第一話 「穏やかな日々の断片」
夏休みに入って早二日。今日は八月一日、現在の時刻は午後三時を少し過ぎた頃である。ちなみに夏休みは七月三十一日からで、他の高校と比べると若干始まるのが遅い。
「やっと終わったー…」
「ん、お疲れ。祭」
ようやく荷物をまとめ終え、緑間はほっと一息ついた。ようやくと言っても、緑間の予定ではもう少し時間がかかるはずだったのだが。
ぼふっとベッドに身を沈め、枕に顔を押し付けた。すると、たちまち睡魔が襲ってきて、「ああ、やばい寝そう」と緑間はうわ言のように呟く。
「あー…悪い、静。少し…寝る。五時くらいになったら起こして…」
うとうとと夢の中に意識を持っていかれそうになりながら、緑間はなんとかそれだけを絞り出す。
「わかった。お休み」
「おー…」
そうして緑間の意識はゆっくりと閉じていった。
しばらく経って微かな寝息が聞こえ始め、随分眠りにつくのが早いなと感心しながら、赤崎は緑間の眠るベッドに腰掛ける。
よほど疲れていたのだろう、ねぎらいの意味も込めてそっと彼の頭を撫でた。ぬくもりがあたたかい。
(ありがとう、祭)
本当に良く出来た幼なじみだった。文句のつけようがない、百点満点の幼なじみ。
生きている頃でさえどうしようもない人間であった自分に手を差し伸べ、死んだ後もやっぱりこんなどうしようもない自分の為にわざわざ時間を割いて、一緒に悩んでくれて。
僕の一番を一番に優先してくれる。
その結果、傷つくのはいつだって祭の方なのに。
僕はただの幼なじみなんだよ。口には出さず、心の中でそう言った。
カチ、カチ、カチ、と秒針が時間を刻む音が聞こえる。
緑間の姉も、大学は絶賛夏休み中であるが、バイトをしているので今は家にいない。とても静かな時間だった。
だが、この静けさはあの家とは比べ物にならないほど心地よく、穏やかだ。当たり前である、ここは緑間の家であって、赤崎の家ではないのだから。
(まあ、僕の家だって思ったことは一度もないけど)
それでも、祭をはじめ青子や響達が来てくれていたから。その間だけはあの家を――――と、思ったこともあった。
そしてそれを一番僕に思わせてくれていたのは、この良く出来た幼なじみだ。
態度には出さなかったものの、祭が毎日のようにあの家に来てくれたことには感謝していたし、本当に救われていた。
(君はそれに気づいていただろうか)
きっと気づいていただろう。僕が救われていたことにも、そしてあの家のからっぽさにも、きっと気づいていただろう。
この幼なじみはおそらく、僕のことなら僕よりもわかっているに違いない。
「…祭、」
返事はない。当然といえば当然だ、緑間は深い眠りについている。だが、赤崎は構わず続けた。
「一つ、聞いてもいいかい」
早ければ明日、遅くとも二、三日の間に向かうことになるだろう、赤崎の母方の実家。藤黄の家。
祖父母と顔を合わせるのも、“彼女”と顔を合わせるのも、かれこれ二ヶ月くらいぶりだろうか。
いつかは向き合わなくてはならない過去だと思っていた。まさか自分が死んでしまうとは思っていなかったので、その“いつか”は当然、生きているであろう自分の未来を指していた。
生きていた頃の自分は、その“いつか”を先延ばしにすることしか考えていなかった。
けれど今の自分には、その“いつか”を先延ばしにできるほどの時間が、残されていない。
だから今更、やはり行くのはやめようなどと言うつもりは毛頭なかった。
いくつかの疑問に対する答えを、赤崎は受け取らなくてはならないからだ。そしておそらくそれは、彼が成仏する為に必要なものでもある。
「…あのさ、祭。僕、わからないんだ。あの人に会って…いや、あの人に会ったら、自分が何を一番望むのか」
親というものを、赤崎は断片的にしか覚えていない。そして、どうにも父親の印象が弱く、思い出せるのは母親の面影だけだった。
赤崎には、おおよそ両親と呼べる人物が二人いる。
それは死んでようやく思い出すことが出来たわけだが、やはり記憶が混濁していて、どっちがどっちなのかわからないのが現状だ。
まだ幼い頃、海の見える場所で綺麗な夕焼け空を、二人で眺めたことがある。
それはどちらの母親とも経験があったことで、記憶の中で手を引いてくれた二人の母親は、片やあたたかさを伴っていれば、片や思わず身震いしてしまうほどの冷たさを持っていた。
いつかに取った家族写真を、ペンダントに入れていつも首からかけていたのは、どちらの母親だったのだろう。赤崎は頭をひねってみたが、どうにも記憶が曖昧だった。
唯一鮮明に覚えているのは、名前と、そしてあの日の言葉だけである。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”
だが、それはもう過去のことだと赤崎自身は割り切っている。八年前のあの日は、八年前にしか存在しない。今の赤崎には、全く関係のないことなのだ。
「…恨んではいないんだ。でも、わからないんだよ。…ああ、何がわからないのかさえ、わからなくなってきた」
赤崎は、親というものを断片的にしか覚えていない。―思い出せない。
「つまり何が言いたいのかっていうとさ」
もしかしたら、料理がとても上手な人で、僕はそれを美味しいと言って毎日食べていたのかもしれない。家族団らん、楽しく食卓を囲んでいるような家庭だったのかもしれない。
僕はあまり気にしないけれど、もしかしたらとても綺麗好きで、毎日掃除機をかけるような人だったのかもしれない。僕は時々ジュースなんかをこぼして、しかられたこともあったかもしれない。
両親は共働きで、もしかしたらどちらも仕事に就いていたのかもしれない。
僕は保育園に通っていたから毎日お迎えが必要で、仕事でくたくたに疲れているにも関わらず、「遅くなってごめんね」と笑顔で迎えに来てくれるような人だったのかもしれない。
そして帰り道は手を繋いで、僕は今日あったことを話しながら、影を並べて帰るんだ。そうだったらいいのに、と思った。
もしかしたら、お風呂に一緒に入っていたのかもしれない。背中を流し合ったりなんかも、したのかもしれない。もしかしたら湯船には、アヒルがぷかぷか浮いていたのかも。
もしかしたら三人で、川の字で寝ていたりしたのかもしれない。僕は寝相が悪いから、夜中に蹴っちゃうことも多くて、それでもやっぱり、僕が真ん中で寝てるんだ。それが多分、僕の理想だったんだと思う。寝る前に絵本を読んでくれたりしたら、言うことなしかな。
僕が怖い時は、抱きしめてくれるような人だったのかもしれない。泣いた時は、優しく頭を撫でてくれるような人だったのかもしれない。
もしかしたら、親子でケンカすることもあったのかもしれない。たとえばどんなことで怒るんだろう。
好き嫌いをした時かな。だって本当に、ニンジンだけはダメなんだ。同じ食べ物が嫌いだったら、なんかちょっと親子っぽいかも。
それで、僕が笑ったら、笑い返してくれるような人だったらいいな。
そして、
僕のことを、愛してくれていたら。
愛してくれた頃も、確かに存在してくれていたら。
僕も愛していたのなら。
愛情を伴った感情が、僕とその人の間に育まれていたのなら。
そうだったらいいのに、と今はもう思い浮かべることしかできないけれど。
「親って一体どんな感じだったんだろうねっていう」
僕は愛されていたんだろうか。
―僕は、愛していたんだろうか。
「そんなどうしようもない問いかけに対する答えが、欲しかっただけなんだ」
ごめん、変なこと言って。赤崎は困ったように笑った。
彼は知らない。眠っているはずの幼なじみに、まだぼんやりと意識があったことを。
彼は知らない。幼なじみが、その問いかけに対する答えを持っていないことを。
彼は知らない―今、幼なじみがどんな顔をして、何を思っているのかを。
彼は気づいていない―自分が今、どんな顔をしているのかを。
「…なんか眠たくなってきたな。幽霊なのに、変なの。でも起こしてくれって言われたし…うーん。まあ、いっか」
そうして赤崎も眠りにつく。何も知らずに、何にも気づかずに。
美咲が帰ってきたのは、空もまだ大分明るい五時くらいの頃だ。
帰ってくるなり「まつりー」と引っ切り無しに名前を呼ばれ、緑間は仕方なく一階へと下りていった。
五時頃まで寝るつもりが、赤崎の勝手な独白のせいで、すっかり眠気など覚めてしまった。
そして癪に障るが、当の本人である赤崎は、ぐっすりと気持ちよさそうに眠りこけている。
そういえばこれは、夏休みに入る少し前から分かっていたことであるが、赤崎が眠っている(というか意識がない)時は、どういうわけか霊媒状態が解け、お互い離れることができるようだった。現に今、実際にそれができている。もっとも、このことを赤崎が知っているのかどうかは不明だが。
「…ったく。なんだよ、帰ってきて早々、引っ切り無しに人の名前呼びやがって」
「買い物してきたのよ。しまうの手伝って」
語尾にハートがついていることが緑間にはわかったが、正直あざとさの欠片もない。
青子に負けず劣らず綺麗な顔をしてはいるが、それが姉ともなると可愛さは微塵も感じられなかった。
緑間は溜息をつきつつ、「へいへい」とだるそうに返事をする。
「そういえば珍しいわね。普段ならもうこの時間、夕飯の仕度始めてるじゃない。どうかしたの?」
それはまさしく、姉の言う通りであった。いつもなら、もうとっくに作り始めている時間である。
今からでは、あまり手の込んだものは作れないかもしれないと、緑間は申し訳なく謝った。
そもそも、今日の夕飯を何にするかすら、現段階で緑間は決めかねている。というか、今の今まで夕飯のことなど頭になかった、という方が正しいかもしれない。
頭にあったのは、つい二時間前赤崎が独り言のように呟いた言葉だけだ。
「なあ、姉ちゃん」
「うん?何?」
「…親って、どんな感じなんかな」
それだけを言って、言葉足らずだったかと緑間は思った。
美咲がほんの一瞬だけ表情を強張らせる。
少しの間、彼女は買ってきた野菜などをしまう作業を止めていたが、しばらく経って再び買い物袋に手をつっこみ、今度はチーズを冷蔵庫に追いやった。
「静くんが言ったの?」
緑間は静かに頷く。言葉足らずではあったが、どうやらというかやはりというか、姉にはきちんと伝わっていたようだ。
余計な説明の段階を踏む必要のない美咲との会話は、緑間にとってはとても楽なものだった。
言わなくとも察してくれるというのは、本当にありがたい。
「俺は…なんて答えたらいいか、わからなかった。どう答えてもあいつを…静を傷つけるだけだって、思ったんだ」
緑間には一つ、赤崎と青子に対して後ろめたいと思っていたことがあった。響達のことは知らないが、これは緑間にとって、赤崎と青子との決定的な違いでもある。
それは、両親が健在していることだ。
今はどちらも海外に出ている為日本にはいないが、緑間には血の繋がった正真正銘の父親と母親がいる。姉だっている。
だが、赤崎にはおおよそ両親と呼べるものがもういない。存命はしているだろうが、あれはもう彼にとって、親でもなければ血の繋がった家族でもないだろう。
高校一年生の頃に、「実は僕には妹がいたらしい」と言われたことがあったが、緑間はそれを冗談だと思っている為、赤崎にはきょうだいもいない。
そして青子にもまた、両親がいない。彼女の両親は交通事故に遭い、亡くなっている。きょうだいはいない。
つまり何が言いたいかというと、二人には両親もきょうだいもいないということ、そしてその中で緑間だけに両親がいるということだ。
両親が健在しているというのは、、おそらく主観的に見ても客観的に見ても幸せなことであるのだろうが、それと同時に緑間はいつもその幸せに対する罪悪感と後ろめたさを抱いていた。
羨ましいと思われることが辛かった。
妬まれることが怖かったわけではない。仲間外れにされることを恐れていたわけでもない。
『ただ、生きてほしいんだよ。僕にはもう、出来ないことだから』
その言葉と同じように―そう、如実に責め立てられているような気持ちになる。
両親が健在している緑間が、両親のいない赤崎や青子の気持ちがわかると言えば、それは全くの嘘になる。
それがどれほど辛く悲しいことであるか、それは実際に体験しなければわからないことだ。いや、わからなくはないだろうが、緑間自身自分勝手にわかったような気にはなりたくないし、おそらく赤崎と青子も安直にわかってほしくはないだろう。
だから緑間は、わかっているようでわかっていないのだ。その部分に関して羨ましいと二人が思う理由が、わかっているようでわかっていない。
羨ましいと思われるのは、二人に両親がいないから。
わからないのは、両親がいないという現実が与える苦痛。
わかっているのは、その現実が与える痛みが、両親の健在している緑間といることで、少しずつ肥大していくということ。
だから後ろめたい。だから罪悪感が芽生える。
おそらく二人はそれに関して無自覚で、「罪悪なんて覚える必要はない」と言うに違いないのだろうけれど。
「なあ、姉ちゃん。一つ…聞いてもいいか?」
「…うん?」
“親って一体どんな感じだったんだろうね”
もしも俺が、いつも傍で見守ってくれる、あたたかい存在だと言っていたら。
もしも俺が、断ち切ることのできない特別な絆で結ばれた、代わりの効かない存在だと言っていたら。
もしも俺が、成長の過程で一番近くにいてくれる、自分にとっての一番の理解者だと言っていたら。
もしも俺が、無条件で自分を愛してくれる存在だと言っていたら。
あいつは一体どんな顔で、何を思って、どう返してきたのだろう。
“じゃあやっぱり、僕には親なんて初めからいなかったんだね”なんて、言ったりしたのではないだろうか。
「俺はあいつにどうやって…どんな風に、答えてやるべきだったんだろうな」
どんなに考えても、赤崎が泣きそうな顔をする場面しか緑間には思い浮かばなかった。どんな答え方をしても、赤崎にとっては偽善にしか聞こえないのではないかと思った。
美咲が、ぽんぽんと緑間の頭を撫でる。俯いているのでわからないが、よしよしと囁いた姉は微笑んでいるのではないかと緑間は思う。大丈夫、と言われているような気がした。
「それはね、祭が諭すことじゃないわ。静くんが、自分で思い出さなくちゃいけないことよ。答えは、その人しか持ってないものだから」
きっかけもね、と彼女が言う。
緑間は、何故だかたまらなく泣きそうになった。




