心路
遠い。体力はないほうなのだ、私は。でも少しずつ鍛えなくちゃ。ひょっとすると兵士になるかしれないし、と思う。木々ひとつない原野を走る。かけにかける。かけにかけるってこういうことかな、などとどこか面白く感じつつ、走る。息が続かない。とまる。汗。生きている。ああ、なんだかまた泣いてしまうそうだ。なぜだかわからないけど。ひょっとして私はただ、声をあげてなきたかったのかもしれない。違うかもしれないけど、そうかもしれない。そう考えた途端、喉の奥で言葉が詰まっているような、叫びだしたいような感覚にも襲われた。泣こう。そう決めて周囲を見回す。誰もいない。公孫勝も、いないよね? 注意深く見回す。隠れる場所もない。地平線。泣いてもいい。この世界の誰も責めることなく、泣けるだろう。
「うわああああああ」
想像以上に、大きな声が出た。気の狂った女だと思われてもいい。思えばいい。そう思ったが、誰も居ないのだからそう思う人間もいないだろう。
「死にたい! 死にたい死にたい死にたい!」
叫んだ。泣いていた。その言葉に、自分の中のどんな意味があるのかは知らない。言葉以上の、言葉以外の意味があるのだと思う。それ以上はわからず、自分では知ることが出来ないのだと思った。ここで公孫勝が出てきて、なにをやっている、とか冷笑されてもいい。でも、誰もいなかった。どこにいても現実というのはそういうものだった。
じゃりっと土を踏む音がする。夢か、幻か、現実か、嘘か、傷か、まやかしか──。
私はここで、何をすればいいのだろう。ただ、人々が歩く流れを見ながら、考えるしかなかった。
「女」
なぜそれがわかったのだろう。私は今、男の姿をしているはずなのに。その声がする方向を見ると、そこには笠で表情を隠したひとりの老人がいた。いや、ただしくは老人ではないことを私は知っている。公孫勝。こんなところにいたのか。どうこたえていいかわからず沈黙していると、公孫勝は歩き始めた。行く宛もない私は、その後姿を追った。追うしかなかった。
食堂の二階──そこが密会の場所だった。よく字面で追ったものの、まさか自分がやってくることになろうとは。ひとまずかしこまって正座をする。ようやく公孫勝が笠を脱いだ。若いのか、若くないのかわからないが、心の底が読めない顔というのがどういうものなのか、初めて知ったという気がする。
「怒り、だな」
見透かしたようなことを、と思ったが、ようなこと、ではなく見透かされているのだ。胃がせり上がり吐き気を催すような怒りを、私は感じていた。どうしてこの男はそんなところまで見通せるのだろう。不思議だ。不思議だが、救いだ。
「何がお前をそうさせる」
そう聞かれたいと顔に書いてあるぞ、とでも言いたげに公孫勝が言う。
「その話は」
バンッとふすまが開いたかと思うと、そこにいたのは、黒髪黒目の青年だった。
なぜか私はその人物が、自由自在に容姿を変えられることを知っている。この世界の住人ではなく、私がやって来た世界の住人でもない。都合のいい、存在。その都合のいい存在の青年は、私を嫌悪するような目で見ている。ツンデレているのか、と思ったが、すっと目をそらされた。公孫勝は剣を抜いていない。危険だとは判断されていないらしい。青年は、どかっと私のとなりに腰掛けた。
「名前、つけろ」
「じゃあ……心路」
そういう流れがもともと決められていたかのように、するりとその行事は行われた。異論はないらしい。公孫勝は何も言わずにその様子を眺めていた。
「話を遮って悪かった。だが、その話はここではできない。面倒なことになる」
「そうか」
それ以上、公孫勝は何も言わなかった。というより、特にそれ以上の興味がなかったのだろうと思う。
「公孫勝さん、ちょっと心路とふたりで話をさせてくださいませんか」
「いいだろう」
物分かりがいいのか、興味が無いのか、なんなのか、公孫勝はそのまま部屋を出た。私は心路と向かい合う。
「なんとなくわかるよ、貴方がどういう存在なのかは」
「だろうな」
「私にとって都合のいい存在だ」
「そんなんになってたまるか」
「……その反応も、都合がいい。ご都合主義だけじゃないって、寂しくならない」
「寂しかったのか」
その言葉には、なぜだかはっきり答えたくなかった。寂しかったのか。そうだ、私は寂しかった。だけど、それを自分の中で抱えるだけにしておきたかった。見せたくなかった。
「ま、俺は俺で楽しくやるよ」
心路はそう言って笑った。全てが、満点だった。