第五話 「いるよ」
緑間は青子に引き上げてもらい、なんとか無事に彼女の部屋に転がり込むことが出来た。
今更ながら、窓から侵入しようなどと、そんな漫画のような発想が展開できた自分に苦笑いをする。当然土足厳禁なので、とりあえず靴を脱いで「お邪魔します」と言っておいた。
「よっ、久しぶりだな、青子」
「…ええ、そうね。久しぶり、祭」
緑間は、出来る限り陽気な感じで切り出してみたわけだが、彼女の反応は想像よりもかなりロウでひどかった。なんというか、言葉に抑揚がなく、何より二つの目に光が宿っていなかったのである。虚ろだった。
ちらりと部屋を見渡すが、空気はとてもどんよりとしていて、まだ夏の五時だというのに、この部屋だけが隔絶されているかのような雰囲気を漂わせている。
悲しい、苦しい、辛い、寂しい。
この部屋と彼女を取り巻いているのは、そういった負の感情であった。
やはり響達を連れてこなくて正解だったな、と緑間は思う。彼女はおそらく、今の自分を後輩達に晒したくはなかっただろう。いや、もしかしたら後輩達だけでなく、彼女からすれば緑間にも見られたくはなかったかもしれないが。
約一週間ぶりに会った彼女は、最後に会った日と比べようがないほどに変わり果てていた。話に聞いていた通りろくに何も食べていないようで、随分痩せたように見える。
自慢の髪なの、と言っていた彼女の長い柔らかな髪は無造作に荒れ果て、ぱっちりとした大きな目は充血していて腫れぼったくなっていた。よく眠れていないのか、目の下には隈が出来ている。
原因はもちろん、今緑間の隣りにいる困った幽霊のせいだろう。そして緑間は今日、その幽霊のことを彼女に話すために来たのだ。
「俺、とりあえず今日はお前に話があって来たんだけど…まあ、とりあえずそれは置いといて。台所借りていいか?」
「…台所?」
どうして、と青子が首を傾げる。緑間は、鞄に無理矢理押し込んでおいたレジ袋を取り出し、その中からたまねぎとにんじんを取って彼女に差し出した。
意味が分からない、というような顔で青子はそれを緑間から受け取る。まあ、どこからどう見てもたまねぎとにんじんにしか見えないだろう。
「お前がまともに食ってねえことはわかってたからな。この俺様が、あったかいシチューを作ってやるよ」
学校帰り、緑間はいつものように行きつけのスーパーに寄った。いつもと違ったのは、眠たそうな顔をして、それでも文句を言わず買い物に付き合ってくれていた(そもそも緑間だけの買い物ではないのだが)幼なじみが、もう他者から視覚されない霊となって隣りを歩いていたことと、買った材料を調理する場所が赤崎の家ではなく、青子の家だったということだけだ。
何を作ろうかと買い物カゴを片手に、熟年の主婦さながら緑間は悩んでいたわけだが、野菜コーナーや魚肉コーナーをぐるぐると回っている内に、霊となった幼なじみがぽろんと言ったのである。シチューにすれば、と。
『シチュー?なんでよりによってそんな面倒なもんを…』
危うく声に出しそうになったのをなんとか押さえ、緑間はテレパシーを送った。だって、と赤崎が続言った。
『僕ら三人が、揃って一番好きなものだったでしょ』
『…ああ、そういや』
確かにごもっともな意見だったので、緑間はそれに従うことにしたのだった。
そういえば幼い頃、緑間の両親がいない時を見計らっては、よく三人でシチューを作ったりしたっけか。一番上手に作れたのは、確か中三の時だったように思う。あの味はまだ忘れていない。
そして今、ここに三人が揃っている。
「シ…シチュー?どうしてそんな、いきなり」
「昔はよく一緒に作ったろ。俺と青子と、静の三人で」
むしろ、三人で作ったことがあったのはシチューだけであった。もちろん、シチューは三人で作る、という約束事があったわけではないが、不思議とシチューだけは三人揃って作っていた。
どうしてそこまでシチューにこだわっていたのか、今ではもうよく思い出せないけれど。
「確かにそれは…そうだけど。でも、今、静は」
「ちょうど三人揃ってる。三人一緒なら作れんだろ」
「…っだから!だから、静はもう」
「いるよ」
青子は、その声にはっと目を見張った。
よく通る澄んだ声だった。柔らかで、一瞬誰の声か見誤ったほどに。
もちろんそれを言ったのは緑間である。今この家には、青子と緑間以外には誰もいないのだから。
(でも、今のは…まるで)
青子は戸惑い、困惑した。緑間と赤崎がダブって見えたからだ。おそらくそれは、彼女の見間違いにすぎなかったのだろうけれど。
「あいつはいる。俺らのすぐ傍にいるんだ、青子」
何を根拠にそんなことを言っているの、と青子は思った。
(だって静は、死んだじゃない)
もうこの世界のどこにも、静はいないのよ。
…と、いうことになっているが、実際赤崎は今彼女の手の届く範囲に、幽体とはなっているものの存在しているのが現状である。もっとも、彼女はまだそれについて何も聞かされていないので、知らないのも無理はないが。
青子は唇を噛み締める。ひどく裏切られたような気持ちになった。
それは緑間にではない。自分自身にだ。
もしかしたら自分は、悲しんでいるふりをしていただけなのかもしれない。“静はもういない”―そんな風に諦めてしまっている自分が、確かにいるじゃないか。
静が手の届かない所にいってしまったのは、誤魔化しようのない事実だ。けれど、今のは確かに、私自身が彼を過去にしてしまった瞬間ではないだろうか。私はあの一瞬に、静のことを忘却してしまったのではないだろうか。
こんな自分は嫌だ。私の世界からどんどん静がいなくなっていく、その手助けをしている自分が、青子はどうしようもなく嫌だった。
―祭はこの一週間で、静のことを過去にしきれたのだろうか。
「あ、悪い。言い方間違えた。俺が作ってやるっていうのは嘘」
青子が手に持つたまねぎとにんじんを、緑間は意地の悪い笑みを浮かべて指差した。
言わずもがな、彼の指に指されたところで、たまねぎがおにぎりになったり、にんじんがチョコレートになったりするはずもなく、あくまで青子の手にあるのは、たまねぎとにんじんであり、それ以外の何物でもなかった。
まあ、これからシチューを作ると言っているのだから、おにぎりやチョコレートに変わったりされては逆に困るのだが。
「…どういう意味よ」
「そのまんま」
スタンドアップ、スタンドアップ、とかなり発音の悪いカタコトの英語を口にしながら、緑間が青子を立ち上がらせる。
緑間は肩に鞄をかけ、右手にレジ袋を持って「レッツラゴー」と、左手で青子の手を引いた。
「ちょ、な、なに…そのまんまって、一体どういう」
「シチューは三人で、だろ。だから俺一人で作るっていう選択肢は初めからねえの。OK?」
OK?の部分だけ発音がやけに流暢だったが、青子は敢えて触れなかった。
「そんなこと言ったら、静だっていないじゃない。どっちにしろ、三人じゃないでしょう」
「だーかーら、静はいるんだっての。いい加減認めろよ、往生際が悪い」
何をどう認めろというのだ、この幼なじみは。実際この部屋のどこにも、静は存在していないじゃないか―そんな風に、若干の苛立ちを含んだ目で、青子は緑間を見上げた。
(それとも)
祭には見えているのだろうか。もういないはずの静の姿が、祭の目には映っているとでも言うのだろうか。
「ま、楽しみにしてろよ。全力でこき使ってやるからな。覚悟しとけ」
“俺らのすぐ傍にいるんだ”
(ねえ、祭)
覚悟なんて、できないよ。
だって私には、祭に見えているものが見えないんだもの。




