10
無数の長方形の白紙が空を切って宙を舞い、目の前に群がっている負影に似た黒い影を切り裂いていく。
前方の視界と間合いを確保し、次に右側の影の群れに向かって右手を突き出す。
「吹き荒べ、白染めの風───」
右手を中心に、澄んだ水色の雪の結晶が陣のように展開し、その中心から粉雪の混じった冷たい吹雪が吹き荒れる。
まともに受けた影たちは吹き飛び、その後ろや周りにいた影は体の一部が凍り付いていた。それを再び無数の紙が切り刻む。
だが、消し去ったはずの影は、一呼吸の間隔も置かずすぐに再び湧いて出る。それに気をとられ、雪羅は左から迫る影に気づかない。
しかし、それが腕を振り上げきるよりも前に、背後から切り倒された。
「払え、紅波───!!」
右足を軸に大剣をぶん、と大きく水平に振ると、赤い光を纏った衝撃波が放たれ、目の前の影の群れを消し去り、道ができる。
しかし、瓏衣に合流すべくその活路を駆けようとすれば、それを阻むようにしてすぐに再生する。
カイナと雪羅はゆっくり後退し、背中合わせになる。
「さっき助けてくれたやろ。おおきにな」
「構わないが、それよりも今はこいつらだ」
「倒しても倒してもキリ無いなぁ……」
すでに参っているような声だった。少しずつ、ジリジリと距離を詰めてくる靄たち越しに、カイナは瓏衣の様子を見る
ちょうど飛び上がって負影の左肩を斬りつけたところだった。
瓏衣から聞いた柏田なる男は切れていない左肩を庇って痛みを叫びに変える。
負影との戦闘経験が少ないからと少々心配し過ぎたかと安堵した矢先、大きなダメージが通ったことに油断し気を抜いたか、険しかった瓏衣の表情が和らいだそのときだった。
報復と言わんばかりに負影が残る右手で瓏衣の体をわし掴んだ。気を抜いたせいでとっさに避けられなかったらしい。
「瓏衣!!」
「っ!」
叫んだカイナに、肩ごしに振り返った雪羅も彼の視線の先を見た。
「ぐっ、うぅ……!!」
体中が圧迫され、息が苦しい。身動きが取れない。
刀を握る右手が緩みそうになるが、手放してしまってはあとは本当に殺されるだけだ。なんとか滑り落ちないよう堪えた。
「アなタガ死ネば、彼女は僕ノモのでス。サア、僕ト彼女のたメ二死んデくだサい!!」
「ぐぁ、ああぁあぁっ!!」
「止めてっ!! お願いだから!!」
みしみしと肉や骨が軋むほどに体を圧迫する力が強くなり、瓏衣が一際顔を歪め、千鶴が悲鳴にも似た悲痛な叫びをあげる。
それでも刀が手からすり抜けなかったのは瓏衣の根性だった。
「サア! アト何分持チマスカネェ?! アハハハ!! アッハハハハハハ!!!!」
何が楽しいのか、柏田は狂気じみた笑い声を上げて苦しむ瓏衣を眺めている。
「やめて…。お願い…! もうやめて…!!」
絶望に心を支配され、見ていられなくなった千鶴は頭を垂れ、なすすべもなくただ静かに涙を流す。瓏衣の苦しむ声も聞きたくなくて、耳を塞いだ。
こんなことなら、喧嘩なんてするんじゃなかった。自分が捕まってしまったせいで、一番傷ついてほしくない人が傷ついている現実に、もう耐えられない。
「…ち、……ぃ…」
霞む視界の端で、また、千鶴が泣いている。起きなければ。
そばへ、行かなければ。
なに泣いてんだよって、頭を撫でて、宥めてやらないと…。
そうだ。千鶴を、小太郎を、柚姫を、守ると決めた。武器を手に、戦うと今しがた決めたばかりじゃないか。
あの日だって、傷だらけになった瓏衣の酷い姿を見て泣いてくれた柚姫と千鶴に約束したのだ。
まだこんなところで、死ぬわけにはいかない───!!!
「…っ……」
「…?」
まだかすかに隙間のある気管から息を呑み、歯を食い縛る瓏衣に、柏田がまだ生きているのかと猟奇的な笑みで嘲笑う。
「なかなか粘りますね。しかし、これでおしまい───」
「悪いけど、」
さっきまで痛みと苦しみに叫ぶことしかできないでいた瓏衣が、不意に柏田のセリフを遮るほどに大きくハッキリとした声を出した。
乱れた黒髪の間からのぞく蒼色が、鋭く彼を捉え、驚いた柏田はわずかに目を丸くする。
「……オレみたいなののために……、泣いてくれるヤツがいるんだよ……。だからオレは……」
右手の刀を強く握り直し、
「抗う道を選ぶ───!!」
拘束を抜け出そうと体に力を入れもがく。例え意味がなかろうと、諦めることだけは絶対にしない!
折れない瓏衣の意思に呼応するように、黒い刀が青い光を帯びる。
「…こ…、のっ…!!」
声に合わせて体に力を入れたその瞬間、青く鋭い光が瓏衣を捕らえていた負影の手を斬り刻んだ。
真下に落下した瓏衣はすぐに動こうとするが、限界まで圧迫されていた影響か体中が痛んだ。しかしこのチャンスを無駄にするわけにはいかない。
無理やり体を突き動かして立ち上がり、反撃に出る。
「いくぞ、風断ち」
その言葉が合図であるように左手の中に鞘が現れた。一度刃を収め、目を閉じながら静かに、大きく息を吸いこんで構える。
不意に、刀が光を帯びる。淡い、青色の光。
「オノレ…、オノレ飯綱瓏衣イイィッ!!!」
もはや憎しみのみがこめられた這うような声を出しながら、今度こそ瓏衣を捻りつぶそうと右手を伸ばす。
その指先が残り二メートルまで迫ったところで、瓏衣は目を開けた。
「一迅一閃!!!」
繰り出すのは抜刀術のような技。
鞘から勢いよく抜刀しながら斬りあげる。その勢いと刀の力をのせた大きな衝撃波が飛び、まずは迫っていた指先を、それから腕、肩を斬り裂いて、間髪入れずそれは負影の胴体へと撃ち込まれた。
「ガアアアァアアァアァァッ!!!」
体を反り返らせ、柏田と負影は苦しみに声を上げる。
「ガアアァ…!! ア、アアアァッ!!グアアァァアアアァッ───!!!!」
「……っ!」
異変に気付いた千鶴が押さえていた耳を放し、柵に手をかけて下を見る。
負影はちょうど衝撃波が食い込んでいる箇所を、柏田は彼にとってそこに該当する箇所を抑えながら叫び、救いを求めるように宙に右手を伸ばす。
が、間もなくして負影は消し飛び、柏田が倒れ込むと同時にカイナと雪羅を取り囲んでいた分身の影たちが煙のように消えていった。
「消えた…」
「思ったよりも、やるやんあの子…」
刀を鞘に収める瓏衣の背中を見つめながら、雪羅が笑う。
「ふう…」
瓏衣が体から力を抜く。
まるでテレビを見るように、その光景をぼうっと見ていた千鶴は瓏衣が負影を倒し、柏田と自分を助けたのだと理解すると、途端にぱあっと笑顔が咲く。
「瓏衣く───きゃああっ!!?」
勢いよく立ち上がるが足がもつれてしまい、千鶴の体が柵を乗り越えてしまった。
それに気づくや瓏衣の顔が青くなる。
「ちょっ! バカなにしてんだっ!!」
腕を広げながら走り、なんとか抱きとめてやる。
「こわかった…」
「心臓に悪いわ…」
なんとか間に合ったからよかったものを、と瓏衣は肩を落として安堵する。
半日ぶりにまともに見た瓏衣の顔に、千鶴は安らぎを覚えてクスリと笑う。
「瓏衣くん、今朝はごめんなさい…」
傷だらけになった瓏衣の背中に腕を回して、抱きつく。
「いつも守ってくれて、あの人たちの仲間に加わろうと思ったのも、私や小太郎くんや柚姫さんを守ろうと思ってくれたからだよね…」
そんな瓏衣らしい、単純な思いにも気づかず、一方的に強く言葉を投げてしまった。そのうえ言いたいことだけ言ったら勝手に拗ねて無視までした。
「違うよ。オレが千鶴たちのことをもっとよく考えなくて、怒らせただけだ。本当にごめんな」
頭を撫でてやりながら、瓏衣も千鶴を抱きしめた。彼女は腕の中でフルフルと首を振る。
「お互いにちゃんと謝ったから、これで仲直りだね。私のために必死に戦ってくれた瓏衣くん、すっごくかっこよかった!」
顔を上げ、千鶴が笑った。今朝の泣き顔とは違う眩しくて晴れやかなその笑顔が、小さな頃からそばでずっと笑っていた彼女には一番似合っていた。
「おかえり、千鶴」
「ただいま、瓏衣くん。助けてくれて、ありがとう」
笑いあう二人の姿を離れたところから見ていたカイナと雪羅、そして合流したセレンも、もう心配はなさそうだと顔を見合わせあう。
和やかな雰囲気の中、不意に乾いた音が響いた。気づいた瓏衣たちが一斉にそちらを向く。音がしたのは、千鶴がいた倉庫の二階のスペース。
「友愛を胸に、悪しきを蹴散らし友を救う。ああ、じつに美しい光景だ」
両手をゆっくりと打ち合わせて拍手をしながら、賞賛の言葉を口にするそれは人の声だ。しかし、灰色の軍の礼装に似た衣服に身を包み、鈍い金色の髪の毛に赤い瞳、そしてなによりも、背中に生えている闇のように黒い羽がそれが人ではないことを物語っている。
「美しいあまりに、───反吐が出る」
瞬間、氷のように冷たい無表情になり、赤い瞳が蔑むように瓏衣たちを見下ろす。瓏衣は背筋が凍るのを感じた。とてつもない殺気に体が固まり、ごくりと固唾を呑む。
そして、自ずと悟った。
千鶴を背中に隠すように庇いながら言う。
「その黒い羽、お前が堕天使だな」
答える代わりに、彼は笑った。
「君、新しい子だよね。俺はルシフェル。さっきの戦い、見事だったよ」
ルシフェルと名乗った彼は柔らかな笑みを浮かべて再び両手を打ち合わせる。
カイナたちが後ろから駆けてきて、瓏衣の隣に並び武器を構える。
「でも、この先もあんまり邪魔すると、」
くるりと後ろを向いて、肩ごしに顔を半分ほど振り向かせる。
「容赦なく潰すよ」
「っ!!」
その瞳に見られた瞬間、誰もがぞくりとした。
気圧され、言い知れぬ恐怖に心も体も支配され、震えそうになる足をこらえる。
背後で千鶴が怯え、きゅっと服を握ったのがわかった。彼女のためにも、瓏衣はルシフェルと名乗った彼を睨みつけ、肩を張る。
「じゃあ、俺はいくよ。命が惜しければ、おとなしくしていることだね」
ルシフェルが右手を前にかざすと、ブラックホールのような、先が見えない歪曲した渦のようなものが現れた。
手を出さなくていいのかと瓏衣は左右の雪羅とカイナに目配せするが、二人とも首を横に振ったので、警戒は解かないまま彼がワープの向こうに去るまで、瓏衣たちはまるで釘づけになったように一度たりともルシフェルから目を離さなかった。
やがて黒い翼もワープの向こうへすっぽりと飲み込まれ、ワープはゆるく渦を描いて消えた。
瓏衣たちが構えを解いたのはそれから十分に時間が経ったあとだった。風船に溜めた空気が一気に抜けるように、その場にいた全員が一斉に肩の力を抜き、だらりと腕を下げ、構えを解いた。
「怖かったです……」
セレンがその場にへなへなと座り込む。
「やっぱ、敵さんの大将ともなると怖いわぁ…」
「運よく見逃してもらえたようだな…」
雪羅がしゃがみこみ、カイナは腰に手を当ててふう、とため息とともに肩を下ろした。
「瓏衣、初陣ご苦労。見事なものだった」
未だ呆然と突っ立っている瓏衣に、カイナが声をかける。しかし、ぴくりとも動かない。
「瓏衣? どないした?」
「瓏衣くん? ねえ瓏衣くんてば、」
誰が呼びかけても瓏衣は反応を返さない。
千鶴が強く袖を引くと、それを合図に、瓏衣の体は前へ傾いていき、まもなくどさりと倒れこむ。
「る、瓏衣くん!? しっかりして瓏衣くん!!」
「瓏衣さん!!」
「落ち着きぃ。寝てもうとるだけや。限界が来たんやろ…」
今にも泣きそうな顔をする千鶴とセレンをなだめ、雪羅は瓏衣を抱き起す。口と鼻からは空気が出入りを繰り返し、規則正しいリズムでゆっくりと胸が上下している。瓏衣はやはり、傷だらけの顔で穏やかに寝息を立てていた。
「大事につながるほどの傷は負っていないようだから、今は寝かせておいてやろう」
カイナがそう言うと、千鶴とセレンは安堵し、胸をなでおろした。
「せやな。千鶴ちゃんは体どないや? 痛めつけられたりしてへんか?」
かわいらしい服装に少々埃や砂がかかってしまっているが、体に異常はみられない。千鶴は大丈夫ですと頷くが、でも彼は…と言葉を繋いで、数メートル離れたところで倒れている柏田に目を向ける。
「負影を倒せば、影堕ちしていたときの記憶は残らない。セレンは私のバイクに乗るといい。雪羅、彼と瓏衣たちを頼む」
「ほいほい。ほな、帰ろか」
「はい」
カイナは柏田を運びながら、雪羅は瓏衣を抱きかかえ、外へ歩いていく。ようやく外へ出るころには、夕日は水平線よりも下へ沈み、頭上の星たちが輝き始めていた。




