【起】恋/故意に落ち/落とされました
「相薗さんは、誰が好き?」
予期せぬ方向から話しかけられ、私――相薗梨乃――は声の聞こえた方へと顔を向ける。
放課後の窓際の席には、机を挟んで女子生徒が二人座っていた。
普段それほど交流のない級友から話しかけられたのは、単純に彼女たちが暇だったのだろう。
「何の話ですか?」
「これこれ!」
これ、と言いつつも主語が出てこないため、いまいち要領がつかめない。
しかし、机の上に乗せた雑誌を指差してくれたために、『これ』が何を指しているのかは理解することができた。
「この中なら誰が好き?」
机の上へと広げられたアイドル雑誌を指差され、視線を紙面へと落とす。
開かれたページでは、近頃テレビCMでよく見かける顔の男性アイドルグループが爽やかな微笑みを浮かべていた。
……なるほど、この中から好みのタイプを答えればいいのか。
ようやく最初の質問の意図が判り、少し真剣に雑誌の中のアイドルへと意識を向ける。
アイドルというだけあって、みんなそれなりに整った顔立ちをしているのだが、作り笑いを浮かべた彼等が私の目には魅力的に見えなかった。
「……この中にはいませんね」
全員好みではない、とは言いづらかったので、言葉を暈して答える。
これで彼女たちの質問へはあたりさわり無く答えることができた、と内心で安堵していたのだが、恋に恋するお年頃の級友たちの興味はこれで終わらなかった。
「えー? じゃあ、こっちは?」
ペラリとページが捲られて、次のページに載ったアイドルが顔を見せる。
先ほどとは違うアイドルグループのはずなのだが、私の目にはどれも同じに見えた。
談笑へと誘ってくれた級友たちに少しだけ申し訳なく思いながら、思ったままを多少暈して正直に答える。
最後のページまで行ってもでてこなかった私の好みのタイプに、級友たちは別段気を害した様子もない。
本当に、ただの暇つぶしとして私を会話に混ぜたのだろう。
「相薗さんって、レズなの?」
会話の終わりにズバリとこんなことを聞かれ、やんわりと否定して別れる。
彼女たちの持っていた雑誌のアイドルたちが私の好みではなかったというだけで、同性に性的なトキメキを覚えたことはない。
だからといって異性にトキメキを覚えたこともないので、私がまだ子どもなのだと思う。
……それにしても、異性のアイドルに興味がないってだけで同性愛者か、だなんて。あれが恋愛脳って物なのかな?
恋愛脳だというものでないとしても、少し短絡的すぎる。
世間的に恋に恋するお年頃と言われていても、人の心の成長には個人差というものがあるのだ。
私の年齢でまだ恋に興味がなくとも、それほど不思議はないだろう。
……そうだよね? 初恋もまだだなんて、他にもいるよね?
我ながらマイペースすぎるか、と内心で心配になりつつも、下駄箱から革靴を取り出す。
中学校までは運動靴が校則で決められた通学靴だったが、高校にあがってからは革靴だ。
うちの学校は誰が頑張っているのか、未だにセーラー服が採用されていた。
セーラー服の根強いブランドイメージのせいで通学の電車で痴漢に合う、と制服の変更を学校へ掛け合う女生徒がいるが、未だに制服をブレザーに替える様子はない。
……制服をセーラー服からブレザーに替えたって、まだ『女子高生』って最強のブランド名が残ってるしね。
痴漢がこの世から根絶しない限り、痴漢被害に合う女性はいなくならないだろう。
女子高生というブランドに、セーラー服とブレザーの違いは瑣末なことだ。
……どちらかというと、私の場合は男性不信な気がする。
異性に興味がないのではなく、女と見ればそれが女児であっても性的な目で捉える男という生き物への不信感。
それがあるおかげで、年頃になったからといって異性に対して恋慕の情など湧いてこなかった。
世間一般的にお年頃と呼ばれる年齢になってからは、下心なく接してくれる異性など近所の小学生ぐらいである。
これ以上の年齢になると、視線が胸や腰といった部分へと注がれるのが判るため、こちらとしても警戒心を掻き立てられずにはいられない。
純粋な好意など、もちようもなかった。
……でも、恋か。どんな感じなんだろうね?
まさか小説のように落ちる物だとは信じていないが、どんな感情なのか理解も想像もできない。
異性に対して一線引いている自覚はあるが、まだ興味がないというのも正解なのだろう。
……幼稚園の頃に仲のいい男の子ぐらいはいたけど、これはさすがに違うよねぇ?
当時を思い返せば、母が初恋だなんだとはしゃいでいた気がする。
幼稚園児に恋もなにも無いと思うのだが、幼い自分の娘の友だちですらそういう目で見るのだから、女性の恋愛脳というものは不治の病なのだろう。
きっと、死んでも治らない。
男性キャラクターが二人いれば掛け合わせるという腐女子というものとなんら変わりはなかった。
女の子という生き物は、何でもかんでも恋愛に変換して楽しむのが好きなのだ。
……たまにその輪から外れる人間もいる、ってだけ理解して欲しいかな。
同じ話題で盛り上がれないのは残念かもしれないが、無理に話しを合わせるのも何か違う気がする。
他人は他人、自分は自分だ。
「あ……」
自分に恋など向いていない。
そう結論付けた矢先に、その人は現れた。
横断歩道を渡ったその先に、雑誌の中のアイドルたちには感じなかったトキメキを掻き立てる男性の後姿が見える。
背を向けているため顔は見えないのだが、ひと目で恋に『落ちて』しまった。
……恋って、本当に落ちるんだ。
後姿の男性から、不思議と目が離せない。
視界にはいったのは、彼の背中だけだ。
正面に回ったらとんでもない不細工である可能性だってあるのだが、そんなことはどうでも良かった。
私は男性の背中に恋してしまったのだ。
……いやいや、行きずりの恋すぎるよ。下校途中の通行人にひと目惚れとか、この恋はかないませんにも程がありすぎる。
まだ同級生や近所に住む男性であれば知り合う可能性もあるが、背中の主は下校途中にたまたま見かけた通行人でしかない。
このまま何事も無かったかのように通り過ぎれば、二度と会うこともないだろう。
……私に逆ナンするような勇気はないよ!
行きずりの男性に声をかける度胸などなく、彼と恋人どころか知人にすらなれる機会もない。
短い初恋だったな、と彼に声をかけようと唆す別の自分を押さえつけ、せめて顔ぐらいは見られないだろうか、と考え直す。
背中だけしか知らないので、よく知りもしない男性にトキメクのだ。
正面に回れば案外たいしたことのない顔で、がっかりして初恋は綺麗さっぱり終わるかもしれない。
……少しだけ。ちょっと顔を見るぐらいの寄り道ならいいでしょ。
横断歩道のあちら側とこちら側というだけの違いだったが、普段とは違う道を歩くというだけでも、私にとってはすごく勇気のいる決断だ。
声をかける勇気はないが、横断歩道を渡って背中の主とすれ違うぐらいなら私にもできる気がした。
……早く信号青にならないかな?
私が信号を確認しようと顔をあげるのと、背後から声がかけられたのは同時だった。
「相薗さん!」
およそ日常会話では聞かないような叫び声に、びくりと体を強張らせる。
続いて、声の様子の異常に気が付くと、急に周囲が開けて見えた。
そして、開けて見えた視界の端から乗用車が私に向けて突き進んでくることに気が付く。
声の主はこれを知らせてくれたのだ。
……あ、死ぬ。
自分へと突っ込んでくる乗用車に、何の意味もないと思いながら目を閉じ、歯を食いしばる。
少しぐらい衝撃に備えられたところで、結果は変わらないだろう。
私は乗用車に撥ねられて死ぬのだ。
……まだ?
衝撃に備えて待っていたのだが、一向に強い衝撃に襲われることはなかった。
何か変だぞ? と恐々と薄く目を開こうとした次の瞬間、想像していた物とはまったく違う衝撃を感じる。
衝撃というよりは、降下だろうか。
一瞬だけ体が浮いたと思ったら、水面へと頭から叩きつけられた。
……え? え? なんで水? 通学路に池なんてあったっけ?
わけが解らず手を伸ばす。
水の中に落ちたのなら、速やかに水面へと顔を出さなければ、今度は溺れることになる。
……あ。
腕が水面にでた。
手が空気に触れた瞬間に、誰かの力強い手が私の手首を掴む。
そのまま一気に水からすくい上げられると、溺死だけは免れることができたと理解できた。
「……あ、ありがとう、ござい、ます……」
飲んでしまった水で時折噎せながら、それでもまずは助けてくれたことにお礼を、と額に張り付いた前髪を払いながら顔をあげる。
救出者の金色の瞳と目が合うと、あまりのことに言葉が喉の奥へと引っ込んでしまった。
……この人、さっきの人だ。
背中しか見えていなかったのだが、不思議とそう確信する。
横断歩道の向こうにいた、ひと目惚れした背中の主が私を水の中からすくい上げてくれたのだ。
……でも、何か?
何かおかしいぞ、と違和感を覚えて男性の顔をマジマジと見つめる。
髪は少し長めの黒髪で、奥に金色の瞳が隠れていた。顔は恐ろしく精悍に整っていて、男性アイドルなど比較にもならない。
体つきはがっしりとした大柄で、彫刻のように引き締まった体に古代ギリシャ風に布をゆるく纏っているだけ、といった服装だ。
間違っても、下校途中の街中で見かけるような服装ではない。
……え? なにこれ? 何か変。
男性から覚える違和感に、少しだけ冷静さが戻ってきた。
何故、横断歩道の向こうにいたはずの男性が、目の前にいるのか。
何故、水の中へと自分が落ちたのか。
私に向かって突き進んできた乗用車はどうなったのか、と次々に疑問が湧き起こり、少しでも情報が欲しいと周囲を見渡す。
「……ここは、どこ?」
見渡した周囲には、これといって何もない。
通学路に当たり前にあった整えられた歩道も、アスファルトに覆われた道路も、ガードレールも、街灯や街路樹といった一切が存在しなかった。
その代わりにあるのは、白い石を重ねた壁と、吹き抜けの天井。
それから、足元の泉だ。
いつのまに解けたのか、校則で黒か紺と定められた紺色のリボンが浮かんでいる。
「水? なんで? なんで、浮いて……」
水からすくい上げられたのだから、当然足元には水があるだろう。
が、水があっただけだ。
橋があるわけでも、地面があるわけでもないのに、私の体は水の上に立っていた。
これは本格的におかしい、と思い始め、説明を求めて顔をあげる。
自分の置かれている状況について、説明が出来そうなのは目の前にいる男性だけだ。
「あの……」
なんと聞けば良いのだろうか。
そう思考するより早く、男性の右手がセーラー服の襟を掴んだ。
「あっ!」
プチッと一番上のホックが外れ、セーラー服が肩まで脱がされる。
むき出しにされた肩に身の危険を感じた時には、男性から距離をとる暇もなく、首筋へと牙を立てられていた。
チクッと痛んだのは、一瞬だけだ。
「あぁ、ふぅ……」
背筋を駆け上ってくる快感に、自分でも聞いたことのない声が漏れる。
腰がしびれて、足から力が抜けた。
立っていることができなくなった体に、男性はそうなることが最初から判っていたのか腰へと腕を回し、私の体をしっかりと抱きこんだ。
「……なに。なにが……?」
自分の体に起こった変化にわけが判らず、それでも首筋から顔をあげた男性を見上げる。
涙声になっているのは、仕方がないと思いたい。
突然男性に肩を剥かれ、首筋へと噛み付かれたのだ。
これで身の危険を感じない女の子などいないだろう。
「血……吸血鬼?」
男性の唇に滲んだ赤に、自分の首筋で行われていたことを知る。
男性は自分の首筋にただ噛み付いていたのではなく、血を吸っていたのだ。
血を吸う生き物となると、私の知識で導き出される答えなど実に単純だった。
「吸血鬼という種は存在するが、私はそのような者ではない」
惚れ惚れするような低い声が男性の口から発せられ、しばし見惚れる。
見惚れたというよりは、思考が止まってしまったのだろう。
男性の言葉に対し自分の口から出てきた言葉は、麗しい美丈夫に抱き支えられたという状況にありながら、実に色気の無いものだった。
「日本語上手ですね」
そうなのだ。
明らかに日本人とは思えない整った顔立ちの男性なのだが、口からは流暢すぎる日本語がでてきた。
これが異世界トリップのお約束である自動翻訳かとも思ったのだが、それならそれで流せずにつっこんでしまう私は、夢を見るのも難しいのだろう。
……うん、わかった。これは夢だね。私、あの車にひかれたけど助かって、手術中か入院中に夢を見ているんだ。
こんなに都合の良い夢があるだろうか、と考えつつ、夢であるのならと状況を受け入れることにした。
夢ならば、こんなに都合の良いことばかりが起こっても不思議は無い。
「言葉は今、そなたの血から学んだ」
「血、ですか……?」
どうやら便利な謎の『自動翻訳』ではなかったようだ。
原理は謎だが、私の血から日本語を学んだらしい。
「私はそなたの言葉を学んだが、そなたが言葉を理解するためには、そなた自身が学ぶ必要がある」
自分の血を飲め、と言って男性はむき出しの腕を私へと差し出してきた。
筋肉を纏った太い腕は、一般的日本人男性にはないものだ。
逞しい腕だ、と見惚れはするのだが、この腕に歯を立てて血を吸うことは私にはできない。
「……私に人の腕に噛み付いて血を吸うような牙はありません」
「では、適当に傷をつけて飲むが良い」
「故意に人を傷つけるなんて、怖くて嫌です」
なにそれ怖い、と差し出された腕を押し返す。
料理をするために魚を捌くことにも慣れていないのに、故意に人間を傷つけるなんてことは絶対に無理だ。
「……おまえの世界では、必要であっても人の身に傷を付けることを厭うのだな」
せっかくの好意だとは思うのだが、提案をことごとく断る私に、それでも男性は気分を害した様子はない。
愛おしげに金色の目を細めて私を見下ろすと、腰へと回されているのとは逆の手で私の頬に触れた。
「んむっ!?」
頬を撫でられた。
そう思った次の瞬間には、男性の唇が私の唇へと重ねられる。
なんの心の準備もしていなかった突然の行為に、驚いて目を見開くと、男性の金色の瞳と目が合った。
……あ、血の味がする。
唇を割って男性の舌が口内へと侵入してくる。
初めてのキスだとか、出会ったばかりなのにだとか、色んなことが頭を過ぎったが、この行為が男性にとって私に血を飲ませるためだけのことだということも判った。
一つが判ると、他にもいくつか判ることがある。
これが男性の言う『学んだ』ということなのだろう。
彼――ヴァーストスという名前らしい。これも血から『学んだ』――は血から私の知識を吸出し、今度は血を通じて私へと彼の知識の一部を寄こした。
自動翻訳なんて便利な物は必要ない。
ヴァーストスは私の血から日本語を学び、私は彼の血からこの世界の言葉を学んだ。
彼の血のおかげで、私はこの世界でも言葉には困らないだろう。
「梨乃、よく来てくれた。私の愛し巫女よ」
唇が離れると、ヴァーストスの唇から出てきた言葉はこの世界の物だった。
聞き取りも発音も、すでに問題にすらならない。
愛おしそうに目を細めて私の髪を弄るヴァーストスから流れ込んできた知識の中には、言語以外の物も含まれていた。
おそらくは、私への説明を省略するためもあったのだろう。
……異世界トリップしちゃった。
これは夢でもなんでもない、ヴァーストスという神の手によって行われた異世界召喚だった。
私はその召喚で彼の求める役目を果たせる巫女として選ばれ、この地へと呼び出されることになったのだ。
『ようこそ、異世界の巫女姫さま』
『いらっしゃいませ、異世界の巫女姫さま』
ヴァーストスに支えられ、泉の上を滑るように移動すると、水際に幾重にも布を重ねた服を纏う少女と女性たちが控えていた。
ヴァーストスと似たような衣装を纏っている女性、と考えれば、彼女たちは巫女か何かなのだろう。
貰ったばかりの知識を少し探せば、彼女たちはヴァーストスに仕える巫女だという知識が出てきた。
「異世界の娘だ。少々勝手は違うだろうが、おまえたちに任せる」
『おまかせください、我が神よ』
『異世界の巫女姫さまには、不足なくお寛ぎいただけますよう、精一杯お世話させていただきます』
ヴァーストスと巫女たちの会話は、聞き取ることはできるのだが、巫女たちの言葉には少し違和感がある。
唇が動いているのだが、喉から聞こえてくる声というよりは、直接頭に響いてくるかのような声だ。
……不思議な声。少し切なくなるような響きがあるような……?
なんだろう、と考えているうちにヴァーストスから巫女たちへと出される指示は終わったらしい。
巫女たちはヴァーストスに恭しく頭を下げると、私へと手を差し出してきた。
『異世界の巫女姫さま、まずはお着替えを。濡れたままでお風邪を召してしまいますわ』
そう言って退席を促す巫女たちに、一度だけヴァーストスを振り返る。
ヴァーストスは私の世話は巫女たちへ丸投げするつもりのようで、泉の中央へと戻っていった。
珍しく(自称)恋愛モノです。
不定期更新で、2話は大体書けているので、またそのうちに。