絡する、とカーは回答した。カーが立ち去って二時間が経過した頃、電話が鳴って、一番いい時間帯は夜の十時から午前一時の間で、使用人は全員協力したがっている、屋敷は真っ暗になり寝静まる、と連絡があった。
その結果、計画どおり午前一時に、納棺されたクーパーウッドの遺体の搬送が行われた。外ではカーがほどんど人けのない通りを見張っていた。かつて主人に仕えた忠実な使用人たちは、主人が眠る豪華な装飾が施された棺の安置場所を二階の大広間に用意していた。遺体が搬送される間、使用人の一人がアイリーンの部屋の前に立ち、何か少しでも動きはないかと耳をすましていた。
こうして夜寝静まる中、フランク・アルガーノン・クーパーウッドの前触れのない葬列があった……彼とアイリーンは再び同じ屋根の下で一緒になった。
第七十一章
この夜にあったすべてのことに関係する厄介な考えや夢は、早朝の日差しが目覚めさせるまで、アイリーンを悩ませなかった。いつもならしばらくベッドでぐずぐずしたがるところだが、この日は、何か重い物が下のバルコニーの床に落ちたような物音を聞いたので、これはこの前購入して、つい最近仮置きした貴重なギリシャの大理石像かもしれないと心配になって起き出し、バルコニーに通じる階段を降りた。広い応接室に通じる大きな両開きドアを通り過ぎるときに、きょろきょろ周囲を見まわし、新たに設置された美術品のところへ直行したが、それはちゃんとしていることがわかった。
しかし、今来た道を戻ろうと振り返って、再び応接室に通じるドアに近づいて行くと、巨大な部屋の中央に、大きくて黒い、重々しく布が掛けられた縦長の箱が存在するのとその外観に驚いた。震えるような寒さが体を駆け抜け、アイリーンはしばらく動けなかった。それから逃げるように向きを変えたが、立ち止まって、再び部屋の入口に取って返し、驚き見つめながらその場に立ち尽くした。棺が! ああ! クーパーウッドが! 夫が! 冷たくなって息を引き取った! 生前、アイリーンは彼のところに行くのを拒んだが、彼の方がアイリーンのところまでやってきた!
アイリーンは夫の冷たくなった死んで動かない遺体を見ようと、震えながら、自責の念にかられた足取りで、前に進み出た。高い額! 優秀で、形のいい頭! この時点でさえも白髪ではないさらさらの茶色い髪! この印象的な特徴は、すべてアイリーンにとって馴染み深いものだった! その姿全体が、実力、思慮深さ、才能を感じさせたし、世界は最初からすぐに彼の中にそれを認めていた! なのに、彼女は彼のところに行くことを拒んだのだ! アイリーンは内心何か……夫の過ちと自分の過ち……を後悔しながら緊張して立っていた。終わることがない、非情と言っていい嵐が、二人の間を去来した。それでも、最後はここ、家に帰ったのだ! 我が家に!
しかし、クーパーウッドがここにいることによって強調された、その奇妙さ、不可解さ、彼女の意志が最後まで無視されたという現実が、突然、アイリーンを怒りに駆り立てた。誰が、どうやって、運び込んだのだろう? いつの間に? 昨日の晩、自分が使用人に指図して命じて、すべてのドアに鍵をかけたのだ。なのに、夫がここにいる! 明らかに、自分ではなく、夫の友人と使用人たちが、ぐるになって夫のためにこんなことをしたに違いない。全員が、自分の態度の変化と、そうなればできるこういう著名人にふさわしい慣例に則った正式な最後の儀式、を期待しているのは、もはや明らかだ。言い換えれば、夫は勝ったことになる。まるで自分が考えを改めて、夫の束縛されない自分勝手な行動を容認したように見えてしまう。いや、だめだ、あいつらにこんなことをさせてはならない! 最後の最後まで侮辱され、してやられるなんて! まっぴらご免だ! アイリーンが自分に反抗を表明したところで、クーパーウッドはそこにいた。クーパーウッドを見つめていると、背後で足音がした。振り向くと、執事のカーが手紙を手に持って近づいて言った。
「奥さま、これがただいま奥さまへと玄関に届きました」
最初アイリーンは下がれとばかりに手を振って見せたが、相手は背を向けただけだった。そこでアイリーンは「そいつをおよこし!」と叫んで、封を切って読んだ。
アイリーン、私は死にかかっている。これがきみの手もとに届くときには、もういないだろう。私はすべての自分の罪と、きみが私に負わせるすべての罪を知っている。責任は私にしかない。でも、私はフィラデルフィアの刑務所にいたときに、私をずっと応援してくれたアイリーンを忘れることができない。私が謝ったところで、今さら私の役には立たないし、私たちのどちらの役にも立ちはしない。でも、どういうわけか、私がいなくなれば、きみは心の底では私を許してくれそうな気がする。それに、きみが面倒を見てもらえることになるのがわかれば私も安心できる。知ってのとおり、私はそのすべてを手配した。それじゃ、さようなら、アイリーン! あなたのフランクはもう悪いことは考えない、もう二度とね!
最後まで読み終えると、アイリーンは棺に進み、クーパーウッドの両手を取ってそれにキスをした。それから、しばらく彼を見つめて、振り返ると、急いで立ち去った。
しかし、数時間後、ジェーミソンや他の者を通じていろいろな頼み事をされていたカーは、葬儀の段取りについてアイリーンと相談せざるを得なくなった。出席の許可を求める声があまりに多かったので、最終的にカーは、アイリーンが音を上げるほど長い名簿を作成せざるを得なくなった。
「ああ、あの人たちを来させなさい! 今さらどうってこともないでしょう? ジェーミソンさんや主人の息子と娘に、すべて好きなように手配させたらいいわ。とにかく、あたしは手伝える状況じゃないので部屋に下がります」
「しかし、クーパーウッド夫人、牧師をお招きして最後の秘跡を行わなくていいのですか?」カーは尋ねた。ジェームズ医師からされた提案だったが、カーの信心深い性格に合っていた。
「そうね、来させたらいいわ。別に害にはならないし」アイリーンは両親の極端な信仰心を思い返しながら言った。「しかし、ここに来る人の数は五十人までよ、それ以上はだめ」……この決定をうけて、みんなが適切と感じる葬儀の準備を始めてもいいと伝えるために、さっそくカーはジェーミソンとクーパーウッドの子供たちに連絡した。このニュースが耳に入るとジェームズ医師は安堵のため息をついた。同時にクーパーウッドの大勢の崇拝者たちにこの事実を知らせた。
第七十二章
その日の午後と翌日の午前中に、自宅に弔問に来たクーパーウッドの友人で、バックナー・カーの名簿に載っていた人たちは、二階の広々とした応接室に安置されている遺体との対面を許された。他の人たちは、翌日午後二時にブルックリンのグリーンウッド墓地で行われる墓前祭に出席するよう勧められた。
その間にクーパーウッドの息子と娘がアイリーンのもとを訪れた。二人はアイリーンと先頭の喪主用の馬車に同乗することになった。しかし、その頃にはニューヨーク中の新聞が、ほんの六週間前にニューヨークに到着したばかりのクーパーウッドの言わば突然死に大騒ぎだった。友人が大勢なので、葬儀は家族の親しい友人だけが参列すると記事にはあったが、この発表は多くの人たちが墓地に出かけるのを妨げなかった。
そのため、翌日の正午にはクーパーウッド邸の前に葬列ができ始めた。その光景を見物しようと、外の通りには人だかりができた。霊柩車の後ろに、アイリーン、フランク・A・クーパーウッド・ジュニア、クーパーウッドの娘のアンナ・テンプルトンの乗る馬車が続いた。それから、他の馬車が一台ずつ列に並んで、曇り空の下、幹線道路を進み、最後にグリーンウッド墓地の門をくぐった。砂利道は徐々に長い上り坂になった。太い木々が道を縁取り、その後ろにはいろいろな特徴を持つ石碑や記念碑が並んでいた。道は四分の一マイルくらい上り続けると右に分岐した。大きな木々の間をさらに数百フィート行ったところに、墓が堂々とそびえ立っていた。
その三十フィート以内に他に記念碑はなく、灰色の、質素な、ギリシャ神殿の北部型がぽつんと立っていた。修正を加えたイオニア風の優雅な四本の柱が「ポーチ」を形成して、いかなる種類の装飾も宗教的なシンボルもついてない平凡な三角形のペディメントを支えていた。墓の扉の上には、いかつい四角張った文字で『フランク・アルガーノン・クーパーウッド』と彼の名前があった。花崗岩でできた三層の土台には花が高く積み上げられ、巨大な青銅の両開きの扉がいっぱいに開かれて、著名な入居者の到着を待っていた。初めて見た人は誰もが感じたに違いないが、これはデザインにかけてはとても印象的な芸術品だった。高くて堂々とした静かなたたずまいが、その全域を支配しているように見えた。
馬車が墓全体を見渡せるところまで来ると、アイリーンは自分の夫の自己顕示欲に改めて、そして最後の感動をさせられた。しかし、そんなことを考えながら、アイリーンはまるでこの墓を視界から締め出して、自分の前で元気に生き生きと自己主張をして立つ夫の最後の印象を甦らせようとしているかのように、目を閉じた。霊柩車が墓の入口に到着するまで、彼女の馬車は待機した。重い青銅の棺が担ぎ上げられて、牧師の演壇の前の、花に囲まれた中に置かれた。それに続いて、馬車に乗っていた人たちが出てきて、墓の前に設置された大きなテントに移動した。テントの下ではベンチと椅子が彼らを待っていた。
馬車の一つでは、ベレニスがジェームス医師の隣に静かに座って、自分の愛する人を永遠に封印してしまう墓を見つめていた。涙を流すことができなかったし、流すつもりもなかった。彼女にとっての人生そのものの意義を、すでに跡形もなく消し去った雪崩に、挑んでどうするのだ? いずれにせよ、これがこのすべてに対する彼女の気持ちというか反応だった。しかし、心の中で何度も繰り返された言葉があった。「耐えろ! 耐えろ! 耐えるのよ!」
友人と親族全員が着席してから、米国聖公会のヘイワード・クレンショー牧師が進み出て演壇についた。すぐに全員静かになり、厳粛なよく通る声で牧師は話し始めた。
「私は復活であり命です、と主は言われる。私を信じる者は死んでも生きています。生きて私を信じる者はみな、決して死にません。
私の救いの主が生きていることを、主が後日、大地に立つことを、私は知っています。たとえこの肉体が滅ぼされても、私は神を見ます。私の味方として見ます。私の目が見ます。見知らぬ者として見ません。
私たちはこの世に何も持ち込みませんでした。私たちが何も持ち出すことができないのは確かです。主が与え、主が取り上げたのです。主の名をたたえなさい。
見なさい、あなたは私の日々をつかの間としました。私の一生はあなたからすると無に等しいのです。まさに、生きている者みんなが、はかないのです。
人はむなしい影の中を歩み、むなしく心を乱します。富を積み上げるが、それを集めるのが誰なのかを知りません。
さあ、主よ、私の望みは何ですか、私の望みはあなたの中にあります。
あなたは罪を責めて人を懲らしめるとき、その美しいものを、シミが衣服を食うように、食い荒らします。すべての人はむなしいだけです。
主よ、あなたは代々私たちの住み家でした。
山々が生まれる前、大地と世界が作られる前でさえも、あなたは神です。永遠に、とわに、神です。
あなたは人を滅ぼして再び言います。帰れ、人の子どもたち。
あなたの目からすれば千年は、過ぎ去った昨日のようなもので、夜の見張りのようなものです。
あなたが彼らを追い散らすとすぐに彼らは眠ったようになります。そして急に草のようにしおれます。
朝は青々と栄えても、夜には切り倒され、しおれて、枯れてしまいます。
私たちはあなたが不満であれば消えてしまいます。あなたの激しい怒りを恐れています。
あなたは私たちの悪行をあなたの前に置き、私たちの隠れた罪をあなたの顔の光の中におきます。
あなたが怒ると、私たちの日々はすべて過ぎ去ります。私たちは、語られる物語のように、私たちの年月を終わらせます。
私たちの寿命は七十年です。強靭でも八十年ですが、強くても、苦しみであり、悲しみです。それは瞬く間になくなって、私たちは飛び去ります。
私たちの日々を数えることを教えて、私たちが賢くなるようにしてください。
父と子と聖霊に栄光あれ。
初めのように、今も、いつも、世々に。アーメン」
牧師がひざまづいて祈る間に、棺が担ぎ手に持ち上げられて、墓に運び込まれ、石棺に納められた。アイリーンは中に入るのを拒んだ。他の会葬者たちはアイリーンと一緒に残った。それから間もなく、牧師が外に出ると、重い青銅の扉は閉ざされた。フランク・アルガーノン・クーパーウッドの葬儀が終わった。
牧師はアイリーンのところに行って、少し慰めの言葉をかけた。友人や親族が帰り始めた。すぐに墓の周りは誰もいなくなった。しかし、ベレニスが他の人たちと一緒に帰りたがらなかったので、ジェームズ医師とベレニスは大きな白樺の木陰にしばらく居残ってから、曲がりくねった道に沿ってゆっくりと坂を歩いた。小道を数百フィート歩きながら、ベレニスは最愛の人が最後の眠りについた場所を見ようと振り返った。ベレニスが立っている場所からは名前が見えなかったので、誰のものとも知れないものが、誇らしげにそびえ立っていた。その周囲で守りにつくように大きく成長したニレの下だと、高くそびえはしても、小さかった。
第七十三章
クーパーウッドを看病して見送った後、ベレニスは精神状態が不安定だったので、イギリス滞在中に閉鎖していたパーク・アベニューの自宅に移るのが一番いいと判断した。自分の将来が定かではない今は、地元の新聞の詮索の目から逃れるための隠れ家として、少なくとも一時的にそこを利用するつもりだった。ジェームス医師は、彼女は去ってしまったので現在の居場所は知らない、と正直に言えるのであればそれが自分にとっても一番いいと考えたので、ベレニスの決定に同意した。その後、この策略はうまくいった。ジェームズは新聞が知っていること以外自分は何も知らないと何度も答えたので、彼に関する限り、問い合わせは途絶えた。
それにもかかわらず、時折、彼女の失踪だけでなく、いそうな場所について言及する記事が出回り始めた。彼女はロンドンに戻ったのだろうか? そして、それを確認するためにロンドンの新聞は、ベレニスがプライアーズ・コーブの以前の住居に戻ったかを問い合わせた。一連の質問の末に出たのは、母親はそこにいたが、娘の予定については何も知らない、情報が入るまで新聞は待つしかないと言った、という物足りない記事だった。この回答が出たのも、自分から連絡があるまでは、一切情報を提供しないでほしい、と母親に頼む電報をベレニスから受け取ったからだった。
ベレニスは記者を出し抜いて多少の満足感を得たものの、自宅で孤独をかこっていると気がつき、夜はほどんど読書に費やした。しかし、自分のことと、クーパーウッドとのこれまでの関係を全面的に扱ったニューヨークの日曜紙の一紙の特集記事にはショックを受けた。ベレニスはクーパーウッドの被後見人として言及されていたが、記事の全体的な趣旨は、個人的な安らぎと社会的な楽しさをいろいろと促進するために、自分の美貌を利用した日和見主義者として取り上げる傾向があった。これはベレニスを苛立たせ、とても苦しめた。このときもこれ以前も、ベレニスは自分でもわかっていたように、人生の美しさと、その経験を広げて大きくする創造的な偉業に全面的に関わっていた。しかし、今感じているように、この種の記事は、国内だけでなく海外の他の新聞でも繰り返され、転載されるかもしれない。自分がロマンチックでドラマチックな人物として取り上げられるのは明らかだった。
これについて自分に何ができるだろう? こういう世間の目から逃れるには、どこに住めばいいのだろう?
戸惑いと、多少混乱した精神状態の中で、ベレニスは自宅の書庫を歩き回った。書棚には長い間放置されてきた本がぎっしりと並んでいて、その中の一冊を無造作に取り出して何気なく開くと、次のような言葉に目が行った。
自分の一部は、あらゆる生き物の中にいる神である、
その性質を永遠に保ちながらも、分離しているように見える、
衣服のように、心と五感をまとっている
素材はプラクリティである。
主が肉体を着るとき、あるいは主がそれを投げ捨てるとき、
主は、心と感覚を携えて、現れ、あるいは去って行く、
主と共に去る、
風が花から香りを奪うように。
耳と目を光らせて、取り仕切っている、
触覚、味覚、嗅覚の背後にいる、
心の中にもいる、
感じるものを楽しみ、苦しむ。
肉体に宿り、離れ、グナを備える、
その気分や動きを知っているのに、見えない、
無知な者には常に見えないが、賢者には見える、
賢いその目で。
精神的な修練の実践を通して平穏を獲得したヨガ行者たちは、自分の意識の中に神を見る。しかし、平穏と識別力のない者は、たとえそうしようと懸命に努力しても、神を見つけることはない。
これらの考え方がとても印象的だったので、ベレニスはタイトルを確認するために本を裏返した。これが、バガヴァッド・ギーターだとわかると、ベレニスはある晩、ステイン卿の都市部の屋敷で催されたディナーの席で、セヴェレンス卿がこのテーマですばらしい話をしたのを思い出した。ベレニスはインド滞在について語ったセヴェレンスの迫真の描写に深い感銘を受けた。彼はかなりの期間、ボンベイ近郊の隠遁所で修道生活を送り、グルと一緒に修行をしていた。ベレニスは彼の印象に、どれほど心を動かされたかを思い出した。自分もいつかインドに行って同じことをしたいとそのとき願ったのだ。そして今、迫りくる社会的な孤立を前にして、どこか逃げ込める場所を探したいと一層強く感じた。事実、これは今の複雑な問題の解決になるかもしれなかった。
インド! どうだろう? そこに行こうと考えれば考えるほど、その考えは魅力的になった。
書棚で見つけたインド関連の別の本によると、大勢のスワーミー、大勢のグル、つまりは人生や謎や神について教えたり説明したりする者がいて、自分たちで山や森の中に、人生の驚異や神秘の意味を追求する悩める探求者向けのアーシュラマや隠遁所を作っていた。もし学んで理解すれば、悲しみや挫折や落胆のときに自分を蝕む病くらいはすぐに払い除けてしまう、自分の中の霊的な資質を学ぶのである。こういう偉大な真理を教えてくれる人なら、自分を永久に飲み込むかもしれない孤独と影の暗い時間を払い除けるのに十分な、光だか精神的な平和の領域に自分を導いてくれるのではないだろうか?
インドに行こう! 頭の中で決めていたように、ベレニスはプライアーズ・コーブを閉鎖した後、もし行きたければ母親も連れて、ロンドンからボンベイへ出航するつもりだった。
翌朝、自分の決定についての意見を聞きにジェームズ医師を訪ねた。現地で修練する自分の計画を話すと、驚いたことに、彼は実にいい計画だと言ってくれた。彼自身も同じように野心にずっとそそのかされてきたのだが、ベレニスほど自由には、そういう機会を利用できないだけだった。これはあなたに最も必要な避難所と気分転換になるでしょう、とジェームズは言った。実際、彼は、社会や個人の問題で体と精神にひどい不調をきたした患者を数名かかえたことがあった。そこでニューヨークのあるヒンズー教のスワーミーのところに行かせたところ、その後彼らは完全に健康を取り戻して彼のもとに帰ってきた。彼が気づいたように、自己ではないというもっと大きな思考の中で失われた、自己という限られた思考には何かがあって、それが神経質な人に自己を忘れさせて健康をもたらした。
ベレニスは、自分の決定にジェームズの賛同を得たことにとても勇気づけられ、留守にするパーク・アベニューの家の管理をすぐに手配して、ニューヨークを立ちロンドンに向かった。
第七十四章
世間一般では、フランク・アルガーノン・クーパーウッドの死去に伴う主な関心事は、彼の財産だった。その規模、誰が相続するのか、それぞれがいくら受け取るのか、だった。遺言が検認される前に、アイリーンは最小限で切り捨てられているだの、クーパーウッドの二人の子供が遺産の大半を受け取るだの、いろいろなロンドンのお気に入りたちがすでに大きな贈り物を受け取った、などのゴシップや噂が流れた。
夫が死んで一週間も経たないうちに、アイリーンは夫の弁護士を解任して、代わりにチャールズ・デイをすえて自分の唯一の法定代理人にした。
クーパーウッドの死後五週間後にクック郡高等裁判所で検認された遺言には、使用人それぞれに残した二千ドルからアルバート・ジェーミソンへの五万ドル、十年前にシカゴ大学に贈呈された施設フランク・A・クーパーウッド天文台への十万ドルまで、さまざまな額の贈与が含まれていた。リストに載った十人の個人と団体の中には二人の子供たちも含まれていて、このはっきりしている贈与の総額だけでおよそ五十万ドルだった。
アイリーンは財産の残りの収入で養われた。アイリーンの死後、三百万ドル相当のクーパーウッドのアートギャラリーと絵画と彫刻のコレクションは、市民の教育と鑑賞のためにニューヨーク市に寄贈されることになっていた。これまでにクーパーウッドは、このギャラリーのために七十五万ドルを管財人に預けていた。これに加えて、ブロンクス区に土地を購入し、そこに建設費用八十万ドル以内で病院を建てると遺言した。彼の財産の残り……病院の維持費に充てられる収入の一部……は、アイリーン、ジェームズ医師、アルバート・ジェーミソンを含む彼が任命した遺言執行人の手に委ねられることになっていた。病院はフランク・A・クーパーウッド病院と名付けられて、患者は人種、肌の色、信条に関係なく受け入れられることになっていた。治療費を支払う経済的余裕がない場合は、無料で治療を受けられることになっていた。
クーパーウッドが亡くなったとたんに、アイリーンは彼の最後の望みと願いにやたらと感傷的になってしまい、最初の関心を病院に集中させた。実際、アイリーンは新聞のインタビューに応じて、制度的な雰囲気が一切なくなる療養施設を含む自分の計画を詳しく述べた。アイリーンは、こういうインタビューの一つをこう締めくくった。
「あたしのすべてのエネルギーは主人の計画の達成に向けられます。この病院を生涯をかけてやっていきます」
しかし、クーパーウッドといえどアメリカ全土の裁判所の動きまでは考慮に入れきれなかった。司法とその限界、アメリカの弁護士がどの裁判所でも決定を遅らせることができる期間の長さまでは。
たとえば、クーパーウッドのシカゴの〈コンビネーション交通〉を破産させた合衆国最高裁判所の判決は、財産に対する最初の打撃だった。〈ユニオン交通〉の債券に投資された彼の財産のうちの四百五十万ドルは、〈コンビネーション交通〉に保証されたものだった。今、彼らは、その価値だけでなく所有権を決定するために、何年もかかる法廷闘争に直面した。そんなものはアイリーンの手に負えなかった。すぐに遺言執行人をやめて、この問題をジェーミソンに引き渡した。そして、その結果、ほとんどというか何も達成されないまま、ほぼ二年が経過した。実際、このすべては一九〇七年の恐慌の中で起こったので、それを理由に、ジェーミソンは裁判所にもアイリーンにも彼女の弁護士にも知らせずに、問題の債券を再編委員会に引き渡してしまった。
「売り払ったところで、そのままの価値にはならないでしょう」ジェーミソンは説明した。「再編委員会は〈ユニオン交通〉を救う計画を練りたいんですよ」
再編委員会は、シカゴの鉄道会社のすべてを一つの大企業に統合することに関心を持つ〈ミドル信託〉にその債券を預けた。「それでジェーミソンが何を得たのか?」が問題だった。財産は、シカゴでは二年間、決定の保留が続いたが、ニューヨークで問題の解決に向けた動きは何もとられなかった。五番街の邸宅の増築部分に二十二万五千ドルの抵当権を持っていた相互生命保険会社は、この抵当分の未払い利息一万七千ドルを含む、回収手続きを始めた。そして彼らの弁護士は、アイリーンにも彼女の弁護士にも知られることなく、ジェーミソンとフランク・クーパーウッド・ジュニアと計画を練った。それにより、オークションが開催されて、このギャラリーはその中の絵画もろとも売却された。この売却益は、保険会社と、水道料金と税金の未払い約三万ドルに対するニューヨーク市の請求をかろうしてまかなった。こうしたことに加えて、アイリーンと彼女の弁護士は、ジェーミソンを遺言執行人から解任するようシカゴの検認裁判所に訴えた。
アイリーンがゼーベリング判事に伝えた内容を要約する。
「主人が亡くなってから、話し合いばかりで、お金がありません。ジェーミソンさんは気持ちよくお金の話をして、約束するのが上手でしたが、彼からはあまりお金を受け取ることができませんでした。直接要求すると、彼はないと言います。彼に対する信頼を失ってしまい、不信感を抱くようになりました」
それからジャーミソンが、アイリーンの知らないうちにどのように四百五十万ドル相当の債券を譲渡したか、四十万ドルの価値があるとされていたのに総額二十七万七千ドルで売却されたアートギャラリーの競売をどのように手配したか、遺言執行人としてすでに報酬が支払われていたのにどのように千五百ドルの徴収料を請求したか、自分の弁護士が財産目録を閲覧するのをどのように拒んだか、を法廷で述べた。
「ジェーミソンさんがあたしに自宅とアートコレクションを売って、取引額の六パーセントを支払うよう求めたとき、あたしはただ、そんなものは払わないと言ったんです。もしあたしが払わないなら、ギルロイの凧より高くあたしを飛ばしてやるとジャーミソンさんは脅しました」アイリーンは締めくくった。
審理は、三週間延期された。
「これは、わからないことに女性が口出しする事例です」フランク・A・クーパーウッド・ジュニアは言った。
こうしてアイリーンがシカゴの検認裁判所でジェーミソンを遺言執行人から解任しようとしている間に、ジェーミソンはニューヨークで三年を何もしなかったのにそこで補助的な書類を申請していた。しかし、アイリーンの行動は彼の適性問題を生じさせた。おかげでモナハン遺言検認判事は、自分が補助的な書類を受け取るべきかどうかの理由を提示するために、十五日間決定を延期させることになった。ジェーミソンは同時にシカゴで、アイリーンの訴えを受けてゼーベリング判事に回答し、自分は誤ったことは何もしていないし、不法な金銭はびた一文受け取ったことがない、と主張した。むしろ、財産を守るために多くのことをした、と主張した。
ゼーベリング判事は、ジェーミソンを遺言執行人から解任することを却下して述べた。
「未亡人への支給の問題についてだが、遺産全体から自分の報酬を得たうえに、支給金を徴収することに歩合を求めたり、自分の義務をよく怠ったりする遺言執行人が解任されるべきなのは事実である。しかし、その事由だけで解任する権限が私にあるかは疑わしい」
これを受けて、アイリーンは最高裁判所に訴える計画を開始した。
しかし、ここでロンドンの地下鉄会社が、正当な権利のある八十万ドルを回収するために、ニューヨークの米国巡回裁判所に提訴した。権威筋は、訴訟の過程で約三百万ドルが宙に消えたと声明を出したが、彼らは遺産の支払能力に疑問を持たなかった。裁判所は、この訴訟に関連してウィリアム・H・カニングハムを管財人に任命した。この管財人は、アイリーンが当時肺炎を患っていたにも関わらず、五番街の敷地に警備員を配置し、ロンドンの地下鉄会社の請求に応じるために三日間開催する絵画と敷物とタペストリーの競売を三日で手配した。競売にかけられる財産が何ひとつ消失しないように、警備員が一日二十四時間張り付いた。彼らは邸内を徘徊し、家庭の秩序を大幅に侵害して、所有権も占有権も無視した。
アイリーンの弁護士の一人チャールズ・デイは、この手続きは、これまでこの国で試みられた司法の暴挙でも最悪のひとつであり、違法な手段でこの家に入り込むただの陰謀に過ぎず、家と絵画の売却の強制と、この家と中身を公共の美術館として残したいというクーパーウッドの意思と願いの破壊を目的にしている、と裁判所に申し立てた。
しかし、アイリーンのニューヨークの弁護士が、一時的な管財人認定が恒久化されるのを防いでいたのと同じ時期に、シカゴの弁護士は、全財産の管財人をシカゴで選任させようとしていた。
相互生命保険会社の差し押さえ手続きの結果として売却されはしたが、追加分のアートギャラリーの明確な所有権は取得されなかった。四か月後に保険会社は、管財人のカニンガムと、アートギャラリーの所有権の取得を拒んだ権原会社対して訴訟を起こした。
さらに、シカゴの資本家からなる再編委員会が、ブレントン・ディグス下院議員と一緒にある計画に取り組んでいる間に、子会社三社の債券所有者が、差し押さえ法案の提出を要求した。アイリーンの弁護士は、クーパーウッドの財産すべてに対してはクック郡裁判所が裁判権を持っていると抗弁し、巡回裁判所に裁判権はないと主張した。前述の巡回裁判所の裁判官は、ジェーミソンがニューヨークの財産の管理を担当することに成功すれば、すぐに撤退すると発表して、それを認めた。
しかし、アイリーンが巡回控訴裁判所に控訴してから五か月後、二対一で結審し、暫定的だったウィリアム・H・カニンガムの管財人の地位が恒久的ものになった。それにもかかわらず、反対した裁判官は、国の事務である遺言検認の問題に、連邦裁判所は介入できない、と主張した。一方、認めた裁判官らは、債権者が遺言検認裁判所に管理人の任命を要請し、その時点で財産を管理人に引き渡せるようになる相当な期間が経過するまで……巡回裁判所が判断したように……管財人はとどまるべきである、と主張した。同時に、ジェーミソンが補助的な文書を申請するのを禁じた仮処分も解除された。
そして今や、延期、裁判、承認要求、下される判決、に終わりがなかった。これとは対照的に、死んだ夫が残した財産を丸々もらった、法律にうとい未亡人は、複雑な権利を守るために酷使され続けた。やがて病に伏し、完全に健康を損ない、実際の収入は今や危険なほど減っていた。
そこで、アイリーンの弁護士は、ジェーミソンの弁護士とロンドン地下鉄の法定代理人と一緒になって和解をまとめた。それにより寡婦産権の代わりに、正当な個人資産の一部として八十万ドルを受け取ることになった。この記録に残されない合意の確認を求めて、シカゴの検認裁判所に請願書が提出された。
相続税鑑定士はクーパーウッドの死後四年後に、遺産総額を千百四十六万七千三百七十ドル六十五セントと発表した。鑑定人に報告書の提出を控えるよう求める申し立て審問が、ロバーツ判事の部屋で開かれて議論された。アイリーンの代理で出廷したデイは、ゼーベリング判事がこの合意を承認すれば、あとは遺産を売却するだけだと主張した。デイは、アートコレクションは四百万ドル、二階以上の家具には千ドル以上の価値はないので鑑定評価額が高すぎる、と主張した。
このときニューヨークで、ジェーミソンがヘンリー遺言検認判事に補助的な文書を申請した。アイリーンがこれらの補助的な文書を彼に取得させないようにする訴訟に負けたのとほぼ同時に、セイバーング判事は、彼女とジェーミソンとの間の合意を確認した。これにより債務返済後に八十万ドルと、全個人財産の三分の一の寡婦産権を受け取ることになった。この合意に基づき、アイリーンは、家、アートギャラリー、絵画、厩舎などを競売にかけるために管財人のカニンガムに引き渡した。シカゴで決定の保留が始まって四年以上が経過した後に、ジェーミソンがニューヨークで補助執行人に任命された。彼はニューヨークでの財産の競売手続きをとめるべきだったが、とめなかった。ギャラリーには百五十万ドル相当の絵画が三百もあり、その中にはレンブラント、ホッベマ、テニールス、ルイスダール、ホルベイン、フランス・ハルス、ルーベンス、ヴァン・ダイク、レイノルズ、ターナーの作品があった。
しかし、シカゴでも同じ頃、検認裁判所ではジェーミソンの弁護士がゼーベリング判事の前で、債務超過から財産を救う唯一の方法は、〈ユニオン交通〉の債券の四百四十九万四千ドルを、新会社を作るための再編委員会に引き渡すことだ、と主張していた。アイリーンの弁護士は、その行為は裁判所の承認なしに秘密裏に行われたものだ、と主張していた。ここで、ゼーベリング判事は、双方が合意しない限り、そういう命令を出すことはできないと表明した。したがって、双方の弁護士が合意に達する機会を与えるために、裁判は無期限に延期された。
またもや延期! 延期! 延期!
会社め! 会社め! 会社め!
判決め! 判決め! 判決め!
裁判め! 裁判め! 裁判め!
実際、フランク・クーパーウッドが所有していたものがすべて競売にかけられるまでに、五年が経過し、その収益はすべての不動産を含めて三百六十一万百五十ドルだった!
第七十五章
法律、弁護士、会社、裁判所、裁判官という果てしない荒野をさまよった五年は、どの方向にどれだけ進んでも、最後は何もない、という痛ましい現実をアイリーンに残した。実際、このすべての年月と努力の成果は、孤独な生活、訪ねて来る本当の友人がひとりもいないこと、当然の要求が次々に裁判で敗れたこと、そして最後にこの家が象徴だった壮大な夢が露と消えたのを完全に理解したこと、だった。大邸宅、アートギャラリー、絵画、その他すべてのものを管財人のカニンガムに譲渡して引き渡した代償として、債務が返済された後でアイリーンの財産として残ったものは、八十万ドルと全個人財産の三分の一の寡婦産権だけだった。法律と企業と遺言執行人たちは、狼のように絶えずアイリーンをつけまわし、とうとう土壇場まで追い詰めてしまった。アイリーンは、見知らぬ人たちへの競売にかけられるようにするために、今や自分の家から引っ越さなければならなかった。
しかし、マディソン・アベニューに選んだアパートへの引っ越しが完了しないうちから、家は、ありとあらゆる品物に適切なカタログ番号のタグを付けている、競売人の代理人でごったがえした。ワゴン車がやって来て、三百もある絵画を、二十三番街のリバティ・アートギャラリーに持ち去った。コレクターたちがやって来て、思いを巡らせながら歩き回った。家とギャラリーの完全な目録を作成して裁判所に提出するのが自分の義務である、と管財人のカニンガムが説明するのをやむなく聞きながらアイリーンは病に伏して悄然としていた。
その後、翌週の水曜日から三日三晩続けて、家具、青銅器、彫像、天井やドア上のパネル、豊富なコレクションを含むありとあらゆる美術品が処分されるという新聞発表があった。場所:五番街八六四番地。競売人:J・L・ドナヒュー。
いらいらして考えがまとまらないまま、アイリーンは私物を集めながら右往左往して、数少ない忠実な使用人にアパートまで運んでもらった。
クーパーウッドの所有物に対する市民の関心や好奇心は日増しに高まった。この家に立ち入る整理券の需要は、競売人が対応しきれないほど大きかった。展示場と販売場の両方に入場料が一ドルかかったが、関心を持つ人たちには何の妨げにもならないようだった。
リバティ・アートギャラリーで売却が始まった日、会場は競売場から見物席まで混雑した。特定の名画が出品されると、ものすごい拍手が起こった。その一方で、クーパーウッド邸も大変だった。そこで販売される品物のカタログには、番号が千三百以上あった。そして、いよいよ競売の日が来ると、期間中はずっと、自動車、タクシー、馬車は五番街と六十八丁目の縁石にくっつくように進んだ。大富豪のコレクター、有名な芸術家、社交界でも高名な女性たち……昔は彼女たちの車がそこにとまることは絶対になかったのに……全員が、アイリーンとフランク・クーパーウッドの美しい私物を競り落とすために中に入れろと騒いでいた。
かつてはベルギー国王に所有され、八万ドルで購入された黄金のベッド台、アイリーンの浴室にあった五万ドルもしたピンクの大理石の浴槽、アルダビールのモスクから取り寄せたすばらしいシルクのカーペット、ブロンズ像、赤いアフリカの花瓶、ルイ十四世時代の金箔のソファー、同じくルイ十四世時代のアメジストとトパーズの飾り玉をあしらったカット水晶の枝つき燭台、精巧な磁器、ガラス器、銀器、カメオ細工や指輪やブローチやネックレスや宝石や置物などの小物。
彼らは部屋から部屋へ、大きな部屋に響き渡る競売人の景気のいい声について行った。ロダンの『キューピッドとプシュケ』が五千ドルでディーラーに売られるのを目撃した。ボッティチェッリに千六百ドルの高値をつけた入札者は千七百ドルの声に負けた。紫色の服を着た大柄で印象的な女性は、ほとんどの時間、競売人の近くに立ち、なぜかいつも出品物に、それ以上でも以下でもない三百九十ドルの値をつけた。群衆がロダンの像を見ようと競売人にひっついてパームルームに殺到したとき、競売人は「ヤシにもたれないでください!」と声をかけた。
競売の期間中にブルーム型の馬車が五番街を二、三度ゆっくりと行き来した。それには孤独な女性が一人乗っていた。女性は、クーパーウッド邸の入口に進んでいく自動車や馬車を眺め、家に通じる踏み段に群がる男女を見つめた。これは彼女にとって大きな意味があった。なぜならば、彼女は自分の最後の戦い、それまでの野心との最終的な決別、を見とどけていたからだ。二十三年前、彼女はアメリカで最も魅惑的な美女のひとりだった。ある程度は昔の精神と態度のようなものを保っていた。抑えられはしたが、まだ完全に潰されたわけではなかった。しかし、フランク・アルガーノン・クーパーウッド夫人は競売に立ち会わなかった。自分がとても大事にしていた宝物が買った人に運び出されていくのを見守り、時折、競売人の声が叫ぶのを聞いた。「おいくらですか? おいくらですか? おいくらですか?」結局、もう耐えられないと判断して、運転手にマディソン・アベニューのアパートに帰るよう伝えた。
三十分後には、無言のまま、無言の必要性を感じながら、寝室で独りで立っていた。魔法のようにあったすべての痕跡がこの日に完全に消えたのではなかった。まだアイリーンが独りいる。たとえ本人が望んでも、クーパーウッドが帰ることはない。
そして一年後、アイリーンは突如また肺炎に襲われてこの世を去った。アイリーンは死ぬ前にジェームズ医師に手紙を送った。
もしよろしければ、主人の願いどおり、あたしが主人の隣に埋葬されるよう見届けてください。これまでの度重なる非礼をお許しいただけますか? 口にするのも憚られる惨めな境遇のなせるわざでございます。
そして、ジェームズは、手紙を折りたたみ、何をいまさらと考えながらも内心では思った。いいとも、アイリーン、そうするからね。
第七十六章
クーパーウッドの財産が崩壊してアイリーンが亡くなったこの時期に、ベレニスは、時々考えたような、お金と贅沢をその唯一の神とする西洋の物質主義的なとらえ方全体を自分の思考から完全に排除する、知的で精神的な知識を身につけることができれば、自分はどんな形であっても社会と人生に適応できる、と感じた道をゆっくりとだが確実に歩み始めた。主に、こうして考え方を変えたくなったのは、クーパーウッドの死後、彼女を襲い、彼女の人生をつらいものにしたと言っていい、悲しみとの戦いが発端だった。それから、まったくの偶然か、あるいはそう見えただけか、ベレニスは『バガヴァッド・ギーター』として知られる小さな本に出会った。それは数千年分のアジアの宗教思想を凝縮し要約しているようだった。
アートマンを知る者は
純粋な知識より出ずる
幸せを知る。
サットヴァの喜び。
深い喜びが、
厳しい自己修練の後にはある。
最初は嫌な苦労だが、
最後は甘美となり、
悲しみは終わる。
誰が探し求めるのか、
その完全な自由を?
おそらく、何千人に一人だ。
では、私の存在の完全な真実を知る者は、
自由を見つけた人の中に、
何人いるか
言うがいい。
おそらく、一人しかいない。
自分が神の歌を口ずさんでいるのに気がつくと、ベレニスは自分なら真実と理解を見つけるかもしれないと思い始めた。それは努力する価値のあるものであり、彼女はそれを探しに行ったのだ。
しかしインドに勉強しに行く前に、母親を同行させる手配をしにイギリスに渡った。ステイン卿が彼女に会いに来たのは、プライヤーズ・コーブに到着してからたった数時間後だった。ヒンズー教の哲学を本格的に学ぶためにインドに行く決意をしたと話したとき、ステインは興味を持ちながらもショックを受けた。彼は長年、政府や他の関係機関のためにインドに派遣されたイギリス人の報告を聞いていたのでそれを思い返しながら、インドは若くて美しい女性の行くところではないと感じた。
ステインは、ベレニスがクーパーウッドにとって被後見人以上の大切な存在であり、母親の過去に何らかの影があることを今では十分に理解していた。しかし、まだベレニスを愛していて、たとえ彼女が社会的な負い目を持っていたとしても、彼女が近くにいてくれて、彼女との付き合いや彼女の自由で知的な視点を楽しむことができれば、自分の人生は知的にも精神的にもより幸せになると感じていた。実際、こういう魅力的で優れた気質の女性と結婚できれば幸運だと考えただろう。
しかしベレニスが、クーパーウッドが亡くなってからこの数週間で、自分の心の中で何が結晶化していたか、西洋世界とその愚かな物質主義から離れて、そこで知的・精神的な助けを受けられると自分がどれだけ確信しているか、を説明したとき、彼女自身の体験が、いまのところ彼女を支配しているさまざまな相反する感情や関心をはっきりさせるときが来るまで、ステインはベレニスに対する自分の個人的な欲望を先延ばししようという気になった。だからステインには、親友のセヴェレンス卿の助言を参考にするといいでしょう、と言うだけにして、ベレニスに対する自分の気持ちについては特に何も触れなかった。ベレニスも知ってのとおり、セヴェレンスはインドの実情に豊富な情報を持っていて、よろこんで力になってくれそうだった。ベレニスは、必要なことには何でもすぐに導かれそうだとわかっているんですが、セヴェレンス卿が与えてくださる助言や援助は喜んで受け取ります、と答えた。ベレニスは言った。「何かが磁石のように、私を引っぱっているみたいなんです。絶対にそらされないと思います」
「別の言葉で言うなら、あなたは運命を信じているんですね、ベレニス」ステインは言った。「まあ、私だってそういうのをある程度は信じてますよ。でも、明らかにあなたには自分の願望を実現させる力と信念があります。そして今、このことで私が考えられることは、私でお役に立てるかもしれないことは、何なりとどんどん声をかけてください、ということです。時々私に手紙を書いて、進捗状況を知らせてほしいですね」ベレニスはそうすることを約束した。
この後、ステイン卿は、ベレニスと母親がインドへ向けて出発するためのすべての手配を自ら引き受けた。この中にはセヴェレンス卿から何通か紹介状を確保することも含まれていた。そしてボンベイがベレニスの訪問先の都市に選ばれ、ステインは必要なパスポートと切符を手に入れて二人を見送った。
第七十七章
ボンベイに到着すると、ベレニス母娘は、この美しい都市への進入路に感動した。海から延々とつづく広い水路には山のような島が点在し都市に至った。左手には立派な建物群がそびえ立ち、ずっと右に行くとヤシが縁取る沿岸をもつ本土が徐々に高さを増して、はるか遠くのウエスタン・ガート山脈の頂に至るまでつづいた。
ボンベイ市内では、セヴェレンス卿からマーシュステッド・ホテルの経営者に宛てた手紙を持参していたおかげで、滞在期間中ずっとこの上ないほど至れり尽くせりのもてなしを受けた。二人は感動のあまり数週間滞在し、西洋の都市とは似ても似つかないその都市らしい特徴をたくさん見て回った。数多くの様々な情景にずいぶんと報いられて大層楽しい思いをした。広い大通りには商品を運ぶ牛車が点在し、人でにぎわう商店街は、展示品が豊富で品揃えが充実し、いろいろな人種や宗教の人々でごった返していて、そのうちの多くは粗末な身なりで裸足で、肌は薄茶色から黒まであらゆる色の人がいた。アフガニスタン人、シーク教徒、チベット人、シンハラ人、バグダッド系ユダヤ人、日本人、中国人、その他にもいろいろいた。しかし、ああ、それよりも貧しく痩せ衰えた連中、細い体とくぼんだ胸の者がいて、そのうちの多くが人力車を引いて都市中を方々駆け回り、美しい建物や、豪華絢爛な寺院や、大学の脇を駆け抜けた。全ての地境にはヤシ科の植物、ココナッツ、ナツメヤシ、パルミラヤシ、ビンロウジュ、果物、木の実ばかりかゴムの木まであった。要するに、目新しい熱帯特有の景色と人々は、二人が列車でボンベイを離れるまでずっと関心の的だった。行き先はナグプール、カルカッタに通じる大動脈上にあってボンベイの東に位置する都市である。
こうなった理由は、二人がセヴェレンス卿の勧めに従うことにしたからである。卿はグル・ボロダンダジを探すよう助言した。その者は問題を解き、エネルギーをコントロールする者として卿の話に登り、ナグループ近郊に住んでいた。旅行者でも時々、都市中央の広場を一望する昔風の造りの簡素な木造家屋で会ってもらえることがあった。
落ち着いて早々、ベレニスはグル探しを続けたい一心でセヴェレンス卿から受けた指示の文言どおりに行動を開始した。指図に従い、ナグループを南北に縦断して走る幹線道路沿いに、放棄された工場らしい古い荒れ果てた建物にたどり着くまで進んだ。それから右に急旋回して荒れ果てた綿畑沿いに約半マイルほど歩くと、黒檀とチークの大樹から成る木立にたどり着いた。木々は密集し太陽の照りつける熱を遮断するほどだった。ここがグルのすみかだと彼女はピンときた。セヴェレンスがそこを正確に描写してくれていたおかげである。躊躇しながら、疑わしそうに周囲を見回していると、でこぼこの細い道が曲がりくねって森の中心につづいているのが目についた。これをたどってその行き止まりまで進んだ。そこで見たものは、大きくて四角い半分腐った木造物で、後々知ったところによると、この木立が一部を成す森を管理していたかつての役所の建物だった。修理されたことがない壁には大きな穴が数ヵ所あり、その向うもまた同じように荒れ果てた別の部屋だった。実際、後で学んだのだが、その廃墟は、瞑想の指導と、ヨガを通じて内面的な体の全エネルギーをコントロールする力を実演するためにグル・ボロダンダジに与えられたものだった。
ベレニスは多少は不安な思いで近づいたのだが、静寂と頭上高くを覆っている木々の影は、何だか孤独と安寧が支配する領域の印象を与えた。後に残してきた世界が、彼女には全く甘受しがたいものだったせいか、彼女には安寧がとても必要だった。中心部の建物の一つに向かって歩いていくと、色黒で年配のヒンズー教徒の女が目の前に現れ、声をかけながら手招きしてアーチ門がある中庭にうながした。その奥には建物があった。同時にこうも言った。「こっちからどうぞ。グルがお待ちです」
ベレニスは女の後につづいて、壁の残骸を抜け、数本の丸太がある一帯に散らかっている壊れたお椀の脇を通り過ぎた。どうやら丸太がベンチ代わりだった。それから、ヒンズー教徒の女は大きな重たい扉を押し開けた。ベレニスは靴を脱いでから敷居をまたいだ。
部屋の中央の大きな白い布の上に、ヨガの衣裳で座っていた色黒で細面の長身の人物に視線が行った。まるで祈りをしていたかのように、両手は両膝の間で折り重なっていた。しかし、相手は微動だにせず無言のままで、ただ底知れない真っ黒といっていい洞察力がある鋭い目を、彼女の方に向けただけだった。それから口を開いて
「どちらからお出でになりましたか?」と尋ねた。「ご主人が亡くなってまる四ヵ月が経ちましたね。私はあなたを待っていました」
この質問と相手の態度全般に驚いて、ベレニスは心底おびえたかのように思わず数歩退いた。
「恐れることはありません」グルは言った。「あなたがお探しの、絶対的現実ブラフマンを恐れることはありません。さあ、娘さん、ここに来ておすわりなさい」グルは細長い腕を自分が座っている白い布に向けてかざして、相手が座ることになるその隅っこを指した。ベレニスが腰かけると、グルは語り始めた。
「あなたは、ご自分に安寧を与えるものを見つけるためにはるばるやって来ましたね。あなたは、自身のサマーディか、神と自分のつながりを求めています。そうではありませんか?」
「はい、先生」ベレニスはとても驚き、畏怖の念を抱いて答えた。「そのとおりです」
「そして、世間の悪意に大変苦しんだとお感じですね」グルはつづけた。「そして今、それを変える心構えができた」
「はい、そうです、先生、そのとおりです。変える心構えができています。今では私の方こそ、おそらく世間に仇を成したと感じています」
「そして今は、もしできることなら、その傷の修復をする用意があるのですね?」
「はい、そうです、そのとおりです!」ベレニスは穏やかに言った。
「ですが、この作業に数年かける覚悟がありますか、それとも一時の好奇心ですか?」
「自らがつけた傷を元に戻す方法を研究するために、数年を捧げる覚悟があります。知りたいのです。学ばなければならないと感じるのです」その声には真に迫るものがあった。
「それには忍耐、苦労、修練が必要です。ブラフマンの教えに従うことにより、あなたは大成します」
「必要なことは何でもするつもりです」ベレニスは言った。「そのために私は来ました。元に戻すというか、修復するくらい賢くなるためには、精進し瞑想することを習得せねばならないのはわかっています」
「瞑想する者だけが、真実を悟ることができます」と言って、グルはベレニスの観察をつづけて最後に付け加えた。「よろしい、あなたを弟子にしましょう。あなたは誠実ですから、私のクラスにしましょう。明日呼吸法のクラスに参加してかまいません。深い呼吸、中間の呼吸、完全呼吸、鼻呼吸について説明します。呼吸を制することは肉体の生命を制することです。それが第一歩です。そして、これは、あなたが自分の新しい世界を建設する基礎です。それを通して、あなたは執着のない境地に至るのです。欲望から生じる苦しみがなくなるでしょう」
「先生、残りの精神のために、私はたくさんのことをあきらめるつもりです」ベレニスは言った。
グルはしばらく沈黙の間をおいて、それから厳粛なまでの態度で始めた。
「立派な家に住むことや、立派な服を着ることや、おいしい物を食べることを絶ち、砂漠に足を踏み入れる者は、執着の多い者かもしれません。唯一の所有物、自分の肉体だけが、自分の全財産となればいいのです。生きる間は自分の肉体のために、ただ苦労していていいのです。実際には、執着しないからといって、我々の永遠の肉体にかかわる行動に何らかの意味があるわけではありません。全ては心の問題です。王座にいて完全に執着を絶つ者もいれば、ボロをまとっていてとても執着の強い者だっているかもしれません。ですが、人は精神で識別する力を授けられ、アートマンを知って啓発されると、全ての疑いが払拭されるのです。嫌だからといってするのを手控えることはないし、好ましいからしたがるわけではありません。行動を完全にあきらめられる人間はいません。しかし行動の成果をあきらめる者は、執着がないと言えますね」
「ああ、先生、この偉大な知識のほんのわずかでも習得したいものです!」ベレニスは言った。
「全ての知識というものはね、娘さん」グルはつづけた。「精神の贈り物です。知識が蓮の花びらのように開くのは、精神に感謝する者だけです。西洋の先生方からは、芸術と科学を学びますね。東洋の師からは英知の内面的神秘を教わるでしょう。ちゃんと就学したからといって、知識は授かりません。内面の真理に導かれた時だけ、真に知識を授かるのです。内面の真理は死の事実を受けとめてそれを生かします。心を刺激して他人の役に立つために知識を使います。知性ではなく心を通してこそ、神のお目見えがかないます。それだけを願い善行をなさい。そのとき、執着のない境地に達します」
「呼吸法を学ぶために精進いたします、先生」ベレニスは言った。「ヨガのことはよくわかっていて、全ての啓示の基礎だと認識しています。呼吸あっての生命ですからね」
「そうとは限らない」グルは言った。「お望みなら、呼吸がないところに生命があることを、今お見せしよう」
グルは小さな鏡を拾い上げて、それを相手に手渡して言った。「私が呼吸を止めたときに、鼻と口の前にこの鏡をかざして、鏡に湿気が見て取れるか確かめなさい」
グルは目を閉じた。すると徐々に体がまっすぐになり、そのゆらぎのなさは彫像並みになった。深い昏睡状態に陥ったように見えた。グルを観察しながら、ベレニスはその鼻孔の近くで手のひらをかざしたまま待った。数分して、グルの呼吸が弱くなった感触が手に伝わった。それから、驚いたことに呼吸が止まった。周期的な呼吸の気配が全くなかった。ベレニスは待った。それから鏡をとって数秒間鼻と口の前にかざした。湿気の跡は全くなかった。それどころか、今見てのとおり、呼吸が止んでしまった。石を削って作った像のようだった。さすがに気になって腕時計に目をやった。呼吸の兆候を確認するまでに長い十分が経過した。それから完全に正常状態になった。非常に疲れたように見えるグルは、目を開いて相手を見て微笑んだ。
「すばらしいものを拝見させていただきました!」ベレニスは言った。
「私はこうやって何時間も息を止めることができます」グルは言った。「ヨガの行者の中には、何ヵ月も無呼吸をつづける者がいます。ヨガ行者が数週間密閉した地下蔵に閉じ込められて、健康そのもので出てきた例だってありました。この他に」グルは続けた。「心拍のコントロールだって似たようなものに過ぎません。私は完全に心拍を止めることができます。あなたはおそらくご存知でしょうが、血流と呼吸の関係は密接です。ですが、それをお見せするのは後日にしましょう。目には見えませんが、呼吸は大事な臓器にひそむ不思議な力の現象でしかないことをあなたは学びます。それが肉体から去るとき、自ずと呼吸は止まります。死はその結果です。しかし、呼吸をコントロールすることを通じて、この目には見えない流れを多少はコントロールできるのです。
しかし言っておかねばなりません。これはラージャ・ヨガの教えです。それはあなたがいつの日かハタ・ヨガの教えに取り組んでからでないとわかりません。それにもう、あなたは少しお疲れのようだから、お戻りになって明日改めていらっしゃい。修行はそのときに始めればよろしい」
これで、その日のこの希少な人との対面は終わったのだとベレニスにはわかった。それでも、名残惜い気持ちでグルの前から去るとき、まだ未知の知識が山ほど自分には残っているのを感じた。来る時に来たでこぼこ道を取って返す間、少し早足で歩かなければならないと感じた。そのときにはインドの夜が夕やみのすぐあとから迫ってくるのがわかったからだ。欧米のように悠長な日没などではない。それどころか、あっという間に暗闇が訪れ、孤独に包囲されたようになる。
再びナグプールの村に近づくと、ラムテックの神聖な丘の美しさに突如圧倒された。輝かしい白の寺院があり、そこは周辺一帯を支配する重要拠点だった。ここでベレニスは絶景に思いを巡らすのをやめ、遠くの方でヒンズー教徒がいつものマントラを詠唱している声に聞き惚れた。ゆっくりと始まって薄い空気の中を漂った。ベレニスは、それがラムテックの聖者の声なのは知っていた。信仰の神聖な言葉を詠唱するために一日の終わりに集うのだった。最初のうち、その声は低いつぶやきのように穏やかで優しく聞こえたが、近寄っていくにつれて詠唱のテンポは大太鼓を一定にたたく感じになった。すると、この偉大な神を求め、精神を愛する国の波動と同調するように、ベレニスの心はその鼓動の速度を変えたようだった。ここが自分の魂を見出す場所になるのが彼女にはわかっていた。
第七十八章
次の四年間で、ベレニスはヨガの修行のたくさんのさまざまな段階を実践した。最初は、瞑想して座っているときに背骨をまっすぐに保ち、それを感じないほど体をしっかり固定するために使われるヨガのポーズだった。ヨガによるれば、ディヤーナ……瞑想……とは無執着である。そして背骨がまっすぐになると、とぐろを巻いたもの、クンダリーニ(脊柱の根元の三角形)が覚醒し、スシュムナを通って背骨をのぼって七つの神経叢、または意識の中心に至り、最終的に脳の最も高いところ、もしくはたくさんの花弁の蓮、サハスラーラにたどり着く。ヨガによれば、この意識の最高の状態にたどり着くと、人はサマディもしくは超意識に達したことになる。しかし、クンダリーニの力がこの最終地点にたどり着こうが着くまいが、人の認識はその上昇の度合いに応じて拡大、上昇する。
ベレニスは勉強した。プラナヤマ……体の生命力のコントロール、プラティヤーハラ……思考を内省的にすること、ダーラナ……集中、ディアナ……瞑想。そして自分と一緒のクラスの他の教え子たちの何人かとよくノートを比べた。イギリス人が一名、若いかなり高度な知識を持つヒンズー教徒が一名、ヒンズー教徒の女性が二名いた。その後、ハタ、ラージャ、カルマ、ジナーニ、バクティなどのヨガを勉強した。ベレニスは、ブラフマン、絶対的現実、が完全な神であることを学んだ。それは定義や表現のしようがないものである。ウパニシャッドは、ブラフマンが存在、知識、至福であると言っているが、これらは属性ではない。ブラフマンは、存在する、と言えない。ブラフマンは、存在、である。ブラフマンは賢明でも幸福でもなく、絶対的な知識、絶対的な喜びである。
無限は分割できるものではなく、有限の中に含めることもできない。
この宇宙全体は、感覚で感じ取れない私の、永遠を表す形態の私で満たされている。私はどの生き物の中にもいないが、すべての生き物は私の中に存在する。それらが物理的に私の中に存在する、という意味ではない。それは私の神秘である。あなたは、その本質を理解する努力をしなくてはならない。私の存在は、すべての生き物を支え、誕生させるが、彼らとの物理的接触はない。
しかし、もし人間が私を崇拝し、迷わず私を瞑想し、すべての時間を私に捧げるなら、私はその者の必要とするものをすべてを与え、その者が持ちものを失わないようにしよう。他の神々を崇拝し、心の信仰で他の神々に犠牲を捧げる者でさえ、間違った方法ではあるが、本当は私を崇拝している。それは私がすべての犠牲の、唯一の享受者であり、唯一の神だからである。それでも、そういう人間は私を本質的に認識していないので、地上の生活に戻らなくてはならない。
さまざまな神々の犠牲者は、その神々のもとへ行く。祖先を崇拝する者は、自分たちの先祖のところへ行く。自然の力や精神を崇拝する者は、そういうところに行く。だから、私に帰依する者は私のところに来る。
ある日彼女のグルは言った。「私たちが呼吸する空気は、その脈動ごとに『梵我一如(汝はそれである)』を唱えます。無数の太陽と月をもつ宇宙全体が、話をするすべてのものを通じて、ひとつの声で『梵我一如!』と叫びます」
ベレニスはエミリー・ブロンテの美しい詩を思い出した。それは長いこと彼女のお気に入りの一つだった。
最後の詩
私の魂は臆病ではない。
この星を騒がす世界的な嵐でも震えない。
天の栄光が輝くのを見ると、
信仰が輝いて、恐怖から私を守ってくれる。
ああ、私の胸の中の神、
全能の、常に存在する神!
私の中で安らぐ命、
私、不滅の生命は、あなたの中で力を持っています。
人の心を動かす千の信条は虚しい、
語りようがなく虚しい、
その価値のなさは、枯れ草か、
果てしない大海原に漂う泡沫のようなもの。
私の中に疑いを目覚めさせるのか、
あなたの無限の力にしっかりささえているのに、
錨がおりているのである、
不滅の堅固な岩に。
広く包む愛で
あなたの精神は永遠の歳月に命を吹き込む、
行き渡り、浮かび上がり、
変え、支え、解き、生み、育む。
大地と人が消え、
太陽と宇宙がなくなり、
あなただけが残されれば、
あらゆる存在はあなたの中にあろう。
死が入る余地はない
神がなくせる原子もない。
あなた……あなたは存在し息をしている、
あなたは、決して滅ぼされない。
また別のときに、グルは尋ねた。
「あなたではない者は、どこにいますか? あなたは宇宙の魂です。人があなたのところに来たら、自分から会いに行きなさい。すべては一つです。分離という概念は幻覚です。あなたは憎み、愛し、恐れます。すべては幻覚、無知と妄想です」
「優柔不断な考えや言葉はどれも、存在する唯一の悪です」
「太陽が消え、月が塵と化し、星系が次々に破滅に追いやられたら、それはあなたにとってどういうことでしょうか? 岩のように立つのです。あなたは不滅です」
不滅について。「数か月前に太陽の中にあったエネルギーの粒子は、今は人間の中にあるかもしれません。
新しいものは何もないのです。車輪がぐるぐる回るように、同じ一連の現象が交互に起きています。この宇宙のすべての運動は、上昇と下降の繰り返しです。体を持つ者が次から次へと、より繊細な形態から生まれ、自らを進化させ、より大きな形態になって、また消えてなくなり、再び原因に戻っていきます。すべての生きものがそうです。どの生命も現れてはまた戻っていきます。何が衰えるのでしょう? その形です。ある意味では、肉体でさえ不滅です。ある意味では、肉体と形は永遠です。どういうことでしょう? いくつかのサイコロをとって投げるとします。サイコロの目が五・六・三・四になったとします。サイコロをとってまた投げます。何度でも。また同じ目が出て、同じ組み合わせがそろう時がきっと来ます。
宇宙を構成している原子は、何度でも、投げられては目の組み合わせを作るサイコロのようなものです。しかし、まったく同じ組み合わせの目が出るときが、つまり、あなたがここにいて、この状態がここに成立して、この話題が出て、この賽を振る人がここにるときが、あるに違いありません。これがこれまで無限に繰り返されてきました。そしてこれからも無限に繰り返されるでしょう。
私たちは生まれませんし、死にません。ひとつひとつの原子は生き物であり、それぞれの独立した生活を送っています。こういう原子が合体して一つの目的をめざすグループを作り、そのグループがグループである間に、グループはグループ規模の知性をはっきりと形にします。そしてこのグループがまた順番に合体してもっと複雑な性質の母体を作ります。それがもっと高度な意識形態をめざす乗り物として機能するのです。死が肉体に訪れると、細胞は分離してばらけ、私たちが腐敗と呼ぶものが始まります。細胞同士を結びつけていた力がなくなり、細胞は自由にそれぞれの道を進み、新しい組み合わせを作るようになります。死は生の一面であり、一つの物体の破壊は、別の物体を構築するための前段階に過ぎません」
そして、退化について。「種子は植物になる過程のものです。砂粒は植物になることはありません。子供になるのは父親です。粘土の塊が子供になることはありません。この退化がどうして起こるのか、が問題です。種子とは何だったでしょう? それは木と同じです。未来の木の可能性のすべてが、その種子の中にあります。将来の人間の可能性のすべてが、赤ん坊の中にあります。あらゆる生命の可能性のすべてが胚の中にあります。これは、どういうことでしょう? これで、あらゆる進化は退化を前提にしていることがわかります。もともと関係ないものは進化させることはできません。ここでもまた、現代科学が私たちを助けてくれます。数学的な推論をすれば、宇宙に見られるエネルギーの総和は全体を通して同じであることがわかりますね。物質の原子ひとつとか、一フートポンド分の力を取り去ることはできません。このように、無から進化は生じません。それではどこから生じるのでしょう? それはその前の退化の中で生じたのです。子供は関係性を持つ人間であり、人間は進化した子供です。種子は木に関係性があり、木は進化した種子です。生命のすべての可能性は胚の中にあります。問題が少しはっきりしましたね。生命の継続という最初の考え方を、それに加えます。最下層の原形質から最も完全体の人間までに、生命はひとつしかありません。その設計図は形が進化する前の種子で継承されるのです」
ある日、ベレニスは尋ねた。「慈善についてはどうですか?」
グルは答えた。「貧しい者を助けるとき、少しも誇りを感じないことです。その機会を与えてくれたことに感謝してください。そうすることはあなたの名誉です。誇る理由にはなりません。宇宙全体があなた自身ではありませんか? 貧しい人がそこにいて、その人に贈り物をすることで、あなた自身を助けられることに感謝してください。祝福されるのは、受け取る人ではなく、与える人です」
ベレニスは美について再び尋ねた。とても多くの人が、あらゆる形の美を崇拝した。実際、人は美の奴隷だった。
グルは答えた。「最低の部類に入る魅力の中にさえ、神の愛の芽はあります。サンスクリット語の神の名の一つにハリがあります。これは神が万物を自分のもとに引きつけることを意味します。実際、神こそが、人の心に値する唯一の魅力です。魂を引き寄せることなど、いったい、誰にできるのでしょう? 神しかいません。男性が美しい顔に惹かれるのを見たとき、本当にその男性を惹きつけているのは、一握りの並べられた物質分子である、とあなたは思いますか? そんなことはありません! そういう物質的な粒子の背後には、神の影響力の戯れと神の愛があるに違いありません。無知な者はそれを知りません。しかしそれでも、意識しようがしまいが、人はそれに惹きつけられます。しかもそれだけにです。だから、最低の部類の魅力でさえ、その力を神からもらっているのです。『愛する人よ、夫のために夫を愛した人は誰もいません。内側にいるのはアートマン、神であり、神のおかげで夫は愛されるのです』神は偉大な磁石です。私たちはみな、鉄粉のようなものです。私たちはみな、絶えず神に惹かれています。私たちはみな、神にたどり着こうと努力しています。すべての形や模様を通してブラフマンの顔が反映されます。私たちは美を崇拝していると思っていますが、実際には、輝いて見えるブラフマンの顔を崇拝しているのです。その裏の絶対的現実を見ています」
改めて言った。「ラージャヨガの行者は、自然のすべてが、魂が経験を積むためのものであり、魂のすべての経験の成果が、魂が自然から永遠に分離していることを自覚するためのものであることを知っています。人間の魂は、それが精神であり永遠に物質ではないことと、それがこうして物質と結びつくことはあるが、ほんの一時的なものでしかありえないことを、理解し認識しなければなりません。ラージャヨガの行者は、この堅実そうに見える自然がすべて幻想であることを、最初から認識しなければならないので、すべての放棄の中で最も厳しいものを通して、放棄の教えを学びます。自然界のあらゆる種類の力の現れは、すべて魂に属しているのであって、自然に属するものではないことを理解しなくてはなりません。すべての知識とすべての経験が自然の中ではなく魂の中にあることを最初から知らなければなりません。だからただちに、合理的な信念の純粋な力によって、自然へのあらゆる束縛から自分を引き離さなければなりません。
しかし、すべての放棄の中で最も自然なのは、バクティヨガの行者の放棄です。ここには暴力はなく、いわば私たち自身から引き剥がすものが何もなく、暴力によって自分たち自身を引き離さなければならないものは何もありません。バクティの放棄は簡単で、穏やかで、流れるようなで、私たちの周りのものと同じように自然です。人は自分の街を愛し、それから国を愛し始めます。すると、自分の小さな街に対する激しい愛情は、穏やかに、自然に、減っていきます。再び、人は全世界を愛することを学びます。自分の国に対する愛情、激しい熱狂的な愛国心は、自分を傷つけることなく、何の暴力の兆しもなく、減っていきます。教養のない人間は、感覚の快楽を激しく愛します。教養を身につけると、知的な快楽を愛するようになり、感覚の喜びはどんどん小さくなります。
バクティの達成に必要な放棄は、何かを断ってできるのではなく、もっと強い光が現れると、それより強くなかった光はどんどん存在感が薄れて、完全に消えるのと同じように、自然にできるのです。だから、この感覚と知性を楽しむ愛は、神への愛によって、すべてがぼんやりし、脇に追いやられ、陰に放り込まれます。神への愛は成長し、パラバクティ、もしくは最高の献身と呼ばれる形になります。形は消え、儀式は飛び去り、書物は取って代わられ、像、寺院、教会、宗教や宗派、国や国民性、こういうすべての小さな制限や束縛は、この神の愛を知る者から自然になくなります。その者を縛り、自由を束縛するものは何も残りません。船は突然、磁力のある岩に近づくと、鉄のボルトや格子がすべて引き抜かれ、厚板がゆるんで、水面に勝手に浮かぶのです。神の恵みがこのように魂を束縛しているボルトや格子を緩めるので、魂は自由になります。だから、献身的な行為を助けるこの放棄には、つらさも苦しさも抑圧も抑制もありません。バクティは人の感情を一つも抑圧することはありません。人はただそれらを強化して、それらを神に向ける努力をするだけです。
この明らかな幻想の世界を捨て去り、すべてのものの中に神を見ることで、人は真の幸福を見つけることができます。あなたが望むものを持ちなさい、しかしすべてを神だと思いなさい。所有するものは何もありません。すべての中の神を愛しなさい。このように努力すれば、キリスト教の『まず神の国を求めよ』という教義に相当する道をあなたは見つけるでしょう。
神は、あらゆる生きものの心の中に住んでいます。神はマーヤーの回転にのせて、それらをぐるぐる回します。神の中に完全に逃げ込みなさい。神の恵みによって、あなたは最高の平和とすべての変化を超越した状態を見つけるでしょう。
時間のサイクル、もしくはカルパの終わりに宇宙が消えれば、潜在の段階……つまり種子の状態……に移行して、次の創造を待つのです。スリ・クリシュナの呼び方では、現れている段階が『ブラフマーの昼』、潜在している段階が『ブラフマーの夜』です。世界に住む生き物は、このサイクルに従い、その都度次の宇宙の昼と夜を迎えて、絶えず再生しては消滅しています。しかし、この消滅は『神に戻る』と考えるべきではありません。生き物は、世に送り出してくれたブラフマンの力に戻って、再び現れる時が来るまで、現れていない状態でそこにとどまるだけです。
ヒンズー教は、クリシュナ、ブッダ、イエスを含め、この先もっと多くなりそうな大勢の神の化身への信仰を受け入れます」
どの時代にも、私は戻って来る
神聖なものを伝えるために、
罪人の罪を滅ぼすために、
正義を確立するために。
そしてある日、最後の言葉がグルからベレニスに告げられた。グルも知ってのとおり、ベレニスは連絡があって、彼のもとを去ろうとしていた。
「これで私はあなたに秘中の秘である知恵を授けました」グルは言った。「よく考えてください。その上で、あなたが一番いいと思うことをしなさい。ブラフマンによれば、妄想から解放されて、私を絶対的現実として知る者は、知ることができることをすべて知っています。だから、私のことを心から崇拝します。
これは、私があなたに教えたすべての真理の中で、最も神聖なことです。それを理解した者は、真の賢者になります。その者の人生の目的は達成されます」
第七十九章
翌年、ベレニスと母親はインドの大部分を旅行して回った。この魅力的な国を、もっと見たい、知りたい、と思った。人生の四年間をヒンズー哲学の本格的な研究に捧げたが、原住民の生活を十分見てきたので、欺かれ無視された人々であることがわかった。帰国するまでに彼らについて学べることは全部知りたいと思った。
そして、徐々にジャイプール、カーンプル、ペシャワール、ラホール、ラワルピンディ、アムリトサル、ネパール、ニューデリー、カルカッタ、マドラス、そしてチベットの南国境まで旅行先を広げた。そして遠くへ行けば行くほど、この驚愕と困惑の土地の何百万人もの住民の低い精神的、社会的水準からベレニスが受ける衝撃は大きくなった。国がこれほど立派で奥深い宗教的な人生哲学を発展させるのに、同時に、こんなに低俗で残酷な抑圧的な社会制度を作って維持し、それにより何百万人もがパン以下のものを求めて苦労する一方で、少数が何とか王族のような生活を送っている実情に困惑した。この明確な格差への純然たる幻滅は、あまりにも大き過ぎてベレニスの理解を超えていた。
ベレニスは、汚らしい、ボロを着た、あるいは裸の、見るからに絶望に暮れた物乞いのいる通りや道路を見た。中には弟子である他所から移住してきた聖人に施しを乞う者もいた。地域によって精神的、肉体的な困窮の種類は、他とは比べものにならなかった。ある村では、住民のほぼ全員が疫病に見舞われたが、何の援助も救援も得られず、死ぬことしか許されなかった。また、多くの村落で、一つの小さな部屋を三十人が占拠するのを見るのは普通だった。その結果が病気と飢饉である。それなのに彼らは、部屋に窓や何かの穴があると、自分たちでそれを塞いでしまった。
ベレニスにとって社会悪の最たるものは、子供を妻にするという衝撃的な慣行だった。実際、この習慣の結果はすでにインドの幼ない妻の大半を、健康や正気とは到底比較できない劣悪な肉体的、精神的な状態にしていた。次に来る死は害悪というより天恵だった。
不可触民の嘆かわしい問題は、この考えに至った起源をベレニスに尋ねさせることになった。現在のヒンズー教徒の肌の白い先祖が最初にインドに来たとき、そこには南部の大寺院を建てたドラヴィダ人という色の黒い体格のがっしりした原住民がいた、とベレニスは聞かされた。そして入植者側の聖職者が、自分たちの民族の血が原住民の血と混ざることがないよう、一つの血統が保たれることを望んだ。そのために彼らは、ドラヴィダ人を汚れた『触れてはならない者』と宣言した。つまり最初の人種差別は不可触民制度が始まりだった!
ベレニスが教わったように、かつてガンジーは言った。
「インドの不可触民制度は終わりかけている。すべての反対をよそに急速に進んでいる。これはインドの人間性を低下させてしまった。『不可触民』は、まるで獣以下のように扱われている。まさに彼らの闇は、神の名を汚している。インドに押しつけられたイギリスのやり方を非難するのと同じくらい強く、それ以上に強く、私は不可触民制度を非難する。私にとって不可触民制度は、イギリスの支配以上に耐え難いものだ。ヒンズー教が不可触民制度を抱え込むなら、やがてヒンズー教は死滅してしまう」
しかしベレニスはヒンズー教の講師と立ち話をしているときに、貧弱な幼児を連れた若い不可触民の母親の数名が、いつも遠くの方から物欲しそうな悲しい顔で、自分を見ている姿を見たことがあった。そして、その中の数名がどれほど顔や体型が傷つきやすそうだったかを思わずにはいられなかった。実際、ベレニスには普通の魅力的で知的なアメリカの娘に見えたそのうちの一人か二人だって、もし道徳的堕落や、無視や、孤立にさらされたら、そのインド人の妹に見えたかもしれない。それでも、聞いたところでは、キリスト教徒になってその呪いから解放された不可触民は五百万人いた。
これに加えて、ベレニスは、栄養失調、育児放棄、病気によって回復不可能なほど衰弱して痩せ細り、手探りで歩き回っている、とても大勢の子供たち、小さな飢えた人たちの哀れな境遇を目の当たりにせずにいられなかった。ベレニスは精神的に傷ついた。神、ブラフマンは、すべての存在、至福である、というグルの自信に満ちた言葉が浮かんだ。そうなら、神はどこにいるのだろう? この考えは耐えられなくなるまでベレニスから離れなかったが、突然、この悲惨な状況に立ち向かって克服しなければならない、という逆の考えが燃え上がった。そして、すべての神の中のすべては、この神の地上の相が変えられるか、悪が善と入れ替えられまで、助け、援助し、変えろ、と彼女に話したり指示をしたりしなかっただろうか? ベレニスは心からそうなることを願った。
ベレニスと母親は、終わりのない悲惨な光景の衝撃にショックを受けて苦しんだ。アメリカに戻らなければならない、そこなら自分たちが見てきたものすべてを考えるもっと多くの時間と安らぎがある、もしできるのであればこのような悲惨な状況をなくすのを助ける手段がある、と思うときが、いよいよ訪れた。
そして二人は、明るくて暖かい十月のある日、リスボンから直行するSSハリウェル号に乗って、ニューヨークのロウアー湾に到着し、ハドソン川を上り、二十三丁目に入った。街の見慣れたそびえ立つ地平線と平行してゆっくり航行しながら、ベレニスはインドでの年月が今自分に与えている大きなギャップについて考え、戸惑った。ここには、清潔な通り、高価な高層ビル、権力、富、ありとあらゆる物質的な快適さがあり、よく食べ、きれいに着飾った人たちがいる。ベレニスは、自分が変わったと感じていたが、その変化が何でできたものなのかまだわからなかった。飢餓の最も醜い形を見てしまい、それを忘れることができなかった。また、自分がのぞき込んだ顔のいくつか、特に子供の顔の表情が絶えずつきまとって忘れることができなかった。もし打つ手があるとしたら、これについて何ができるだろう?
しかし、ここは彼女の国、生まれ故郷、世界中のどこよりも彼女が愛する場所だった。だから、ベレニスの鼓動はごくありふれた光景を見ただけで、例えば、果てしなく続く広告の看板、カラーや文字の大きさが十二インチの派手なものを使っているのに実在しないことが依然として多々ある価値を装ったもの、新聞売りの大きな甲高い叫び声、タクシーや自動車やトラックのやかましいクラクション、それを裏付けるものをろくに持ち合わせないことが多い平均的なアメリカ人旅行者の虚栄心や見栄など、を見ただけで少し早まった。
少なくとも数週間、プラザ・ホテルに滞在すると決めてから、ベレニスと母親は手荷物を申告して、ようやく我が家に帰ってきた幸せな気分でタクシーに乗り込んだ。ホテルの部屋に落ち着いてからベレニスが最初に思いついたのはジェームズ医師を訪ねることだった。クーパーウッドのこと、自分のこと、インドのこと、これまでの出来事のすべてのこと、そして自分の将来についてジェームズと話をしたかった。そして、西八十丁目の自宅の個人事務所で彼に会ったとき、ベレニスはジェームズの暖かい心のこもった歓迎と、自分の旅や経験について話さなければならなかったすべてのことに彼がとても関心を持ってくれたことに、大喜びした。
同時にジェームズは、ベレニスがクーパーウッドの遺産に関する話をすべて聞きたがっているのを感じた。すべての出来事の納得いかない扱いを見直すのは嫌だったが、ベレニスの不在中に何が起こったのかを正確に説明するのが自分の義務だと感じた。だからまず、数か月前にアイリーンが亡くなったことを話した。これはベレニスにとって大きな衝撃であり驚きだった。彼女はアイリーンをクーパーウッドが自分の遺産に託した願いを実行してくれる人だといつも考えていた。すぐに病院のことを考えた。病院の設立が彼の心からの願いの一つだったのを彼女は知っていた。
「彼がブロンクスに建設しようとしていた病院はどうなりましたか?」ベレニスは真剣に尋ねた。
「ああ、あれですか」ジェームズ医師は答えた。「あれは実現しませんでした。フランクが死んだとたんに、法律に詳しいハゲタカがわんさかと遺産に舞い降りたんです。請求、反訴、差し押さえ状、果ては遺言執行人の選定を巡る法律論まで抱えて、あらゆるところからやってきました。四百五十万ドル相当の債券が紙くずだとされたんです。抵当権の利息や、あらゆる種類の訴訟費用の請求が常に遺産に対してなされて、最終的に当初の十分の一にまで減ってしまいました」
「じゃあ、アートギャラリーは?」ベレニスは心配そうに尋ねた。
「すべて消えました……競売にかけられたんです。邸宅そのものが税金や他の請求を払うために売却されました。アイリーンはアパートに引っ越さざるを得なくなりました。それから、肺炎にかかって亡くなりました。間違いなく、このすべてのトラブルに対する悲しみが彼女を死に追いやったんです」
「まあ、なんてひどいこと!」ベレニスは叫んだ。「もし彼が知ったら、どんなに悲しむかしら! あれを建てるために一生懸命働いたのに」
「ええ、そうでしたね」ジェームズは言った。「しかし、世間は彼の善意を評価しませんでした。アイリーンが死んでからも、クーパーウッドを社会的な、犯罪者同然の落伍者だと評する記事が新聞にありました。彼らが言うには何百万ドルが『夢のように消えた』からだそうです。実際、ある記事は『何の役に立つのか?』という見出しで、フランクを完全な落伍者として描きました。確かに、多くの心無い記事がありました。大勢の人たちが法律に目をつぶったとはいえ、すべては彼の死後、彼の財産がほとんどなくなったという事実に基づいています」
「ああ、ジェームズ先生、彼がやろうと考えていたすばらしいことがなくなってしまったなんてひどいじゃありませんか?」
「ええ、墓と思い出の他は何も残されていません」
ベレニスは自分の哲学的な発見を先生に話しつづけた。自らが感じた内面的変化が自分に起こっていた。かつてはとても重要だと感じていた物事はその魅力をなくしていた。例えばクーパーウッドと関わりがある自分の社会的な立場への不安だ。自分にとってもっと重要なのは、インド人全体の悲劇的な状況である、と言ってベレニスはそれについて若干話した。貧困、飢餓、栄養失調、文盲、無知などで、その多くは迷信と言っていい宗教的、社会的妄想から生まれていた。要するに、世界の社会的、技術的、科学的進歩をまったく理解していなかった。ジェームズは、ベレニスが話終えるまでところどころで「ひどいな!」「すごいな!」と相槌を打ちながら熱心に聞き、話が終わった後で言った。
「確かに、ベレニス、あなたがインドについて言うことは全部事実だ。でもね、アメリカとイギリスだって社会的な欠陥がないわけじゃないこともまた事実なんだ。実際、この国だって確実に社会悪や問題点は多々あるからね。いつか私と一緒にニューヨークをちょっと一回りしてくれたら、あなたの言うインドの物乞いや、肉体的にも精神的にも生きながらえるチャンスがほとんどない放置された子供たちと同じくらい悲惨な人たちがいっぱいいる広い地区を見せてあげますよ。貧困に生まれて、ほとんどの場合、貧困で終わるんだ。その間の年月だって、私たちが考えるような意味で、生きていると呼べるようなものは何もない。それから製造業や工場の町には貧民街がある。そういう所の生活環境は世界のどこで見られるものと同じくらい劣悪ですよ」
ここでベレニスは、その話を裏付けるようなニューヨークのそういう場所をいくつか見に連れて行ってほしいと言った。生まれてこのかたそういう環境をろくに見聞きしたことがなかったからだ。ジェームズ医師はベレニスがそう言うのを聞いても驚かなかった。彼女の社会ののぼり道は、若い頃から守られた道だったことを知っていたからだ。
もう少し長居をしてから、ベレニスはホテルへ帰った。しかし、帰る途中、クーパーウッドの財産が消散したというジェームズの話を頭から払拭できなかった。クーパーウッドの計画のすべての残骸を心の中で振り返るうちに悲しみでいっぱいになった。私たちは完敗した! 同時にベレニスは、彼が自分に向けた愛情、彼の精神的、感情的な自分への依存、自分が彼に向けた愛情、について考えていた。思い返せば、彼がロンドンに行って地下鉄整備計画に取り組むことを決めたのは自分の影響によるものだった。そして今、ここでベレニスは次の日また彼の墓を訪れようと計画していた。当時の彼女にとってとても生き生きと現実的ですばらしく思えたすべての価値観の最後の形ある痕跡は、彼女がインドで経験したすべてに比べると、今の彼女にはもう重要ではなくなっていた。
翌日は、クーパーウッドが埋葬された日とよく似ていた。空はまた灰色で曇っていた。墓に近づくと、まるで一本の石の指が鉛色の真昼の空を指し示しているようだった。両腕いっぱいに花を抱えて、小石を敷き詰めた道を歩いていくと、フランク・アルガーノン・クーパーウッドの名前の下にアイリーン・バトラー・クーパーウッドの名前があるのに気がついた。あれほど激しく苦しみ、失った男の傍らに今ようやくアイリーンがいるのを見て心が穏やかになった。ベレニスは勝ったように見えたが、それは一時的なものに過ぎなかった。彼女もまた苦しみ、結局は失ったのだ。
クーパーウッドが最後に眠る場所を物思いにふけって見つめながら立っていると、葬儀で語った牧師のよく通る声がまた聞こえる気がした。
「あなたが彼らを追い散らすと、すぐに彼らは眠ったようになります。そして急に草のようにしおれます。朝は青々と栄えても、夜には切り倒され、しおれて、枯れてしまいます」
しかし今のベレニスには、インドに行く前のような考え方で、死について考えることはできなかった。そこでは、死は生の一段階にすぎず、ある物質的な形が壊れることは、別の形が作られる前の段階にすぎないと考えられていた。「私たちは生まれることも死ぬこともない」と、そこでは言っていた。
そして、墓の踏み段にある青銅の壺に花を生けて歩く間にベレニスは考えた。クーパーウッドは生きてここにいたときは知らなかったとしても、彼があらゆる形、特に女性の形の中の美を崇拝し、絶えず探し求めたのは、すべての形の背後に神が描いたもの……透けて輝いているブラフマンの顔……を探し求めたに他ならない、ことを知っていたに違いない。二人が一緒にいたら、彼なら自分とこの考えを分かち合えたかもしれないと願いながら、あの言葉を思い出した。
ブラフマンに吸収され
彼は世界を制す。
ここでさえも、世界の中で生きている、
ブラフマンは一人、
不変であり、悪の手はとどかない。
私たちには神以外にどんな住み家があるのか?
それと、グルが慈善について言ったことは何だっただろう? 「他人に与える機会に感謝をしなさい。貧しい人を助けることで、自分を助けることができる、と感謝をしなさい。なぜなら、宇宙はあなた自身ではありませんか? 人があなたのところに来たら、自分から会いに行きなさい」
しかし、今、自分の良心を探してみたが、慈愛の心はこれまで自分の人生のどこにあったのだろうか? これまで他人を助けるために、自分は何をしてきたのだろう? 自分の生きる権利を正当化するために、自分はこれまでにどんなことをしただろう? 事実、クーパーウッドは貧しい人たちのために病院を作ろうと思い立っただけではなく、その計画は頓挫したにせよ、それを実現させるために、人としてできるあらゆることを行ったのだ。しかし自分は……自分はこれまでに貧しい人たちを助けたいと願ったことがあっただろうか? 人生全体を思い出すことはできなかったが、この数年を除けば、快楽と、自分の向上の追求に費やされていた。しかし、もうベレニスは、人は自分の外側にあるものために生きなければならないことを知っていた。それは、自分もその一員である少数の人たちの虚栄心や快適さのためではなく、大勢の人たちが必要とするものに応える何かのためだった。人を助けるために自分に何ができるだろう?
考えごとをしていて、ふとクーパーウッドの病院のことが脳裏をよぎった。自分の力で病院を作れないだろうか? 結局、クーパーウッドはベレニスに大きな財産を残していた。換金すれば簡単にかなりの金額が作れる貴重な美術品でいっぱいの立派な家に、すでに持っている分を加えれば、少なくともこの計画を始められるかもしれない。それに、おそらく、他の人たちにも助けてもらえるかもしれない。ジェームズ先生は、きっとそのうちの一人になってくれるだろう。
これは何てすばらしいアイデアかしら!
補記
この前の章は、一九四五年十二月二十八日に死ぬ前に、セオドア・ドライサーに書かれた最後の文章で成り立っている。彼は、追加の章と、三部作『資本家』、『巨人』、『ストイック』の三冊の概要のメモを残した。この概要は、人生、強者と弱者、貧富、善悪に関する作者の考え方について、読者の心に疑問の余地を残すまいとした独白の形で書かれたのだろう、とドライサー夫人は指摘する。
以下は、夫のメモをもとにセオドア・ドライサー夫人に作られたものである。
ベレニスは馬車でグリーンウッドから帰る間に、病院の建設推進の可能性を考え、技術面、医学面だけでなく、複雑な実務面と現実的に向き合っていた。これには、裕福で慈善的な精神を持つ人たちと、このような大きな事業を正しく組織化して進めるために使える、適切な専門技術や知識を持つ人たちの参加が必要になるだろう。中身ごとパーク・アベニューの自宅を売却する計画を立てた。これで少なくとも四十万ドルが手に入ることになる。これに今の財産の半分を加えるつもりだった。それでも全体からすれば、これは小さな始まりにすぎない。ベレニスが考えたとおり、確かにジェームズ医師は医院長と経営者にふさわしい人だが、果たして興味を持ってもらえるだろうか? ニューヨークのイーストサイドでも最悪のアパートの一つに一緒に行こうと誘ってくれたジェームズ医師に再会するまで、ベレニスの頭は病院の可能性についての考えと期待でいっぱいだった。
若い頃、ニューヨークの貧困で苦しむ、みすぼらしい、放置された地区を訪れたことがなかったベレニスにとって、今回初めてイーストサイドの街を訪れたのは痛ましい体験だった。ニューヨークの主要な高級ホテルのレストランで、実の母親がルイビルのハッティ・スターである事実を公の場で知り、初めて社会追放の重大さと恐しさがいきなり降り掛かった、ひどく罰の悪い思いをさせられたあの運命の夜まで、ベレニスはずっと母親に守られていた。
しかし、ベレニスはこのすべてを切り抜けた。後で知ることになるが、彼女の価値観は計り知れないほど変わっていた。過去の社会的野心は、今の彼女には薄っぺらいものに思えた。もっと深く人生に入り込みたい……これまで触れたことのなかった生命力を間近で観察し研究したい……という願望がインドで彼女の中に生まれていた。自分個人のために社会的に安定した地位を求めるのではなく、社会的に価値ある仕事を見つけたいと意識するようになっていた。
そして、ジェームズ医師と一緒に彼がよく知るアパートを訪問したとき、その場所のひどい環境と悪臭と汚さに影響されたせいで、ベレニスは気分が悪くなった。見たところ、ベッドはなかった。その代わりに、ワラ布団が夜は床に敷かれて昼は隅に積み重ねられた。十二×十五ほどの部屋と、隣りの九×十二ほどの小部屋に、六人の大人と七人の子供がいた。窓はない。しかし、壁には大きな穴があいていて、匂いと紛れもない痕跡から、ネズミがいるのは明らかだった。
ようやく通りに出て再び新鮮な空気を取り戻すと、ベレニスはジェームズ医師に、自分の野望は、たった今見た哀れで放置された子供たちを少しでも助けるためにこの手でクーパーウッド病院を作ることだと告げた。自分の全財産の半分をよろこんでこの計画に出すつもりです、と言った。
ジェームス医師は、ベレニスのこの心境の変化にとても感激し、数年前にアメリカを離れてから、変化が彼女の中で起きていたことに気がついた。そしてベレニスは、自分の願いに対するジェームスの好意的な反応を感じると、そのための資金集めを手伝ってもらえないか、それと個人的に彼がその病院の医療面と技術面の指揮をとってもらえないかと尋ねた。ジェームス医師は、ブロンクスの近くにはどうしても病院が必要だと長い間認識していて、それが彼の悲願のひとつでもあったので、この考えに心から賛成し、経営者と医院長になることを光栄に思うと言った。
六年後に、病院は完成し、ジェームズ医師は責任者になった。ベレニスは看護婦の道に進んだ。自分でも驚いたが、これまで知らなかった強い母性本能が自分にあることを発見した。子供が大好きで、小児病棟の担当をまかされた。ジェームズ医師も気づいていたが、ベレニスは時々こういう見捨てられた浮浪児に不思議と強く慕われるところがあった。そういう子らは、ベレニスに著しく反応した。
何かの拍子に、目の不自由な小さな子供が二人、入院した。二人とも生まれつき目が不自由だった。パトリシアという名前の、五歳になる小柄でひ弱な金髪の子供は、子守りの時間が全く持てなかった働き詰めの若い女の娘で、片隅の小さな揺り椅子に何時間も、刺激も関心も全然与えられずに、座らされたままだった……この子の自然な発育を遅らせた育児放棄はこうして行われた。母親も障害を持つ子供に罪悪感を抱いていた。ベレニスはこの小さな独りぼっちの人間の子供を見ると、この子に魅了されてしまい、小さなことをたくさん教えて助けたくなった。その中に子供部屋の滑り台を自信を持って滑り降りるやり方があった。パトリシアはこの単純な芸当に大喜びして、何時間もかけて何度も滑り降りを繰り返した。自分が新たに見つけた主体的活動に毎回幸せを振りまいていた。
そのとき、デイビッドもそこにいた……五歳くらいで、生まれつき目が見えなかった。愛情と理解のある聡明な母親がいたから、デイビッドの方が生まれた環境は恵まれていた。その結果、デイビッドはパトリシアよりも発育がよかった。デイビッドはベレニスから、木に登って上の枝の間に座ることを教わった。目の不自由な子供たちがよくやるように、頭を左右に振りながら、細くて敏感な顔を太陽に向けて『黄昏』を繰り返し歌った。ある日、ジェームズ医師は子供部屋を見渡せる大きな窓の前を通りかかったときに立ち止まって、ベレニスが子供たちの間を行ったり来たりしているのを見た。子供を相手に仕事をしているとき、彼女がどれほど生き生きと幸せそうでいるかに気がついた。看護婦長のスレーターが通りかかると、彼はそう言った。ベレニスは彼女に期待されていたものをはるかに上回り、惜しみない称賛に値する、と二人の意見は一致した。同じ日の夕方、ベレニスが帰宅するために病院を出ようとしていると、スレーター婦長とジェームズ医師は、彼女が子供たち相手の仕事をどれほどうまくやっているかや、みんなが彼女のことをどれほど愛して感謝をしているかを語った。ベレニスは、この不幸な子供たちのために貢献できたことに感謝を表明しながら二人に丁寧にお礼を言った。
しかし、質素なアパートに帰る道を歩く間、人生という世界のパノラマの中で自分が演じているのは何て小さな役割かしら、と考えずにはいられなかった。困窮と絶望の海の中の、ひとかけらの人間の優しさ! ベレニスはインドの貧しい飢えた子供たち……その苦悶の顔……を思い出した! 彼らの悲惨な境遇に対して、世界の他の人たちは残酷で、見ようともせず、耐え難いほど無関心なのだ。
「一体、世界って何なのかしら?」ベレニスは自問した。「どうして何百万という小さな子供たちがそこに誕生するのかしら、ただ苦しみ、蔑ろにされ……物不足、寒さ、飢えのせいで死ぬしかないのに?」そう、確かに、今、自分は、運良く病院に運び込まれた数少ない子供たちの苦しみを和らげるために、自分にできることをやろうとしている、とベレニスは思った。しかし、受け入れられなかった何千もの人たちはどうなのかしら? その人たちはどうするの? 自分の貢献など大海の一滴でしかない。ほんの一滴だ!
ベレニスは心の中で自分のすべての人生を振り返った。クーパーウッドと、彼の人生で自分が演じた役割を考えた。彼はどれくらい長い間、戦ってきたのだろう……何のために? 富、権力、贅沢、影響力、社会的地位かしら? フランク・クーパーウッドをあれほど悩ませ、駆り立てた、達成への熱望と夢は、今はどこにあるのかしら? そして、自分はほんの短い間に、このすべてからどれくらい遠ざかったのかしら! 自分の守られた、豊かで、甘やかされた生き方から、人生の厳しい現実に、突然、目覚めさせられたのだ……その生き方は、そもそもインドのような見知らぬ国に行くという衝動で行動していなかったら、決して自分では評価できなかったかもしれない。そこでは、事あるごとに自分の感性とは対照的なものを突きつけられた……その対照的なものからは逃れるようがなかった。
そこで初めて彼女は精神的な覚醒の始まりを経験した。それは今でも彼女にもっとはっきりものが見えるようにしてくれていた。自分は続けなければならない、成長しなくてはならない、とベレニスは思った。そしてできることなら、人生の意味とその精神的な重要性について本物の深い知識を獲得しなければならない。




