思い出の場所
約束の日。
木村は、朝からソワソワしていた。出勤途中も、憂欝な感じで車を運転していた。
やっとの思いでこの日を迎えた。だけど、どうして急に行きたいって言ったのだろうか。もしかして、もう仕事を辞めるなどというのか。それとも、メールしないで下さいって言われるのではないか。
そんな気持ちが、木村の脳裏を過っていたのだ。
そうこうしている内に、木村の運転する車は工場に到着した。
すると、事務所前で缶コーヒーを飲んでいた元気が、木村の沈んだ表情を見て駆け寄ってきた
「どうしたんですか?めちゃくちゃ顔色が悪いっすよ」
木村は、直ぐに顔に出るタイプの様だ。
いや、元気だけが木村の状態を察知できるのだと木村は思った。
「解るかい。今日、あの山の上に行く事になってね」
「昼休みに、ですか。ところで、誰といくの?」
「……」
「まさか……」
「そう。その、まさかだよ」
「いいっ! うそっ!」
「だって、誘われたからね」
「誘われた?」
「連れて行って、ってね」
「でも、良い事じゃないですか?」
「良い事って。だって、急にだよ。急に言われたんだ。彼女の身に、何かあったのか。それとも、もう最後かもしれない」
木村は、不安でたまらなかった。そんな木村の話に、元気は「そこまでは」という思いだった。しかし、元気も最近、榊原の姿を見ていない事もあって、もしかしたらという気持ちもあった。
「大丈夫ですよ、心配ないって」
元気の言葉に、木村も、少しだけ安心した。
そして昼休み前に、木村の下にメールが届いた。
『今から行きますけど、いいですか?』
木村は直ぐに返信メールを送った。
『いいよ。この前の橋の下で待っていて下さい』
この前の橋とは、あのシュークリームを食べた場所だ。
昼休みのチャイムと同時に、車までダッシュした木村は、急いで約束の場所へと向った。
目を懲らして橋の下を見ると、既に榊原の車が停まっていた。
木村は、その真横に車を停めて窓を開けると、
「僕の後ろから付いて来て下さい」
そう言って、再び車を走らせた。バックミラーを見ながら、付いて来ているかを確認しながらの運転だった。
山の麓に着くと、一端車を止めて、
「榊原さんの車をここの隅に停め下さい。ここからは僕の車で行きますので、僕の隣に乗って下さい」
と、叫んだ。
その言葉に、榊原はバッグを片手に、木村の車に乗り込んだ。
木村の表情は強張って、心臓の鼓動は激しく振動していた。それもその筈、『理想の君』をやっとの想いで助手席に乗せての、夢の様なドライブなのだ。緊張するのも当然である。
「へえ、内装は同じなんですね」
「えっ、何が?」
榊原の突然の言葉に、木村は慌てて反応していた。
榊原の車と木村の車は、年式とグレードは違っていたが、車種は同じだった事で、内装も同じ造りだったのだ。
自分の世界に入っていた木村は、暫く経って榊原の言葉の意味を理解した。
「ハハハ…… そうだね、同じだ」
と、棒読みのセリフの様な口調で、ドギマギしながら答えた。
今から行く所は、山頂付近間で車で行ける低い山だった。だが、そこにある駐車場からは、距離的には短いのだが、ある程度の坂道になっていた。そこを歩いて行かないといけなかったのである。
木村は、駐車場に車を停めた。
先に榊原が車から降りろ、それを確認してドアロックを済ませると、木村も降りてきた。
「前に話していたでしょ。ここからが歩きなんですよ」
木村は数日前の会話の中で、行く時はスニーカーを履いて来るようにと言っていた。その理由がこれである。
舗装されてはいたが、狭い坂道になっていた。そこを、二人は一緒に並んで登った。
「この坂道。結構、足にきますね」
榊原はそう言いながら、木村の肩に手を添えてきた。
「大丈夫ですか? もう直ぐ着きますよ、頑張って下さい」
木村はそう言いながら、肩に添えた榊原の手を取って引っ張って歩いた。そんな木村のサポートに、榊原はニッコリと笑って歩いた。
木陰から出て来ると、二人の前に庭園の様に刈られた省スペースの草原が広がった。そこから見えてきた頂上には、休憩するベンチが三つ有り、一番上には、雨避けの六角形の屋根が付いているベンチが見えていた。二人はそこまで登って行った。
到着した榊原は、息を切らせながら
「ふう、やっと着きましたぁ」
と言って、ベンチに座ったのだ。そして木村も、その横に座ったのである。
「ここはね。昔、見張りの砦があったんだよ。敵が攻めてきた時に、向うの高い山。青の高い山の上に見える平たい所があるでしょ。その山の上にもお城があって、そこに知らせていたんだ」
木村は、前方の山を指してそう言った。その後振り返った木村は、その場で立ち上がると休憩所の奥を指して、
「この奥に、その時の砦の説明が書いてある石碑があるんだ。一緒に見に行く?」
と榊原に尋ねた。しかし、榊原は息が上がっていて
「ここで、いいです」
と、笑いながら答えていた。そして、ゆっくりと立ち上がると、買って来たコーヒーを木村に渡した。
そのまま振り向いた榊原は、そこから下の景色を眺めながら、
「本当に素晴らしい景色ですね」
と、眺めを満喫していた。後ろに居た木村も、ゆっくりと榊原の横に並ぶ様に寄り添うと、貰ったコーヒーを飲みながら、
「そうでしょ。ここは僕の生まれ育った町が一望できるんですよ。
直ぐ下に見えているのが、高速道路と新幹線が通る線路です。並んでいるのは珍しいらしいですよ。ほら、あれがショッピングモールで、それとあれが市役所で」
木村は、色々な所を指して話していた。その隣では、話を聞きながら景色を観ていた榊原だったが、次第に木村の顔を見つめるようになっていた。話し終えた木村も榊原の視線に気が付くと、二人はそのまま暫く見詰め合っていた。そして、暫く沈黙が続いた時、フッと我に返った木村は、急に話を変えていた。
「この向うに、説明の石碑があるけど、見に行く?」
さっき尋ねた事を、再び言い出す木村だったのだ。すると、榊原は小さく首を横に振って、
「ここで、もっと話をしたいな」
と小さな声で言った。
その時の榊原は、少し寂しげな様子を浮かべていた。それを見た木村は、やはり何かあったのか。という感情を抱えたまま榊原の横に座った。
「榊原さんとメールをやり始めて、どれくらいになるかな? 僕は本当に楽しかった。いや、楽しいよ。今も凄く楽しい。はっきり言って、このまま時間が止まればって思うよ。だけどね……」
木村は言葉を止めた。すると、急に立ち上がった榊原は、大きく背伸びをして、
「この次にここに来る時は、お弁当を持って来ましょうよ。それで、二人で一緒に食べましょう、ねっ」
そう言ってニッコリと微笑んだ。その時の榊原の瞳は、少し潤んでいた。そして木村は、
「うん」
と頷いていた。でも木村は、なぜか心から喜ぶ事が出来なかった。
どうしても、榊原のメールの事が気になっていた。それに、さっきの寂しそうな榊原の表情を思い浮かべていたのだ。
沈黙の時間が続いた。何を話せばよいのかが解らない。言葉が見付からないまま、二人の時間が過ぎて行った。そして木村は、携帯を開いて時間を確認していた。
もう、昼休みが終る時間になっていたのだ。
「もうこんな時間だよ。もっと一緒に居たいのになぁ。でも、工場に戻らないと」
木村がそう言うと、榊原が、
「また、ここに連れて来て下さいね」
と、小さな声だが、念を押す様に言った。
木村は榊原の顔を見ると、大きく頷いた。
「それじゃ、帰ろうか」
木村の一言で、二人は山を降りて行った。そして、榊原の車の所に着くと、
「今日は本当に有難う」
と、車から降りて行く榊原に言った。そして、
「また、ここに来ようね」
と、微笑みながらそう言うと、榊原は笑顔で頷いた。しかし榊原の瞳には、零れんばかりの涙が溢れていたのだ。
木村は、そのまま自分の車を走らせ去って行った。その後ろでは、木村の車が見えなくなるまで、ずっと見送っていた榊原だった。
自分の車に乗った榊原だったが、その車は暫く動かなかった。中では、ハンドルに靠れて泣きじゃくる榊原だったのだ。
工場に着くと、木村はタバコを吸った。そして何も言わずに、仕事を始めていた。
暫くすると、榊原からのメールが届いた。
『今日は素敵な所に連れて行ってくれて、有難う御座いました。それと、貴重な時間を割いて頂いて、本当に有難う御座いました。
実は、あまりそちらに行けなくなるかもしれません。それで、今日は休みを取って来ました。でも、木村さんの仕事も忙しそうだったから、ごめんなさい。今度は弁当を持って行きたいですね。
それでは、お仕事頑張って下さい』
と書いていた。
木村は、そのメールをじっと眺めていた。そして、考えた末に、
『こちらこそ、僕のワガママを聞いて頂いてありがとう。やはり、お互い家庭がありますから、距離はとっておきましょう。僕にとっては、あなたは大切な人です。それに、特別な人です。
だから、あなたに迷惑がかかるような事はしたくないのです。
これからは、もっと他の人に会う時間を作って下さい。僕は大丈夫です。開いた時間に来て頂けるだけで嬉しいですし、それで十分だと思っています。
それでは、交通事故には十分に気を付けて、何かあったら何時でもメールして下さい。』
という内容で送った。
木村は、榊原に対して自分がやって来た事が、彼女を苦しめる原因だと思った。やはり、お客様からお願いされれば、嫌とは言えない。それで、今までメールを断れなかった。
そう思っていたのだった。
しかし、それは違っていた。
それからは、何故か二日に一度の割合で、榊原は木村に会いにやって来た。あまり来れないと言っていた榊原だったが、木村との時間を大切にしたいとの思いからだったのだ。昼休みが駄目なら、その後の三時の十分休憩に来たり、残業前の五時半からの休憩に合わせて来たりしていた。それが、榊原が木村に対する答えだったのだ。
だが、ひと月程でそれも終った。それからは、本当に来れなくなったのだ。それには、とんでもない訳があったのだ。