唐突な一言
数日後、榊原はメールもくれずに、突然やってきた。
「こんにちは、ご無沙汰していました」
「おお、元気でしたか?」
木村は、全くの無防備だったので、来ていた事に気付かなかった。
「元気でしたよ。木村さんは?」
「僕は、今日やっと元気になりました」
木村のその一言に、榊原はにっこりと笑った。
久しぶりの笑顔に、木村もグッと胸が高鳴っていた。
「やっぱり、いつ見ても可愛いね」
言葉に出して、はっきりとそう伝える木村だった。
今までは、そこで『またぁ』とか『いつも上手ですね』等と言われるのだが、その日は違っていた。
「あの、ですね。もう、企業の紹介も友人の紹介もしなくてもよくなりました。今まで本当に有難う御座いました」
その言葉に、一端動きが止まった木村だった。
“どうしたんだよ、いきなり? もしかして、辞めるなんて言わないよな? 僕、悪い事したかな? えええっ、な、なんでだよ?”
といった想いと?マークが、頭の中をグルグルと回っていたのだ。
しかし、
「あ、ああ、そうなんだ。でも、また必要な時は言ってね」
と、全く思ってもいなかった言葉が口から飛び出していた。その他には、言葉を掛けきれなかったのだ。そして、次の榊原の言葉に完全に心が暗くなった木村がいたのである。
「それは無いです。それじゃ、次の所に行かないといけないので失礼しますね。お仕事、頑張って下さいね」
と、そのまま車の駐車している所に走って行った。その手元は、口を押えたまま、振り逢える事が無かった。
木村は、完全に終ったと思った。そして、黙って見送っていた。
それからの木村は、全く仕事に集中できなかった。
一体どうしたのか? メールの内容を旦那が見てしまったのか? もしもそうだとすれば、旦那が黙ってはいない筈だ。木村の所に殴り込んで来る筈なのだ。それとも、仕事を辞めろって旦那から言われたのか? まあ、何にせよ榊原との関係は終ってしまう。
木村はそんな事ばかり考えていた。
その状況を見ていた元気は、木村に話しかける事が出来なかった。
いや、なんて言葉を掛けていいのかが解らなかったのだ。
だが、思い切って、
「木村さん、元気だそうよ」
木村の後ろから肩をポンと叩くと、前を向いたまま小さく頷く木村だったのだ。
そして、一週間がたった。
その間も、依然、メールは来なかった。榊原の事ばかりが気になり過ぎて居ても立っても居られない木村は、等々思い切って榊原にメールを送った。
『お早う御座います。この前の会話は、何か様子がおかしかったけど、どうかしたのですか?僕は、ちょっと考え込んでしまって。
何かあったのなら、言って下さい』
という内容だった。
木村は、これで返事がなかったらメールを送るのを止めようと思っていた。そして、いくら待ってもメールが返って来なかった。
木村は、完全に諦めていた。これで、榊原の顔を見る事も無くなってしまう。そう思っていた時、木村の携帯電話が鳴った。それは、榊原からのメールの呼び出しメロディーだった。
慌てて、携帯を開くのに手間取った木村だったが、榊原の名前を確認した後、そのメールを開いた。
『すいません、そちらに行けなくて。ちょっと、体調が。と言うより、私、今の仕事を辞めようかどうか、迷っています。
実は……
三人目が……
どうも妊娠したみたいで……
それで辞めようかと。でも木村さんや他のお客さんに申し訳がないと言うか』
榊原の心配はそれだけではなかった。木村への想いもあったのだ。
メールにはお客さんと書いてはいたが、個人的な想いが強かったのである。しかし、こうなっては仕方がない事だった。
メールを読んだ木村は、只々茫然としていた。思いもよらない結末に愕然と肩を落としていた。
今までの榊原の不思議な行動や言動は、全てこの事が原因だったのだ。だが、木村にはどうする事も出来なかったのだ。
木村は、ゆっくりとメールの内容を打つと、暫く考えて送信のボタンを押した。
『おめでとう御座います。そうだったのですね。だけど、嬉しい事じゃないですか。ただ、もう少し頑張って見て考えてもいいのでは。
まあ榊原さんが、それじゃキツイと言うのであれば仕方がないですけど。他に何か方法があるかもしれませんよ。
榊原さんが、今の仕事をこのまま続けて行きたいのであれば、の話ですけどね?』
木村はその後、黙って仕事を始めた。
こればかりは、どうすることも出来なかった。
榊原に仕事を続けて欲しいという気持ちはあった。しかし、それで榊原に何かあれば、傷付くのは榊原の方なのだ。
そう思いながら諦めていたのだった。
それから、何日か経ったある日の昼休み。
木村は、いつもの様に喫煙所にタバコを吸いに歩いていた。その表情は、あの日から依頼、茫然と遠くを眺める様な眼で力を失くしていた。そして、木偶の坊の様に立ったままタバコを吸っていると、事務所の方から歩いてきた元気が木村の肩を叩いて呼んだのである。
木村は、ゆっくりと元気の方を見た。すると、元気はにっこりと笑って工場の敷地の外を指差した。
その仕草に、木村は何も考えないまま元気が示した方を見た。そして木村目付きが変わった。
木村の視線の先に映ったものは、木村の方を見つめながら立っている榊原の姿だったのである。
その情景を見ていた木村は、何が何だか解らない出来事に、ポカンと口を開いたままだった。そんな木村に、背中を叩いて前に押し出す元気だった。
一歩前に進んだ木村がその衝撃に我に返ると、
“ナ・ン・カ・ゲ・ツ”
と、後ろの元気に気付かれない様に口パクでそう言った。その行動は、榊原の仕事の事を考えての事だった。御客相手の仕事に、他の人には榊原の状態が解らない様にとの、木村の配慮だったのだ。
それを見た榊原は、優しい笑顔で木村を見つめると、腰の所で手の指を三本立てていた。そしてゆっくりと車に乗り込むと、そのまま木村の待つ工場の敷地内に入って来た。
木村の後ろに居た元気は、黙って工場の中に入って行った。二人に気を使っての行動だったのだ。
木村が茫然と立って居る前に、榊原の車が停まった。そして車から降りて来ると、
「私、やっぱりこの仕事を続ける事にしました」
木村は自分の耳を疑った。そして、真剣な眼差しで榊原を見ていた。そんな木村に、再び笑みを浮かべた榊原が小さく頷くと、心の中が一気に明るく晴れ渡った木村だった。
それと同時に、でも身体の方は大丈夫なのか? あまり無理すると危険じゃないか? 唯でさえ車の運転が多いのに、そんな身籠った身体で本当に大丈夫か? といった心配の気持ちもあったのだ。
そして木村は言った。
「大丈夫? もし、何かあったら」
「木村さんからのメールを読んで、思い切って上司に相談してみたんです。そしたら、産休をくれるって言って下さったので、産まれる少し前まで仕事をやって、そこから産後一年くらい休みを頂こうと思って。たしかに仕事の方はキツイと思います。でもその時は、社内の事務的な仕事を手伝えばいいって言われて、それで辞めなくて済む事が出来ました」
「それじゃ、またこれからもここに来て貰えるんですね」
「はい。ただ、今からプクプク肥って丸くなっちゃいますから、木村さんに嫌われちゃうかも」
「はっ。無い、無い、絶対に無いです。それはそれで、可愛い榊原さんじゃないですか。僕は好きだな。うん、どんな榊原さんも好きですよ」
恥ずかしい気持ちも忘れて、木村は必死に訴えていた。そんな木村に、榊原はクスクスと笑い始めた。そして、
「私がこんなに強くなったのは、木村さん、あなたのお蔭です」
木村の顔をじっと見つめながら、強い口調でそう言った榊原だった。その言葉に、さっきまでの木村の不安は何処かへ消えていた。
そしてこの一時を、お互いが気持を確かめ合って、それを大切にしていたのである。
それからも、榊原は木村の所に来る様になっていた。そして、木村はそんな榊原に、毎日メールを送っていた。
そのメールの最後には必ず、
『車の運転には十分に気を付けて、無茶は絶対にしないで下さい。
それと、どんな小さな事でも、何かあれば直ぐにメールを下さい。
何でもしますよ』
という内容の文章を付け加えていた。
榊原も、そんな木村の気持ちがしっかりと伝わっていた。




