7
小太郎が走り去ったあとも、カイナと千鶴に引きずられながらあの場を退いたあとも、首を固定されたようにずっと後ろを向き続けていたのに、どこの道を通ってきたのかまるでわからなかった。
ただ、気づけば善修郎が経営する喫茶にたどり着いていて、顔を挙げない瓏衣は千鶴に手を引かれながら重たい足取りでひとまず中へ入った。
「あら、いらっしゃい。……って皆して暗い表情しちゃってどうしたの……」
扉の鐘鈴が揺れて、来客に気づいた春乃が片付けの手を止めて顔を上げる。しかし、扉をくぐってきた瓏衣たちの顔は揃いも揃って曇っており、春乃は思わずギョッとする。
「まあとりあえず、コーヒー人数分頼むわ」
苦笑いの雪羅が言うと春乃は訝しげな顔のままおずおずと頷き、カップを出して準備を始める。
その間も絶望したように力なく俯いて、その場から動かない瓏衣の手を引いて千鶴は店内の隅の席に歩いていく。
先ほどの小太郎の様子にショックを受けているのだろう。とりあえずと瓏衣と千鶴が腰掛けた二人席の隣のテーブルに腰を落とした風間もまた肩と眉尻を落とし沈んだ表情で俯いていた。
酷く落ち込んでいる瓏衣たちにかける言葉が見当たらず、手近の席に座ったカイナと雪羅、セレンまでもが重苦しい表情のまま口を閉じている。
ずん、と重い空気が静かな店に満ちて、居心地の悪さを感じる春乃はぎこちない動きでコーヒーを運んだ。
「……ねえちょっと。瓏衣くんと千鶴ちゃんどうしたの? あと一緒にいるガラの悪い人誰?」
ひとまずコーヒーを乗せた盆をカイナたちが座るテーブル席まで運んだ春乃は店内を満たす重い沈黙に圧迫され、ひそひそ声になる。
「少し、な」
盆からコーヒーの入ったカップを一つ引き寄せ、カイナはコーヒーを一口喉に通した。
しかし、その沈黙を破ったのは瓏衣自身だった。
「ちぃ。昨日オレと別れたあとの小太郎の様子が変だったって言ったよな。具体的には?」
「えっ? え、えっと、」
つい先ほどまでの沈みきっていた様子が一変し、顔を上げた瓏衣の表情には光が戻っていた。
驚きながらも、千鶴は目線を上にあげながら昨日の小太郎の様子を記憶の中から掘り返す。
酷く怒っているように、悔しそうになんでだよ、と呟いて、固く握った拳は震えていた。
「なんでだよ、って、なにがだ?」
「わからないけど……、瓏衣くんに向けて言ったように見えたかな……」
「オレかい」
こちらに向けた言葉、と言われてもこちらにも覚えが無い。
「旦那」
隣の席に座って肩を落としていた風間が腰を上げ、瓏衣の前に立つ。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「お願いします。小太郎のアニキを助けてください……。アニキを救えるのは、きっと旦那だけっス。だからどうか、この通り!」
一度千鶴と目を合わせて微笑み合うと、瓏衣は風間の方へ向き直り口を開く。
「ったりめーだ。あの状態のあのバカを野放しにはしておけない。絶対にとっ捕まえて一発ぶん殴ってやる。もちろんお前らにも協力してもらうぞ。風間。お前達は小太郎を探してくれ。見つけたらすぐに連絡。よろしくな」
「ウッス! アニキのこと、頼んます!」
「なんだかよくわからないけど、小太郎くんと仲直り、できるといいね」
近づいても大丈夫と判断した春乃はどうやら瓏衣と小太郎が仲違いをしたと思ったらしい。そう言いながら、残り三人分のコーヒーを瓏衣たちがいるテーブルへと運んだ。
差し出されたコーヒーに気づき反射的に顔を上げた風間に、春乃がごゆっくりどうぞと笑いかけた。
「ちょーかわいい……」
惚けたような顔で呟く風間はカウンターへ戻っていく春乃を目で追う。
そのとき、後ろから容赦ない足蹴が彼のふくらはぎに決まる。
「だっ!?」
涙目で振り返ると、不愉快そうに眉間にシワを寄せた瓏衣が見返していた。
「見惚れてねぇで、とっとと小太郎探しに行けバカタレ」
「う、ウッス!! 早速残りのヤローたちにも声掛けてくるんで、自分はこのへんで! お嬢、失礼します!」
「あ、はい」
途端に顔を青くして、しかし運ばれてきたコーヒーをビールジョッキを煽るようにゴクゴクと喉を鳴らして瞬く間に飲み干すと、風間は千鶴に軽く頭を下げる。彼女が軽い会釈で応えると、彼は半ば逃げるように出て行った。
ったく、とため息をつく瓏衣と、あはは……と苦笑する千鶴。
「こっちも、見かけたら連絡したるからな」
「ああ、ありがとう」
離れた席に座る雪羅がひらひらと手を振り、カイナとセレンが頷いて同意を示す。
「セレン、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい。なんでしょう」
コーヒーカップを持ち、彼らが座るテーブル席の隣席へ移動しながら瓏衣が訊ねる。
「負の感情以外で影堕ちする理由ってあるかな?」
腰を下ろした瓏衣を追って、千鶴もまた自身の前へ置かれたコーヒーを持ったまま席を移る。テーブルにコーヒーを置いて瓏衣の向かいへ座ったあとにセレンを見やると、彼は少し考える素振りを見せていた。
「無いわけではありません。彼ら堕天使は、無理やり人を影堕ちさせることもできます。ただし無理やりである分、生まれる負影にそう強力な力はありません。ですが、一条寺さんのあの様子を考えると、彼は無理やり影堕ちさせられ、その分まだ完全に心を呑まれたわけではないのかもしれません」
彼のあの様子は、もしかしたら胸の中に巣食った負影に抵抗していたのではないか。セレンが言うと、千鶴と瓏衣の表情が明るくなる。
「じゃあ!」
「今ならまだ、ことが大きくなる前にアイツを引きずり戻せるんだな?」
「はい。ですが、無理やりにしても影堕ちしたからにはやはり一条寺さんの心にはなんらかの闇や傷、つまり負の感情があるということです……」
「それも、ひょっとしたら瓏衣が原因かもしれへんと」
顎に手を添えた雪羅がニヤリと笑いながら言うと、瓏衣はすかさず噛み付くように言い返す。
「だからオレじゃねーもん! ……たぶん」
なにかした覚えは無い。無いが、無意識に彼を蔑ろにしていたとしたら。いやいついかなる時も誓って友人を蔑ろになどしていないけども!
だが!しかし!
「瓏衣、彼と最後に言葉をかわしたのはいつだ?」
腕組みをしてしばし考えていたカイナが問いかける。
「いつって……、つい昨日だよ」
「なにか言っていなかったのか? もしくは、お前から彼になにか言わなかったか」
最後に別れたのは昨日の夕方。大学の講義が終わり、三人で帰路につこうとした矢先、セレンから負影が出たと連絡を受け、危険だから先に帰るよう促した。
それだけだ。彼からなにか気になることは言われていない。
「そしたら、なんでやってゆーたんか……」
当事者の瓏衣に覚えはなく、そうなるとあの場にいなかったカイナたちにわかるわけが無い。
「……ねぇ、瓏衣くん。小太郎くんは、きっと寂しかったんだと思うよ」
「寂しかった?」
そんな、子供じゃあるまいに。怪訝な表情をする瓏衣に、千鶴は続ける。
「うん。今までは本当にいつも一緒だったのに、今さら危ないから、なんて急に遠ざけられちゃって……。悔しいって思いも、あったんじゃないかな……」
もしそうであったなら、千鶴にもその気持ちは理解出来る。元々、事ある毎に女の子なんだからと言って、瓏衣は千鶴を荒事から遠ざけていた。それが瓏衣なりの気遣いと優しさであること、そして自分の身体能力が高くないことをわかっていたからこそ、駄々をこねずに頷いて常に後ろにいるようにしてきた。
けれど小太郎は違う。彼は少なくとも瓏衣と並ぶぐらいには腕っ節が立つ。だからどんなに危ない目に遭おうとも小太郎は隣に立とうとした。
最初に負影に襲われたときだって、女の子の悲鳴に一目散に公園へ飛び込んだ瓏衣を追いかけて、一緒に暴漢を捕まえた。
柏田のときも、その場にいない瓏衣の代わりに千鶴を守るため、躊躇なく負影に立ち向かった。
だが大切なものを大切にしすぎるあまり、そんな彼をも、瓏衣は後ろに追いやった。かなり荒い言い方をすれば、お前は非力だと言われたようなものだ。
かつてはそれなりに喧嘩が強い不良であったこともあり、彼はそれが、気に入らなかったのではないだろうか。
「じゃあ、一条寺さんは瓏衣さんに一方的に守られることに不満を感じて影堕ちしてしまった、ということになりますね……」
それが一番可能性の高い仮説だろうと、雪羅とカイナがセレンに同意する。一方瓏衣は、千鶴の言葉に我に返ったように目を丸くして、ようやく理解した答えに少し呆然とする。
残されたもの、増えた大切なものを、なんとしても守りたかった。負影は生身の人間じゃ到底敵わない。だから傷ついてほしくなくて、必死に庇っていた。
でも……。
「……オレ、謝らなきゃ……。あいつに……」
テーブルの上に肘を立てて合わせた手に額を乗せ、呟く。
友人が危険な目に遭っているのを、後ろでただ見ているなんてできない。彼がそういう性分であることなどとうの昔に知っていたはずで、それは自身だって同じなのに、小太郎や千鶴、柚姫を守ることに必死で、独り善がりになってしまっていたのだ。
「じゃあ次に会ったら、ちゃんとお話して、仲直りしようね。瓏衣くん」
「ああ。あのときのアイツ、まるで昔に戻ったみたいだった……。早く元に戻さないと……」
彼に恐怖し、逃げようとした相手さえ捕まえて暴行しようとしていたあの姿を見たのは、最初に出会ったとき以来だ。
「ともあれ、彼の舎弟たちが彼を見つけてくれるまでは、私たちも各々で彼を探そう。各自、なにかあれば連絡を忘れるな」
とりあえず、今日はもう解散にしよう。というカイナの言葉に、瓏衣はただ黙って頷いたのだった。




