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ストイック  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第31章ー第46章

  第三十一章



〈チャリングクロス鉄道〉の譲渡に関連するいかなる情報も現時点では報道に提供されないことが合意されていたのに、どういうわけか、おそらく、ライダー、カルソープ、デラフィールドが出どころの世間話が原因で情報がもれた。彼らは財産がこうして譲渡される前は〈交通電化会社〉の株主でも役員でもあったので、自分たちの将来を懸念してこの問題を話し合いたかったのだ。だから、クーパーウッドに事実確認を求めに、経済記者やニュース記者が現れるまでに長く時間はかからなかった。


クーパーウッドは、そういう譲渡が目下進行中であることと、いずれ登録証が提出されるだろう、と率直に伝えた。また、アメリカの仕事にまだかなり時間がかかると見ているので、もともと買い物をしにロンドンに来たわけではなかったが、ロンドンの地下鉄会社のとある代表が訪ねてきて、彼らが関係するルートの運営と投資の検討を求めてきたことも伝えた。〈チャリングクロス鉄道〉の買収はこの提案を受けての結果であり、自分が注意を払うと約束した事業は他にある。これが自分の作りたいと思う統一組織に行き着くかどうかは、今後の調査で判明する内容次第になるだろう。


シカゴでは、この発表の後の社説のコメントは怒号でしかなかった。つい最近、都市を追放された、あの冷酷な詐欺師がロンドンに進出するとは。しかも現地で、財力と悪知恵といつもの厚かましさを使って、その大都市の実力者を甘言で釣って、自分に目を向けさせて、現地の交通問題の解決策を期待させられるとは大したものだ! 明らかに、イギリス人はわざわざ彼のかなり暗い経歴を詮索しはしなかった。しかし、いったんそれが表沙汰になれば、今の彼のように、この時間、そして過去何年もシカゴでそうであったように、そこでも歓迎されないだろう! 他の多くのアメリカの都市の新聞にも、同じように好意的でない論評が掲載されたが、それらの都市の編集者や出版社は、シカゴの態度を参考にして自分たちの態度を決めていた。


一方で〈ロンドン・プレス〉は……社会的、経済的、政治的論調がかなり現実的であり、民衆の不満を拠り所にすることは絶対にありえなかったので……不思議ではないが、クーパーウッドに対する反応は極めて好意的だった。〈デイリー・メイル〉は、彼のように有能な人間なら、何年も公共のニーズのはるか後方でよちよち歩きを続けてきたのろまなロンドンの地下鉄界の中心に据えられても損にはならないかもしれない、とあえて意見を述べた。〈クロニクル〉は英国資本のていたらくを嘆いて、シカゴのような遠くの地にいるアメリカ人にロンドンが必要とするものがわかるなら、ロンドンの鉄道業界のリーダーたちだってそろそろ目を覚まして自ら前進するだろう、と実現しそうもない希望を表明した。〈タイムズ〉、〈エクスプレス〉、その他の新聞にも似たようなコメントがあった。


クーパーウッドが見たとおり、経済的見地からすると、こういうコメントはありがたくなかった。これではイギリスでだけでなくアメリカの資本家の野心までも彼の目標に集中させてしまい、邪魔な活動を呼び覚ましかねなかった。これに関しては確かにクーパーウッドは間違っていなかった。この鉄道売却のニュースが確認され、その他にも打診することを彼が認め、ロンドンの交通の問題にもっと関与する可能性があることが公になるや、最も攻撃される可能性がある二つの路線〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の大株主は怒り心頭に発し、将来的に彼に反対するのがほぼ確実だった。


「クーパーウッド! クーパーウッドめ!」〈メトロポリタン鉄道〉と〈ニューシティ&サウス・ロンドン鉄道〉の株主であり、十二名の取締役の一人、コルベイ卿は鼻を鳴らした。いつもお高くとまって〈タイムズ〉を右側において朝食をとっていたが、この時はお気に入りの新聞〈デイリー・メール〉を読んでいた。「一体、このクーパーウッドとは何者だ? 成り上がりのアメリカ人の一人が、世界をほっつき歩いて、人さまに意見をしとる! さて、知恵袋はどいつだ……〈ベイカー・ストリート&ウォータールー〉計画のスカーと、〈デットフォート&ブロムリ・ルート〉のウィンダム・ウィルレットか。やはり、グリーヴズとヘンシャーが契約を狙っているのか。それに〈交通電化会社〉は退散したがっているしな」


同じく、〈ディストリクト鉄道〉の取締役で〈メトロポリタン鉄道〉の株主でもあるハドスペス・ダイトン卿は悩んでいた。すでに七十五歳の、超保守派で、抜本的な鉄道改革にはまったく関心がなく、特にそれが大きな出費となるもので、儲かる結果を断言できないとあってはなおさらだった。五時三十分には起きて、お茶を飲み、新聞を読んだ後でブレントフォードの地所内の花々の中を散歩しながら、全てのことに斬新な考えを持つこのアメリカ人の問題を考えていた。確かに、地下鉄はあまりうまくいっていなかった。利益を出すために装備が近代化されるのはいいことかもしれない。だからといって〈タイムズ〉や〈メール〉が、そんな事を指摘するべきだろうか? ましてや、やるとなったら何十人のイギリス人の誰と比べてもきっと大して変わらないアメリカ人が来たことに関連づけてまで。これではイギリスの能力を見下している以外の何ものでもない、馬鹿げている。イギリスは世界を支配した。そしてこれからも支配し続けるだろう。外からの助けなど絶対に必要ない。そして、ダイトン卿はこの瞬間からロンドンの地下鉄の開発に関しては、どんな外国の干渉にも反対する覚悟ができた。


また、ウィムブレイ公園の近くに邸宅を持つウィルミントン・ジームス卿も同じだった。卿も〈ディストリクト鉄道〉の取締役で、近代化と拡張が望ましいことは認めていた。だが、何でアメリカ人が? その時が来れば、イギリス人にだって作れるはずだ。


そして、この三人の男性の意見に似たようなものが〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉、さらには他のロンドンの各地下鉄会社の取締役と大株主の多数派の反応を構成した。


しかし、最終的に防衛活動に気がついたのは三人のうちで最も積極的で行動的だったコルベイだった。その同じ日、コルベイはこの問題にどんな行動を取るべきか、他の取締役、まず第一にステインに相談した。しかし、これまでにステインは、クーパーウッドについてのジョンソンの報告と、新聞で読んだ内容に十分感銘を受けていたので、コルベイにはとても慎重に答えた。ステインは、クーパーウッドのこの提案は自然な展開だと述べた。これは、両方の会社の年配の取締役を除けば、誰もが必要だとわかることだった。確かに、ライバル会社が提案された今、〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉の取締役会を招集するのは当然で、両グループは適切な方針について話し合うべきだった。


コルベイが次にウィルミントン・ジームス卿を訪ねると、卿は気持ちが揺らいでいるのがわかった。「まず、間違いないよ、コルベイ」卿は言った。「我々と〈メトロポリタン鉄道〉が組まなければ、こいつは両方の会社の株主をひとりずつ引き抜いて、我々を全滅させてしまうぞ。我々の個々の利益が完全に守られるのなら、クーパーウッドへの対抗勢力に私も加えてくれ」


これを励みにして、コルベイはできるだけ多くの取締役に声をかけ始めた。十二名のうち七名が、自分が言わねばならないことの重要性を理解してくれたのがわかった。続いて、両社の臨時取締役会が次の金曜日に予定された。そして、その会議で、次の木曜日に両社の取締役の間で合同会議を開催する要請が決議された。そこでこの新しい問題が検討されるのである。


ステインとジョンソンはこの急展開について話し合った。ジョンソンとクーパーウッドの間で近々ディナーの約束があったから、これはとても興味深い絶好の機会だった。


「大丈夫です!」ジョンソンは言った。「彼はあのジャーキンスを通じて、我々のことをすべて知っています。我々の腹を探りたいんですよ」


「まあ、蒸気機関には車輪どめを二つ置いてある」ステインは言った。「クーパーウッドが先に何かをしない限り、〈ディストリクト〉も〈メトロポリタン〉も何もしない。今、向こうはかなり盛り上がっているだろうが、我が国の国民は急激な変化を受け入れそうもない。この期に及んでも、二本のループの統合も、電化も、一体化して運営することもできないんだ。クーパーウッドが自分の計画を進めない限り、彼らは何もしないさ。私の感覚では、彼の計画がどれくらい包括的なのかと、彼がそれを確実に実行するのかを確認するところまで、彼とは一緒に行動すべきですね。そのときに、それが我々にとってどういう意味を持つかを判断すればいい。〈メトロポリタン〉と〈ディストリクト〉の連中が同等以上のことをやる意志と覚悟ができたと完全にはっきりするまでは、我々はクーパーウッドと組み、我々の旧友たちとは後で折り合いをつけるべきだと思います」


「そうですね、全くそのとおりです!」ここでジョンソンが口を挟んだ。「それに関しては、まったく同感です。少なくとも理屈の上では。しかし、忘れないでください、この問題での私の立場はあなたの立場と少し違います。両方の鉄道会社の株主としてはあなたと同じように、今の責任者から期待するものはほとんどないと感じてます。しかし、両方の会社の事務弁護士としては、この二つの立場での自分の活動がどうなるかを考えなければなりません。あなたならおわかりでしょうが、双方代理はできませんからね。私の義務と心からの願いは、どちらの立場を取るでもなく、この問題を徹底的に研究して、イギリス人とアメリカ人の利益が一致させられないもかどうかを見極めることです。私が先方の総体的な態度についてクーパーウッドさんから話を持ちかけられたことは、事務弁護士として、打ち明けても問題はないように思います。そして、これらの会社の株主として最善の策は何なのかは自分で判断できるはずですから、少なくとも個人としてはそれに従って行動できるはずです。それって何も道義には反しませんよね?」


「全然反しないね」ステインは言った。「これは、我々双方がとる、とても公平で率直な立場だと思います。もし向こうが不服を唱えても、大丈夫。そんなことは問題じゃない。それに、もちろん、クーパーウッドさんだって自分を大事にするでしょう」


「さて、あなたがそう言うのを聞いて正直ほっとしました」ジョンソンは言った。「少し悩み始めていたんですが、今はうまくいくかもしれないと思っています。少なくとも、私がクーパーウッドとこの協議の場を持ったところで害にはならないでしょう。それで、もしそれがあなたが満足するものに思えれば、我々はもっと先へ進めるかもしれません。つまり、我々三人はです」ジョンソンは慎重に付け加えた。


「そう、我々三人はね」ステインは答えた。「何かはっきりしたことがわかったら、いつでも知らせてください。少なくとも一つ言えることがある」ステインは立ち上がって長い足を伸ばしながら、付け加えた。「我々は動物たちを少し刺激してしまった。まあ、いずれにしても、クーパーウッドは我々のためにやってくれたわけだ。そして、我々がしなければならないことは、彼らがどっち側に跳びつくのか、しっかり腰を据えて見極めることです」


「そうですね」ジョンソンは言った。「火曜日にクーパーウッドに会った後で、すぐに連絡します」




  第三十二章



ブラウンズ・ホテルでのディナーは、ジョンソンと彼が代表するすべてのものだけでなく、クーパーウッドと彼が達成したいと願うすべての運命をも握っていた。しかし、その時は二人ともこれを十分には認識していなかった。


すぐにクーパーウッドが知ったことだが、ジョンソンは地下鉄の取締役と投資家の身に起きたばかりの出来事に深い感銘を受けていたが、これまでの熱意とは裏腹に、クーパーウッドが何を提案するつもりなのかを正確に知るまでは、中間の道を歩もうとしていた。とはいえ、ロンドンの交通分野の開発には将来の利益が大きく関わるので、ジョンソンはできれば自分の側につきたがっている、とクーパーウッドは信じていた。そして、資本家として復帰するだけでなく社会的な欲望もあったので、これを実現する覚悟だった。自分が考えている目的でこの問題に取り組もうとする外国人が直面しそうな問題を率直に教えてほしい、とジョンソンに尋ねるところから始めた。


この明らかに率直な質問に安心したジョンソンは、同じように率直にこの問題を説明した。実際にジョンソンは、自分の個人的な立場をステインに語ったのと同じようにクーパーウッドにも、自分の雇用主は頑固で、鈍感でさえあり、ここでゆっくりとだが確実に進んでいる社会と経済の大きな変化を考えていない、と自分が信じるところを完全に明らかにした。何がなされなければならないかについての共通認識が、この時までまったくなかった、とも認めた。そして現在の関心にしても、問題の本質を考えて解決したいという知的な欲求ではなく、どちらかというと外国人に対する嫉妬に由来するものだった。情けない話だが、それが真実だった。賢明なことをしたいというクーパーウッドの意向にいくら自分が賛同したとしても、〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉の事務弁護士である自分が、個人的に外部からの干渉計画を推進していると疑われたら、株主としての権利があろうと、背を向けられ、現在の重要な人間関係を奪われ、何をするにしても権限を剥奪されてしまうだろう。これでは立場がとても苦しくなった。


それでもジョンソンは、乗っ取りは合法であり、純粋に現実的な見地から実行されるべきだと主張した。そういうわけだから、できれば協力したがっていた。しかし、自分たちがどこまで協力できるかを知るために、ジョンソンはクーパーウッドの計画の正確な詳細を知らなければならなかった。


クーパーウッドの私的な計画は、実際には、ジョンソンが現時点で疑う準備ができていたものよりもはるかに巧妙で冷酷だった。まず、〈チャリングクロス鉄道〉の権利を一つ買収しただけで得た評判と強みを念頭に置いて、すでに議会によって承認済みだが、そのすべてが運営資金不足らしい、他のさまざまな権利を検討しながら、クーパーウッドは誰にも告げずに自分用にこれらをできるかぎりたくさん買おうと考えていた。そして後々、あくまで頑なに戦いを挑まれたら、それらを一つにまとめて、競合する鉄道網を提案するつもりだった……この手段なら敵を降参させられると感じた。同時に、旧〈交通電化会社〉の継続に過ぎない〈チャリングクロス鉄道〉に関しては、必要とあらばそこの創業者の株式のかなりの割合を〈ディストリクト鉄道〉の支配権を獲得するのに協力できるイギリスの投資家たちと共有する用意があった。


クーパーウッドはベレニスに、このロンドンでの事業を自分がこれまでに手掛けたどの事業よりも高いレベルに置くつもりだと言っていたが、それでも、自分の絶対的な誠意が馬鹿をみたり台無しにされて出し抜かれることがないと確信できるまで、大きな利益は自分が握っている必要がある、と経験で学んでいた。彼は、自分が社長であるすべての会社の少なくとも五十一パーセントを所有し支配するだけでなく、常にダミーを通じて設立し運営するさまざまな小会社も少なくとも五十一パーセントを所有することを原則としていた。


例えば新しい路線に必要な電気設備に関しては、すでに〈チャリングクロス鉄道〉の電化契約を引き継ぐ鉄道設備建設会社を作ることを計画していた。車両、レール、鋼桁、駅の設備などを供給するために、他にも子会社が作られる。当然、利益は巨大なものになる。シカゴではこれを独り占めしてきたが、ロンドンでは、困難が予想される戦いに勝つために、クーパーウッドは今、この利益の何割かを自分の最も役に立つ相手と分かち合う計画を立てていた。


例えば、必要なら、ステインとジョンソンにこの設備会社の計画も教え、もし相手が本当に協調的で、自分が、あるいは自分と彼らが共同で、〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉を所有した場合は、どうすれば初期の確実な利益がこの建設と設備の仕事からあがるのかを教えるつもりだった。さらに、彼は、この総合的な交通網の追加延長ごとの工事や設備で、この設備と建設の会社からの利益が、増え続けることを強調するつもりだった。しかも目的達成の手段を作りながらであり、それが莫大なのを経験上知っていた。


この友好的な話し合いの席でジョンソンの前にいるクーパーウッドの態度は、何も隠しごとがない人間のものだった。同時に、こういう男を出し抜くのは容易ではないと思っていた。実際、もし調整がつけられるのであれば、彼はシッペンズのいい後継者になるかもしれない人物だった。その結果、ジョンソンのいろいろな可能性を探って、控えめだが受けそうだとわかった後で、完全なロンドンの地下鉄網に必要な路線と権利のすべてを統合する前にあるとても必要な一連の交渉で、主任弁護士と財務代理人として行動する意思があるかどうかを尋ねた。クーパーウッドが今ジョンソンに言ったように、〈チャリングクロス鉄道〉の買収は他の鉄道への参入の楔として使えることを除けば、本当は重要でも何でもなかった。


「実を言うと、ジョンソンさん」クーパーウッドは最も効果的な態度で続けた。「ここに来る少し前にこの問題はすべて調査済みでした。そして、あなたと同じように私も、この中央のループこそが事業全体の鍵だとわかっています。あなたとステイン卿が〈ディストリクト鉄道〉の少数大株主であることも知っています。今、私はあなたを通して〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉、さらには他の鉄道を合併させられる何かの方法がないかを知りたいのです」


「簡単にはいきませんよ」ジョンソンは厳かに言った。「我々は伝統に直面しているんです。イギリスは伝統を守りますよ。しかし、もし私の理解が正しければ、あなたは自分の鉄道とこの鉄道、特にループと結びつけようとしているんですね。もちろんあなたが責任者で」


「そのとおりです」クーパーウッドは言った。「私ならあなたにとって価値あるものにできますよ」


「そんなこと言わなくてもわかってます」ジョンソンは言った。「しかし、こればかりは少し時間をかけて考えないとなりませんね、クーパーウッドさん、少しは私自身の地下鉄の仕事をしませんと。そして、自分ですべてをじっくり考えてから、改めて二人で全体を考え直せばよろしいかと」


「もちろんです」クーパーウッドは言った。「そういうことにしましょう。それに、私はしばらくロンドンを留守にしたいのでね。十日から十二日のうちに、お電話いだだければ」


それから、二人は心から握手を交わした。ジョンソンは活躍と所有の夢を見て興奮した。自分の全人生が捧げられていたこの分野で勝ちかけているのに彼にすれば少し遅かった。それでも今ならできそうだった。


クーパーウッドには、自分がやらねばならない現実的な資金繰りの課題を考える仕事が残された。突き詰めると、この問題の解決方法は単純だった。ポンドで十分な額を提示することだ。争う投資家の目の前に十分な現金をぶら下げるのだ。対立の理由が何であれ、どちらも現金を受け取って争いを放っておく可能性が高い。仮に、反抗的な取締役や投資家に、彼らが今支配している一ポンドに対して二、三、四ポンドを支払わなければならないとしたら? ロンドンのような偉大で成長を続ける都市では、彼の建設会社の計画や交通そのものの成長から生じる利益は、実際に今彼が出す用意をしていた破格の額を補うどころか、最終的にはこういう人々の想像も及ばない利子を生む。やるべきことは、どれだけ法外に思える費用をかけてでも、支配を確立し、その後で鉄道各社を統合することだった。時間と、世界で今も続いている経済成長とが、このすべてを解決するだろう。


もちろん、このすべての準備費用のために自分の蓄えに手を伸ばしたくはなかったので、おそらくは近いうちにアメリカに戻って、状況の見通しをうまく説明して、特定の銀行や信託会社、彼がその手口や欲深さを知り尽くした個人投資家から、基礎になる持株会社への出資金を確保しなくてはならないだろう。そして今度はこれがロンドンの資産を買収して、その後、取得した株式を、投資した一ドルに対して二、三ドルを基準にいろいろな出資者に配分するのである。


しかし、今すべきことは、ベレニスと休暇をとって疲れをとることだった。それが済んだら、ジョンソンと相談してステイン卿との面会を手配してもらうつもりだった。何しろたくさんのことがこの二人の態度にかかっていたからだ。




  第三十三章



仕事でこうしてあたふたしている間……アイリーンのパリへの出発と、ベレニスのプライアーズ・コーブに関連した活動で中断されはしたが……クーパーウッドは自分の愛する人をただ垣間見るだけで満足しなければならなかった。どうやら、ベレニスは買い物や片付けものでとても忙しそうだった。しかし、ベレニスが楽しんでいた優雅な些細なことは、クーパーウッドの目に彼女をさらに好奇心をそそる人物に見せただけだった。彼女はとても生き生きしているとクーパーウッドは内心でたびたび考えた。ベレニスはものを欲しがっては、それをものすごく楽しみ、相手にもそうさせる。ベレニスは何にでも興味を持っているように見える。だから、人は自然にベレニスに興味を持ってしまうのである。


クーパーウッドは今、プライアーズ・コーブを初めて訪れてみて、そこは設備が行き届いていることに気がついた。屋外の使用人は言うまでもないが、コック、メイド、家政婦、執事までステインに養われていた。ベレニスはこの田舎のような暮らしの魅力に興味を示しているのか、あるいはそう気取っているのか、クーパーウッドにもわからなかった。自然に対するベレニスの愛情は本物であり、感動さえしているように見えることがよくあった。鳥、木、花、蝶……ベレニスは夢中になった。マリー・アントワネットでもこれほど上手にこの役を演じることはできなかっただろう。クーパーウッドが到着したとき、ベレニスは羊飼いと外にいた。羊飼いはベレニスに見てもらおうとして羊と子羊を集めていた。クーパーウッドの乗り物が車道に入ると、ベレニスは新しい子羊の中の一番小さくてふわふわの一頭を両腕で抱きかかえた。ベレニスはクーパーウッドを喜ばせる場面を作ったが、決して彼をだませはしなかった。演技をしている、それも私のために、とクーパーウッドは思うのだった。


「女羊飼いと彼女の羊さん!」クーパーウッドは前に踏み出てベレニスの腕に抱かれた子羊の頭に触れながら叫んだ。「魅力的な生き物たちだこと! 春の花のように行ったり来たりしますね」


口にこそ出さなかったが、一目でベレニスのドレスの芸術性を見極めた。ベレニスが珍しい衣装を着ることは自然なことだとクーパーウッドははっきりと理解した。ベレニスは、気取っているのが自分にとって自然であり、肉体的魅力の一部である特権であり義務であると考えながら、気取った様子の重要性に気がついていないふりをした。


「もう少し早く来ればよかったのに」ベレニスは言った。「お隣のアーサー・タビストックさんに会えたかもしれないわ。後片付けのお手伝いをしてくださったのよ。ロンドンに行かなければならなかったというのに、明日も手伝いに来てくれるそうよ」


「いやはや! 人使いの上手な女主人だこと! お客さまをこき使うとは! ここでは仕事がメインのお楽しみになっているんですか? 私は何をするのでしょう?」


「お使いかしら。それも、山ほどあるわ」


「まあ、そうやって人生を始めましたからね」


「そうやって人生を終えることがないよう、お気をつけて」ベレニスはクーパーウッドの腕をとった。「行きましょう、あなた。ねえ、ドブソン!」ベレニスは羊飼いに向かって叫んだ。羊飼いは進み出て、ベレニスの腕から子羊を受け取った。


二人は、なめらかな緑の芝生を横切ってハウスボートまで歩いた。天幕のかかったベランダに、テーブルが広げられていた。中では、船の開いた窓の一つで、カーター夫人が読書をしていた。クーパーウッドが丁寧な挨拶を終えると、ベレニスは彼をテーブルに案内した。


「さあ、ここに座って自然を堪能してください」ベレニスは言った。「体の力を抜いてロンドンのことは全部忘れてください」それから彼の前にお気に入りのミントジューレップを置いた。どうぞ! もし時間があるのなら、私が考えた私たちにできることを少しお話しさせてください。いいですか?」


「いつでもどうぞ」クーパーウッドは言った。「準備はできています。私たちは自由ですよ。アイリーンはパリに発ちました」打ち明けるように付け加えた。「口ぶりからすると、十日は戻ってこないでしょう。それで、何を思いついたんですか?」


「母と娘と後見人とでイギリスの大聖堂巡りをするんです!」ベレニスは即答した。「私はずっとカンタベリーとヨークとウェルズを見たいと思ってました。大陸へは行ってられませんから、そういうことに時間をかけるのがいいんじゃないかしら?」


「それは理想的ですね。イギリスはあまり見たことがなかったから、楽しみですね。私たちだけになれますよ」クーパーウッドの手がベレニスの手をとり、ベレニスの唇が彼の髪に触れた。


「私が新聞のあなたの騒ぎと無縁でいるとは思わないでくださいね」ベレニスは言った。「すでに、かの偉大なクーパーウッドが私の後見人である事実が広まっています。家具の運送屋が、私の後見人と〈クロニクル〉で話題のアメリカの大富豪は同一人物なのかって、知りたがってました。認めるしかなかったわ。でも、アーサー・タビストックは、私に優秀な相談相手がいるのは当たり前だと思ってるみたいよ」


クーパーウッドは微笑んだ。


「使用人や、彼らの考えそうなことくらい検討済みでしょう」


「確かにそうだけど、あなた! 厄介よね、でもそうしないといけないし。それもあるから、一緒に旅行したいんです。じゃ、ひと休みしたら、面白いものをお見せしたいわ」クーパーウッドに付いて来るように合図をしながら微笑んだ。


ベレニスは大広間の先にある寝室へと案内した。化粧ダンスの引き出しを開けて、銀の裏側にステイン伯爵の盾形の紋章が刻まれた一対のヘアブラシと、とれた襟のボタンと、ヘアピン数本を取り出した。


「もしヘアブラシと同じくらい簡単にヘアピンの持ち主が特定できたら、これでロマンスがばれちゃうかもしれないわね」ベレニスは茶目っ気たっぷりに言った。「でも、高貴な領主の秘密は、この私がお守りいたします」


そのとき、コテージのまわりの木々の下から、羊の鐘の音が聞こえた。


「ほら!」音がやむとベレニスは叫んだ。「あれが聞こえたら、どこにいても、夕食に来てください。お辞儀をする執事の代わりですから」


ベレニスの計画では、旅行はロンドンから南へ、おそらくロチェスターに立ち寄ってそれからカンタベリーに行くことになっていた。すばらしい石の詩に敬意を表した後、彼らはストゥール川沿いの質素な宿に車を走らせることになっていた……この旅の優美な簡素さを壊すような立派なホテルやリゾートもなかった……そこで暖炉のある部屋と、最も質素なイギリス料理を楽しむつもりだった。ベレニスは、チョーサーやこういうイギリスの大聖堂にまつわる書物を読んでいたので、それらが作られた精神を再体験したかったのだ。カンタベリーからウィンチェスターに行き、そこからソールズベリーへ、そしてソールズベリーからストーンヘンジへ、さらにウェルズ、グラストンベリー、バース、オックスフォード、ピーターバラ、ヨーク、ケンブリッジを巡ってそれから帰路につく。しかし、ベレニスのこだわりどおり、一貫してただの伝統的なものは避けることになった。宿も最小の宿、村も最も素朴な村を探すことになった。


「私たちには、そういうのがいいのよ」ベレニスは言った。「私たちってあまりにも欲望のおもむくままでしょ。こういうすてきなものをすべて勉強すれば、もっと立派な地下鉄を作れるかもしれないわ」


「では、あなたは簡素な綿のドレスで満足すべきですね!」クーパーウッドは言った。


クーパーウッドにすれば、自分たちの休暇旅行の本当の魅力は、大聖堂でも村のコテージでも宿屋でもなかった。自分を虜にしたベレニスの気質と感性の変化に富んだ鮮やかさだった。彼の知人には、五月の初旬に、パリでも大陸でも選べるのにイギリスの大聖堂の町を選ぶような女性はひとりもいなかった。しかしベレニスは、自分が求めてやまない喜びと充実を自分の中に見出しているらしい点で、他の人とは違っていた。


ロチェスターでは、ジョン王、ウィリアム・ルーファス、サイモン・デ・モンフォール、ワット・タイラーについて語るガイドの話を聞いた。クーパーウッドはそのすべてを、一度は隆盛を極め、何らかの利己的な考え方を持ち、突き進んでここにいるすべての者のように無に帰した単なる影、人、生き物として聞き流した。彼は川に降り注ぐ日差しや、空気の春らしさの方が好きだった。ベレニスでさえ、そのどこか平凡な景色に少しがっかりしたようだった。


しかし、カンタベリーでは全員の気持ちが大きく変わった。宗教的な建築物に全然興味がなかったカーター夫人でさえ例外ではなかった。「でも、こういう場所は好きだわ」曲がりくねった通りに入ると口にした。


「巡礼者はどの道を通って来たのか知りたいわ」ベレニスは言った。「これかしら。ほら、ほら、大聖堂があるでしょう!」ベレニスは、石造りのコテージの低い屋根の上に見える塔と三角小間を指さした。


「すてきですね!」クーパーウッドは言った。「それに、楽しい午後でもありますしね。昼食を先にしますか、それよりも大聖堂を満喫しますか?」


「大聖堂が先よ!」ベレニスは答えた。


「じゃ、その後で冷めたお昼にしましょう」母親が皮肉を込めて口を挟んだ。


「お母さんてば!」ベレニスはたしなめた。「カンタベリーなのよ、よりによって!」


「まあ、これでもイギリスの旅館のことくらい多少は知ってるわよ。それに一番になれないのなら、最後にならないことがどれだけ重要かも知ってるわ」カーター夫人は言った。


「一九〇〇年には宗教の力があったところなんです!」クーパーウッドは言った。「田舎の旅館で出番を待っているにちがいありません」


「私は宗教に反対する言葉を持ち合わせていませんけど」カーター夫人は強く言った。「教会は別ですから。それとは関係ありませんもの」


カンタベリー。曲がりくねった通りは人でごった返し、壁の中は静寂、大聖堂自体の荘厳で時代がかった黒ずんだ尖塔、小尖塔、控え壁がある境内は十世紀のようだ。コクマルガラスが羽ばたいて飛び、縄張りを巡って争っている。中には、いろいろな墓、祭壇、額石、聖堂がある。ヘンリー四世、トーマス・ベケット、ロード大主教、ユグノー派、エドワード黒太子ゆかりのものだ。ベレニスはそう簡単には引き離せなかった。ガイドと観光客の一団は、行列になってゆっくりと歴史をしのぶものを次から次へと見て回った。ベレニスはユグノーが生活し、避難し、礼拝し、衣類を織った地下室に残って、ガイドブックを片手に瞑想した。そう、そこはまた、トーマス・ベケットが殺された場所でもあった。


物事を大局的に見るクーパーウッドは、この些末なことに耐えられなかった。彼は過ぎ去った男女のことなどにほとんど興味がなく、生きている現在のことで多忙を極めていた。花が咲き誇る歩道や大聖堂がよく見える広い庭園の方がよかったので、しばらくしてから外へ抜け出した。そのアーチや、塔、ステンドグラスの窓、丁寧に作られたこの聖堂全体はいまでも魅力的だったが、すべては彼のような利己的で保身的な生き物の手と頭、願いと夢のせいだった。そして、歩き回りながら考えたが、とても大勢の者がこの教会を我が物にしたくて戦ったのだ。そして今は壁の内側にいる。名誉を与えられて、尊敬される高貴な死者になった! 果たして高貴な人がいただろうか? 疑いの余地なく高貴な魂のようなものが、これまでに存在したことがあっただろうか? クーパーウッドは信じる気にならなかった。彼らはみな生きるために殺した、そして一族の繁栄のために欲望に溺れた。現に、戦争、虚栄心、体裁、虐待、貪欲、肉欲、殺人が本物の歴史をつづったのであり、神話の救世主や神に救済を求めて走ったのは弱者だけだった。そして、強者は弱者を征服するためにこの神への信仰を利用した。そして、こういう寺院や神殿にも利用された。彼は見て、考え、そして今でもとても美しい多くのものに何だかむなしさを覚えた。


しかし、十字架や宗教的な碑文と熱心に向き合うベレニスをときどき垣間見ることでクーパーウッドは十分に元気を取り戻した。こういうときのベレニスには、一見非物質的に、精神的に、瞑想にふけるような優美さがあった。これは、他のときには灰色の岩に咲く赤い花の力強さと輝きを授けることもあったあの異教徒的な現代性を払拭した。クーパーウッドが今自分で考えたように、おそらく、これらの色褪せた記念碑や造形物に対する彼女の反応は、贅沢に対する彼女の喜びともつながっていて、絵画に対する彼自身の個人的な喜びや、権力をほしがるのと似ていなくもなかった。クーパーウッドはこれには敬意を表したかった。巡礼が終わって、みんながいよいよ夕食を食べに行こうという気になった頃、ますますその気持ちが大きくなった。ベレニスは叫んだ。「今夜、夕食が済んだらここに戻りましょう! 新月ですもの」


「なるほど!」クーパーウッドは面白がって言った。


カーター夫人はあくびをして、自分は戻りませんと伝えた。夕食が済んだら自分の部屋に下がるつもりだった。


「お母さんはそうすればいいわ」ベレニスは言った。「でも、フランクは絶対に戻らなきゃだめよ!」


「もちろんです! 誓いますとも!」クーパーウッドは甘やかして言った。その後、宿で簡単な食事を済ませてから、ベレニスはクーパーウッドの先に立って暗くなっていく通りを進んだ。境内に続く彫刻の施された黒い門をくぐると、月が青黒い鋼鉄の屋根に生えた新しい白い羽根のようで、大聖堂の長いシルエットのてっぺんの尖塔の飾りにしか見えなかった。最初はベレニスの突拍子もない気まぐれに誘われて、クーパーウッドは律儀に目を凝らした。しかし今、彼を揺さぶったのは彼女自身の反応の混ざったものだった。ああ、若いということ、色や形、人間の営みの神秘と無意味さに興奮し、深く心を動かされたこと! 


しかし、ベレニスは、このすべてを生み出した薄れゆく記憶や、希望と恐怖のごちゃ混ぜだけではなく、無言の時間と空間の神秘や大きさのことも考えていた。ああ、理解すること、知ること! 生きる理由だか言い訳を真剣に考えて探し求めること! 自分の人生は、単に社会的に、あるいは個人として自分を満足させるための、賢く、打算的で、冷酷な決意をした人生だったのだろうか? それは自分にとって、あるいは誰かにとって、何の役に立つのだろう? それは、どんな美を創造するのだろう、あるいはもたらすのだろう? 今……ここ……この場所で……記憶と月明かりの中で……何かがすぐそばに、心の中にあった……それがつぶやいた、静寂と平和……孤独……充実……自分の人生が完全で有意義になるような、完全に美しいものを作りたい。


しかし……これは大それた夢だ……月が自分に魔法をかけたのだ。なぜ何かを望まねばならないのだろう? 女性が欲しがるものはすべて持っていたのに。


「戻りましょう、フランク」最後にベレニスは言った。自分の中の何かが自分に失望し、美の感覚が永遠になくなった。「宿に戻りましょう」




  第三十四章



クーパーウッドとベレニスが大聖堂の町巡りしている間に、アイリーンとトリファーはパリのカフェ、おしゃれな店、人気の観光地を訪れていた。トリファーはアイリーンが来ることを確認すると、二十四時間先回りして、その分の時間を使い、楽しいことがわかってもらえてアイリーンをパリに足止めできる計画を準備した。トリファーは、このフランスという世界がアイリーンにとって目新しいものではないことを知っていた。クーパーウッドがアイリーンの幸せな姿を見たくてたまらなったその昔、アイリーンは何度もパリに来ていたし、ヨーロッパの観光地のほどんどを訪れていた。これは今でも貴重な思い出であり、時折、鮮明すぎるくらいに目の前に浮かんだ。


アイリーンは、トリファーがとても気晴らしになる人だとわかり始めていた。到着した日の夕方に、トリファーはリッツに立ち寄った。どうして来てしまったのか半分不思議だったが、アイリーンはそこにメイドと一緒に宿泊していた。パリに行くつもりだったのは本当だったが、アイリーンはクーパーウッドが自分と一緒に行くという考えを大切にしていた。しかし、新聞に騒がれ、彼の口からも流暢に説明されたロンドンの仕事が、彼の時間はびっしり埋まっていることをアイリーンに納得させた。実際に、ある朝セシルのロビーでシッペンスに会ったとき、シッペンスはクーパーウッドが今背負っている仕事の大変さを、歯切れよく生き生きと語ってアイリーンを喜ばせた。


「ご主人の関心が続いたら、この町なんかひっくり返してしまいますよ、クーパーウッド夫人」シッペンスは言ったことがあった。「頑張りすぎないことを願うしかありませんね」……そんなことはちっとも願ってはいなかった。「以前よりも抜け目なく、すばしっこくなったように見えますが、これまでのように若くはないですからね」


「百も承知よ」このときアイリーンは答えた。「フランクのことで、あなたに教わることはないわ。あの人は、死ぬまで働き続けると思うわ」


確かにそのとおりだと思いながら、それとどこかに女がいるに違いない、おそらくはベレニス・フレミングだと疑いながら、シッペンスと別れた。どんなことがあっても、自分がフランク・クーパーウッド夫人だった。お店、ホテル、レストラン、どこで自分の名前が呼ばれても、人が振り返って見るのを知っているという慰めがアイリーンにはあった。そして、このときは、このブルース・トリファーがいた。アイリーンが到着したときも、彼は相変わらずハンサムで、ホテルの部屋に入るときに言った。


「私のアドバイスを聞いてくれたんですね! それから、こちらに滞在中は、私があなたに対する責任を負いますよ。もしよろしければですが、さっそくディナー用の支度をしていただかなくてはなりません。あなたのために、ちょっとしたパーティーを用意しました。地元の友人が何人か、ここにいましてね。ニューヨークのシドニー・ブレイナード夫妻をご存知ですか?」


「ええ、存じてます」アイリーンは言った。気が動転していた。ブレイナード夫妻が裕福で社会的に重要な人物であることは聞いて知っていた。アイリーンの記憶によれば、ブレイナード夫人はフィラデルフィアのマリゴールド・シューメイカーだった。


「ブレイナード夫人がこのパリにいましてね」トリファーは続けた。「夫人とそのご友人の数名がやって来てマキシムで我々と一緒にディナーを食べます。そして、その後はアルゼンチン人のところに行くんですよ。そいつがまた愉快な人でしてね。一時間で身支度ができると思いますか?」トリファーはとても楽しい夜を心待ちにしている人の雰囲気を漂わせてドアの方を向いた。


「ええ、できると思います」アイリーンは笑いながら言った。「でも、始めるからには、あなたには出ていってもらわないと」


「同感ですね。お持ちでしたら、白を着てください。それと濃い赤のバラですね。ものすごく魅力的になりますよ!」


アイリーンはこの馴れ馴れしい態度に少し顔を赤らめた。控えめに言っても、強引な紳士だこと! 


「そういうドレスが見つかったら、それにするわ」アイリーンは生き生きした笑顔を向けて言った。


「やった! 一時間したら戻って来ます。じゃ、そのときまで……」トリファーは一礼して立ち去った。


身支度の間に、アイリーンは自分がトリファーのこの突然の厚かましい立ち入り方を理解できず、これまで以上に途方に暮れていることに気がついた。彼がお金に不自由していないのは明らかだった。しかし、これだけ優れた人脈があるのに、なぜトリファーは自分と関わる必要があるのだろう? なぜ、ブレイナード夫人ともあろう者が、自分が主賓でもない晩餐会に出席しなければならないのだろう? つじつまが合わない考えに悩まされたが、トリファーのこの気楽な親交は、たとえそれが見せかけだとしても、やはり魅力的だった。もし彼が他の多くの冒険家と同じように冷淡に金を求める冒険家だったとしたら、間違いなく賢い冒険家だっただろう。しかも、自分の都合でいくらでも楽しめる人で、過去数年の間にアイリーンに近づいたすべての人にはそいうところが欠けていた。彼らのやり方はいつだって退屈で、マナーがなっていなかった。


「準備できましたか?」トリファーは一時間ほどして戻ってくると、アイリーンの純白のドレスとウエストの赤いバラを見ながら、さわやかに声をかけた。「今出かければ、ちょうどですよ。ブレイナード夫人は、若いギリシアの銀行家を連れていて、夫人の友人のジュディス・ソーン夫人は私の知り合いではありませんが、アラブの族長のイブラヒム・アッバス・ベヴを連れてきています。一体このパリで何をするんでしょうね! でも、とにかく、英語は話しますから。ギリシアの方も大丈夫です」


トリファーは少し紅潮していた。それどころか、さっきよりも自信満々だった。また調子を取り戻したと知って酔って高揚し、軽やかな足取りで部屋を歩き回った。トリファーはアイリーンを面白がらせようと、部屋の家具にケチをつけた。


「あのカーテンを見てください! まったく、よくあんなもので済ませますよね! さっきエレベーターでのぼってきたときは、キーキー音がしました。ニューヨークでそんなもの、想像できますか! こんなことをやらせているのはあなたのような人たちなんです!」


アイリーンは大喜びだった。「そんなにひどいかしら」と尋ねた。「そんなこと考えたことさえなかったわ。じゃあ、ここ以外のどこに行けばいいのかしら?」


トリファーはフロアスタンドの房飾りの付いたシルクのシェードを指でつついた。「これにはワインのシミがついている。それに、誰かがこの模造品のタペストリーをタバコで燃やしたんだ。まあ、仕方がないか!」


アイリーンはトリファーを笑った。いばったような男らしさがおかしかった。「まあ、まあ」アイリーンは言った。「ここよりひどい場所に入れられていたかもしれませんし。そんなことより、ゲストをお待たせしているんでしょ」


「そうですね。あの族長はアメリカのウイスキーのことを何か知っているのかな。行って調べましょう!」


一九〇〇年のマキシム。ぴかぴかにワックスがけされた黒い床、反射しているポンペイの赤い壁、金色の天井、三つの巨大なプリズムの電飾。正面と裏の出入口を除けば、壁には赤褐色の革の座席が並び、その前には小さなくつろげる夕食用のテーブルがあった。精神的、感情的な解放をもたらそうと計算されたガリアの雰囲気、それを当時の世界は一か所に、しかもたったの一か所求めた……それがパリだった。ただ中に入るだけで、幸せな興奮状態に陥ることになる。世界中の国の人種、衣装、さまざまな性格が存在した。そして、全員が富、肩書き、地位、名声の頂点に立ち、全員が行いや服装において慣習という鋼鉄の紐で縛られてはいるが、全員が慣習からの自由を求めながら、慣習にとらわれない形で慣習の名所に引き寄せられた。


アイリーンはここで見ることにも、見られることにも、ものすごく興奮した。トリファーが予想したとおり、友人たちは遅れていた。


「族長は時々迷子になるんですよ」トリファーは説明した。


しかし数分後に、ブレイナード夫人とギリシャ人、ソーン夫人とアラブの紳士が現れた。特に族長はちょっとした騒ぎを起こした。すぐにトリファーは実に堂々とした態度で注文とりを引き受け、テーブルの周りをハエのように飛び回る六人のウェイターたちを喜ばせた。族長はすぐにアイリーンに惹かれ、発見を喜んだ。アイリーンの丸みを帯びた体型、明るい髪、血色の良さは、ブレイナード夫人やソーン夫人のスリムな体や、派手さのない魅力よりも、族長には好評で、丁寧な質問を浴びせながらさっそくアイリーンにかかりっきりになった。どちらからいらしたのですか? ご主人は、こちらのアメリカ人のみなさんのように大富豪なのですか? バラを一つ、いただいてよろしいですか? 私はこういう色の濃いものが好きなんですよ。アラビアに行ったことはありますか? 移動を続けるベドウィン部族の生活は楽しいですよ。アラビアでもとても美しいですからね。


アイリーンは、おしゃれに切りそろえた顎鬚と、長いかぎ鼻と、浅黒い顔の上のギラギラした黒い目に見すえられて、興奮といかがわしさを同時に覚えた。この男と親密な関係になったらどうなるのだろう? 仮にアラビアに行ったとして……こんな人につかまった人はどうなるのだろう? アイリーンは笑顔で聞かれたことにすべて答えた。まわりの面白がって向ける注意は確かに気に入らなかったといえ、トリファーとその友人たちがすぐ近くにいると感じるのはうれしかった。


イブラヒムはアイリーンが二、三日パリにいる予定だと知ると、再会を求めた。グランプリに馬を参加させているんですよ。私と一緒に馬を見に行かないといけませんね。その後、一緒に食事をしましょう。あなたはリッツにいるんですか? ほお……私はボアの近くのサイード・ストリートのアパートに住んでいるんですよ。


この場面を横目に、トリファーは上機嫌で、マリゴールドに取り入ろうと全力を尽くしていた。マリゴールドは彼のこの最新の仕事をなじった。仕事の性質をちゃんと理解していたからだ。


「ねえ、ブルース」頃合いのいいところで、夫人はからかった。「たんまりもらっといて、残りの私たちをどうするつもりかしら?」


「自分のことを言ってるのなら、そう言ってください。私はそれほど多くの問題をかかえていませんから」


「ないんだ? かわいそうなお連れさんってそんなに孤独なの?」


「そんなに孤独なんですよ、あなたが知ったのなら、なおさらだ」トリファーは冷静に言った。「でも、あなたのご主人こそどうなんですか? 邪魔が入ったら怒るんじゃないですか?」


「その辺の心配は無用よ」夫人は微笑んで励ますように言った。「あなたに会うまえに出会っただけだもの。でも、最後にあなたに会ってから、何年たったかしら?」


「うん、けっこうたつかな。でも、それは誰のせいなんでしょうね? それと、ヨットの方はどうなんですか?」


「いつもの船長だけしかいないわ! 船で旅でもしない?」


トリファーは困った。ずっと夢に見ていたチャンスの一つがこれだった。なのに今、明らかにそのチャンスを活かせなかった。やると約束したことを続けなければならなかった。そうしなければ、このすべてが終わってしまう。


「まさか」トリファーは笑いながら言った。「明日出航するんじゃないですよね?」


「しないわよ!」


「本気なら、用心しないと!」


「人生でこれほどの本気はないわ」夫人は答えた。


「こればかりはわかりませんね。いずれにしても、今週のいつか私とお昼でも食べませんか? その後でチュイルリーでも散歩しよう」


少し後で、トリファーは会計を済ませて、一行は立ち去った。


サビナル邸。深夜。いつものように人が大勢いる。ギャンブル。ダンス。会話が弾むのもいれば弾まないのもいる内輪のグループ。トリファー一行に挨拶するためにサビナル本人が出迎え、人気のあるロシアの歌手と舞踏団の公演が始まる一時までアパートに行こうと勧めた。


サビナルは有名な宝石や、中世イタリアのガラス器と銀器や、珍しい生地と色のアジアの織物を所有していた。しかし彼のコレクション……実にさりげなく展示されたもの……以上に印象的だったのは、彼自身のつかみどころのない悪魔的な存在であり、アヘンのようにすべての人に影響を及ぼす影のような人を引きつける力だった。彼はとてもたくさんの人を知っていたし、こいういう興味深い場所も知っていた。秋には旅行を計画していると言い、店はしばらく閉めることになった。東洋に出向いてすばらしい品物を集め、後で個人の収集家に売るのである。実際、こういう掘り出し物からの収入はかなりのものだった。


アイリーンも他の人たちも魔法にかかってしまい、その場所を満喫した。トリファーは、店が成り立つ商売の拠り所を誰にも説明しないように注意していたので、なおさらだった。サビナルには自分個人の小切手を送るつもりだったが、サビナルが自分の友人であるという印象は取り除いた方がいいと思った。




  第三十五章



アイリーンが到着して三日目に、ニューヨークの〈セントラル信託〉パリ支店の財務代理人から追加の二千ドルを現金で受け取ると、トリファーは自分の仕事の重みを実感させられた。出発する前に、ロンドンとパリの事務所に住所を知らせておくよう連絡を受けていた。


アイリーンがトリファーの言うことを聞く気になったのは間違いなかった。サビナルの店を訪れて約五時間後にアイリーンに電話をして一緒にお昼を食べようと提案したとき、その声の調子から、またトリファーの声を聞けて喜んでいるのがわかった。アイリーンを幸せにするのは、自分に個人的な関心を持ってくれそうな誰かとの交友を感じることだった。ある意味、トリファーは昔のクーパーウッドによく似ていて、精力的で、親身で、少なからず管理能力があった。


トリファーは口笛を吹きながら電話を離れた。アイリーンに対するトリファーの態度は、最初にこの仕事を考えたときよりも優しくなった。これまでアイリーンを研究してきて、クーパーウッドの好意や愛情がアイリーンにとってどういう意味があったのか、そしてその完全な喪失はアイリーンにどんな結果をもたらすのか、十分に理解できた。トリファー自身も気分屋になりがちだった。似てなくもない理由で、トリファーはアイリーンに同情することができた。


前の晩、サビナル邸で、マリゴールドとソーン夫人が時々とてもさりげなく、何食わぬ顔でアイリーンを会話から締め出したとき、その顔に無視されて為す術がない表情が浮かんだのにトリファーは気がついた。おかげでトリファーはアイリーンをそのグループから連れ出して、しばらくルーレットで遊ばせねばならなかった。間違いなく、世話の焼ける女だった。しかし、これがトリファーの仕事で、この成功にトリファーの将来がかかっていた。


しかし、まあ、この女は少なくとも二十ポンドは減量すべきだとトリファーは内心で思った。そして、適切な服装と魅力的な特徴のある仕草が必要だ。あまりにも従順すぎるのだ。もっと自分を尊重するように構える必要がある。そうすれは他の人も彼女を尊重するようになるだろう。もし自分がアイリーンのためにこの役目を果たせなければ、お金があろうとなかろうと、彼女は自分に害を及ぼすだろう! 


自分が欲しいもののために常に懸命に奮闘するトリファーは、すぐに集中して行動を取ることにした。アイリーンへの刺激になるのがこの自分のいかした外観だと意識すると、トリファーは最高に見えるように最大限努力した。六か月前のニューヨークの自分と今を比較してトリファーは微笑んだ。ロザリー・ハリガン、あの惨めな部屋、就職にかけた報われない努力! 


ボアのアパートは、リッツと目と鼻の先だった。トリファーはパリを気に入っているような態度で朝っぱらから出かけた。いろいろな仕立て屋、美容師、帽子屋を思い浮かべて、アイリーンを作り変えるメンバーに加えようとした。角を曲がった所に、クローデル・リチャードがいた。アイリーンをリチャードのところへ連れて行って、リチャードを説得し、もしアイリーンが二十ポンドやせたら、人目を引くような、そして彼女が真っ先に着るべき衣装をデザインしたいとアピールさせよう。それから、オスマン大通りにはクラウスマイヤーがいた。彼の靴はすべての靴職人の中でも最高だと噂された。そのことはトリファーも認めていた。デ・ラ・ペ通りに行けば、アクセサリー、香水、宝石の店がある! デュポン通りには、この分野で定評のあるサラ・シメールを擁するサロン・ド・ボーテがあった。アイリーンは彼女を知っておくべきだった。


ノートルダムの向かいの公園を見渡すナターシャ・ルボブスキイのバルコニー・レストランで、アイスコーヒーと卵料理を頼んでずるずると居座り、トリファーはアイリーンに流行のファッションとセンスの講義をした。スペインの有名ダンサー、テレサ・ビアンカがクラウスマイヤーのスリッパを履いている話を聞いたことがありますか? トラー公の末娘のフランセスカも彼のお得意さんの一人なんですよ。サラ・シメールに完成させられた驚異の美容術を聞いたことがありますか? トリファーは十数の例をあげた。


リチャードのところへ行き、次にクラウスマイヤー、新しくお気に入りに加えた香水のセールスマンのルーティのところをまわり、午後はジャーメイでお茶を飲んで終わった。そして夜九時に、カフェ・ド・パリでディナーがあった。そこにはライトオペラで有名なアメリカ人のローダ・セアーと、彼女の夏のお相手のブラジル大使館次官のメーロ・バリオスというブラジル人が現れた。チェコとハンガリーの血をひくマリア・リッツシュタットも招かれた。トリファーはパリへ来るようになった最初の頃に、フランスにいるオーストリアの秘密軍事代表団の一員の妻だった彼女に会っていた。最近いつだったかマルグリィの店で昼食をしていて、サントス・カストロと一緒にいた彼女に再会した。カストロはフランスのオペラのバリトン歌手で、アメリカの新しいオペラのスター、メアリー・ガーデンの向かいで歌っていた。トリファーは彼女の夫が亡くなったことを知っていたし、彼女がカストロに少し退屈しているようだと気がついた。もしトリファーが自由の身だったら、彼女は再会を喜ぶだろう。そして、彼女の雰囲気といい、生まれつきの知性や、柔らかい大人らしい対応の仕方は、トリファーが知る他の若い女性よりもアイリーンに合いそうに思えたので、すぐに彼女をアイリーンに紹介する計画を立てた。


そして、紹介の席で、アイリーンは相手に強い感銘を受けた。リッツシュタット夫人は人目を引く容姿の女性だった。背が高く、滑らかな黒髪と風変わりな灰色の目をしていて、今夜はルビーのベルベット一枚のように見えるものを色っぽく体に垂らすようにまとっていた。アイリーンとは対照的で、彼女はまったく宝石を身につけず、髪も顔から後ろにすらっと流されていた。カストロに対する彼女の態度からも、カストロとの関係が彼女にもたらしたかもしれない世間の注目を除けば、彼が彼女にとって大して意味がないことを示唆していた。アイリーンとトリファーの方を向きながら、彼女はつい最近自分とカストロがバルカン諸国に旅行したことを話し始めた。この告白は、二人がただの仲のいい友だちだとトリファーがアイリーンに説明した直後にあった。自分がこっそり内緒で罪深いことをしていても、アイリーンはいつも伝統的な価値観に気を呑まれぎみだったので、これには多少どっきとした。しかし、この女性はとても物柔らかで、組織化された社会の要求を笑うくらいに自信家だった。アイリーンは惚れ込んだ。


「東洋をごらんなさい」リッツシュタット夫人は旅行のときの話をした。「女なんて奴隷よ。確かに、ジプシーだけは自由に見えるわ。もっとも彼らには地位ってものがないんでしょうけど。役人や称号をもつ男性の大半の奥さんは、実際に奴隷で、自分の夫におびえて暮らしているわ」


アイリーンはこれを聞いて弱々しく微笑んだ。「それは東洋に限ったことではないかもしれません」アイリーンは言った。


リッツシュタット夫人は賢く微笑んだ。「そうね」夫人は言った。「まあ、そうとは限らないわね。ここにも奴隷はいるわね。アメリカでもそうなの?」夫人はきれいに並んだ白い歯を見せた。


アイリーンは自分の感情がクーパーウッドに隷属していることを考えながら笑った。どうすれば、こういう女性が、明らかに一切の男性など構わずに、少なくとも深くは気にしないというか精神的に苦しむでもなく、こうも完全に解放されるのだろう。なのに自分ときたら……。アイリーンはさっそく、この女性のことをもっと知りたくなった。付き合ってみれば、彼女の感情の落ち着きや社会をものともしない態度について多少はわかるかもしれない。


不思議にも、リッツシュタット夫人は、アイリーンに軽い関心以上のものを示したようだった。彼女はアイリーンにアメリカでの生活について尋ねた。パリにはどのくらい滞在するつもりですか? 宿泊先はどこですか? 翌日一緒にお昼を食べましょうと提案するとアイリーンは即座に同意した。


同時にアイリーンの頭は午後の用事のすべてと、その中でトリファーが関係する部分のことでいっぱいだった。最も確実に、買い物という楽しい遠回しなやり方で、個人的に欠けているものがアイリーンに伝えられ、同時に改善できることが確信させられた。医者、マッサージ師、食事療法、顔のマッサージの新しい方法まで用意された。自分が変えられようとしている。それもトリファーによって。しかし、何が目的だろう? 最後はどうなるのだろう? 明らかに、親密になろうとしているわけではなかった。そこにはプラトニックな関係しかなかった。アイリーンは当惑した。それにどんな違いがあるのだろう? クーパーウッドは関心を示さなかった。アイリーンは生きていくために何かの方法を見つけなければならなかった。


ホテルの部屋に戻るとアイリーンは突然、ある人のことがものすごく恋しくなった。世界中でもその人になら悩みを打ち明けられ、リラックスできて自然体でいられる相手だった。その人の批判なら恐れる必要がなく、その人が自信を持って言うことなら信頼できる、そんな友人を好きになろうとしていた。別れ際にアイリーンの手を握りしめたマリア・リッツシュタットには、この人の中ならそういうものを、あるいはそれに似たものを、見つけられるかもしれないと感じさせる何かがあった。


しかし、アイリーンがこの訪問に計画していた当初の十日はあっという間に過ぎた。実際、日数がたっても、アイリーンはロンドンに戻る気にならなかった。アイリーンはふと思ったのだが、トリファーがアドバイスをするだけでなく、技術を持つスタッフまでそろえて、肉体や美容の改善となる活動を開始していたからだ。これには時間がかかるし、さらにはクーパーウッドの態度が変わる結果を生むかもしれなかった。自分は年を取っていないし、この無我夢中のビジネスの戦いに巻き込まれている今ならクーパーウッドは官能ではなく、愛情に基づいて自分を受け入れてくれるかもしれない、とアイリーンは内心で思った。クーパーウッドはイギリスで、社会的な生活の安定を必要としているから、もっとしょっちゅう自分と一緒に生活することが、そうすることに関心があって満足していることをもっと大っぴらに世間に宣伝することが、得策であり好ましい、と気がつくかもしれないと想像した。


だから、アイリーンはとても熱心に鏡で自分の姿を点検したり、サラ・シメールに毎日与えられる食事療法や美容の指導に従うよう徹底して取り組むことにした。自分のために選ばれた独特な衣装の効果を認識し始めた。やがて急速に自信を深め、それにつれて落ち着きを取り戻し、常にクーパーウッドのことを考えるようになり、再会したとき、きっと驚き、願わくば喜んでくれると期待して胸を膨らませるほどだった。そのため、体重を少なくとも二十ポンド減らして、リチャードが自分のために熱心に考案してくれた作品を着られるようになるまで、パリに残ることに決めた。それに美容師が提案してくれた新しい髪型も試してみたいと思った。ああ、これがすべて無駄にならなければいいのだが! 


その結果、アイリーンはクーパーウッドに手紙を書いた。パリ旅行はとても面白いです……トリファーさんのおかげです……もう三、四週間こちらに滞在するつもりです。「人生で初めて」アイリーンははしゃいだ感じで付け加えた。「あなたがいないのに順調にやっています。ちゃんと面倒をみてもらっています」


クーパーウッドはこれを読んで、妙に悲しくなった。何しろ、このすべてを巧妙に仕組んだのは自分なのだ。同時に、これにはベレニスも一枚噛んでいたとの思いが脳裏をよぎった。そもそも、これはベレニスの提案だった。クーパーウッドはこれが彼女と幸せになる唯一の方法だと考えた。そしてその通りになった。それにしても、これほど抜け目なく冷酷に思いつける頭脳とは一体どんなものなのだろう? いつかそれが自分に向けられる日が来るのではないだろうか? あれだけ大事にしたのに、どうだろう? そう考えると腹立たしかった。それを振り払うためにクーパーウッドは、あらゆるものに出会ってきたように、時が来ればそれにも出会うだろうと考えた。




  第三十六章



ブラウンズ・ホテルでクーパーウッドと話し合った結果ジョンソンは、クーパーウッドとステイン卿の対面は、今後の交渉で両者が果たす役割を決めるための次の避けられない段階だと判断した。


「彼と話しても何の危険もありません」とジョンソンはステインに言った。「もちろん、我々がクーパーウッドと行動を共にする場合、彼がループを支配できるように我々が協力するからには、支配がどのようになるにせよその五十パーセントを彼に負担してもらわねばなりません。それから我々は〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉の株主の一部と協力して、参入して、五十一パーセントを確保するのを手伝い、支配を維持すればいいのです」


ステイン卿はうなずいて「続けてください」と言った。


「それで解決するでしょう」ジョンソンは続けた。「それで他に何があっても、我々と他のメンバー……コイベイ、ジームス、あと多分ダイトンあたりが経営に参加する。彼はこの中核事業の共同オーナーとして我々と取り引きしなければなりません」


「これなら確かに大丈夫だと思います」ステインは冷静に相手をうかがいながら言った。「とにかく、その人に会ってみたいな。あなたのいい時に、私のうちに誘えばいいですよ。いつになるかを知らせてくれればそれでいい。彼に会えばこの件についてもっと話ができますね」


こうして、六月のある暖かい日に、クーパーウッドはジョンソンと馬車に乗り込み、一緒に快適なロンドンの通りをドライブしてステイン邸へと向かった。


これから始まる対面の場で、自分の複雑な秘密の計画をどのくらい明かすべきか、クーパーウッドは迷っていた。実際、ステインとジョンソンを相手にどれだけ順調にいこうとも、アビントン・スカーに探りを入れた方がいいだろうという考えをずっともてあそんでいた。スカーなら〈ベーカー・ストリート&ウォータールー〉の経営に加えてくれるかもしれない。それを手に入れて、ハドンフィールドとおそらくエティンジ卿から他の議会承認を取得できれば、このループ会社にでさえ口出しできる立場になるだろう。


バークレー・スクエアのステイン邸に近づくと、その四角い威厳のある堅牢なたたずまいに感動した。商業とは絶対に無縁な安らぎが息づいているようだった。中の、そろいの服を着た召使いと、一階の広々としたサロンの静けさが、クーパーウッドにとって心地のよい雰囲気を作り出していたが、彼個人の価値観をかき乱すほどではなかった。この男にとっては、できる限り安全であることはまったく正しいことだった。この男にとっては、できるのであれば、彼を巻き込んで、彼をもっと金持ちにしようが、彼を利用してうまく破産させようが、まったく構わなかった。


しかし数分遅れるとステインから電話があったと執事が告げたので、さっそくジョンソンが、ステイン卿の絵をご覧になりたくありませんかと勧めてきた。急遽もてなし役になった事務弁護士の態度はそわそわしていた。そうやって時間をつぶすのは実に楽しそうだとクーパーウッドは言った。ジョンソンは彼を正面玄関にある大きなギャラリーに案内した。


ロムニーやゲインズバラの希少な肖像画数点を観賞するために立ち止まりながらギャラリーを歩く間に、ジョンソンはステイン邸の歴史を簡単に語った。故伯爵は用心深くて研究熱心な人で、主にヒッタイトの遺跡や翻訳に興味を持っていて大金を費やした。歴史家は当然それに感謝したと言われている。どちらかというと父親の古物研究仲間に多少疎外されていた若いステインは、社会と金融に目を向けて多角的な投資や進歩を学ぼうとした。彼はとても人気者で、ファッション界の有名人であり資本家でもあった。そして、シーズンになると、この屋敷は数多くの社交行事の舞台になった。トレガサルの私有地は、イギリスでも名所の一つだった。テムズ川のマーロー付近のプライアーズ・コーブにもすてきな夏の別荘があり、フランスにはワイン農場があった。


ベレニスの現在の住居に話が及び、クーパーウッドは頬が緩むのをこらえたが、ステインが到着して二人に気軽な打ち解けた態度で挨拶したために何も言えなかった。


「やあ、いらっしゃい、ジョンソン! そして、もちろん、こちらがクーパーウッドさんですね」ステインは手を差し伸べた。クーパーウッドはすばやく好意的に相手を推し量りながらその手をとって心を込めて握った。


「これはうれしいばかりか名誉なことです」と言った。


「とんでもない、とんでもない」ステインは答えた。「あなたのことはエルバーソンからすべてうかがってますよ。書斎の方がもう少しくつろげるかもしれませんね。まいりましょうか?」


鐘の紐を引いて、飲み物をもってくるよう使用人に言いつけ、壁に囲まれた庭園を一望するフランス窓のあるすてきな部屋に案内した。ステインがもてなし役を演じて動き回る間、クーパーウッドは相手を研究し続けた。この男に対する自分の気持ちが明らかに好意的であることに気がついた。ステインには、彼の信頼を勝ち取ることができる人物にふさわしい価値を示す、気さくで温和な礼儀正しさと認識力があった。この信頼ばかりはそう簡単には勝ち取れなかった。彼は公平で有利な扱い方をされねばならないのだ。


やはり、自分の提案の内部の仕組みを現段階で明かすのは絶対によそう、とクーパーウッドは決心した。同時に、自分がベレニスのことを考えていることに気がついた。ステインのような人たちとの関係でベレニスが社交的な役割を果たすよう求められるかもしれない、と二人の間で暗黙のうちに合意が成立していたからだ。しかし、相手がとても魅力的であることが判明した今となっては、ベレニスにこれをしてもらいたいと自分が思っているのか自信がなかった。しかしジョンソンが地下鉄の状況について自分の考えを説明し始めると、クーパーウッドは気持ちを落ち着かせた。


ジョンソンが話を終えると、クーパーウッドは穏やかに、すらすらと自分の統合計画を説明し始めた。特に、電化、照明、各車両の個別のモーターに電源を供給する新しい方式、エアブレーキ、自動信号について詳しく話した。たった一か所だけ、ステインが口を挟んで尋ねた。


「あなたが、ご自身で、というか取り仕切って、このシステム全体を経営するお考えでしょうか?」


「もちろん、取り仕切ってです」クーパーウッドは答えたが、本当はそういうことを何も考えていなかった。「つまりですね」二人が黙って自分を見つめるのでクーパーウッドは続けた。「統一されたシステムを実現できたら、新会社を設立して、私が今所有しているこの〈チャリングクロス鉄道〉を加えるのが私の計画です。そして、ループ会社の現在の株主に参加してもらうために、彼らが今保有しているこの小さな会社の株一株につき、この大きな会社の株三株を割り当てるつもりです。〈チャリングクロス鉄道〉の建設には少なくとも二百万ポンドはかかるでしょうから、彼らの資産価値がかなり増えることはおわかりでしょう」クーパーウッドは話をやめて、これが聞いている者にどのような影響を与えたかに注目し、いい効果だったのを確認した。さらに続けた。


「特に、この新会社の全線が最新式になってひとつのシムテムとして運営されることと、株式を一般に売却するだけで株主には追加の費用負担を全くかけないと事前に取り決めておけば、あなた方でもこの計画は利益を生むはずだと言うのではありませんか?」


「確かに言いますね」ステインは言った。その意見にジョンソンも同意して頷いた。


「これで、大まかな私の計画はわかりましたね」クーパーウッドは言った。「もちろん、追加の支線があるかもしれませんが、それは大きくなった新会社の経営陣が判断することになるでしょう」クーパーウッドはスカーやハドンフィールドや、もし自分が経営権を確立したら買収しなければならなくなる議会承認を持つ他のメンバーのことを考えていた。


しかし、ここでステインは考え込むようにして耳を掻いた。


「私の見る限り」ステインは言った。「この三対一の配分は、単にこの条件であなたとの提携に興味を持つかもしれない株主を誘う問題の解決になっているだけです。あなたは感情の問題を忘れていると思います。これは確実にあなたに不利に働きます。それに、これが本当だとして、一株に対して三株を提供しても、あなたがあなたの条件でやりたいようにやる、それはつまりあなたの全面的支配を意味すると思うのですが、それをあなたに許すほど十分には現在の保有者は集まらないでしょう。これはあなたが確信してもいいことですよ。だって、これらはこのとおり、純粋にイギリス流で支配されているんですから。ジョンソンも私も、あなたの〈チャリングクロス鉄道〉買収の発表があってから、これに気がついたんです。それに、〈メトロポリタン鉄道〉と〈ディストリクト鉄道〉の双方で、すでにかなりの反対活動が起きていて、あなたに反対しようと団結さえしかねません。これまでこの二つの鉄道の経営陣が、お互いを思いやるなんてことは絶対になかったのにですよ!」


ここで、ジョンソンが皮肉に笑った。


「だから、あらゆる点で細心の注意を払い、機転を利かせて行動し、適切な人物に適切な方法で、それもなるべくならアメリカ人ではなくイギリス人に働きかけてもらわなければ、あなたは行き詰またと気づくことになりかねませんよ」ステインは続けた。


「そうですね」クーパーウッドは言った。ステインの考えていることがとてもよくわかった。もし彼らが、このイギリスで火中の栗拾いまでして、クーパーウッドを手伝う仕事を引き受けようと説得させられるとしたら、彼らが要求することになるのは……クーパーウッドがすでに提示した以上のものを彼らはほとんど要求できないのだから……追加の報酬ではなく、何らかの形のクーパーウッドとの共同経営になりそうだった。あるいは、それがかなわないのであれば、自分たちの投資に対する保証、さらに、かなりありそうなのが、この提案されたシステムの今後の発展に関わるクーパーウッドに比例しての処遇、を要求するだろう。さて、これはどうすればまとまるだろう? 


一瞬、クーパーウッドは少なからず当惑したが、自分と彼らの考えをはっきりさせるためにも、さっそく付け加えた。


「これは、私がどうすればお二人に関心を持ってもらえるだろうか、と考えていたことに関係があります。あなた方がこの状況を理解していて、私に協力する意志があると仮定すると、もっと親善気運を盛り上げる大きな取り引きができますからね。一株に対して三株を割り当てる他に、どんな埋め合わせが必要だとお考えですか? 我々三者の間にどんな特別な取り決めがあれば、あなた方は納得するのでしょう?」クーパーウッドはここで間をあけた。


しかし、これに関する会話は、あまりにも多岐にわたり複雑過ぎるのでここでは説明しきれない。主に、これはステインとジョンソンにやってもらわねばならない準備作業に関係していた。そして、二人が今クーパーウッドに説明したように、この準備作業は他の何よりも社会的人物への紹介に関係していて、これがなければ彼がただお金に物を言わせても問題は大きく前進しそうもなかった。


「イギリスでは」ステインは続けた。「どんなに才能があろうと、特定の個人を通じてやるよりは、財界や社交界の好意や友情を通じた方がはかどるのです。もしあなたが特定のグループに良くも好意的にも知られていなかったり、受け入れられていなければ、進めるのは難しいかもしれません。おわかりですよね?」


「わかっております」クーパーウッドは答えた。


「そして、もちろん、これはどこから考えても、単なる冷たい現実的な交渉の問題ではありません。相互理解と尊敬がなければなりません。それにこういうものは一瞬ではできません。これはただの紹介にとどまらず、日常の場でも明確な社交の場でもその個人を認めることにかかってきます。おわかりですか?」


「わかっております」クーパーウッドは答えた。


「しかしその前に、株式の交換とは別に、あなたとあなたの事業にこういう有益な社会への進出を可能にした人々の報酬がどういうものになるのかについて、とても明確な合意がなければなりません」


ステインが話をする間、クーパーウッドは椅子に座ってくつろいでいた。十分に共感して聞いているようだったが、近くで観察していたら、ある程度目がこわばりと唇がひきしまっているのに気がついただろう。クーパーウッドはステインが見下した態度でこれを自分に通告しているのをはっきりと認識した。もちろん、ステインはクーパーウッドのキャリアにまつわるさまざまなスキャンダルを聞いていたし、シカゴやニューヨークの社交界に認められていない事実も知っていた。彼は非常に外交的で礼儀正しかったが、クーパーウッドは彼の説明をその値打ちどおりに受け取った。それは、上流階級に拒絶された者への、上流階級で通用する男の説明だった。それでも、彼は少しも腹を立てたり、狼狽したりしなかった。実際、むしろ皮肉にも面白がっていた。自分が優勢だったからだ。彼は、他の誰もできずにいたことを、ステインとその仲間ができるようにするつもりだった。


ステインがようやく話をやめると、クーパーウッドはこの合意というものの詳細について彼に質問した。しかし、ステインは、それはジョンソンにまかせるのが一番だと思うととても丁寧に言った。しかし、彼はすでに〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の自分の持ち株の一株に対して三株を保証するだけではなく、クーパーウッドとの間に、この大開発の一員として自分とジョンソンを参加させ、保護し、財力強化をはかるという秘密の破ることのできない協定も考えていた。


そして、ステインが相手をよく見ようと片眼鏡を静かにつけて右目の調整をする間に、クーパーウッドはこの問題の要点を明確にすることにステインが個人的に関心を持って親切にしてくれたことに、自分が本当にどれだけ感謝しているかをさっそく強調した。双方が満足するようにすべてをまとめられる自信があった。しかし資金調達の課題があって、こればかりはクーパーウッドが自分で準備をしなくてはならないだろう。おそらく、いろいろなイギリス人株主と話をする前に、この資金を調達するためにすぐにアメリカに戻る必要が生じるかもしれない……ステインはこれに同意していた。


しかしクーパーウッドは、このイギリスの会社に十分な資金を貸し付けて、もしものときにここを掌握して支配できるようにする融資会社の四十九から五十一パーセントを支配しようとすでに考えていた。彼は先のことを考えた。


ベレニスとステインについては、とりあえず、様子を見るつもりだった。彼は六十歳だった。名声と世間的な評価を除けば、あとほんの数年で特別な違いはなくなるかもしれなかった。実際、今にも自分を飲み込もうと猛威を振るっている容赦のない責務の渦のせいで、クーパーウッドは少し疲れを感じ始めていた。時々、忙しい一日が終わる頃、今さら自分がこのロンドンの事業に取り組んでも意味がないと感じることがあった。ほんの一、二年前シカゴで、運営権の延長さえ実現できたら、経営から身をひいて引退し旅行でもしたいものだ、と内心では考えていた。そのときは、もしベレニスが最終的に自分の申し出を拒んでまた独りぼっちになったら、アイリーンと何かの形で仲直りをしてニューヨークの自宅へ戻り、自分が当然だと思う余暇を度を過ごさないように楽しんでやろうとさえ思っていた。


しかし、今はここにいる。一体どういうことだろう? ベレニスと一緒にいる楽しさ以外にそこから何を得るのだろう。もしベレニスがそれを他の形で望んでくれていたら、もっと穏やかな形で見つけていたかもしれないのだ。そして、ベレニスには、そしてクーパーウッド自身でさえ、思いがあって、彼はこういう大きな見せ場を作る形で前進してキャリアを締めくくることを、自分のために、自分の人生のために、巨大な想像力と第一級の資本家を代表している自分の名声のために、やらねばならない、というものだった。しかし、彼の名声や財産を損なうことなく、これを成し遂げることはできるだろうか? アメリカでの彼についての意見の現状を考えた場合、帰国してかなり短い時間で、必要な資金を集められるだろうか? 


要するに、そういう見方をするとほぼ全面的に彼の立場は要注意で厳しいものだった。疲れて考えがまとまらなかった。年齢に忍び寄る冬の到来を告げる最初の息吹きかもしれなかった。


その夜ディナーが済んでからクーパーウッドはベレニスに自分の計画について話をした。アイリーンに同行してもらってニューヨークに行くのが一番いいとクーパーウッドは考えた。大勢の人を考慮に入れる必要があるし、その場に妻がいた方が見栄えがよくなるだろう。さらに、今はすべてがどちらに転ぶかわからないから、二人はアイリーンの機嫌を損なわないように特に注意しなければならなくなりそうだった。




  第三十七章



一方、パリでひと月たつと、アイリーンは新しい友人が全員口をそろえて言ったように「別人」になっていた。体重は二十ポンド減り、顔色、目つき、気分まで明るくなり、サラ・シメールが述べたように髪は「雄鶏風」にセットされ、ドレスはリチャードにデザインされ、靴はクラウスマイヤーの手によるもので、すべてがトリファーの計画したとおりだった。リッツシュタット夫人とは本物の友情を築いた。族長は気配りが少々煩わしかったが面白い人だった。どうもアイリーンを気に入ったらしく、実際にアイリーンとの関係を発展させようと心に決めたようだった。しかし、あの衣装! 色は白、素材は最高級のシルクとウールで、ウエストに白いシルクの紐を巻いている。油ぎった、野蛮に見える黒髪! 耳には小さな銀のイヤリング! そして決して小さくない足には、細長くて、先の尖った上向きに弧を描く赤い革のスリッパを履いていた。そして、鷹のような鼻と黒くて鋭い目! 族長と一緒だと見世物の一部になり、みんなに見つめられた。もしアイリーンがひとりで族長をもてなしたら、ほとんどの時間を愛撫を避けることに費やしただろう。


「あら、いけませんわ、イブラヒム」と言うのがおちだ。「忘れないで、あたしは結婚していて、主人を愛してるんです。あなたのことは好きですよ、本当に。でも、あたしがやりたくないことをあたしに求めてはいけませんわ。だって、あたしにそのつもりはありませんもの。もし続けるのなら、もう会いませんから」


「ですがね、ほおら」族長は実に上手な英語で語った。「我々には共通点がいっぱいあります。あなたは遊ぶのがお好きでしょ、私もです。お話だって、乗馬だって、ギャンブルだって、レースだって少し好きですよね。それでいて、私に似ています、まじめと言うか、あれじゃないんです、ほら……」


「気まぐれかしら?」アイリーンは口を挟んだ。


「『気まぐれ』と言いますと?」族長は尋ねた。


「さあ、知りません」アイリーンは子供を相手に話をしているように感じた。「気難しいとか、変わりやすい、かしら」アイリーンは両手を振って精神的にも感情的にも不安定なことだと示した。


「ふん、ふん、はっはっ! 気まぐれか! ああそれだ! わかりました。あなたは気まぐれではありません! いいですよ! それでも、私はあなたのことが大好きです。はっはっ! とってもです。私のことはどうですか? あなたは私を好きですね……このイブラヒム族長を?」


アイリーンは笑って「ええ、好きよ」と言った。「やっぱり、あなたは飲み過ぎだと思うわ。それに、あなたは決していい人じゃありません……残酷だし、利己的だし、いろいろあるもの。それでも、あたし、同じようにあなたが好きですわ……」


「チェッ、チェッ」族長は舌打ちした。「私のような男は、それじゃ足らんのです。愛さないと眠れません」


「ああ、戯言はやめください!」アイリーンは声を荒らげた。「あちらへ行って、おかわりでもお作りになったらいいわ。いったん帰って、夜になったら戻って来てあたしをディナーに連れて行ってください。また、サビナルさんのところへ行きたいわ」


そうやってアイリーンの日常は快適に過ぎていた。


以前ように憂鬱に向かうことはなくなり、自分の状態は昔ほど絶望的ではないと感じ始めた。クーパーウッドは、パリに向かうとアイリーンに手紙を書いた。アイリーンは夫の到着を見越してリチャードの一番印象的な作品でびっくりさせようと準備にかかった。そしてトリファーが、クーパーウッドをオーシグナットの店のディナーに連れて行こうと提案した。そこは最近発見した面白いちょっとした場所だった。ノートルダムの陰にあるすてきな店だった。サビナルがこのときのために、ワイン、ブランデー、リキュール、食前酒、葉巻などをオーシグナットに提供することになった。オーシグナットはトリファーの指揮下で、美食家もケチのつけようがない料理を提供することになった。この時のために、感動を与えようと模索していたのはトリファーだった。予定しているゲストは、リッツシュタット夫人、一途な族長、マリゴールドだった。マリゴールドはトリファーが目当てでまだパリにいて、彼に言われてアイリーンと仲直りした。


「あなたもご主人も」トリファーはアイリーンに言った。「有名な場所はおなじみですからね。趣向を変えてごく単純なものを用意した方が新鮮だと思うんです」そしてトリファーは自分の計画をアイリーンに説明した。


トリファーは、クーパーウッドの出席を確かめるために、彼のために用意した夕食会への招待状をアイリーンに電報で送らせた。そして、クーパーウッドはこれを受け取ると、微笑んで、承諾を返信した。到着して本当に驚いたのは、人生のこの時期なら、しかも特にさんざん忍耐を重ねた後なら、こうかもしれないとクーパーウッドが思っていたよりもアイリーンが肉体的に魅力的なことに気づいたことだった。髪は、顔の長所を強調する渦巻きの典型的なものだった。ドレスは、かなり体重を減らした体のラインを見せるようにデザインされていた。


「アイリーン!」クーパーウッドはアイリーンを見て叫んだ。「こんなにきれいなきみを見たことがないな! 一体何をしてたんだい? そのドレスは効果抜群だね。それに髪が気に入ったよ。何を食べて生きていたんだい、鳥のエサかい?」


「まあ、そんなところよ」アイリーンは笑顔で答えた。「この三十日は食事らしい食事を一度もとらなかったんだから。でもね、これだけは信じてもいいわよ! もう、あたしは吹っ切ったから、この調子でいきます! でも、あなた、旅は快適でしたか?」アイリーンはしゃべりながら、ウィリアムズの仕事ぶりを監督していた。ウエイターはゲストのためにグラスとリキュールをテーブルに並べていた。


「海峡は池のように穏やかだったよ」クーパーウッドは言った。「十五分くらい、みんなが沈むのかと思うことがあったけどね。だが、上陸してしまえば、こっちのものだ」


「まったく、ひどい海峡よね!」アイリーンはクーパーウッドの目が自分に向けられている間ずっと意識していたが、褒められて思わず神経を高ぶらせて言った。


「ところで、今夜のこの宴会はどういうことだい?」


「トリファーさんとあたしとで、ちょっとしたパーティーを用意したんです。あのね、トリファーって人はとても貴重な方だわ。大好きになりました。来る人たちも、あなたが関心を持てる方々だと思います。特にあたしの友だちのリッツシュタット夫人なんかはそうだわ。夫人とあたしは一緒にずいぶん歩き回りました。すてきな方で、これまでに知り合ったどの女性とも違うのよ」以前なら嫉妬してこの新しい友人と同じくらい魅力的な女性だと夫の目にはとまらないように画策していたのに、トリファーと彼の華やかな仲間と一緒にひと月生活した今では、リッツシュタット夫人くらいの魅力的を持つ女性でも気楽にクーパーウッドに紹介できると感じた。クーパーウッドはアイリーンの新しい自信に満ちた雰囲気、厚かましさ、気だてのよさ、人生への関心が復活したことに注目した。もし物事がこんな風にうまくいったら、きっともう二人の間はぎくしゃくしなくなるかもしれない。同時にこうなったのもアイリーンの功績ではなく自分がやったからだという考えがよぎった。アイリーンはこれにまったく気づいていなかった。しかし、そう思うそばから、こうなったのも本当はベレニスが原因だと思いいたった。アイリーンがその気にさせられたのだって、自分の存在ではなく、自分が雇った男の存在によるものが大きかったと感じることができた。


しかし彼はどこにいるのだろう? クーパーウッドは、自分には問う権利がないと感じた。見世物や仮面舞踏会を企画する立場にいても、興行師だと明かすことは許されなかった。しかし、アイリーンはそこにいて言った。「フランク、あなたも支度があるわよね。それに、他の方々が来ないうちに、あたしはまだやることがあるのよ」


「そうだね」クーパーウッドは言った。「だけど、私の方にもきみに知らせがあるんだ。今すぐパリを離れて、私とニューヨークに戻れるかな?」


「どういうことかしら?」アイリーンの声は驚きで一杯だった。アイリーンはこの夏、少なくとも数か所は主要なリゾート地を訪れることを期待していたのに、今になってクーパーウッドがニューヨークに戻ると言い出すとは。永久にアメリカに戻るために、ロンドンの計画を完全にあきらめているのかもしれない。アイリーンは少し動揺した。このことが、つい最近達成したことのすべてに影を落とし脅かすように思えたからだ。


「ああ、全然深刻なことじゃないんだ」クーパーウッドは笑顔で言った。「ロンドンで問題があったわけじゃないよ。追い出されてはいないからね。実際、彼らは私に留まってもらいたがっているようだ。ただし、帰国して大金を持ち帰るという条件つきだがね」クーパーウッドは皮肉な笑みを浮かべた。アイリーンはほっとして一緒に微笑んだ。クーパーウッドの過去の経験をよく知っていたので、アイリーンはその皮肉を分かち合わずにはいられなかった。


「じゃあ、驚くことじゃないわけね」アイリーンは言った。「でも、それについては明日話しましょう。さっそく支度にかかったら」


「了解! 私なら三十分でできるよ」


アイリーンは夫が別の部屋へ入るのを見送った。クーパーウッドはいつものように確かに成功の絵を思い描いていた。快活で、機敏で、積極的だった。明らかに、アイリーンの今の外見とマナーに関心を持った。たとえクーパーウッドが自分を愛しておらず、自分がクーパーウッドを恐れている事実をまだ自覚していたとしても、アイリーンはこれを確信した。陽気でハンサムなトリファーが自分の人生に飛び込んできたのは何という幸運だったのかしら! もし自分が今ニューヨークに戻ることになったら、自分とこのハンサムな若い遊び人との間の、この実に不可解で今やしっかり成立した友情はどうなるのかしら? 




  第三十八章



クーパーウッドが再び現れる前に、トリファーが颯爽と現れた。シルクハットと杖をウィリアムズに手渡し、アイリーンの寝室のドアまで足早に進んで、ノックした。


「あら!」アイリーンはトリファーに声をかけた。「主人が来て、身支度をしているところよ。あたしもすぐに行きます」


「わかりました! 他のメンバーも、もういつ見えてもいい頃です」


そう言うそばで、かすかな物音がしたので振り向くと、ちょうどクーパーウッドが別のドアから応接室へ入ってくるのが見えた。二人は互いに確認の視線をすばやく交わした。自分の義務を自覚しているトリファーは、素早く前に出て心から出迎えた。しかし、クーパーウッドは相手よりも先に挨拶した。「やあ、またお会いしましたね。パリを満喫していますか?」


「それはもう存分に」トリファーは言った。「この時期は、特に楽しいですからね。いろいろな人に出会いましたよ。天気も最高でした。春のパリはご存知なんでしょ。私も最高に楽しくて、最高にすがすがしい時期なんだと知りました」


「今夜、我々は家内のゲストになるそうですね」


「はい、他にも数名います。あいにく、少し早いですね」


「何か飲むとしようか」


二人はロンドンとパリについて他愛のない会話を始めた。どちらも懸命に自分たちの関係を無視し、どちらも上手にやっていた。アイリーンが入ってきてトリファーに挨拶した。それからイブラヒムが到着した。クーパーウッドを自分の土地の羊飼いのように無視して、アイリーンにお世辞を言い始めた。


クーパーウッドは最初は少し驚いたがその後は面白がった。アラブ人の輝いている目に興味がわいた。「面白いな」と内心で思った。「このトリファーという男は実際にここで何かを作っているのだ。そして、このローブを着たベドウィン族は、家内をほしがっている。これは、すばらしい夜になるぞ!」


次に登場したのは、マリゴールド・ブレイナードだった。彼女の個性はクーパーウッドを喜ばせた。その評価は互いに一致しているようだった。しかし、この接近は、クリーム色の白いショールを巻き、片方の腕と足のあたりに長い絹のフリンジを垂らした、穏やかでエキゾチックなリッツシュタットの到着によってすぐに中断された。クーパーウッドは、なめらかな黒い髪にとても魅力的に縁取られ、ぶらさがって肩までとどくほどの重たい黒玉のイヤリングをした、オリーブ色の顔に見とれた。


クーパーウッドを観察して、ほとんどの女性と同じように感銘を受けたリッツシュタット夫人はすぐにアイリーンの苦労を理解した。これは一人の女性のための男性ではなかった。一口飲むだけで満足しなければならないのだ。アイリーンにこの真実をわからせてあげないといけない。


しかしトリファーが、そろそろ出発する時間だとやきもきしてせかすので、みんなは彼の言葉に従ってオーシグナットに向かった。


半分がバルコニーの個人のレストランは、開いたフランス窓から、ノートルダムとその前の緑の広場を一望できた。しかし、中に入ってみると、何もない木のテーブルがひとつそっくりそのままあるだけだったので、全員がどうもディナーの準備ができていないようだと言った。最後に店に入ってきたトリファーが叫んだ。


「これは一体どういうことだ? さっぱり、わからん。何か手違いでもあったかな。我々が来るのはわかっているはずなのに。お待ち下さい、私が行って見てきます」トリファーは素早く向きを変えて姿を消した。


「あたしにもわからないわ」アイリーンは言った。「てっきり、準備万端かと思ってたのに」そして眉をひそめ、口を尖らせ、最高にいらいらしているようだった。


「おそらく、違う部屋へ案内されたのでしょう」クーパーウッドは言った。


「店に話がいっておらんのかな?」族長がマリゴールドに言っていると、隣の配膳室のドアが突然開いて、道化師がものすごく心配そうに駆け込んできた。これはパンタローネそのものだった。背は高くて不格好、服装はいつもの星と月を縫ったスリップで、頭はふさふさ、耳はドーランで黄色く、眼窩は緑、頬は鮮紅色、手首と首のまわりはヒダ襟と腕輪、とんがり帽子の下から髪がいく房もはみ出し、両手に大きな白い手袋をつけ、足には長い殻ざおのような靴を履いていた。ある種の狂人のような苦悶と絶望にまみれながら周囲を見回して叫んだ。


「ああ、神さま! 何てことだ! おや、ご婦人に殿方! これは……おっ、これは……おお、テーブルクロスがない! 銀の食器がない! 椅子がない! お許しを! お許しを! これは何とかしなくてはなりませんな! お許しください、奥方、殿方、何か手違いがあったにちがいない。何とかしなくてはなりませんな! ああ!」そして、長い手をたたいてドアの方を見つめ、すぐにでも使用人の群れが自分の命令に応えるにちがいないとばかりに、道化師は待ったが、何の反応もなかった。それからもう一度手をたたき、道化師は片方の耳をドアに向けて待った。そんなことをしても物音一つ聞こえてこない。道化師は見物人の方を向いた。もう事情のわかった見物人は壁際に引き下がり、道化師に舞台を譲った。


唇に指をあてて、つま先で歩いてドアまで行き、耳をすませた。いっこうに、物音一つしない。かがんで鍵穴をのぞき込んだあと、今度は頭をこっちに傾けて、見物人を振り返り、驚くほどのしかめっ面をして、また唇に指をあて、片目を鍵穴にくっつけた。終いには後ろに飛び退き、そうする間にべったり倒れ、それから飛び起きて後ずさりした。するとドアが開け放たれて六人のウェイターがテーブルクロス、食器、銀器、グラス、トレイをかかえて……整然と事務的に行列を作って……道化師には目もくれずにテーブルの支度を始めた。一方で、道化師は飛び跳ね、騒々しく叫んでいた。


「よし! よし! やっと来たな? 豚どもめ! なまけものどもめ! 料理を並べろ! 皿を並べるんだ、ほら!」これをすでにすばやく器用に皿を並べている男に向かって言い、銀器を並べているウェイターに向かっても言った。「銀の器を並べろって言ってんだ! ほおら、静かにやるんだぞ! 豚野郎!」並べたそばからナイフをひろいあげて、ぴったり同じ位置に置き直した。グラスを並べていたウエイターに向かって叫んだ。「だめ、だめ、だめ! のろまめ! 物覚えが悪いな? 見てろ!」そしてグラスを持ち上げて、ぴったり元の位置に置いた。それから、脇に寄ってグラスをながめて、ひざまづいて目を細め、小さなリキュール・グラスを千分の一インチだけ動かした。


もちろん、この余興が続いている間、イブラヒムを除く全員が交互に微笑んだり、笑ったりした……イブラヒムだけこの一部始終を怪訝そうに見ていた。道化師が給仕長の踵にぴったりくっついて進み、時々実際に彼を踏みつけると特に盛り上げった。その間、ウエイターは道化師が見えないふりを続けた。ウエイターが退出すると、道化師もその後につづき、振り向きざまに叫んだ。「さっそく、一杯食わされましたな! では!」


「よくできた見世物ですね!」クーパーウッドはリッツシュタット夫人に言った。


「あれはヨーロッパで一番の道化師トロカデロのグレリザンだわ」夫人は言った。


「まさか!」マリゴールドは叫んだ。彼のユーモアについての彼女の評価は、その高名を知らされて急速に高まった。


最初は心配でたまらなかったが、この思い切った見世物の成功で得意になり、アイリーンは喜びで輝いた。クーパーウッドがアイリーンとトリファーの創意工夫を褒めることにしたので、もうグレリザンにできることでアイリーンが面白く思えないものはなくなった。しかし明るい赤のトマトスープみたいなもので一杯の大きな銀の深皿を運んでいる間に、彼がつまずいて倒れたときは、一瞬ひやりとさせることがあった。息を呑む音や悲鳴や笑いを誘いながら、鮮やかなオレンジ色の紙吹雪が、巧みに宙を舞ってゲストの上に降り注いだ。


グレリザンはまた食料庫へ急いで戻り、今度は角砂糖バサミでクルトンを一つだけ持ってきて大げさに指図しながら、入ってくるウエイターたちのあとを何度でもついて行った。その一方で、ウエイターたちは丁寧に料理の支度を整えた。


氷に似せたものが最後に出てきた。それぞれの表面の下は、もろいふくらんだ風船があって、フォークで穴を開けると中の物が現れた。クーパーウッドにはロンドン市の鍵、アイリーンにはハサミを手にしたリチャードのお辞儀をした笑顔の人形、リッツシュタット夫人には彼女が旅した場所の全てを点線で結んだ小さな地球儀、イブラヒムには族長がまたがる小さな馬、トリファーにはゼロの目が出た小さなルーレット、マリゴールドにはひとつかみほどの男のおもちゃの人形で、兵隊、王様、色男、画家、音楽家などがいた。これはたくさんの笑いを誘った。コーヒーが済むと、グレリザンはみんなの拍手に応えて一礼して退場し、クーパーウッドとリッツシュタット夫人は歓声を上げた。「お見事! お見事!」


「ああ、愉快だわ!」夫人は叫んだ。「彼に手紙を書こうかしら」


その後、深夜に幕が上がるグラン・ギニョール劇場で、一同は有名なラルートが時の人に扮するのを見た。その後、トリファーがサビナルの店を提案した。そして夜が明けるまでにみんなは、パリのこの夜はすばらしかったと完全に満足した。




  第三十九章



クーパーウッドはこのことから、トリファーは自分が期待していた以上に機知に富んだ人物だったと結論づけた。この男は明らかに才能に恵まれていた。最小限の激励と、もちろん経済的援助があれば、別れても、彼なら確かにアイリーンがかなり満足できる世界を彼女のために作れるかもしれない。これは少し考えを要する問題だった。もちろん、アイリーンがベレニスについて知ることになれば、おそらくトリファーに助言を求めるだろう。すると買収しなければならない問題になる。かなり面倒だ! また、アイリーン自身の社交が注目されて、その夫がめったに姿を見せないとなると、夫はどこにいるのだろうという憶測が広がる。憶測の行き着く先はひとつしなかい、ベレニスだ。自分と一緒にニューヨークに戻って、トリファーとは別れるよう、アイリーンを説得するのが一番だった。そうすれば、しばらくは、明らかにクーパーウッドがすでに達成したこの有利な立場に修正が加わって、それが他の人の目につきすぎるのを避けられる。


アイリーンは完全に乗り気でいることが判明した。これには様々な理由があった。そうしなければ、クーパーウッドは別の女を連れて行くかもしれないし、ニューヨークで会うかもしれない、と心配だったからだ。そして、トリファーとその友人たちのことも考えた。ちょうど今クーパーウッドはかつてないほど公人として見られた。その人物の正式な妻であることは最高の栄誉だった。アイリーンの一番の関心は、トリファーが自分についてくるかこないかだった。何しろ、今回アメリカに行くとなると、六か月、おそらくはそれより長くかかるかもしれないからだ。


すぐにアイリーンは、出発が迫っていることをトリファーに知らせた。トリファーの反応はかなり複雑だった。その背景にあるのはマリゴールドで、彼女はトリファーをノース岬への船旅に一緒に連れて行きたがっていた。今までトリファーは彼女のことを十分に見てきたので、このままアピールを続ければ実際に離婚して自分と結婚するかもしれないと感じた。マリーゴールドは自分の資産をかなり持っていた。トリファーは本当は彼女を愛しておらず、相変わらず若い娘とのロマンスを夢見ていた。それに、目先のお金と継続的な収入の問題もあった。それが途切れたら、自分の華麗な存在はすぐに終わってしまうし、クーパーウッドは何も匂わせなかったが、自分をニューヨークに戻らせたがっていると感じた。しかし、行くにしても留まるにしても、愛の告白もせずにアイリーンを追い続けるのは、彼女にも不可解に思えるところまで来ていると感じた。アイリーンは決して折れないだろし、これでうぬぼれるだろうと思った。それに、これ自体が近づく手頃な口実だった。


「何だ!」トリファーはアイリーンから知らせを聞いて叫んだ。「これですべてお終いか!」トリファーは神経質に行ったり来たりした。マダム・ジェミィのバーでマリゴールドと昼食をとった後でアイリーンに会いに立ち寄ったところだった。顔は深刻な懸念と失望を装っていた。


「どうしたのよ?」アイリーンに真剣に尋ねた。「何かよくないことでもあったの?」アイリーンはトリファーが酔っていることに気がついた。別段、正体をなくすほどではなかったが、彼の気持ちを暗くするには十分だった。


「これはひどすぎる」トリファーは言った。「ちょうど私たち二人に何かが始まりそうだと思っていた矢先でしたからね」


アイリーンは少し戸惑いながら相手を見つめた。確かに、この多少異例な関係はアイリーンの中で成長を続けていた。はっきりと考えこそしなかったが、自分で認めていた以上にトリファーに惹かれていた。それでも、彼がマリゴールドや他の人たちと一緒にいたのを見たことがあったので、何度も言ったように、女性は彼を絶対に信頼できない、と確信していた。


「あなたがこれを感じているかどうか、知りませんが」トリファーは計算しながら続けた。「あなたと私の間には、交流のある知り合いよりも大きなものがあります。正直に言いますが、初めて会ったときは、こんなことになるとは思いませんでした。私はあなたがクーパーウッド夫人である事実に、私がさんざん耳にしてきた人の関係者である事実に、興味を覚えました。しかし、何度か一緒に話をしてみて、何か違うものを感じ始めたんです。私は人生で多くの困難を経験しました。浮き沈みもありましたし、これからもずっとあると思います。しかし船での最初の数日で、多分あなたもそうだ、と私に思わせる何かがあなたにありました。あなたもご覧になったでしょうが、一緒にいられたかもしれない女性は他にも大勢いましたが、これが理由で私はあなたと一緒にいたくなったんです」


トリファーは真実以外を語ったことがない人の態度で嘘をついた。そして、このちょっとした演技がアイリーンを感動させた。アイリーンは彼を財産目当てだと疑っていた。おそらく、これは真実だった。もし彼が本当に自分を好きでなかったら、どうして外見を改善して、人を魅了するかつての力を取り戻すためにあれほどの努力をしただろう? アイリーンは突然の感動を経験した。おそらく半分は母性で、もう半分は若さと欲望だった。この浪費家を好きにならずにはいられなかった。トリファーはとても優しくて、快活で、微妙な形で愛情深かったからだ。


「でも、私がニューヨークに戻ることで、どんな違いが生じるのかしら?」アイリーンは不思議そうに尋ねた。「同じように友人でいられないかしら?」


トリファーは考えた。愛情の問題ははっきりした、今度は何だ? 常にクーパーウッドを考えることがトリファーを支配していた。クーパーウッドは自分にどんな行動を望むだろう? 


「ちょっと考えください」トリファーは言った。「ここの理想的な季節、六月と七月にいなくなるんですよ。せっかく物事が順調に行き始めたところなのに!」トリファーはタバコに火をつけて飲み物を用意した。どうしてクーパーウッドは、アイリーンをパリに留めておきたいのかどうか、自分に連絡を寄こさなかったのだろう? おそらく、出すつもりだろう。だとしたら、そういうことは早めにしてほしかった。


「フランクがあたしに行くように頼んだのよ、あたしには他のことはできないわ」アイリーンは静かに言った。「あなたが寂しがるなるんて想像もつかないわ」


「あなたはわかっていません」トリファーは言った。「あなたはここで私の中心になってしまいました。今はこの何年で感じたよりも幸福と充実を感じます。もし今あなたが帰ったら、それが壊れるかもしれない」


「何言ってるのよ! お願いだから、馬鹿なことは言わないでください。そりゃ、あたしだってここにいたいわ。どうすればそんなことができるか、わからないだけよ。ニューヨークに戻って状況がわかったら、お知らせするわ。すぐに戻って来ることになるって、あたしは信じてますけど。もしそうでなくても、あなたがまだそう感じているなら、あなたも帰ればいいんだわ。そうすればあたしはニューヨークで同じようにあなたにお会いします」


「アイリーン!」トリファーはしめしめと思いながらも愛情を込めて叫んだ。近寄って、アイリーンの腕をとった。「それはすばらしい! あなたがそう言ってくれるのを待っていたんです。そういうお気持ちなんですね?」トリファーはおだてるように目をのぞきこみながら尋ねた。そして相手がとめるのもきかずに、両腕をウエストにまわして、情熱的ではないが本物に見える愛情のこもったキスをした。しかしアイリーンは、トリファーを引き留めておきたいのと、クーパーウッドにも不平の格好の理由を与えたくない自分の支配的な欲求を意識していたので、感じのいい態度だったがきっぱりと抵抗した。


「だめです、だめ、だめ」アイリーンは言った。「ご自分がたった今言ったことを思い出して。もしあなたがそういうのをお望みなら、これは本当の友情になるわ。でも、それ以上のものは何もありません。それよりも、どこかへ出かけませんか。今日は外出してないのよ、着てみたい新しいガウンがあるの」


トリファーはこの問題をしばらく棚上げすることにして、フォンテーヌブロー近くの新しい店を提案し、二人は出かけた。




  第四十章



クーパーウッドとアイリーンはニューヨークで定期船サクソニア号から降り立った。いつものように会見があった。新聞各紙はロンドンの地下鉄事業参入について発表されたクーパーウッドの意図を察知し、取締役、出資者、経営者は誰なのか、また、突如報じられた〈ディストリクト鉄道〉と〈メトロポリタン鉄道〉の普通株と優先株の大掛かりな買い付けは、本当に彼の部下にされていたものではなかったのかどうかを知りたがった。これは巧みな声明で彼に否定されたが、発表されたときは、大勢のロンドン市民とアメリカ人をにやりとさせた。


アイリーンの写真、彼女の新しい服、そして大陸の社交界に近いところに現れたことが紹介された。


そして時を同じくして、ブルース・トリファーはマリゴールドと一緒にノース岬を目指して出航していた。しかし、こっちはどの新聞も全く触れなかった。


そして、プライアーズ・コーブでは、ベレニスが地元で大成功を収めていた。自分の抜け目なさを、素朴、無邪気、伝統重視のベールでとても慎重に隠していたので、誰もが彼女はそのうちに立派で正当な結婚をするものだと信じ込んだ。明らかに、退屈な人、平凡な人、好色な人を避ける本能があって、男女を問わず伝統的な思考の持ち主だけを好意的に見ていた。彼女の新しい友人たちが見たところでは、ベレニスのもっと見込まれている特徴は、社会的に恵まれた環境で生まれながら何の楽しい配慮も払われない魅力的でないタイプの女性……無視された妻、オールドミス、行かず後家……を好むことだった。もっと若くて魅力的なもてなし役や女主人を気遣う必要がなかったので、こういう人一倍孤独な女性たちを味方にできたら、一番重要な催しにも参加できることをベレニスは知っていた。


幸い、完全に無害で付き合っても大丈夫な青年や、肩書や社会的名誉を持つ若い領主を好む傾向があった。実際、プライアーズ・コーブ周辺の数マイルにいる若い副牧師や教区牧師たちはすでに、この若くて新しい住人の崇高な洞察力に大喜びだった。安息日の朝、英国高教会の近所の礼拝堂のどこかで、自分の母親か年配の保守的な女性といつも一緒にいる彼女のおとなしい姿が、彼女について噂されるすべてを裏付けた。


偶然にも、クーパーウッドはロンドンの計画の件で、シカゴ、ボルチモア、ボストン、フィラデルフィアを飛び回り、アメリカの機関投資家、銀行や信託会社のうちでも最も信心深いところの奥の聖域で、最も利用価値があって最も影響力があり、扱いに一番困らない人たちと協議をしていた。そして、地下鉄の計画でこれまで得られた利益よりもはるかに大きくて永続的な利益が確実であることを説明するとき、彼の表情は淡々としていた。つい最近まで彼を公然と非難していた割には、畏敬の念、本物の尊敬の念さえ持って耳を傾けられていた。確かに、シカゴでは軽蔑や憎悪がつぶやかれたが、所詮は嫉妬だった。何しろ、この男は実力者で、相変わらず魅力的で、世間の注目を集める本物のまぶしい存在だった。


クーパーウッドは、ひと月という短い期間で、自分の主要な問題が解決されるのを目にした。すべての路線を引き継ぐために今、作られようとしている持ち株会社の株を購入する仮契約が多くの場所で結ばれた。引き継がれた路線の株式一株に対して、クーパーウッドの大きな会社の株式三株が支払われることになっていた。実際、シカゴの資産に関するいくつかの小さな話し合いがなかったら、本当は自由にイギリスに戻れたし、古くからお馴染みのタイプの新しい出会いがなかったら、そうしていただろう。過去にもよくあったことだが、名前が公衆の前に誇示されているときは、富、名声、個人的な魅力に耐えられない野心的で魅力的な女性たちに言い寄られた。そして今回はボルティモアを訪れなければならなかったために、この種の鮮烈な出会いがあった。


それは彼が滞在していたホテルで起きた。そして当時のクーパーウッドの考えでも、これは決してベレニスに対して彼が抱いた愛情に影を落とすものには見えなかった。それでも、真夜中、ちょうど〈メリーランド信託〉の社長宅から戻って、机でさっきの会話を書き留めていたところ、ドアを叩く音がした。返事をすると、親類の者だがお話がしたい、と女性っぽい声で告げられた。クーパーウッドは微笑んだ。すべての経験を振り返っても、確かにこんな言い寄られ方をされた覚えはなかった。ドアを開けると娘が一人いた。一目見て、無下にすべきではないと判断し、さっそく興味をもった。娘は若く、ほっそりしていて、背は中くらい、自信家で、力強さがあり、魅力的だった。顔立ちもドレスも美しかった。


「親類なの?」微笑みかけ、入るのを許しながら言った。


「そうです」娘は極めて冷静に答えた。「すぐには信じてもらえないかもしれませんが、私はあなたの親類です。あなたの父方の兄弟の孫娘にあたります。名前はマリスです。母の名がクーパーウッドでした」


クーパーウッドは娘を座らせて、自分はその向かいの席についた。娘の大きくて丸い銀色がかった青い目が、揺るがぬ決心で彼を見すえた。


「出身は国のどちらですか?」クーパーウッドは尋ねた。


「シンシナティです」娘は答えた。「でも、母はノースカロライナで生まれました。母の父親はペンシルバニア出身で、あなたの出身地からそう遠くありません、クーパーウッドさん。ドイルズタウンです」


「確かに」彼は言った。「私の父には、かつてドイルズタウンに住んでいた兄弟がいました。それに、私が付け加えてよろしければ、あなたはクーパーウッド一族の目をしています」


「ありがとうございます」娘は返事をして、相手が自分を見るのと同じくらいじっと相手を見続けた。それから彼の視線に臆することなく続けた。「私がこんな時間にここに来たことを変に思うかもしれませんが、私もこのホテルにとまっています。私はダンサーなんです。一緒にいる仲間が今週ここで公演をしています」


「こんなことがあるとはね? 我々クエーカー教徒は不思議な分野をさまようようですね!」


「はい」娘は答えて温かく微笑んだ。その微笑みは控えめでありながら満ち足りていて、想像力、ロマンス、精神的な強さ、色気を連想させた。クーパーウッドはその特徴をたっぷり観察するだけでなくその力まで感じた。「さっき劇場から帰ってきたばかりなんです」娘は続けた。「でも、ここの新聞であなたの記事を読んで写真を見て、いつもあなたのことを知りたいと思ってましたので、今来た方がいいと決心したんです」


「あなたは優秀なダンサーなんですか?」クーパーウッドは尋ねた。


「見に来て自分で判断してほしいわ」


「私は朝のうちにニューヨークに戻るつもりでしたが、私と一緒に朝食をとるつもりがあるなら、滞在を延ばしてもいいと思います」


「ええ、もちろんご一緒します」娘は言った。「だって、自分がこうしてあなたと話している姿を何年も想像してきたんですもの。二年前に一度、何の仕事にも就けなかったときに、あなた宛の手紙を書いたんですが、結局破りました。だって、うちは貧しいクーパーウッド一族なんですもの」


「その手紙を出さなかったことが悔やまれます」彼は言った。「私にどんなことを伝えたかったんですか?」


「私がどれほど優秀であるかとか、あなたの甥の娘であることです。それと、もしチャンスが与えられたら、立派なダンサーになる自信があるとか、です。今は手紙を出さなくてよかったと思ってます。だって、私はここで今あなたと一緒にいますし、あなたは私のダンスを見ることができるんですもの。ところで」娘は魅力的な青い目でずっと相手を見つめたまま続けた。「夏にニューヨークで公演があるんです。そこでもお会い出来ればいいですね」


「もしあなたが見かけどおりのすてきなダンサーなら、評判になるはずだ」


「明日の夜、あなたにそう言わせてみせます」娘は行動するかのように少し動いたが、そこで躊躇した。


「名前の方は何ですか、言いましたっけ?」彼は最後に尋ねた。


「ローナです」


「ローナ・マリスか」彼は繰り返した。「芸名も同じですか?」


「ええ、一度、クーパーウッドに改名しようと思いました。そうすればあなたのお耳に入るかもしれませんから。でも資本家にはいいけどダンサーには向いてないと判断しました」


二人は互いに見つめ続けた。


「あなたは何歳ですか、ローナ?」


「二十歳です」と簡単に言った。「十一月に」


その後に続いた沈黙は思惑でいっぱいだった。目は、目が語れるすべてを語った。さらに数秒後、クーパーウッドはただ指で合図を送った。娘は立ち上がってすばやく彼のところに来た。そうする間は、まるでダンスをしているようであり、クーパーウッドの両腕の中にその身を投じた。


「美しいね!」クーパーウッドは言った。「こんな風に来てくれるなんて……すてきだ……」




  第四十一章



翌日の正午にクーパーウッドがローナと別れたことには、困惑が伴った。この熱病は彼を襲って、しばらくの間あらゆる細胞も衝動も支配したのに、クーパーウッドは実はベレニスを忘れていなかった。外部の力に制御されなかった火なら家を燃やさないだろう、と言うようなものかもしれない。この状況のクーパーウッドとローナを、抑える、あるいは抑えつけられる外部の力は存在しなかった。しかし、劇場に行くためにローナが帰ると、クーパーウッドの思考は再び普通の状態に戻り、ローナとベレニスが引き起こす異常事態でいっぱいになった。この八年間はずっとベレニスの魅力とそれが手に入らないことに翻弄され、最近はその肉体的、審美的な完成度に翻弄された。それなのに彼は、この品位は落ちるが依然として美しい力が、すべてを曇らせて一時的であれ消し去ること許してしまった。


クーパーウッドは部屋で独りで、自分に責任があるかどうかを自問した。この最近の誘惑は自分が探し求めたものではなく、向こうが自分のところに、しかも突然やって来たのだ。そのうえ、彼のそのものには、たくさんのいろいろな経験を、たくさんの栄養の源泉や流れを、受け入れる余裕があり必要でさえあった。確かに、クーパーウッドはベレニスに熱い思いを寄せる中で、寄せてからもほぼ途切れることなく、あなたは私の存在の一番上にいますと言っていた。大きな意味では、これはまだ真実だった。それにもかかわらず、今、ここには、ローナのような、熱烈で圧倒的な力が存在した。これは特に若さと美しさとセックスが関係する場合には、新しい未踏の神秘的で抵抗し難い魅力として区別されてもいいかもしれない。


この裏切る力は個人やその意図よりも強いという事実を使うと最もよく説明できる、と彼は自分に言い聞かせた。それがやって来て、その独自の熱を発して、この結果をもたらしたのだ。それはベレニスとクーパーウッドに起きて、今再びローナ・マリスに起きた。しかし、今でもはっきりわかっていることは、それがベレニスへの愛情に取って代わられることは決してないということだった。れっきとした違いが存在し、クーパーウッドにはそれがはっきりと見え、感じることができた。そして、この違いは、二人の娘の気質と精神の目標にあった。同じ年齢でも、かなり起伏の多い幅広い人生経験を持つローナは、自分の肉体の純粋に官能的な魅力の称賛を通して得られるもの、名声、報酬、魅力的で刺激的なダンサーに当然送られる拍手喝采、に満足した。


ベレニスの気質的な反応と、その結果生まれた計画は完全に別物だった。こっちはもっと幅広くて、もっと豊かで、人や国をも巻き込む社会的・美的感覚の産物だった。ベレニスは、クーパーウッドと同じように、考え方も感性も優れていると絶えず信じていた。だから、彼女はイギリスの雰囲気や、社会の形や、慣例に溶け込むのも簡単で優雅だった。明らかに、ローナの鮮烈ではらはらさせる官能的な力に対して、ベレニスにはもっと深みがあって永続的な力と魅力があった。言い換えるなら、彼女の野心と反応は、あらゆる点でそれ以上に重要だった。そして、このときはこれを考えたくなかったが、ローナがいなくなっても、ベレニスはずっといるだろう。


しかし、最後に清算するとき、クーパーウッドはこのすべてをどう調整するつもりだろう? すぐに終わらせるつもりはないこの火遊びを隠せるだろうか? もしベレニスがこれに気づいたら、どうやって納得させようか? 髭剃り鏡の前でも、お風呂や脱衣所でも、解決できなかった。


その夜、公演の後でクーパーウッドは、ローナ・マリスは偉大というよりも、関心をあおるダンサーであり、数年華麗に輝いて最終的に金持ちの男性と結婚しそうだと判断した。しかし今はローナがダンスをするのを見て、シルクのピエロの衣装を着て、ゆるいパンタロンを履き、長い指の手袋をはめた姿が魅力的なのを知った。大げさな影を投げかける照明と気味の悪い音楽に合わせて、もし気をつけなければその人を捕まえるかもしれないお化けを、歌って踊って演じた。もう一つのダンスはハチャメチャだった。白いシフォンの短い袖なしのスリップを着て、美しい両腕と両脚は素肌で、渦巻く髪に金粉をまぶし、酔っ払いの奔放さを存分に表現した。また別のダンスでは、暴漢らしい待ち伏せしている相手から逃れようとしている、追われて怯えたうぶな人を演じた。あまりに頻繁に呼び戻しがかけられるので、運営側は彼女のアンコールを制限しなければならなかった。その後はニューヨークでそのシーズンの間、夏全体を、街の恋愛ムード一色にした。


実際、クーパーウッドを驚かせ満足させたのは、ローナが彼と同じくらい大きく話題になったからだった。あちこちのオーケストラが彼女の曲を演奏していた。人気の演芸場には彼女の物まねまでいた。ローナと一緒にいるところを見られただけでコメントが寄せられた。そこに彼の最大の問題があった。ローナの評判を定期的に報じる新聞が、彼のことまで報じたからだ。そしてこれは、クーパーウッドには最大の警戒心を、ベレニスにはとても現実的な精神的苦痛を、もたらした。もし二人が公の場で一緒にいるところを見られたら、ベレニスは新聞で読むか、人づてに聞くか、誰かにささやかれるかもしれなかった。それでも、彼とローナは熱愛中だったので、できるだけ一緒にいたかった。少なくともアイリーンには、ボルチモアで自分の身内の孫娘に会い、彼女が非常に才能のある娘でニューヨークで公演中の演劇作品に出ていることを率直に打ち明けようと決めた。アイリーンは家に招待したがるだろうか? 


アイリーンはすでに新聞でローナの批評を読み、写真を見たことがあったので、当然興味があった。だから招待したがった。同時に、その娘の美しさ、落ち着き、自信、そして彼女がクーパーウッドに会って自己紹介したという事実だけでも、娘に対する反発がアイリーンにつらい思いをさせ、クーパーウッドの本当の動機は何だろうと昔からの疑念を復活させるのに十分だった。若さ……取り戻せないもの。美しさ……影のように現れては消える完璧なものの亡霊。それでも火と嵐の両方があった。クーパーウッド宮殿の画廊や庭園をローナに案内して回っても、アイリーンには何の満足感もなかった。彼女はわかるだろうが、ローナが持つものがあればこういうものは必要なかったし、アイリーンに欠けたもののせいで、こういうものは彼女には何の役にも立たなかった。人生は美と欲望とともにあった。それがないところには何もなかった……。そして、クーパーウッドは美を求めてそれを自分のものにした……人生、色彩、名声、ロマンス。それなのに、アイリーンは……。


新たな楽園を築くために、ありもしない約束や仕事を装う必要に迫られたクーパーウッドは、トリファーがいた方がいいと判断し、彼を呼び戻すよう〈セントラル信託〉に手配した。トリファーなら、アイリーンがローナのことを考えないようにしておけるかもしれない。


トリファーはマリゴールドと彼女の友人たちと一緒にノース岬沖に楽しく浮かんでいたが、呼び戻されたことにひどく落胆して、金融事情のせいですぐにニューヨークに戻らなければならないと言わざるを得なかった。そして戻るとさっそく、アイリーンと同じように自分のことも楽しませることに全力を尽くしていたが、ローナとクーパーウッドの噂を聞きつけて、もちろん興味を持った。クーパーウッドの幸運がうらやましかったが、それでもあらゆる点に注意して、耳にしたゴッシプをすべてけなして否定し、特にアイリーンの疑惑からクーパーウッドを守った。


残念なことに、トリファーは到着が遅すぎて〈タウントピックス〉の決まりきった記事に先手が打てず、さっそくアイリーンの手に落ちてしまった。それはアイリーンにいつもの影響を及ぼした。夫の慢性的な悪癖を昔のように苦々しく思い悩んだ。世界的な地位がどれほど偉大だろうと、達成力がどれだけすばらしかろうと、クーパーウッドは自分よりもはるか下の方のこういうつまらない流れ者に、それさえなかったら、途方もなくて、汚れひとつなかったであろう公的な地位を、汚したりくすませたりするのを許さなければならなかった。


一つだけ慰めがあった。もし自分がこうして再び恥をかかされるのだとしたら、それはまたベレニス・フレミングも恥をかかされることになるのだ。アイリーンは長い間、ずっと背後にいるベレニスの見えない存在が気になって仕方なくいらいらしていた。そして、ベレニスのニューヨークの家が閉まっているのを見て、クーパーウッドはベレニスのことも無視しているに違いないと思い込んだ。どう見ても、クーパーウッドはこの街を離れたがる様子は見せていなかった。


クーパーウッドがニューヨークにとどまる理由の一つにあげていたのは、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの指名と当選の可能性に関係していた。彼は政治的扇動家で、お金の管理と分配のあり方に関する、現在の資本主義的な観点とは多少異なる経済と社会の理論を持ち、当時埋められなかった貧富の差を埋めようと模索していた。そしてその結果、当時のアメリカには、この男が実際に大統領に当選するのではないかという、ほとんどパニックに近い本物の経済不安があった。このおかげでクーパーウッドは、ブライアンの敗北が決まることに自分の経済的繁栄がかかっているから、この時期にこの国を離れるのは危険だとアイリーンに言うことができた。そして、ベレニスに同じ内容の手紙を書いた。最終的にベレニスがクーパーウッドを信じるに至らなかったのは、アイリーンが〈タウントピックス〉を一部、彼女のニューヨークの住所に郵送し、やがてそれがプライアーズ・コーブにとどいた事実が原因だった。




  第四十二章



ベレニスがこれまでに会ったすべての男性の中で、クーパーウッドだけが力と実績を持っていて最も魅力的だった。しかし、人や、クーパーウッドや彼が提供した満足感と充足の要素さえ除いても、プライアーズ・コーブには人生そのものの特色があった。社会的な問題は決着がつかなくても、少なくとも一時的には処理されたので、ベレニスはここで人生で初めて極端なほど勝手気ままにふるまい、ポーズを取ったり、演じたい、という自己陶酔的な衝動に身を委ねることができた。


プライヤーズ・コーブでの生活は、楽しいほど孤独で、だらだらと過ぎていった。午前中、何時間も入浴した後、鏡の前で、その日の気分に合った衣装を選ぶのが好きだった。この帽子はこうして、このリボンはああして、このイヤリング、このベルト、このスリッパと続いた。時々、化粧台の金色の大理石に肘をついて手に顎をのせ、髪、唇、目、胸、腕を研究しながら鏡を覗き込んだ。常に結果の効果を考え、細心の注意を払って、テーブルに合う銀器、磁器、テーブルクロス、花を選んだ。そこで見る人といっても、普通は自分の母親、家政婦のエヴァンズ夫人と、メイドのローズしかいないので、主に見るのは自分だった。そして、月がのぼると、寝室を抜け出してすてきな壁に囲まれた庭を散歩し、クーパーウッドのことを考えながら空想にひたり、何度となく会いたくてたまらなくなった。束の間の不在が、満足この上ない再会をもたらしてくれるという埋め合わせまで考えた。


カーター夫人は娘の自己陶酔ぶりによく驚いて、目の前に着実に広がっている社交界が存在するのにどうしてこう頻繁に独りになりたがるのかを不思議に思っていた。やがて、この中にステイン卿が現れた。クーパーウッドが出発して約三週間が過ぎた頃、ステイン卿がトレガサルからロンドンまでドライブがてら、表向きは馬の世話と、新しい入居者に歓迎の挨拶をしに立ち寄った。その娘がフランク・クーパーウッドの被後見人だと知らされていたので特に興味があった。


クーパーウッドと一緒にこの男性についてすべて話をした後、ベレニスはすぐに関心を持った。そしてヘアピンとブラシと見知らぬミス・ハサウェイを思い出しながら少なからず面白がった。それでも、挨拶するときは笑顔で自信に満ちているように見えた。白いドレス、青いスリッパ、ウエスト周りの青いリボン、泡立つような赤い髪を囲む青いビロードのバンドはステインには効かなかった。ステインは娘の細い手をとってお辞儀をする間、ここには人生のあらゆる瞬間がチャンスであり、野心家で実力者のクーパーウッドに確かにぴったりの被後見人がいると内心思った。ステインの目は、詮索は隠したが称賛は隠さなかった。


「家主の立ち入りを許してくださいね」ステインは切り出した。「フランスに送る馬が何頭かここにいるので、点検しておく必要があるんです」


「ここで暮らすようになってからずっと」ベレニスは言った。「母も私もこういうすてきな場所のオーナーにお会いしたいと思っていました。言葉では言い表せないほどすてきですわ。私の後見人のクーパーウッドさんからあなたのことはうかがっています」


「それは彼に感謝しないといけませんね」ステインはベレニスの落ち着きぶりに魅了されて言った。「プライアーズ・コーブに関しては、私は大きなことは言えません。実は先祖伝来のものですから。家宝の一つなんですよ」


お茶に誘われて、ステインは受け入れた。イギリスには長く滞在することになるのか、と尋ねた。ベレニスはすぐに、ステインには用心しようと決心し、自分にはわからない、自分と母がどのくらいイギリスを気に入るか次第だと答えた。その間、ステインの視線はベレニスの静かな青い目に会いに何度も戻った。ベレニスはさっそく相手の態度に乗じて、それがなければ取らなかったであろう無邪気で馴れ馴れしい態度をあえてとった。馬を見に行くのなら、私も見てはいけませんか? 


ステインは喜んだ。二人は一緒に厩舎の先にあるパドックに行った。すべてが彼女に満足のいくように取り仕切られているかどうかを尋ねた。あなたとお母さまは、乗馬か馬車で馬を使いますか? 庭師か農民の、入れ替えか、配置換えを希望しますか? 羊の数が多するかもしれませんね。ステインは羊の一部を売ろうと考えていた。ベレニスは、羊は大好きです、何も変えてほしくない、とはっきり伝えた。実は、ステインは二、三週間後にフランスから戻り、トレガサルへ行くつもりだった。もし二人がそれまでここにいれば、また会いに立ち寄るかもしれません。おそらく、クーパーウッドさんもここに来ているでしょう。もしそうなら、彼との再会は楽しみです。


明らかに、これは親交を結ぶ申し出だった。ベレニスはこれを最大限に活用することに決めた。これはロマンスの始まりかもしれなかった。ステインがここの家主で、クーパーウッドの将来のパートナーになるかもしれないと知ってから、何となく心の片隅でもしやと思っていたものだった。ステインが去った後、ベレニスは夢見心地で、彼の細長い姿、完璧なカントリーツイード、ハンサムな顔、手、目を思い返した。雰囲気や歩き方、態度にも魅力があった。


しかし彼にはクーパーウッドとの仕事があり、ベレニスと母親の立場も異常だった。気づくのではないだろうか? 彼は、ホークスベリィ大佐やアーサー・タビストックや、この辺の田舎の副牧師や結婚しそこねた女性のように騙せる相手ではなかった。ベレニスは、自分もクーパーウッドもだまされりはしなかったろうと知っていたように、もっと物知りだった。もし今自分が気のある素振りをみせて少しでも動いたら、自分はいかがわしい女であり、将来のことは考えずに経験者のリストに加えられるという前提で、ステインはすぐに進展させるのではないだろうか? クーパーウッドへの愛情と彼の将来への大きな関心を考えると、ベレニスはこういう裏切り同然のまねをしようとは思わなかった。これがクーパーウッドに及ぼす影響は大きすぎる。彼が怒りの報復をする可能性があった。ベレニスは、ステインとの再会に同意することが賢明なのかさえもじっくりと考えた。


しかし、八月のある日の早朝、鏡の前でナルキッソスのようなポーズをとっていたときに、ステインからの手紙を受け取った。馬を二頭連れた馬丁を先発させ、自分もパリを出発してプライアーズ・コーブに向かいます。よろしければそれと一緒にうかがいます。ベレニスはステインに手紙を書き、自分と母は喜んでお迎えすると伝えた。クーパーウッドのことも考えていたのに、あまりの興奮で自分のことがわからなくなり始めた……このときクーパーウッドはローナ・マリスの魅力を楽しんでいた。


ステインは金融の分野ではクーパーウッドほど鋭くなかったが、立派な恋敵にはなった。大きな関心があるときは、積極的で臨機応変だった。美しい女性を愛し、他にどんな仕事があろうと、絶えず何か新しい探しものをしていた。ベレニスを見て、彼女に感情的な情熱を抱いていた。ステインは母親と二人きりであの素敵な環境にいる彼女を、恋愛の愛情の対象としてふさわしいと考えたが、クーパーウッドがいるから、慎重に踏み出さねばならないと悟った。しかし、クーパーウッドが自分の被後見人と、その彼女がステインの借家人であることに触れもしなかったことを考えると、少なくとも詳細を知るまでは、彼女に声をかけ続けてもいいのではないだろうか? そして、その時が来たら、本腰を入れて、このチャンスをできるだけ有効に活用しようと決心した。


ベレニスも準備はできていた。ベレニスは淡い緑色のお気に入りのガウンを着て、以前ほど堅苦しくなくくだけていた。フランスで楽しい時間を過ごせましたか? どの馬が勝ったんですか、目のまわりに白い丸がある鹿毛(かげ)かしら、それとも白い脚毛の体高がある黒いのかしら? 勝ったのは体高のある黒で、ステインは賞金一万二千フランと、総額三万五千フランのサイドベットも獲得していた。


「フランスの貧乏家族を貴族に変えるのに十分ですね」ベレニスが軽口をたたいた。


「まあ、フランス人はかなり倹約家ですからね」ステインは言った。「確かに向うの村人にも貴族になる者はいるでしょう。それを言うなら、こちらの村もですよ。私の父方の先祖の出身地のスコットランドなら、それで伯爵の基礎を築いたでしょうね」ステインは反射的に微笑んだ。「当家の初代伯爵は」ステインは付け加えた。「それよりも少ない金で始めたんです」


「そして、今のご当主は一回のレースで同じ額を勝って凱旋です!」


「まあ、今回はそうですね、毎回そうはいきませんよ。前回のダービーでは、そのほぼ二倍の出費でしたから」


二人はハウスボートのデッキの席に座って、お茶が出されるのを待っていた。暇人でいっぱいのパント船が通り過ぎた。ステインはベレニスに、ハウスボートのカヌーかパント船を使ったことがあるかどうかを尋ねた。


「はい」ベレニスは言った。「タビストックさんと私と、ウインブルドン近郊にお住まいのホークスベリィ大佐とで、こっちはウィンザー、あっちはマーローのずっと先まで川を探検しました。オックスフォードまで行こうと話したんですけどね」


「一艘のパントで?」ステインは尋ねた。


「二、三艘でです。ホークスベリィ大佐が、船隊を組むとか言っていました」


「あの懐かしい大佐か! あなたは大佐をご存知なんですか? 我々はお互いの少年時代を知ってますよ。しかし、一年は会っていないな。インドにいっていたはずですが」


「ええ、そうおっしゃっていました」


「しかし、トレガサルの周辺にははるかに面白いところがありますよ」ステインはホークスベリィとタビストックを無視して言った。「イギリスは四方を海に囲まれていて、岩だらけの沿岸は実に印象的です。さらに、湿地、沼地、スズや銅の鉱山、古い教会があります。もしそういうものに関心がおありならですが。そして、特に今は気候がいいですから。あなたとお母さまには、ぜひトレガサルにお越しいただきたいものです。実にいい小さな港があって、ヨットを停泊させているんです。シリー諸島にまでだって航海できますよ。たかだか三十マイル先ですからね」


「まあ、楽しそう! ご親切にありがとうございます」ベレニスはそうは言ってみたものの、クーパーウッドのことと、もし彼が知ったら何と言うかを考えていた。「お母さん、シリー諸島にヨットで出かけるのってどうかしら?」ベレニスが開いた窓から声をかけた。「ステイン卿はトレガサルにご自分のヨットと港をお持ちで、そこなら私たちも楽しめるとお考えなのよ」


ベレニスはご機嫌な態度で早口にしゃべったが、同時にほんの少しだけ見下した感じをにじませた。実際、他の多くの方面でなら、お願いされるほどの招待状を軽く受け止めるベレニスの快活な無頓着さをステインは面白がった。


カーター夫人が窓に現れた。「娘をお許しくださいね、ステイン卿」夫人は言った。「とても気ままな娘なんです。私の言うことなんて聞いたためしがありません、私の知る他の人もみんな無理ですから。それでも、私の口から申し上げていいのなら」……夫人はここで許可を求めるかのようにベレニスを見た……「それって楽しそうですこと。きっと、ベヴィも同じ考えですわ」


「さあ、お茶よ」ベレニスは続けた。「それから、私はカヌーの方が好きだと思うんですけど、川に行って竿でこぐのもいいかもしれませんね。それとも、散歩の方がいいかしら、夕食前にスカッシュをお手合わせを願おうかしら。私は練習を積んでるから、上達したかもしれないわ」


「ですが、この時期にスカッシュは暑過ぎませんか?」ステインは言った。


「たるんでます! 私はてっきりイギリス人はみんな、テニスコートで張り切るのが好きなんだと思ってました。帝国は衰退しているに違いありません!」


しかし、その晩スカッシュをやることはなかった。代わりにテムズ川でカヌーに乗り、その後はろうそくの明かりでのゆっくりとしたディナーで、ステインはトレガサルの魅力を詳しく語った。彼の話によると、国内に数ある他の立派な屋敷ほどモダンでもなく見栄えもよくないが、海と、不思議と不気味なほど印象的な岩だらけの沿岸を一望できた。


しかしベレニスはこの場所のステインの説明には惹かれたが、この招待を受けるかまだ決めかねていた。




  第四十三章



ベレニスとステインには、気質に似通ったものがあった。ベレニスと同じように、ステインはクーパーウッドに比べたら無骨ではなく、やや実務経験も不足していた。一方、ステインはクーパーウッドが輝きを放つ実践的領域から排除されていた分だけ、ベレニスが最も楽しめる雰囲気の中で、美しく支配された贅沢のあの雰囲気の中で、一層効果的に輝いていた。ベレニスは夜、散歩したほんのわずかな時間でステインの趣味と哲学を吸収した。そのときステインは自由に自分のことをベレニスに話した。クーパーウッドと同じように、ステインも気づいた運命を受け入れ、それを喜びさえする傾向があった。彼は裕福だった。一応、才能にも恵まれ、爵位があった。


「しかし、私は自分が持っているものを、獲得するためのというか、受けるに値することを何もしていません」ステインはそこを認めた。


「それは確かですね」ベレニスは笑いながら言った。


「しかし、私はここにいます」ステインはベレニスが口を挟んだのに無視をきめこんで続けた。「世界はそういうもの、不公平なんです。ある者には恩恵がいっぱいで、ある者には何もないんです」


「そこはあなたの意見に同意します」ベレニスは急に真面目になって言った。「人生は狂った運命に貫かれているようです。美しいものもあれば、恐ろしいもの、恥ずべきもの、残忍なものもあります」


ステインはそれから自分の人生を語り続けた。ステインの話では、父親が同じ伯爵でもある友人の令嬢と結婚させたがった。しかし、ステインが語ったように、二人の間には十分な愛情がなかった。そしてその後ケンブリッジで、もっと世界を見るまで、どんな条件であっても結婚を遅らせようと決めたのだった。


「しかし、困ったことに」ステインは言った。「旅行の習慣がついてしまったようでしてね。そして、その間の暇なときには、ロンドン、パリ、トレガサル、プライアーズ・コーブに行きますからね」


「でも、悩んじゃいますね」ベレニスは言った。「孤独な独身男性ってそういう場所で何ができるのかしら」


「それが私の大きな気分転換になるんです。パーティーですよ」ステインは答えた。「きっとあなたもその目でご覧になったでしょうが、ここはそういうものがたくさんあるんです。到底逃げきれませんからね。でも私だって時々とても一生懸命やるんですよ」


「楽しいからですか?」


「ええ、そうだと思います。少なくとも、自分を自分のままでいさせて、自分が健康だと思うバランスを確立してくれます」


そして、ステインは個人の実績の伴わない称号は大して価値がないという持論を展開した。また、世界の関心は、科学や経済の分野で働く人の方に向いていた。ステインの関心を最も引いたのは経済だった。


「でも、私がお話ししたいのはそういうことじゃなくて」ステインは話を締めくくった。「トレガサルのことです。あそこは普通のパーティをするには少し遠過ぎるし、殺風景過ぎるんです。だから本格的な人寄せをするときは、ちょっとした段取りをしなくてはなりません。ロンドン周辺で起きることと比べたら大きく違いますからね。私はそこをよく避難所に利用するんです」


すぐにベレニスは、ステインが二人の理解をもっと深めようとしているのを感じた。この問題をすぐに終わらせて、これ以上発展しないように、今ここで確実にしておくのが一番いいかもしれない、と考えた。それでも、自分と同じくらい広い人生観をもつ相手にまで、このような行動をとる必要があることには腹立を立てた。散歩する間にステインを見ながらベレニスは、クーパーウッドとの本当の自分の関係をステインに打ち明けたら、彼は自分の自然な興味に支配を許し、社交の丁重な気遣いを続けたいと思わなくなるかもしれない、と思った。結局、ステインは今クーパーウッドと仕事のつながりがあったし、ベレニスのことも尊重するくらいに彼に敬意を払っているかもしれない。


同時に、彼にはこの本物の魅力があった。ベレニスはこの夜の会話を延期することに決めた。しかし翌朝、日の出直後に早めの朝食をとって乗馬に出かけようと集まったときに再開した。ステインは、数日間の休養をとるだけでなく、注意を必要とするいくつかの重要な財務の問題をはっきりと検討するためにも、トレガサルに行くつもりだと言った。


「あなたの後見人の地下鉄計画に関連した仕事が山積みなんですよ」ステインは打ち明けた。「ご存知かもしれませんが、非常に複雑な作業工程を抱えてらして、そのために私の助けが必要だと考えているようです。私が本当にお役に立てるものなのかどうかを判断するつもりです」ステインは、ベレニスに何か言うことがあるかどうかを確かめるかのように話をやめた。


しかし、ベレニスは彼のすぐ横をゆっくりと走りながら、どんな形であれ自分の気持ちを打ち明けまいと強く決めていた。今度はベレニスが言った。


「クーパーウッドさんは、たまたま私の後見人ですけど、私じゃ金融のことはわかりません。私は、どうすればお金が儲かるかよりも、お金が作り上げるすてきなものの方に興味があります」ベレニスは煮え切らない微笑みを向けた。


ステインはしばらく馬の点検をして、振り向きざまにベレニスを見て叫んだ。「ほお、あなたは私と全く同じ考え方をしますね! 私は美しいものを愛しているのに、どんな形であれ、どうして現実的な問題で悩むのだろうとよく考えます。これを巡って、私はよく自分と戦っていますよ」


そして今、ベレニスは再びステインと、自分の積極的で冷酷な恋人とを比べ始めた。クーパーウッドの金融の才と飽くなき権力欲は、芸術や美を愛することで、ある程度和らげられた。しかし、ステインの著しく発達した美意識は圧倒的だった。その上、同じように富と個性を持ち、加えてクーパーウッドはとうとう勝ち取れなかったが、高貴な称号の重要性を世間が認めていた。明らかにベレニスはステインに際立った印象を与えていたので、この対比はおもしろかった。アメリカの資本家にして路面鉄道王のフランク・クーパーウッドとは対照的なイギリスの貴族! 


ベレニスはまだらの灰色の馬に乗って木々の下を駆けながら、自分をステイン夫人だと考えようとした。二人にはステイン伯爵の位を継ぐ息子が授かるかもしれない。しかし、悲しいかな、ベレニスは、ルイビルの悪名高いハッティ・スターである自分の母親と、いつスキャンダルとして表に出るかもしれないクーパーウッドとのただならぬ関係を考えた。アイリーンがいた。クーパーウッドの怒りとそれに続く反目があるかもしれない。陰謀と復讐に長けた彼の才能を考えれば、何だってありえた。現実の厳しさの前でこれまでの興奮が霧のように消えた。どの道を選んでも難関なので、一瞬ベレニスはまさしく凍りついた。しかしその直後にステインに言われてある程度なだめられた。


「あなたは美しいだけでなく聡明で理解力のある方だと言わせてもらえますか?」


悲しい気分だったにもかかわらず、ベレニスは陽気に手を振って応えた。


「あら、どうぞ、身に余るものを私が拒否すると思ってますか?」


ステインは余計に興味をそそられた。彼女とクーパーウッドとの関係はごく普通のものかもしれないと考えるようになった。あの男は五十五から六十歳はいってるに違いない。それに、ベレニスはせいぜい十八か十九歳だ。非嫡出子の娘かもしれない。いや、ベレニスの若さと美貌に目をつけて、クーパーウッドが母親と娘に贈り物や心遣いをたっぷり与えて娘の気を引きたがっている可能性はないだろうか? カーター夫人を見ていて、ステインは簡単には説明できない何かを感じ取っていた。ベレニスは夫人にとてもよく似ていたから、夫人がこの娘の母親なのは明らかだ。ステインは釈然としなかった。今、ステインはベレニスをトレガサルに連れて行きたかった。その方法を考えながら言った。


「まずは、お祝いしないといけませんね、フレミングさん、こんなにすばらしい後見人をお持ちなのですから。あの方は非常に才能がある方だと思います」


「ええ、そうなんです」ベレニスは言った。「そして、あなたがその方に協力しているというか、協力を考えていることを知るなんて面白いわ」


「ところで」ステインは言った。「クーパーウッドさんが、いつアメリカからお戻りになるか、ご存知ですか?」


「最後に聞いた話では、ボストンにいました」ベレニスは答えた。「シカゴや他の場所でやる仕事をたくさんかかえていましたから、本当のところ、いつ戻るかは私にはわかりません」


「戻って来たら、あなた方みなさんをおもてなしするのを私は楽しみにしているんですよ」ステインは言った。「でも、トレガサルの件なんですが、クーパーウッドさんのお戻りを待つ必要がありますか?」


「待った方がいいと思います、せめて、三、四週間はいただかないと。母の具合がよくないんです。ここにいて休みたいというのが今、一番の希望なものですから」


ベレニスはステインを安心させるように微笑みかけた。その一方で、クーパーウッドが戻りさえすれば、あるいは手紙を書くか電報を打つ時間がとれれば、何とかなるかもしれないとも感じていた。ベレニスとしては、この招待を受け入れられたら最高だと思った。クーパーウッドがいなくてもクーパーウッドが認めれば、ここでの親交がステイン関係のクーパーウッドの仕事をはかどらせるかもしれない。すぐにベレニスはクーパーウッドに手紙を書くつもりだった。


「じゃあ、三、四週すれば、大丈夫だと思いますか?」ステインは尋ねた。


「その頃なら大丈夫です。それに、私たちみんなにとって、これに勝る喜びはないことを、はっきりと申し上げます」


そして、ステインは世界一優雅な態度で、この曖昧な返事を受け入れた。明らかに、この若いアメリカの美人は、ステインも、トレガサルも、称号を持つ彼の縁者も必要としていなかった。ベレニスは一人前の人間であり、自分の条件でしか受け入れられようとはしなかった。




  第四十四章



ベレニスは、この関係を発展させることが賢明なのか確信が持てなかったが、クーパーウッドが戻るのを遅らせたことで、ある程度の進展があった。クーパーウッドはローナのことがあったから、迫りつつある大統領選挙が終わるまではロンドンに戻れないとすでに手紙を書いていた。もしすぐに戻れないようなら、呼び寄せるからニューヨークかシカゴで落ち合おうとも、ちゃっかり書き添えてあった。


この手紙は憶測を呼びはしたが、何の疑惑も生まなかった。ベレニスとステインの会話があった翌週に届いた、アイリーンに差し出された切り抜き以外は、何も生むことはなかった。ベレニスはある朝コテージの東側の寝室で、自分宛ての手紙に目を通していて、ニューヨークの自宅宛でこちらに転送されてきた一通のありふれた封筒を手に取った。中身は、ローナ・マリスの写真と説明と〈タウン・トピックス〉から切り抜かれた記事で、内容は、

 

今世間をにぎわしているちょっとしたゴシップの中に、世界的に有名な億万長者と彼の最新のお相手で、今をときめく人気ダンサーに関するものがある。聞くところによると、この話は極めてロマンチックである。とある中西部の都市で巨万の富を築き、若くて美しい乙女好きで有名なこの紳士が、辺境の街のひとつで、最高の美人にして今シーズンの最も有名な舞台のスターに出会って、たちどころに征服してしまったらしい経緯をお話しよう。このマエケナスほどの富と、たまたま興味を引いた人たちへ行う贅沢な出費や寄付などもある彼の評判は、同じくらい大きいが、女が舞台から引退してヨーロッパに同行するよう求められたのではなく、むしろ惚れた弱みで、男の方がここに残るよう説得されたようだ……彼は最新の事業に使う資金を調達しに最近ヨーロッパから戻っていた。ヨーロッパは呼んでいる。しかし彼の人生最大の経済活動は、この最新の美女の輝きを浴びるために中断された。シルクハットをかぶった楽屋口の男たちが無駄に待ちぼうけ、その一方で一台の自家用車が彼女を私たちが推測することしかできない喜びへと連れ去るのである。クラブ、レストラン、バーはこのロマンスの話題で持ちきりである。それにしてもこの結論は疑わしい。確かにヨーロッパをいつまでも待たせるわけにはいかないからである。見た、来た、勝った、とはこのことだ! 

 

ベレニスは最初ショックを受けるというよりも驚いた。クーパーウッドは自分に夢中だったし、自分との交際にも仕事にも極めて満足しているように見えたので、少なくともしばらくは安全だと思い込んでいた。同時に、ローナの写真を見てすぐに、この最新のお気に入りを一段と生き生きさせている色っぽさに気がついた。これは本当だろうか? こんなにも早く別の相手を見つけたのだろうか? ベレニスはしばらくの間この身代わりを到底許すことができなかった。クーパーウッドがベレニスに、女性らしさの最高の資質をすべて備えたもの、すべての女性の中でもあなたは変動や競争を恐れる必要はない、と公言してからまだ二か月も経っていなかった。そしてクーパーウッドは、ローナ以外に彼をそこに留めるまっとうな理由もなく、このニューヨークにいた。おまけに、大統領選挙にかこつけたくだらない手紙まで自分に書いて寄こした! 


次第に、怒りが膨れ上がった。ベレニスの灰色がかった青い目は冷ややかになった。しかし、最後に理性が救いに来た。自分に強力な武器はなかっただろうか? タビストックがいた。しゃれものでも、社会的には盤石で、親子でよく王室の催し物に顔を出すほどだった。他にもいた。ベレニスにとってこの新しい世界のたくさんのとても重要で魅力的な人たちの視線や良さがわかる目は「私をお忘れなく!」とはっきり言ってくれた。そして最後にステインがいた。


しかし、ベレニスのこういう最初の考えは、クーパーウッドに敵対するように見えたかもしれないが、そこに絶望はなかった。結局、ベレニスはクーパーウッドが大事だった。二人とも、お互いを通じてどれほど多くの本物の価値がすでに自分たちにもたらされたか、わかっていた。ベレニスは困惑し、傷つき、驚き、少なからず怒っていたが、反抗を目論むものではなかった。ベレニス自身は、自分の持つような愛情と気質が、クーパーウッドを昔の考え方ややり方から完全に引き離せるだろうか、とよく考えなかったのか? 自分にはできないことをベレニスは認めていた。もしくは半分確信していた。ベレニスの望みはせいぜい、この二人の資質と関心の組み合わせが、両者を魅力的な関係に、少なくとも有益な関係に保てればいい、というものだった。そして今、こんなにも早く、すべてがすでに破綻してしまった、と自分に言わねばならないのだろうか? クーパーウッドだけでなく自分の将来を考えると、これを認めたくなかった。すでにあったことが、あまりにもすばらしすぎた。


すでにベレニスはステインに招待されたことをクーパーウッドに書き送り、返事を待つつもりでいた。しかし、この特別な証拠が目の前にある今、クーパーウッドに対する最終判断がどうなろうと、ベレニスはステイン卿の招待を受けて自分に向ける彼の熱意を高めることにした。クーパーウッドのことをどうするかは、その後で決めるつもりだった。ベレニスは、ステインが自分に示した関心がクーパーウッドにどんな影響を与えそうか、に特に関心を持っていた。


そして今度はステインに、母親はかなり回復し、転地でいい効果が出そうな状態になったので、数日前に届いた二度目の招待を喜んで受ける、と手紙を書いた。


クーパーウッドには手紙を書くのをやめることにした。どんな形であれステインを相手に妥協したくなかったので、クーパーウッドとの決裂を招くことは何もするつもりはなかった。待って、自分の沈黙が相手に与える影響に注意していた方がいいだろう。




  第四十五章



一方、ニューヨークで、クーパーウッドは依然として最新のロマンスを満喫しているように見えた。しかしその裏では、それもすぐ真裏では、ベレニスのことを考えていた。クーパーウッドの場合ほぼ毎回そうだが、純然たる情事にうつつを抜かす期間は限られていた。血流そのものに何かがあって、それがやがて決まって突然、本人ですらほとんど説明できないのだが、興味がなくなった。しかし、ベレニスから連絡があって、ついに、そして人生で初めて、自分で敗北を招いていると確信して困っていることに気がついた。これはただの情事の問題ではなくて、美を失うだけでなく精神的ダメージになるかもしれなかった。女性の中でただ一人、ベレニスはクーパーウッドの人生に情熱と賢さ以外のもの、美と創造的思考に敏感に関係する何かをもたらした。


そして今、彼を躊躇させたものが他にも二つあった。一つ目で、最も重要なのが、ステインがプライアーズ・コーブに立ち寄ったことと、ベレニス親子をトレガサルに招待したことを伝えるベレニスの手紙を受け取ったことだった。ステインの肉体的、精神的な魅力は彼も知っていたから、これはクーパーウッドをとても動揺させた。これはベレニスにとっても魅力的に映るだろう、とクーパーウッドは感じた。すぐにローナとの関係を清算して、ステインが幅を利かせるのを防ぐためにイギリスに戻るべきだろうか? それとも、心ゆくまでローナとの関係を楽しむためにもう少し長居して、そういう行動をとることによって、自分はまったく嫉妬しておらず、これほど顕著で有能な恋敵を冷静に許せるところをベレニスに示して、それによって彼女を説得し、二人のうちで自分の方がしっかりしていると思わせるべきだろうか? 


しかし、その他にも、彼の気持ちを複雑にする別の問題があった。キャロライン・ハンドの突然の、まったく予期せぬ発病だった。ベレニスの前にいたすべての人の中で、キャロラインは最も役に立った。彼女の知的な手紙は、彼女の変わらぬ献身をクーパーウッドに誓い、ロンドン・プロジェクトの成功を祈り続けていた。ところが今度は、すぐに虫垂炎の手術を受けねばならなくなったという知らせが届いた。キャロラインはせめて一、二時間でいいからクーパーウッドに会いたがった。話したいことがたくさんあったのだ。帰国していたから、クーパーウッドは行こうと思えば行けた。そうするのが義務だと感じて、キャロラインに会いにシカゴへ行くことに決めた。


クーパーウッドは生まれてこの方、愛人に軽い病気で見舞いを求められたことはなかった。どれもがすべて、明るくて若さあふれる通り一遍の情事だった。そして今、シカゴに到着し、自分がキャリーと呼ぶ人がひどい痛みに苦しみ、病院に運ばれようとするのを見て、クーパーウッドは人間の存在のはかなさについて真剣に考える気になった。キャロラインがわざわざクーパーウッドに来てもらいたがった用件の一つは、アドバイスが欲しかったからだ。口調は十分に明るかったが、事態がうまくいかないことを想定して、キャロラインは彼に自分のある願いが実行されることを確認してもらいたがった。コロラドに二人の子供を持つ妹がいて、彼女は妹に献身的で、ある債券が譲渡されることを望んでいた。これはクーパーウッドが彼女に購入を勧めたもので、今は彼のニューヨークの銀行に預けられていた。


クーパーウッドはその年齢で死に備えたキャロラインの用心深さをすぐに軽視した……彼は彼女より二十五歳年上だった……同時に、ありうることだと考えていた。誰もが死ぬかもしれないのと同じように、もちろん、キャロラインだって死ぬかもしれない。ローナもベレニスも、誰だって死ぬかもしれない。六十歳の自分が若者同然の熱意を持って挑み、その一方で三十五歳のキャロラインが手放さざるを得なくなることを恐れている、この短い戦いは何とむなしいのだろう。おかしなことだ。かわいそうに。


しかし、あろうことか、用心深さがぴたりと的中してしまい、キャロラインは病院に入ってから四十八時間とたたない内に死んでしまった。彼女の死を聞くと、地元では彼女が彼の愛人だったことが知られていたから、すぐにシカゴを離れた方がいいと思った。出発前にシカゴの弁護士の一人を呼び寄せて、何をすべきか指示を出した。


同時に、キャロラインの死はクーパーウッドの心を蝕んだ。病院に向かうときでさえ、彼女はとても勇敢で、とても生き生きとしていて、気が利いた。家を出る前に、そして彼が一緒に行けないことを残念がった後で、彼女が最後に言った言葉があった。「ねえ、フランク、私はこれでもいい伴奏者なんだから。戻って来るまで、どこにも行っちゃいやよ。やり残したデュエットが、まだ少し残ってるんだから」


それなのに、彼女は戻って来なかった。そして、シカゴの思い出で一番楽しかったものの一つが彼女と共に消えてしまった。そのとき彼は大きな戦いの中にいて、彼女と一緒の時間はほんの少ししかとれなかった。そして今、キャロラインがいなくなった。どんなに身近にいるように見えても、本当はアイリーンもいなくなってしまった。ステファニー・プラトーや他の人たちがいなくなったように、ハグエニンもいなくなった。もういい年だ。自分にはあとどれくらい残っているのだろう? 急にベレニスのもとへ戻りたくてたまらなくなった。




  第四十六章



しかし、ローナと別れるのは簡単ではなかった。ベレニス、アルレット・ウェイン、キャロライン・ハンド、過去にいたたくさんの魅力的な人たちと同じように、彼女も馬鹿ではなかった。かの偉大なクーパーウッドが身近にいてくれると、ものすごく引き立つから、ごねずに引き下がるのはもったいなかった。


「ロンドンには長く滞在するの? 定期的に手紙を書いてくれる? クリスマスには戻らないの? せめて二月はどう? あのね、私たちは冬中ずっとニューヨークに留まることが決まったわ。その後ロンドンに行こうって話まで出てるのよ。そっちに行っても平気かしら?」


ローナはクーパーウッドの膝の上で丸まって、耳に話しかけていた。ロンドンに行っても、アイリーンと現地の仕事の邪魔にならないよう、ニューヨークでそうだったように目立たないようにすると付け加えた。


しかし、クーパーウッドはベレニスとステインのことを考えはしても、そんなことは考えなかった。ローナが肉体を本当に官能的に興奮させることができたのは事実だが、社交力、美の認識、駆け引きではベレニスにかなわず、クーパーウッドは違いを感じ始めていた。終わりにしなくてはならなかった。それもきっぱりと。


ステインがトレガサルに行き、自分も半分乗り気なのを知らせてきた手紙を最後に、クーパーウッドがいろいろな手紙や電報を打ったにもかかわらず、ベレニスからは何の音沙汰もなかった。クーパーウッドはベレニスの沈黙を徐々に〈タウン・トピックス〉の記事と関連づけ始めた。ずっと勘のよかった頭脳が、もうこれ以上手紙を書くのはやめて出発しようと判断した。それもすぐにだ。


そういうわけで、ローナと一夜を過ごした翌朝、彼女が昼食の約束に備えて身支度しているときに、クーパーウッドは退路を作り始めた。


「ローナ、きみと私は話し合わないといけない。私たちのお別れと私がイギリスに戻る件についてだ」


クーパーウッドはローナが時々挟もうとした質問や反論には耳を貸さず、できるだけ正確に自分の事情を説明し始めた。しかし、ベレニスの名前は出さなかった。そう、他にも女がいた。そして、彼女との幸せな関係は、このときの彼の人生で最も必要で大切なものだった。その上、アイリーンがいて、ロンドンの仕事の性質があった。二人のこの関係が限りなく続くとは、ローナだって考えていないに違いない。とても美しいものだった。今でもそうだ。だが……


ローナが何を言おうと、要所々々で涙をあふれさせようと、その様子はまるで王様が、お気に入りだが捨てられる運命にある愛人に話しかけているようだった。ローナは座ったまま、がっかりして、傷つき、少なからずすごみ、にらみつけた。こんなあっけない終わり方をされるとは信じられなかった。でも、クーパーウッドを見ていて、思い当たる節があった。そういえば、二人で一緒に何時間も過ごしたが、大好きだとか、これは終わらないとか、彼は一度も言ったことがなかった。そんなことを言う人間ではなかった。それに、ローナには美貌と才能があったから、どんな男性も、たとえクーパーウッドであろうと、一旦この深い関係になって、自力でこの自分から離れる術を見つけられるとは信じていなかった。どうして、こんなことを言い出せるのだろう? フランク・クーパーウッド、大伯父、実の身内、そして恋人! 


しかしクーパーウッドは、活動的で、思慮深く、冷酷で、死刑執行人であり、恋人だった。そしてローナを前にして言った。もちろん、血のつながりはある。これと、彼女への本物の愛情があるから、最終的な精神的断絶はありえない。しかし、肉体関係は断たねばならない。


そして、その他にも、出航の準備をしていた数日の間にもっと長い話があった。その中でローナは、彼が自分を親類として見つづけるべきだと主張した。ローナはどんな形であれ彼に干渉するつもりはなかった。それに対し、クーパーウッドはそうしようと答えた。しかし同時に、心はずっとベレニスに向いていた。クーパーウッドはベレニスを知っていただけに、ローナのことくらいではおそらく自分から離れないだろうが、義務を感じなくなって、知的・精神的に支えるのをやめるかもしれないと思った。そして今はその背景にステインがいる。ぐずぐずしてはいられなかった。何しろ、間違いなくベレニスは彼に依存していなかったからだ。できるだけ早く彼女と和解しなければならない。


クーパーウッドは必要な準備を全部整える前ではなく整えてから、ロンドンに戻るとアイリーンに伝えることにした。そして、ある晩、アイリーンに話す準備をして自宅に入ろうとしたときに、トリファーが帰るところにばったり出くわした。クーパーウッドは彼を心から歓迎し、ニューヨークでの行動に関する質問を一つ二つしてから、アイリーンと自分は一両日中にロンドンに戻るつもりだとさりげなく知らせた。トリファーがはっきり理解したこの小さな情報は、自分も渡航することを意味したので、トリファーは喜んだ。これで、パリに、おそらくマリゴールド・ブレイナードのところにも、戻れるからだった。


しかし、この男ときたら、何とあっさり手際よく物事を片付けてしまうのだろう! 一度に、同時に、ニューヨークにローナを置いて、神のみぞ知る人を海外に置き、アイリーンと自分にロンドンへ、大陸へ、行けと命じることができるのだ! そしてその間中ずっと、初めて会ったときに気づいたあの同じ何の問題もない表情を続けていた。一方、この予定の変更を知らされたトリファーは、この別の男の人生の、勢いがあってくじけない進行を、調節して、可能にして、快適にするために、現在準備しているものをすべて中断しなくてはならなかった! 





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