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変わりつつある行動

木村は、前の自分を取り戻そうと仕事に没頭していた。榊原に逢う前の自分に。

そこへ、携帯のメール着信を知らせる振動が起こっていた。マナーモードにしていたのだ。そして携帯を取り出した木村だったが、送信者を確認して榊原からだと解ると、送られてきたメールを見ずに携帯をしまっていた。今は仕事に専念したかったからだ。

 木村は、メールを送る事に躊躇していた。

今後は、保険の支払いの時や、解らない事を聞く時にメールを送ろうと考えていた。それも、なるべく敬語で書いて送る様にと。もちろん、余計な事は書かない様にしようと考えていたのである。

出来る限り、榊原に不安を与えない。これ以上は、迷惑は掛けられない。そう思っていたのだった。

やはり、セールスレディーと客の関係を保つべきだったと、後悔の念が募っていたのだった。

 

ある日、榊原から電話が掛ってきた。

「もしもし、木村ですが。どうかなさいましたか?」

普段であればメールで連絡をして来るのだが、いきなりの電話だったので、保険に関して何か不都合があったのかと不安に駆られた木村は、慌てて電話に出ていた。

ところが、通話口から聞こえる榊原の様子がおかしかった。榊原が変だった訳ではなく、榊原の周りから聞こえてくる女性の声に、気付いたのだった。それも、周りから聞こえる女性の声は、一人だけのものではなかったのだ。

「もう、ちょっと違うってば。あっ、すいません、明日ですが」

電話口で榊原が話そうとすると、その横から数名の女性の声が聞こえてきたのだ。

「今掛けている人がそうなの?」

「ああ、やっぱりそうだ。もう、彼氏になってもらえば」

「うわぁ、紅くなっている!」

やけに、榊原の周りが騒がしかった。そんな中、榊原は何か落ち着かない様子で、

「もう、ちょっと、何なの。ち、違うってば。ああ、木村さん。すいません、ちょっと待って下さいね」

「へえ、木村って言うんだ」

「こらっ! 声が大きいでしょ」

木村は、榊原の向うで別の女性が喋っている事は解っていたが、その内容が意味不明で困惑していた。そうこうしていると、漸く落ち着いたのか、榊原が普段通りの口調で話し掛けてきた。

「すいません。同僚の社員達が煩くて。ところで、明日お伺いしたいと思ってお電話させて頂きました」

 少し上機嫌の榊原の声だったが、

「はい、解りました」

木村はそう言っただけで、そのまま電話を切っていた。

木村自身は、もっと話したいと言う思いがあった。だが、やはり榊原の事を考えての事だった。ここで、前の様に燥ぎたてると、次は取り返しの衝かない事態にまで発展するかもしれない。それが怖かったのだ。

木村のそんな気持ちを知る由もない榊原は、木村の一言に戸惑っていた。携帯電話を見つめながら、その場で肩を落とす榊原だったのだ。そんな榊原を見ていた周りの女子社員達は、

「もう、電話終ったの?」

「うん」

「私達の話が煩かったのかな?」

「ごめんね、静香さん」

 と、榊原の事を心配していたが、

「いいよ、別に」

と答える榊原だった。だが、同僚の社員達にはそう言ったものの、心の中ではかなり動揺していたのである。

次の日の朝、榊原の方から木村にメールが送られて来た。

『お早う御座います。今日も一日お仕事頑張って下さいね。

お昼にお伺いしますね。昼休みが待ち遠しいです』

通勤途中で運転をしながら、木村は何気なくそのメールを読んでいた。しかし、今までのメールの内容とは、明らかに違っていたのだ。どう見ても、以前の木村が書きそうな内容のメールだった。

メールを読み終わった木村は、今日の昼休みに榊原と逢える事に喜んではいたが、内容に関しては気にも留めていなかったのである。

まあ、鈍感だと言うほかに言葉が無い木村だったのだ。

そして昼休みになると、いつもの様に食事を済ませた木村は、何時もの様に事務室の自動販売機で缶コーヒーを買って、何時もの様に喫煙所に向かった。すると、ちょうど同じタイミングで、榊原の車駐車場に入ってきたのである。それを横目に、そのまま喫煙所の椅子に座る木村だったのだ。

そんな木村の所に、榊原が走って来た。そして、

「木村さん、昨日の電話聴き取り難かったでしょ?」

 と、笑顔で話し掛けていた。そんな榊原に、

「まあ、大丈夫だったよ」

 と、木村も笑みを浮かべて言った。

「もう、同僚の女子社員達が茶化すから、迷惑だったでしょ」

そう言いながら、榊原は木村にゴルフの雑誌を渡していた。

「いいえ、迷惑だなんて。榊原さんの方こそ、僕の事で社員に言われて迷惑だったでしょ」

 木村もそう言った。すると、

「とんでもないですよ。全然、悪い気はしなかったですし、もう、根掘り葉掘り聞かれて、ごめんなさいね」

 と、顔を真っ赤にして答える榊原だったのである。

その言葉に、少しずつではあるが、榊原の様子が変わってきていた事に、木村は気付き始めていた。前の榊原とは違う、何かを感じ取っていたのだ。

「そうなんですね。まあ、ここにでも座って、ゆっくり話でもしましょうか」

木村がそう言いながら椅子を榊原の前に置くと、

「有難う御座います」

 と言って、そこに座る榊原だった。

そんな榊原に、木村は尋ねた。

「榊原さん、子供さんは?」

「いますよ、二人居ます。上は小学校に入学したばかりで、下の子は保育園に通っています」

「へえ、そうなんですね。それは大変だ。それじゃ、旦那さんも色々とお手伝いして貰わないとね。ところで、旦那さんはどの様なお仕事をやっているの?」

「私もよくは知らないのですが、何でも、溶接をやっていると言っていました」

「へえ、溶接ね」

そんな会話をしていると、次は榊原が訪ねてきた。

「木村さんは、お酒は飲まれるのですか?」

いきなりの質問に戸惑いを見せる木村だったが、

「家では飲まないです。かと言って、外でも滅多に飲まないですね。まあ、忘年会や新年会といった時には、そこそこ飲みますけどね」

と、首を横に振りながらそう言った。その言葉に、榊原は少し驚いていた。その榊原の表情を見た木村は、

「僕、酒を飲みそうな顔しているかな?」

 と困った顔でそう言うと、榊原は黙って頷いていた。

そんな榊原に、木村も同じ事を聞き返していた。

「榊原さんは、飲まれるの?」

 すると、

「はい、毎晩飲んでいますよ。ビールですけどね」

 と、少し恥ずかしそうにそう言った榊原だった。

その言葉に、木村も驚いていた。木村の頭の中には“毎晩飲んでいるんだ。その様には見えないけど、それじゃ、旦那も一緒に飲んでいるのだろうな”といった疑問が生じた。それを確認する様に、木村は尋ねた。

「旦那さんと一緒に晩酌するの?」

すると、榊原の口から思いがけない言葉が返ってきた。

「旦那は長期出張でいませんから、いつも一人で飲んでいます。

旦那もあまり飲まないので、家に居る時は一人で二階で寝ています。ですから、飲むのはいつも一人です」

木村は驚いていた。だが、その後に頭に過った事は、聞いてはいけない事だったのではと、少し心配にもなっていた。もしかして、旦那が長期出張等という事を、訪問先などでも言っているのではと思ったからだ。もしもそうなら、悪戯電話や、余計な事を言ってくる連中もいるので、十分に気を付けた方がいいと思ったのだ。

完全に、自分の事は棚に上げていた木村だった。

「榊原さん。あまりそう言う事は、人に言うものじゃないよ」

木村は、心配してそう言った。すると、榊原は少し微笑んで、

「ちゃんと、人を見て言っていますよ。木村さんだから、こんな事が言えるのですから。でも、心配してくれて有難う御座います」

と木村を安心させた。それと同時に、今まで見せた事の無いような、優しい微笑を浮かべる榊原だった。

その榊原の笑顔に、木村も微笑み返すと、

「今度一緒に飲みましょうか?」

「そうですね。ゆっくり出来る時があれば、一緒に飲みたいですね」

二人はそう言いながら、見詰め合っていた。

そして、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ると、

「今日はとっても楽しかった。それじゃ、又来ますね」

榊原は、そう言って木村に挨拶をすると、車の方に走っていった。

榊原と擦れ違う様に、元気がやってくると、

「あと5分ありますよね。タバコでも吸おう」

そう言って急いでタバコを加えると、ライターで火を付けながら、

「中々、良い関係じゃないですか」

と、木村を茶化していた。木村もタバコを吸いながら

「あんなに話をしたのは、今日が初めてだよ」

と言って、照れ笑いを浮かべていた。

しかし、そんな木村に元気は、

「だけど、あまり深入りし過ぎちゃ駄目ですよ」

と、木村の心の内を察して忠告していた。その言葉に、木村は小さく頷いていた。

木村は解っていた。これ以上は進めないと。だが、榊原の想いは、更に木村の方に寄って行ったのである。

翌日。思いも依らない出来事が起こった。

ここの工場団地に、違うセールスレディーが勧誘に来たのだ。それも、榊原と同じ優雅生命のセールスレディだったのである。尚且つ、この工場団地の近くにある支店からだったのだ。

榊原は、少し離れた隣の市にある支店から、遥々やって来ていたのである。

その状況に、木村達は心配になっていた。それは、新しく来る様になった保険のセールスと榊原とが、同じ日にかち合いはしないかという事だった。同じ生命保険会社同志での競り合いではあるが、榊原は隣町から来ているので、問題になればやはり、地元の方が有利になる。そうなれば、榊原がここに来る事ができなくなってしまう。木村はそう思っていた。

しかし良く考えると、それは在り得ない事だった。

木村の担当は、既に榊原と決まっていたのだ。担当者が客に会いに来る事は、当然の事である。従って、木村は余計な事を考えていた事になる。

 だが、木村の心配する出来事が起こったのだ。

何時もの様に、木村達の工場に来る前に隣の工場に向かう、榊原の姿があった。

そこで、問題の出来事が起きていた。

榊原が、隣の工場で保険の話をしている際に、そのセールスレディがやってきたのである。そして、榊原は直ぐに木村達のいる工場の方にやってきた。そこへ木村が事務室から出て来ると、榊原に向かって軽く会釈をした。だが、榊原の様子が変だった。

木村は、何時もの様に二人で話しでもしようと榊原を呼び寄せたのだが、そこにはいつもと違う榊原の姿があったのだ。

「聞いて下さいよ。確かに私は隣町の支店ですよ。だけど、木村さんの様に、私のお客様もいるんですよ。それを、あまりここに来ないで欲しいって言われても。それに、私の方が先にこの工場団地に来ていたから、そんな事を言われる筋合いはないのですよ」

と、榊原は物凄い腱膜で怒っていた。

隣の工場で、あのセールスレディから何か言われたらしいと、木村は感じ取った。だが、

「あ、ああ、そうだよ。そうだよねえ」

と言う他はなかった。

榊原の話は尚も続いた。

「私もこの仕事を続けていきたいし、せっかく木村さんの様な優しい人が、私のお客さんになって頂いたのに」

と、榊原の愚痴のも似た言葉は暫く続いたのだ。

木村はそんな榊原を見て“色々言われたんだな。まあ、僕で良ければ話を聞いてあげよう。それで榊原さんの気が済むのであれば”そう思って、最後まで話を聞いていた。そして、榊原が気が済むまで話をした時、木村が言った。

「榊原さん。今日はとっても綺麗ですよ」

榊原は、木村の突然の言葉に驚いていた。更に、木村は榊原の服装を観て言った。

「今日の榊原さんの格好は、すっきりしていて中々似会っていますよ。それに榊原さんて、結構センスが良いのですね」

木村はそう言うと、少しさがって榊原の全身を観てた。すると、榊原の顔が一気に真っ赤になっていった。そして、照れながら木村に向って言った。

「木村さん、そんなに観ないで下さいよ。もう、恥ずかしいでしょ」

真っ赤な顔を隠す様に、頬に手を当てた榊原だった。

木村の榊原に対しての行動は成功した。榊原のイライラを、取り除こうとしたのである。そして、木村は優しく微笑むと

「やっぱり、笑っている榊原さんは最高に可愛いよ」

と言った。

その言葉に、榊原は木村の顔を観ながらハッと気付いた。そして笑顔を見せた榊原は、木村に向って言った。

「有難う御座います」

その言葉には、木村の気持ちを受け止めている榊原の想いが詰まっていた。そして、昼休みは終った。

その後、榊原からメールが来た。

『さっきは有難う御座いました。私も頑張りますね。

また明日、そちらにお伺いします。木村さんもお仕事頑張って下さい。それと、またメール下さいね』

そのメールには、赤いハートの絵文字も入っていたのだ。

それを見た木村も、直ぐに返信メールを送った。

『榊原さんも、交通事故等に十分に気を付けて下さいね。何かあれば何時でもメールを下さい。それじゃ仕事頑張って下さい。

今日も、綺麗な榊原さんに逢えて嬉しいです』

そう書いて送っていた。

しかし、榊原はもう何も言わなくなっていたのである。そして、素直に喜びを噛み締める榊原だったのだ。


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