仲間たち
「史進さん、遅くなりました」
ぶかぶかで着心地の悪い軍袍に身を包んで、私はそう挨拶をした。梁山泊からそう遠くない場所に、史進の野営地はあった。
「お前、どうやってここに」
出会ったときのほがらかな印象とは打って変わって、史進の声は厳しかった。そうだ、私は男になって、おまけに史進の従者なのだ。おまけに、などという言葉に、女である甘さが捨てきれていない、と感じた。せめてその気持ちを表情に出すまいと、ことさら無表情を装う。
「走ってきました、馬はなかったので」
返事を聞くと、史進は何も言わずに目をそらした。感心を失ったのか、納得したのか、まだわからない。そのまま私はしばらく直立していた。従者とは、こういうものかなと思いながら。
そして、私はあまりにも退屈だった。史進が調練に出ている間、ずっと直立していようかと思ったが、あまりに退屈な上に、もうどうにでもなれという思いもあったので、こっそり調練を見に行くことにした。
馬がかける土埃に咳き込みながら、目を凝らす。騎馬隊。縦横無尽な、騎馬隊。この騎馬隊が、殺し、殺され、南船北馬と言われるほど、重要な役目を果たすのだな、などと思った。赤い棒が宙を舞う。馬から落とされた兵が地面にうずくまる。それで調練がとまるということはない。私はその光景を、ただぼんやりと眺めている。なぜだか涙が溢れそうになった。ここに生活がある。時間の流れがある。空白の時も、ここで過ごす。私はここにやってきた。今更ながらそんな思いに襲われた。今更というほど遠い昔のことでもないのに、そう思った。男ならば泣いてはいけない。男にはなったが、今は誰も見ていないのだから、涙の一粒ぐらい流してもいいだろうか。私は、生きることが辛い。頑張ることも、頑張らないことも、空白の時間も、充実した時間も、全部、苦しい。全てに殺されそうになる。今でもそう思う。今もそう思っている。目の前の兵たちも、史進もそうだろうか。そんなことを思うだろうか。無駄な苦しみだと笑って、私を心から救ってくれないだろうか。死にたい、死にたい、苦しまずに、死にたい──涙がとまらなくなった。私はだめなのだ。どこにいても、だめなのだ。もう頑張れない。頑張ったじゃないか。ここまでが美しく全てだったのだと、綺麗に終わってしまいたい。だめかな。だめなのかな。こんなところにやってこれた奇跡があっても、だめなのかな──私はどこにいても、ひとりだった。それ以上、紡げないと思った。調練が早く終わればいい。史進が、私が泣いていることに、敏感に気がつけばいい。そして秘めた優しさで、私を癒やせばいい。そう、結局私は都合のいい世界がほしいだけ。その、何が悪い。
「史進さん、私を慰めてください」
そう呟いた。そう言うことすら、今までできなかった。そんな自分さえ認められなかった。手に入れられないものを望むのが、怖かった。全部に怯えてた。でも、今なら、ひょっとすると言えるかもしれない。なりふり構っていない、今なら。
「史進さん、慰めてください」
もう一度呟いた。従者のくせに、と我ながら思う台詞でも。それでも、言ってみよう。
「史進さん、慰めてください」
私がそう言うと、史進は持った盃を落としそうになった。何を言うのだいきなり、というような目で私を見る。
「酔っているのか」
「酔っていません。ちゃんと慰められたい理由はありますし、こんなこというのはよくないと思っていますが、とにかく今言わなきゃいけないと思ったんです。うまく説明できませんけど、とにかくそうなんです。本当に慰められたいわけではなくて、そうやって口にだすことが私にとっては大事だったんです。こんな機会はめったにないから……」
一息に言い終わっても、史進は黙ったままだった。
「よくわからん女だな。酒がまずくなる、出て行け」
「まずくなりません、ひどいです」
ううむ、と視線を彷徨わせる。勝った、と思った。少し気が楽になった。
「私も飲んでいいですか。喉が渇きました」
「水のように飲むものではないぞ」
「水ですよ、こんなの」
ぐいっと盃を煽る。喉のあたりが熱くなって、その感覚は万国共通どころか、次元を超えても共通なのだと思った。
「おう、史進か」
背後で足音がして振り返ると、そこには林冲がいた。私を見て、嫌なものを見つけた、とでも言いたげに表情が曇る。出ていこうとしたその服を、ぐいっとつかんだ。まだ酔ってはいないが、酔ったということにしておけば怒られることもない。きっとそうに違いないと納得させた。どうやら私は、ここにいると少々大胆になれるらしい。
「おい、離せ」
「離しませんです」
「離せ」
「嫌です」
それどころか思い切りひっぱる。林冲はびくともしない。ちらりと史進を見ると、珍しく不安げな顔をしていた。そんな顔をするな、らしくないぞ。笑えよ、笑いなさいよと思いながら、よりいっそう強く林冲の服を引っ張る。すると林冲の足が、容赦なく私の顔を蹴った。口の中に血の味が広がる。手も離してしまった。女なのに、と言おうとしたが、そういえば私は男だった。なんとなく納得していると、立ち去るかと思った林冲が、私の隣に腰を下ろした。私は血を拭って、座り直した。不思議と、ただ、嬉しかった。
「林冲さん、お酒飲みますよね」
「林冲殿、と呼べ!」
「林冲殿」
史進にたしなめられ、私はそうい直す。林冲はそっぽをむいている。
「ところでお前の名は」
そう言われて初めて、私は自分が名乗っていないこと気がついた。呉用にも聞かれなかった。名前。私の名前は、なんだ。新しくつけようかと思ったが、なんとなく愛着もあったし、苦しみを名前に引き継いだままここにきた私でいたかった。変なの。
「いづみとお呼びください」
「いづみ。女のような名前だ。今日からお前は、百里風と名乗れ」
「馬じゃないですか」
「嫌なのか?」
不思議と嫌ではない。
「万里風がいいです」
そう言い直すと、林冲はが舌打ちをした。史進は声をあげて笑っている。
「万里、いい名前です」
私はもう一度言った。万里。万里風だったけれど、万里のほうが呼びやすい。この名前で、私はいったいどんな冒険をするだろう。できるだろう。何も出来ないかもしれない。いや、何もしなければ、何も出来ないのだろう。苦しいまま、死んでいくしかない。それでも、万里でいたいと思った。