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「あれ? 携帯鳴ってない?」
「いっけない。携帯、バッグの中に入れたままだった。ボスからだったら早く出ないと、また何言われるかわかんなーい!」
友弥の言葉に、友弥の体にもたれかかっていた真依は慌ててソファーから立ち上がり部屋の入り口にあるコートハンガーにかけたままのバッグへと駆け寄る。
バッグから携帯を取り出し液晶画面を見ると、そこには真依の幼馴染の坂口陽子の名前が表示されていた。
「陽子から」
通話ボタンを押しながら真依が友弥に向かってそう言うと、友弥は頷いてリモコンでTVの音量を小さくした。
「はーい、花嫁さん。あと僅かな独身生活、楽しんでる?」
電話の向こうの陽子が喋り出す前に明るい口調で真依がそう切り出したので、受話口からクスクスと笑い声が流れてきた。
『楽しむって言っても、田舎だしね。真依が送ってくれた雑誌を見て都会暮らししていた頃を思い出してるよ』
陽子は去年の冬頃まで真依のアパートの近くにあった社員寮に住んでいたのだが、体の調子を悪くして仕事を辞め実家に戻ってしまっていた。
郷里に帰ってから、高校の頃に付き合っていた先輩と寄りを戻し、来月には式を挙げる事になっている。
「結婚式まであと少しだね。湯沢先生や皆に会うの、久しぶりだからすっごく楽しみ」
『うん……、そうだね』
楽しげな真依と対照的に、携帯から聞こえてくる陽子の声は何か不安な事でもあるように沈んで真依の耳に届いた。
「どうしたの? 元気ないね」
『あの……、あのね』
そう言い掛けたものの黙り込んでしまった陽子の様子に、真依は陽子がマリッジ・ブルーに陥っているのではないかと考え、努めて明るく会話を続けてみる。
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。浩司さん、すごくいい人だし、頼りがいあるし。浩司さんのご両親も優しい人だしね」
『違うの、そうじゃないの! ……浩司さんは私には勿体ないくらいの人だよ。こんな私でもいいって言ってくれて……。でも……私が怖いのは、そうじゃないの』
――怖い?
陽子の切羽詰まったような声を聞いて、真依の表情が硬くなった。
『真依が編集している雑誌に、都市伝説のコーナーがあるでしょ? あれ、本当の事なのかな……?』
「あれ?」
確かにタウン情報誌の中の人気のコーナーの一つに読者からの投稿を元にした都市伝説を扱っているものがある。しかし、今月号で扱った話題が複数あったので、どれが陽子の言っている『あれ』の事なのか見当がつかないでいる真依だった。
『【もぉいいかい?】って話……』
やっと聞き取れる位の声で陽子は言った。その声がひどく怯えた様子なので真依の表情がますます硬くなる。
「あのコーナーは私の担当じゃないから、詳しくはわからないけど……。明日でも大丈夫なら担当の人から話を聞いておこうか?」
『――本当に赤ちゃんおろした人だけに呪いが来るの?』
――え?
震える陽子の言葉に、驚きのあまり真依は返事を出来ずにいた。
『真依……、私、怖い。怖いよ』
その時、何か小さな音が陽子の声に重なって真依の耳に届く。何の音だろうと真依は耳をそばだてたが、その音はそれきり聞こえる事はなかった。
『ごめん、また後で電話するから』
慌てたような口調で陽子は電話を切ってしまっていた。携帯から流れるツーツーという音をしばらく聞いてから真依は終話ボタンを押す。
「陽子さん、どうかしたの?」
真依の表情が翳ったままなのを心配した友弥が傍に来ていた事にも気づかなかった真依だった。
「よくわからない……。でも、何だろう……、嫌な予感がする……」
真依は鳴る気配もない携帯を握り締め、その場に立ち尽す。
今夜の陽子からの電話が自分を恐ろしい出来事へと導く招待状だという事に、この時の真依は知る由もなかった。
「もぉいいかい……」
ベッドに入ったものの、先刻の陽子の電話が気になって寝付けずにいる真依だった。
電話が切れた後にタウン誌を開いて陽子が言っていた都市伝説の記事を確認した真依だったが、【もぉいいかい?】は他の記事と比べて扱いが小さくほんの数行で終わっていた。
【もぉいいかい?】
知ってる? 中絶で殺された赤ちゃんが反撃を始めたって!
赤ちゃんが生まれるはずだった十月十日めに、おろした筈の赤ちゃんが生まれるらしいよ。
「もぉいいかい?」って声が聞こえた日に、殺された赤ちゃんが『生まれる』んだって。
これは私の先輩の身に起こった本当の事なんです!
何度も読んだので、真依は記事の文をすっかり暗記してしまっていた。陽子がこの記事にあんなに怯えていたという事は、陽子が中絶をしていたという事になるだろう。
中絶した時期を逆算すれば、まだ陽子が東京にいた頃の事……? そう考えると、突然地元に帰ってしまった事も辻褄が合ってくる……と、真依の胸は押しつぶされそうになった。
――陽子……、苦しんでいたよね。何で相談してくれなかったの? 私たち、小さい頃からずっとずっと親友だったのに。
重苦しい出来事で頭の中が一杯になり、真依はその重圧から逃れるように寝返りを打った。
「眠れない?」
闇の中で友弥の囁く声が聞こえた。
隣で寝ていた友弥が頬にかかった真依の長い髪を、指で耳の後ろへと梳いてくれる。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「俺も何だか眠りが浅くて……。陽子さんの事、心配だよな」
髪を撫で続ける友弥の手の心地よさを感じながら、真依は小さく頷いた。
陽子がこちらに住んでいる頃には、よくお互いのアパートに行き来していたので、陽子と友弥は面識がある。陽子には友弥と同じ年の弟がいたし、友弥は一人っ子で兄弟がいなかったせいか、二人は本当の姉弟のように仲が良かった。
「ちょっと待って」
そう言って友弥はベッドから降ると、机の上に置いた自分の鞄の中から何かを取り出して戻ってきた。
――シャリーン……、と透き通るような音色が友弥の手の中から零れ落ちる。
「真依さんに、お守りあげる」
そう言って友弥は真依の手のひらの上に、自分の手の中にあったものを乗せた。闇に慣れた目に、表面に綺麗な細工を施した銀色の球体が映る。
「ガムランボールっていうんだ。バリ島に行った人からのお土産。邪気を払ってくれるんだって」
真依は手のひらの上で、その澄んだ音を楽しむようにガムランボールを転がした。
「これがガムランボールなんだ。名前は知っていたけど、本物を見るのは初めて。――すごく綺麗な音……、聞いているだけで癒されちゃう感じ……」
「うん、ヒーリング効果もあるからね」
「ありがとう、友弥。この音を聞いたら、なんだかぐっすり眠れそう」
笑顔が戻った真依を見て、友弥も笑顔を返す。真依の額にキスをしてから、友弥は枕に頭をつけた。
静かな闇に吸い込まれるように、時折、真依の手の中でガムランボールの音がする。
「月からの音に似ているんだ……」
寝入りばなに、そんな友弥の声を聞いたような気がしたが、真依はそれを問う事もなく深い眠りに落ちていった。