プロローグ
月を見上げる度に、彼の脳裏に過ぎるものがある。
月と、白い髪の少女と、手毬と。
それらは小さい頃から彼が度々夢で見るものであった。
夢の場面は鬱蒼とした杜であったり古めかしい屋敷であったりと変化はあったが、そこには必ず月の光を集めたような色をした髪の少女が手毬を持って佇む姿が欠かさずに存在する。
月明かりの下で少女が宙に指をかざすと、どこからか煌めく糸がふわりと舞い降りてくる。
少女の右手の人差し指が、その先端を絡めるようについと動く。
月の光を乞うように挙げたもう一方の手が軽やかに空を滑ると、少女の両手の間に細い一本の糸が現れる。
糸の色具合を確かめるように糸の先端から終わりまで視線を這わせた後に、少女は手毬の上に糸を重ねていく。
いつも、そういった夢だった。
彼は今まで夢の中で少女と視線も言葉も交わした事がなかった。
しかし、今夜は違う。
まるで雛鳥を両手の中に囲ってでもいるように大事そうに小さな手毬を持った少女が彼の正面に立っていたのだ。
少女の大きな黒い瞳と白い肌、紅い唇が闇の中に射し込む月の光の下に朧気に浮かんでいる。
少女の両手が顔の上まで上げられると、掌の上の手毬はゆっくりと大きな弧を描いて宙を舞った。
夢の中で彼は迷う事もなく、放り投げられた手毬を両手で受け止める。
彼の手の中に受け止められた手毬は、彼が見守る中であっと言う間に彼の手の中に溶け込んでいってしまった。
驚いて少女の方を見やると、彼を見据えた少女の唇が始めて動こうとしている所だった。
『――守人の刻が近づいている』
少女の声が彼の頭の中に響いた。
――守人?
言葉の意味を少女に問いかけようとしたその時、彼は少女の背後にゆらりと蠢く巨大な黒い影の存在を感じ取っていた。
目にはその姿を映しとってはいないが、聳え立つような大きな何かが存在している。得体の知れない物の恐ろしい程の威圧感に押しつぶされそうになりながら、彼はやっとのことで立っていられるような状態だった。
身の毛もよだつような物を背後に従えた少女がクスクスと小さく笑う声を彼は闇の中で聞いていた。右手の人差し指を唇の上に重ねて少女が月の光の下で艶やかに微笑んでいる。
『 ま ぁ だ だ よ 』
再び少女の声が頭の中に響いた時、彼は夢から覚めた。
目を開けるのと同時に、ドクンドクンと大きく音を鳴らしている心臓の鼓動とPCの本体から発せられる機械の唸るような音が重なって耳に飛び込んでくる。
「――夢か……」
PCを立ち上げた状態のままで寝入ってしまったらしい。彼は上体を起こし椅子の背もたれに思い切り体を預けるようにして大きく伸びをした。
PCのモニター画面はスクリーンセーバーに切り替わっていて、銀色の月が画面の端から端まで大きく弧を描いてゆっくりと移動している。
画面からの光を遮るように彼は両目を右手で覆うと、夢の内容を打ち消そうとしているかのようにそのまま頭をニ、三度動かした。
深呼吸をした後、彼は目を覆っていた手を顔面から外し、同じ高さに左手も合わせてしばらくの間じっと眺め続ける。
両の掌には、もちろん何もない。
その時初めて、彼はモニター画面の光の他にも部屋の中に射し込む光があるのに気付いた。明かりに誘われるように視線を移動させると、カーテンが開け広げられたままの窓が視界の中に入ってくる。
彼はゆっくりと立ち上がり窓辺に歩み寄ると、カーテンの端に手をかけた姿勢でガラス越しに夜空を眺めた。
空に浮かんだ満月が彼を見下ろしている。
『 ま ぁ だ だ よ 』
不意に蘇りかけた少女の言葉を遮るように、彼は力任せにカーテンを引いた。