梁山泊
ここが私の部屋か。そう思いながら私は部屋の中を見回した。ひとりひとりに部屋などあったのだな、と思う。もしくはこれが、私にとって都合のよい世界の妄想だからだろうか──だとしても、もういいのだ。私はここに辿り着いた。もっと楽観的になろう、楽しもう。両腕を伸ばすと指先が壁に触れるほどの広さの中で、自由を手に入れた──。
「おい、入山希望者というのはお前か」
「はい!?」
慌てて居住まいを正して振り返る。そこにいたのは、長髪をひとつに結んだ、切れ長の目の男──恐らく、林冲だろう。名をいきなり言い当てていぶかしがられるのは呉用だけで充分だ。私はそう思い、黙ったまま林冲の言葉の続きを待った。
「お前……」
剣など使えそうにないな、という言葉が続きそうで、私は身をすくめた。そう、私はなにも出来ない。なんの力にもなれない。だが、とにかく替天行道に心動かされたのだと言い募り、ここまでやってきたのだ。それは嘘ではない。嘘ではないが、全てでもない。どことなく後ろめたさを感じながら、私は林冲の言葉の続きを待った。
「ま、待ってください!」
それ以上はなにも言わず立ち去ろうとした林冲の背中に言う。だが、その背中が立ち止まることはなかった。一瞬躊躇したが、私はそのあとを追う。いわゆる部屋の中で仕事をしていた人々の視線が私に突き刺さる。
結局、部屋を出ても、厩に行っても、林冲は何も言わないままだった。歩くたびに揺れる長髪が馬のしっぽみたいだな、などと思った。
「あの……」
馬に──百里風にまたがった林冲が私を見下す。やっと何か話せるかと思ったが、そのまま走り去ってしまった。近くに軍営があるのだろう、などと私はどこかぼんやりと考えた。するとそこに、ひとりの青年がやってきた。赤い棒をもって、にやにやと笑っている。
「お前、女のくせに林冲殿につきまとってるんだな」
女のくせに、という言葉の意味を、私は正確に読み取った。女といえば林冲は避けて通りそうだが、なぜ様子をみにきてくれたのだろう。いや、女、というところが問題なのではなく、新参者を見に来ただけなのだろうな、と思いあらためて納得した。
目の前の男は、史進だろう。まだ年老いてはいない。梁山泊では若造と呼ばれている青年だ。……などということを考えていて返事をしない私を、訝しげに、いや、次第に苛立つような視線で見つめている。
「あの、私、ここでどうすればいいんでしょうか」
きょとん、と史進が目を丸くした。いきなり脈絡のない質問をしたようだが、私にとっては大事なことだった。無視されるかと思ったが、史進はことのほか真面目な顔で考え込んだ。そう、この男はそういう男だった。
「誰かの従者にでもなったらどうだ。それがだめなら畑でもたがやせ」
「じゃあ史進さんの従者にしてください」
史進が声をあげて笑う。
「断る。女の従者など、なにか勘違いされるだけだ」
「じゃあ私は……いや、俺は男になります」
「ほう、なれるのか」
「今なりました」
再び史進が笑った。なぜ笑う。私は本気だ。ずっと男になりたいとも思っていたのだぞ、と内心凄んだ目で史進を見る。それがなおおかしいらしく、史進は腹まで抱えて笑い続けた。
「本気です。俺は本気ですよ」
どんな困難でもかまわない。いいや、その望んだ困難に殺されてしまいたい。そこで死にたいのだ。
「わかった。ならば、その女のような格好をどうにかしろ」
女のような、と言われて、私は初めて自分が現代の制服姿でスカートを履いていることに気がついた。この時代でも、スカートは女らしい格好などだな、などとどこか感心する。
「すぐに着替えます、ここで待っていてください」
「なぜ従者を待ってやらねばならん。俺は行くぞ。あとで営舎に来い」
そういうと史進はさっさと立ち去ってしまった。もっとアドバイスをしてくれてもいいだろう。どこで男の服を借りればいいのか、とか、どこが営舎なのか、とか……とにかくもうどうでもいい。なるようになってしまえ。私はそれほど長くないスカートをたくしあげ、男のようにズカズカと部屋へと戻った。
「服を貸してください。お返しできないかもしれませんが」
後半の台詞を言うに従って、少し申し訳ない気持ちになった。だが、勢いのままとはいえ行ってしまった言葉を撤回することはできない。腕組をしてこちらを見ている呉用の返事をじっと待つ。
「その前に、宋江様にあってもらわねばならん」
あまり会いたくない、となぜだか思った。宋江が嫌いなわけではないが、史進が待っていると思うと気が急いたのだ。
「史進さんが、すぐに来いと言っていました」
「宋江様は、その史進が仰ぐ頭領だ」
もう言い返せない。私は口をつぐんだ。
「宋江様はどこに」
呉用の目が、部屋の奥にちらりと動く。私は立ち上がり、そちらへと歩き出した。
「おい、どこへ行く」
「だから宋江さまに会いに」
「そうすぐに会えるか。まずは手順を──」
すたすたと歩く私の後ろを慌てて呉用がついてくる。なんだかいい気分だ。腕をひっぱって止められたらそこまでだと思ったが、そんなこともない。こいつ、本気で止めたがっているのか、などと失礼ながらに思う。
私は奥の扉に手をかけ、そのまま押し開ける。どうにでもなれ、という気持ちのままだ。
扉が開くと、そこにはひとりの男性がいた。ひげを蓄え、突然の訪問者にたいしても柔和な笑みを浮かべている。宋江だ。これが宋江だ、と思った。どうにでもなれという気持ちがすっと消える。代わりに背筋が伸び、うっすらと額に汗が滲む。私は本当に、小心者だ、と思って苦しくなった。
「お前が、呉用を困らせているのか」
「……呉用さんが勝手に困っているんです」
声をあげて宋江が笑う。挨拶はそれで充分だった。不機嫌そうに呉用がことの発端を離す。梁山泊の敷地の中に、突然現れたなぞの女……つまり私のこと。それをどこか他人事のように聞きながら、私は時がすぎるのを待った。呉用の説明が終わり宋江が頷いたところで、差し障りはないが、手短な挨拶をして、部屋をあとにする。そこで初めて、どっと汗が出てきた。そんな私を見て、呉用が溜息をつく。
「服は向こうで借りてこい」
ちょい、と奥の部屋を指さし、呉用が私を置いて歩き出す。その背中を見ながら、どこか置いて行かれたような気持ちになったが、私はそんな自分を叱咤して、そちらに向かって歩き始めた。
どうにでもなる。だめならすぐに死んでやる。
夢が覚める前には、死んでしまおうね、と女である自分に最後の別れを告げた。