一目惚れ
二カ月程たった、ある日。
その日も二人は、午前中から昼休みの事を話していた。特に元気は、ゴルフのスウィングもかなり上達して、真っ直ぐに飛ぶようになってきていたのだ。その為か、楽しくてしようがない様子で、逸る気持ちを抑えきれないでいたのである。
しかし、外は昼前くらいから、雨が降り始めていたのだ。
「とほほ、今日は雨ですよ……」
元気は力の無い声で言った。
毎日のゴルフが力の源だった元気だったが、その日の昼休みは例の如く、工場の隅で話をする事になった。十二時のチャイムが鳴ると、何時もの様に手を洗って弁当を食べた。普段よりもゆっくりと食事を済ませると、タバコを吸いに工場の隅に向った。
工場内は、基本的には禁煙になっているのだ。しかし、働いている五人の中の三人がタバコを吸う。その為か、社長が工場の一番端の部屋に喫煙スペースを設け、タバコの煙を吸い込む機械を設置してくれたのである。もちろん、シャッターも開けての事だ。
木村達はタバコを吸いながら、そこで話をしていた。
その日は元気の他に、別の部署の『斎藤』と『篠田』もいた。斎藤は、木村よりも三つ歳が下だった。篠田は、元気よりも一つ歳が上だった。順番で言うと、上から、木村、斎藤、篠田、元気の順だった。斎藤は喫煙者だが、篠田は、タバコは吸わなかった。その日は、たまたま、そこに来てみんなと話をしていたのである。四人がそこに揃うのは、滅多になかった事だった。
「木村さん、明日は晴れるでしょうか?」
元気の力無い言葉に、
「たぶんね。大丈夫だと思うよ」
と、優しく応える木村だった。そんな言葉に、
「そうですね。早く上手になってコースに行きたいですからね」
と、頭を掻きながらはにかむ元気だったのである。
木村と元気のそんな会話に、
「裏でゴルフやっているのですか?
裏の空き地のスペースでは、ゴルフを練習するには、ちょっと狭くないですかねぇ?」
と、斎藤が二人の話に入ってきたのである。
斎藤は、普段からインターネットなどの影響で色々と知識はあるのだが、今まで一緒に何かをした事がなかった。知識を得てもそれを実践するタイプではなかった。どちらかと言えば、インドアの性格だったのだ。斎藤の後ろからやって来た篠田も、どちらかと言えば同じインドアだった。普段は、二人とも工場内のパソコンでインターネットをしているのである。その為に、木村や元気とはあまり話が合わなかったのだ。
斎藤の言葉に木村は、
「狭いというか、俺達の練習にはちょうど良い広さだよ。それに、俺達はそんなにゴルフが上手くないからね。ボールもそんなに飛ばないし、ゴルフクラブもピッチングとサウンドウエッジだからね」
と、軽く言葉を返した。
そんな木村の言葉に、ゴルフはやらないが知識だけはあった斎藤は、納得していた様子だった。
そんな会話をしていると、外に人の気配を感じた四人だった。こんな事は初めてだったので、四人はシャッターの外に目を向けていた。腰のあたりまで開いていたシャッター。その向うに見えたものは、スカートを履いた女性だった。
「こんにちは、優雅生命の榊原静香といいます」
榊原は丁寧に挨拶をすると、シャッターを潜って工場内に入って来た。そして、笑顔で木村達の方にやってきた。
普段から、年齢の事等は気にせずに話をしている四人だったのだが、この様に誰か知らない人が来たりすると、みんなは一番年上の木村の方に対応を任せる習性があった。
この日もその女性が来ると、みんなは一歩横にさがったのである。
中央にいた木村は、面倒臭そうに、あまり榊原に目を合わさない様に会釈をした。そして、頭をあげた。
その時、木村の胸が高鳴った。
可愛い、というか綺麗。
木村の脳裏に、そんな感情が浮かんでいたのだ。
それもその筈、榊原は木村の理想のタイプの女性だったのである。
榊原は、四人が話をしている中で、一番年上で中心の人は木村だと気付いたのか、それとも他の三人が後ろに下がった為なのか、それは解らないが、そのまま真っ直ぐに、木村の方に歩み寄って来た。
木村の前で深々と頭を下げた榊原は、名刺を出して再び挨拶をしたのである。
「優雅生命の榊原静香といいます。
この工場団地を周る事になりましたので、時々、寄らさせて頂きます。これから宜しくお願いします」
とても丁寧な言葉遣いだった。
榊原はそう言うと、みんなに持っていた飴を配りはじめた。
その前で、名刺を受取った木村は、側にあった椅子に座った。そして、あまり榊原を見ない様にして、またみんなと話はじめた。だが、木村の気持ちは唖落ち着かない様子だった。榊原の事を気にしていたのだ。
可愛いというか、綺麗と言った方が良い様な女性だな
そんな事ばかりを考えていたのだ。
その後も、榊原はみんなの話を黙って聞いていた。そして昼休みが終わると、
「それでは、また来させて頂きますね」
笑顔を見せてそう言うと、シャッターから出て行ったのである。横目で榊原が遠ざかった事を確認した木村は、早速元気に向って言った。
「さっきの人、可愛かったな。俺、緊張したよ」
何処となく照れ臭そうに言う木村に、
「見ていて解りました。僕は、そんなには思わなかったですけどね」
元気は笑みを浮かべて、木村にそう言った。側で、二人の会話を聞いていた斎藤も
「まあ、保険の勧誘ですからね。笑顔で対応してきますから、みんなそう見えますよ。言葉使いも丁寧だし、笑顔ですしね」
そう言って工場の中に入って行った。
そう言われると、少し関心が薄くなった様子の木村だった。そしてまた、別の話しで盛り上がる木村と元気だったのだ。
数日後。
昼休みの時間になった工場の裏では、いつもの様にゴルフをやっていた木村と元気だった。すると工場の向うから、榊原が走って来るのが見えたのだ。そして、木村のいる所まで来ると、。
「木村さん。よかったら、これを見て下さい」
榊原は微笑みながらそう言って、保険のパンフレットを木村に手渡していた。その時、照れ臭そうにそれを受け取った木村は、
「ありがとう。だけど話はちょっと。今からゴルフやるのですいません」
と、頭を掻きながら、申し訳なさそうにそう言った。その言葉に、
「こちらこそ申し訳御座いません。貴重な時間を奪って。ですが、終わった後で結構なので、それを見ていて下さい」
少し眉を下げて、深々と頭を下げる榊原だったのだ。その榊原の姿に、益々想いを募らせた木村だった。そんな木村に、何度も頭を下げて微笑む榊原は、その場を去って行った。
その榊原の後姿を見ていた木村だったが、再びゴルフを始めていた。そんな事が、二・三日おきに、起こっていた。
木村は次第に“今日は来ないのかな”と、榊原の事をが気にする様になっていた。雨の日になると、榊原が来て話しに加わる様になっていた。そして、みんなの事を聞いていたのだ。
「斎藤さんは、奥さんと子供さんは居るのでしょう?」
「ええ、居ますよ。妻と男の子が一人ですけど」
「元気さんは、ここの社長さんの息子さんなのですか?」
「はい、そうですよ。まだここに来たばかりで、木村さんに仕事のノウハウを教わっています。弟子ですから」
そんな話ばかりをしていた。それを見た木村は“やはり保険の勧誘だな、情報収集か”と、榊原を見ていた。そして榊原は、木村にも話しかけてきた。
「木村さんは、奥さんと子供さんは?」
榊原がそう言うと、木村は何も言わずに、首を縦に振るだけだった。どうしてそんな事を教えなきゃいけないんだと、そう思っていたのだ。その時、斎藤が榊原に言った。
「木村さんは、結婚が早かったのですよね」
その言葉に、木村は心の中で“余計な事を言うなよ”と思った。
斎藤の言葉を聞いた榊原は、
「へえ、何歳の時ですか?」
と木村に問い掛けてきた。その時の木村は“そんな事どうでもいいじゃないか”と言った気持ちだったが、
「19歳の時だよ、だけど、できちゃった結婚じゃないよ」
と、不機嫌そうな顔で答えていた。すると、
「そうなんですね、それじゃ奥さんも若くて結婚したのですね。へえ、若い奥さんを守ってやるっていう感じで、結婚なさったのでしょうね」
榊原は、その様な事を木村に言った。
その言葉が、木村の苛立った気持に火を付けた。そして“そう言うけど、良い時もあれば辛い時もあったんだよ。それを簡単に言うな”といった気持ちが木村の心に浮かんだ時、
「そんなにカッコ良いものじゃねえよ!」
と、少しきつめに言葉を発した木村だったのだ。
そしてその後、ハッと我に返った木村だったが、周りは木村の一言に静まり返っていた。そして、みんなの眼は木村の方を見ていた。
目の前に居た榊原は、困惑した顔をして木村から眼を逸らしていた。そして、落ち着かない様子でオロオロとしたまま会釈をすると、その場から立ち去って行った。
“少し言い過ぎたかな”
そんな気持ちが、木村の脳裏を行き交った。そして、茫然と榊原の後姿を目で追っていた。
その日の木村は、帰るまで榊原の事が気になっていた。
“ここには、もう来ないかもしれないな。悪いことしたな”
そんな事ばかりが、頭の中をグルグルと回っていたのだ。木村の本心は、やはり榊原に来て欲しいのである。だが、榊原は姿を見せなかった。
ある日。元気と木村が、ゴルフをする為に工場の裏に行こうとしていた。
その時だった。
「こんにちは!」
と、榊原の声が聞こえてきたのだ。
その声に振り返った木村の瞳の向うには、榊原が走って来る姿が映っていた。それによく見ると、手に何か大きな物を持っていた。
そして、木村の前に来た榊原は、
「木村さん、これ使って下さい」
そう言って、手に持っていた物を木村に渡したのである。
いきなり差し出された物を見た木村だった。それは、ゴルフのヘッドカバーだったのだ。それもキャラクターの縫ぐるみで出来た物だった。
「これ、いいの?」
木村の言葉に、榊原は微笑んで小さく頷いていた。その榊原の表情に、木村はドキッとした。
“小さく頷いて、上目使いでこっちを見ている顔が、また可愛い”
そう思ったのだ。
「ありがとう、大事に使わせてもらいます」
そう言うと、ヘッドカバーをゴルフバッグに入れたのである。それを見て、コクリと小さく会釈した榊原は、振り返って走って行ったのだった。そして少し離れると、
「また、お伺いします」
そう叫んでいた。それも、満面の笑みを浮かべながらだった。
そんな榊原に、木村は軽く頭を下げていた。
この日から、木村の心の中で何かが変わった。あの榊原の存在が、違うものになったのだ。