1、 街を彷徨い⋯⋯
まだまだ肌寒い初春の日の日暮れ時、マリアは王都の街をとぼとぼと歩いていた。
グゥ
お腹が鳴った。
いつもだったら夕飯を食べている時間だ。それなのに1人街を歩いているのは母親と喧嘩をして家を追い出されたからだ。
喧嘩のきっかけは他愛もないことだった。夕飯のおかずを何にするか、それだけの話だったにも関わらずいつの間にかヒートアップしていた。
(お腹が空いたなぁ)
今マリアの頭の中にあるのは食事のことだけだった。今晩寝る場所の心配はまったくしていない。いや、していないのではなく、今差し迫った問題が食事のことだからだ。
「おや、お嬢さん。どうかしましたか?」
マリアが顔を上げると人のよさそうな商人の格好をした中年の男が立っていた。
もしかしたら自分に呼びかけたのではないのではないかと、キョロキョロと辺りを見回してみるが他に人はいない。
「⋯⋯私?」
「ええ。どうかされましたか?」
普段のマリアだったら知らない男などとは喋らない。迷いなく逃げる。だが今は空腹。正常な判断力などなかった。
「⋯⋯お腹が⋯⋯空いて⋯⋯」
だからこそ恥ずかしそうなはにかんだような笑顔でそう告げ、
「⋯⋯それはそれは。もしよろしければお食事をご馳走致しましょうか?」
「ホント⁉」
満面の笑みで素直に喜んだ。
もし少しでも正常な判断さえできれば男の瞳に宿る黒い光に気づかないまでも、僅かでも怪しいと感じ取れたかもしれない。
だがそれももしもの話。マリアは誘われるままに男についていってしまった。
「⋯⋯わぁ~」
マリアは感嘆の声をあげた。
案内されたのはとある商会の一室。そのテーブルにはマリアが今まで見たこともないほど豪華な食事が並んでいた。
ふわふわの白パンは平民の中でも中流層とは言っても下流に近い暮らしをしていたマリアには憧れるだけで実際に口にする機会などなかった。ムレケ(ミルク)たっぷりのケルーメスチェー(クリームシチュー)には豪勢にも何かの肉がこれまたたっぷりと。その隣に並んだサラダは瑞々しいロチセ(レタス)が使われ、いつも萎びかけたものしか見たことがないマリアには新鮮だった。
「この野菜って何?」
サラダに一緒に使われていた野菜に至っては、見たことすらもなかった。
「それはパトパ(ジャガイモ)とキィラッタ(ニンジン)、それからアヌアン(タマネギ)です」
ものが集まる王都では然程珍しい品ではない。
「⋯⋯じゃあこっちのお肉は?」
次に指さしたのはメインのセトーク(ステーキ)。
「それはオークの肉です。ちなみにスープに入っている肉も、部位は違いますが同じオーク肉ですよ」
「⋯⋯へぇ~」
マリアはキラキラした目で料理の乗ったテーブルを見つめた。
「⋯⋯お好きなだけ食べてください。残してももったいないですから」
「うん!」
お許しが出るや否や、マリアは夢中で料理を頬張り始めた。
(美味しい~)
だがそれは言葉にはならなかった。言葉にすることすらも忘れてマリアは食べ続けた。
そんなマリアを男は微笑みながら見ていた。
およそ20分後、皿の中身はほとんど空になっていた。
「⋯⋯満足していただけましたか?」
「うん! とっても美味しかった」
マリアの笑顔に、それは良かったと男も微笑んだ。
「⋯⋯でもなんでここまでしてくれるの?」
満腹になったことで判断能力が戻ってきていた。
「⋯⋯なんで、とは?」
「⋯⋯だって普通は見返りを求めるものなんでしょう?」
じっと男を見つめる眼差しには8歳、いやもうじき9歳になる少女のものとは思えないほど知性に満ちていた。
「でも私、そんなものは払えないもの」
「⋯⋯見返りとはどのようなものを想像しているのでしょう?」
「えっ? それは⋯⋯お金とか?」
「⋯⋯それ以外にもありますよ」
男は優しく微笑んだ。
「えっ? 何?」
そう言いながらマリアは眠くなってきたのか大きな欠伸をした。
「⋯⋯それはですね」
マリアはこれ以上先を聞きたくないと思った。何かがおかしいとようやく気づいた。
「労働。つまりは身体ですよ」
その言葉を耳にしたのを最後に、マリアの意識は闇に沈んでいった。
◇◆◇
ピチョン
どこか遠くで水の垂れる音がした。
ピチョン
再度もう1度響く。
「⋯⋯うぅ」
マリアはそんな水の音で目を覚ました。
「⋯⋯ここは?」
最初に目に入ってきたのは規則的に並んだ金属製の棒と漆黒の闇。
身を起こせば首元でチャラリと音がした。慌てて首元に手をやればそこには金属製の首輪があった。ほつれが目立ってきて、そろそろ新しいものを買わなければいけないと思っていた服も、ぼろ布のようなさらにみすぼらしいものに変わっている。
「何これ?」
辺りを見渡せば三方は白い石でできた壁で囲まれている。上を見上げれば同じく石製の天井。
簡単に言えば牢の中だった。
「⋯⋯私、確かお母さんに家を追い出されて⋯⋯」
徐々に昨夜の記憶が蘇ってきた。
「商人のおじさんにご飯をご馳走になって⋯⋯そうだ、食べ終わった後に話していて⋯⋯」
その後の記憶がなかった。
『⋯⋯それはですね、労働。つまりは身体ですよ』
男の最後の言葉が脳裏に蘇えった。
(見返りが労働? 身体? どういうこと?)
男の言葉を正確に理解するにはマリアにはあまりに知識がなさすぎた。
同じ言葉だけが頭の中をグルグル回る。
「おや、目が覚めたようですね」
不意にかけられた言葉にマリアは飛び上がりそうになった。
慌てて声のした方を見れば、男が記憶と寸分違わぬ姿で鉄の柱の向こうに立っていた。
「⋯⋯ここはどこ?」
マリアは齢に似合わない冷静さで対応した。
「⋯⋯おや、もっと泣き叫ぶとかするのかと思いましたよ」
男は本当に意外そうにそう呟いた。
「ここはどこって訊いてるの!」
話を逸らす男に、マリアは思わず大声を出した。
「⋯⋯なかなか威勢が良い。ここがどこかという話でしたね? ここは私の商会の地下です」
「⋯⋯地下?」
「ええ」
「私をどうする気?」
マリアは少しでも情報を集めようとした。
「⋯⋯見た目にそぐわず聡明なあなたなら想像がついているのでは?」
男は微笑んだ。だがそれはすでにマリアには胡散臭いものでしかなかった。
「⋯⋯労働、身体。それにこの服⋯⋯まさか」
加えて商会と地下牢。マリアには心当たりが1つしかなかった。
「⋯⋯奴隷」
それは他の者に聞こえるかどうか微妙な、本当に小さな呟き。だがその言葉を男は正しく拾い上げた。
「正解です」
肯定されてもマリアは少しも嬉しくなかった。
「⋯⋯私を売る気?」
寧ろ死刑宣告に等しかった。
「ええ。それが商売ですから」
男は迷いなく頷き、あなたなら良い買い手がつくだろうと言って去っていった。
奴隷。それも幼い子どもの行く末などほとんど1つしかない。鉱山での強制労働。そこで使い捨てにされる。
「⋯⋯どうして」
小さく呟いたその言葉を今度は聞く者はいなかった。
ピチョン
その代わりにマリアの頬から小さな雫が静かに流れ落ちた。
お読みくださりありがとうございます。続きは誤字脱字の確認が終わり次第順次投稿します。(全6話です)