継(ついで)
大窓から、爽やかな風が室内で戦ぐ。
日差しは、柔らか。
……湖を滑って室内に入る其れ等は何処か冷たくて何処か清い。
小作りな室内ながら此れぞ応接室と云うに相応しい誂えの室内に、少女と乙女が在している。
ソファに座るのは、少女。
其の真正面に立つのは、銀の乙女。
少女は素晴らしく美しい其の貌に些か疲れを刷き、ぐったりとソファに体を預けている。
「……怖……」
不意に。
ぼそりと、言葉が漏れた。
「……かったあああああああああ……」
息を吐き切る様に言葉を紡いで脱力する少女に、銀の乙女は呆れかえった視線を向ける。
「要らない見栄を張るからですよ。転移しましたからもうあの者達は来れませんけれどね」
云いながら銀の瞳が外を見遣れば、広く大きく澄んだ水を湛えた湖面と其れを囲う深い深い森の姿が映る。
追う様に外を眺め、少女はふうと一息吐くとふわりと微笑んだ。
「今度は人里から離れたのね。後で精霊にお礼しなくちゃ」
最初の家は王国の……新たに王としてたった主役の動向を把握しなくてはいけなかったから。そう云いながら、少女は晴れ晴れとした笑顔で眼前の女性を見上げる。
「でも、これで一安心! あの子は好奇心は旺盛だけど無理矢理とかしない性格だし!
」
「はあ」
幾分信用していない……と云うか明らかに心配と云うか莫迦な孫を見る目と云うか。そんな愛情溢れつつ信用してませんと云う視線に晒され、少女はむっとして見せた後明らかに慌てて何よと声を荒げた。
「私の云う事、まだ信用できないの!?」
「信用はしてませんよ」
銀の乙女はあっさり云うとでもねと軽く肩を竦める。
「貴方の記憶が此の世界の歴史を詳細に書いた書を覚えているとして。其れが確実に此の世界と沿うて居るのかなんて解からない事でしょう」
此の世界、の冒頭二文字にかなりアクセントを置いた物言いは、確実に相手の気勢を殺ぐもの。
「そ、うだけど……!」
ぶうとむくれながらも僅かながら確実な不安を瞳に映す少女の姿に、銀の美女は仕方のないと云う様に苦笑して少女の傍らに歩み寄る。
「だから、私がずっと傍に居ます。姫様一人だと、あっという間に行き倒れそうですからね」
優しい優しい其の言葉に、だが少女はちろりと視線だけ上げて呟く。
「フルウ達が居るわ」
「勿論ですわお母様――――――!!!!!!」
大絶叫と共に窓を打ち破る勢いで入って来た細身の美女は怒涛の勢いで少女の胴に縋りつく。全力で突撃して来たにも拘らず、標準には何一つ致命傷を与えていないところが流石の手腕と云えよう。実害が無ければ、銀の制裁は与えられる事は無い。うふふうふふと心底嬉しそうな含み笑いを零しつつ頻りに顔を擦り付けて来る亜麻色の頭を小さい手が優しげに撫でた。
「よく来たわね、フルウ」
転移に巻き込まれたの?と少女が優しく聞けば、美女はいいえと至極上機嫌な顔を上げた。
「お母様に皆からのお手紙を御届に来たら途中で忌々しい王国騎士の鎧が見えたので其の儘窓の直ぐ傍に控えていました! 男共がお母様に無体を強いろうとするならば即始末する為に!」
えへへ~と無邪気に暗殺狙ってました宣言する己の娘に、少女はそうと頷いて僅かに冷や汗を流す。
「私を守ろうとしてくれたのね? 嬉しいわ。けど、無茶をしてはダメよ?」
其の言葉に美女は瞳をきらきらと輝かせはいと元気に返事をした後再び少女の体に顔を埋めた。うふふとかふへへとかキャーとか漏れ聞こえてくる奇声は、最早無視だ、と少女は決めた。暫くぶりだが決して見忘れた訳じゃない娘の奇行に軽く生温かい視線を与え、少女は仕切り直す様に傍らに立つ綺麗な銀色の目を視線で射抜く。
「一人じゃないわ、私」
其の言葉にそうですそうですとくぐもった声が同意を示す。……声を上げたいが顔は上げたくないと云う事か。盛大に吐かれた呼気の所為で生暖かくなった腹に苦笑を浮かべつつも、小さい手は亜麻色の髪を撫でていた。
「いい年をして子供に縋るのですか?」
まあ無様、とでも云いかねない其の声音に少女はいい年じゃないと言及しながらもぐうと言葉を詰まらせる。刹那、殺気と共に現れたのは、少女の腹の上から僅かに顔を上げ覗き見る一対の目。
「お母様に失礼です」
ぬらり、と光る眼に、銀の美女は呆れた様に肩を竦める。
「本当に。なんで其処まで執心するのでしょう。高々其の身を拾われただけだと云うのに?」
「高々と思うなら思えばいいじゃないですか」
毒を塗付けた刃に酷似する瞳には、感情が無いのに思慕が渦巻く。
「親に、売られたの。両親の前で、使用人も居たのに、裸に剥かれて見分されて。奴が頷いたら喜ばれたの。此れで家が救われるって。何も知らない弟や妹は大層嬉しそうだった。そして、家を出る私に云ったのよ、いってらっしゃいって」
痛ましげに頭を撫でる手に目を細め、だがぬらりとした輝きは無くさずに。フルウは眼前の銀の美貌を睨みつける。
「何も云えなかった。いっそ獣の様に吠えたかった。此の先如何なるかなんて、火を見るより明らかなのに、ほっとした様子を見せた善良な両親と、無邪気に笑う小さな姿。そして、善良な世界から自分で歩いて地獄に行く私」
「偉い子」
ひそりと。
少女の言葉にフルウはくふんと甘える様に鼻を鳴らし、頬を少女の胴へ擦り付ける。
「全てが憎かった私をお母様はすぐに助けて下さいましたもの! 玄関の扉を潜った先で初めてお会いしたお母様の愛らしい姿、フルウ、決して忘れません!」
売られた少女が地獄の扉……伯爵邸の玄関扉を潜った先で初めて見るのは、緑に埋め尽くされた部屋と其の中央で笑う赤ん坊だ。
「緑に囲まれたお母様のお姿はまるで精霊の様で、愛らしい事限りがありません!!!」
きゃー。くふくふくふ。
其の時の様子を思い出したフルウが腹の上でじたばたするのを頬に一筋冷や汗を垂らす美少女が見つめる。
……うん。だって、私が安全確保できる部屋って、私の部屋しかなかったし。精霊に頼んで作って貰った疑似林が其の時の唯一の地下への道だったし……
心の中で渦巻く言い訳は、地味~にはしゃぐ美女には届かない。
「ですから、ですからね! お母様は何も御心配になられる事は無いんです!私が、私達が生涯かけてお仕えしますから!!!」
うふふふふふふ。
無邪気に頬を摺り寄せる姿を鼻で哂い、銀の美女が冷やかに云う。
「冷静に年齢を考えれば貴方達の方が先に死ぬと解かるでしょうに。出来ない約束はしない方が良いですね」
ひやりとした其の声音に、ぬらりと光る瞳が返す。
「私が……私達が死んでも次代が居ますから。先だって逃げた男達が作った隠れ里だってありますから。メイド長がいらっしゃらなくても、必ずお母様はお幸せに生きて戴きますから!」
ぞわり、ぞわりと進行する毒の様な声音に、だが華姫たる美少女は感極まった表情で満面の笑みを浮かべてきゅうと娘の頭を抱き締める。
「なんて優しいの! 私の事なんて気にしなくても大丈夫よ? 貴方達の邪魔になる方が辛いもの!」
刹那抱き締める細い腕に己の掌を重ね、美女は無邪気に笑って縋りついた。
「邪魔なんてありえません!!! お母様が笑って下さるのがフルウの、皆の喜びです!!!」
親子の感動の遣り取りに、美女は呆れた様に吐息して微笑む。
「茶番は其処迄にしましょう。現状考えれば、もう追っては来ないでしょうしね」
云いながら、銀の美女が少女の黒髪を優しく撫でた。
「やっと、一息つけますね。姫様」
ふわりと告げる声に、少女は一瞬瞠目してからそうねと笑う。
「やっとゆっくりできるかしら。生れてからずっと気を張り詰めっぱなしだったし?」
魔法の様に差し出されたティーカップを自然な動作で受取り、少女はほうと嘆息する。
「先が解っている筈なのに、上手くいかない事ばかりだったわ」
少女の動きを阻害しない様に床に崩れ座りその膝に頭を寄せている美女が小さく首を傾げる。
「お母様はとてもとても素晴らしい手腕で皆を助けていましたわ! そして、伯爵家を見事に潰されたではありませんか」
何が問題なのだと不思議そうに云う娘へ、少女は僅かに遠い目をしてそうねえと微笑む。
「賠償がきちんとできなかった事が、何より一番の心残りかしら」
「あの王宮では無理でしょう」
さらりと銀の美女が言葉を挟む。
「それより、あの時は姫様の余りの矛盾振りに合わせるのが精一杯で、逃げる事が最優先でしたからね」
うぐ、と少女が何とも云えない音を喉の奥でたてた。
「矛盾?」
娘の声に、少女は苦笑しつつ咎めるような視線を銀の美女へ向ける。
「あれは……その、仕方がない事だったのよ」
ぶうと剥れる少女へ、だが銀の美女は呆れた様に片眉を上げ、冷やかに睨みつけた。
「……そ、んなに酷かったかしら?」
あらぬ方へ視線を反らし、だがなおも言い逃れようとする少女へ、銀の美女は美しい表情でそれはそれは爽やかに頷く。
「それはもう! メイド達の昇天が始まってしまって慌てたのは解かりますが、あっさりと悪霊だの精霊だの口になさって。騎士達が幾分冷静を欠いていたから無事でしたけれど、本来であれば其の場で手足の腱を切られるくらいの事をされてもおかしくないのですよ?」
あれだけの数の男共を捌けるかと言外に告げられ、少女は意識的に浮かべた優雅な微笑みをむけた。
「其処はほら。気迫で?」
うふふ、と笑って誤魔化そうとする少女へ「ええ、ええ」と美女は微笑んだ。
「お綺麗なお顔に感謝なさって下さいね? 其のお蔭で私が間に合ったのですから」
引きつった笑顔で言葉を失った少女へ、美女は容赦なく畳み込む。
「大体、其の場しのぎにも程がありますよ? お部屋で云っている事と、廊下で歩いている時と。話の整合性が微妙に取れていないんですから! 適当に相槌を打たざる負えない此方の身にもなって下さい」
良く聞けばすぐにばれる様な矛盾だらけだと嘆かれれば少女としても納得がいかない。
「そ、其処まで酷くなかったと思うの! 生まれて意識があって、傍にいた精霊と悪霊に助けて貰ったって云っただけよ?」
「其処に矛盾があるんですよ」
お判りにならない? と凄みのある微笑みを浮かべ、美女は少女へ形の良い指を向ける。
「一つ、最初は恨みを云いに来るぼんやりした存在と云っていたのに次の説明では己を囲んでいたと仰る。最初の言い分では生活の中でばらばらと来ているような口ぶりで、次ではまるで一斉に群がっていたようではありませんか」
そんな揚げ足取りなと声を上げようとした少女を視線で制し、次にと美女は指を立てる。
「悪霊達が貴方に恨み言を云うから手伝わせた、と云ったのに、次の説明では最初から好意的に動いていた様な云い方になって。付け加えるのなら私が貴方の傍に就いた謂れも矛盾だらけですよ?」
ちろり、と眇め見て一言。
「あの説明の中で、私が貴方について葛藤する様な時間が在った様に思えますか」
完全にやり込められ無言で紅茶を啜る少女へ、少女の膝の上で寛いでいた美貌がふわりと無邪気な微笑みを向けた。
「仕方がありませんわ、お母様! あんな無骨な生き物が大挙して来たのですもの! 大丈夫! あれらは頭は良くありませんから!」
無邪気な悪意。
当にそんな言葉が当てはまる慰めに、少女は僅かに動揺しつつもありがとうと穏やかに微笑んで其の頬を撫ぜる。
「……反省してます」
上目遣いに銀の美貌を見上げ、少女が小さく謝罪すると、美女はふふんと笑って魔法の様に真白な磁器の皿の上に可愛らしい焼き菓子を載せて差し出す。
「本当の事を仰ればよろしいのに」
焼き菓子を受け取り、娘に皿ごと渡しつつ、少女は告げられた言葉に眉を上げた。
「私には前世の記憶があって、其処で此の世界の事が描かれた漫画を読んだので未来が解かりますの……と?」
そして、思い切り眉を顰める。
「嫌よ。そんなの、正気じゃないわ」
だが、其れが事実だった。
彼女の中には、記憶がある。
此の世界の事を面白おかしく読んでいた記憶が。
「まあ、其のお蔭で漫画通りの人生にならなかったし可愛い娘も頼りになる息子も沢山出来たし、良かった事ばかりだけど」
「はい! お母様ー!!!」
ぐりんぐりんと顔を擦り付ける娘に些か引きつった笑いを浮かべつつ、少女は綺麗な顔に困ったような表情を浮かべる。
「ですが、貴方の第一声が『嘘! 悪役!? え!? あの莫迦令嬢が私!? いやあああああああああああ!!!!!』だったからこそ、悪霊も精霊も助ける気になったのですけれど」
「ものすっごく笑っていたものね、皆」
少女は遠い目をして首肯した。
「だって、生まれてすぐ大人の意識って云うだけでも辛いのに、冷静に状況把握したら明らかに見覚えのある物語の世界で、其の上立ち位置が王国の腐敗を強調するだけの為に出てきたゲスト悪役の更に咬ませ犬的令嬢って……もう、叫ぶしかないじゃない」
ホント、怖かったわ……。と呟く少女の視線は軽く虚ろだ。
「貴族としての所作も何も、令嬢だった悪霊が居なかったら身につかなかったのよ。私が知ってる華姫は、それはもう酷い我がままで頭空っぽな莫迦令嬢だったんだから」
そして、主役であるところの王子……現王の青年に懸想して、其の体を手に入れようとする色ボケでもあった。
「莫迦令嬢の暴走で伯爵家の悪事が公になって、其処から王子の王宮掃除が始まるって云う嚆矢役なんて、重要だけど誰がやりたいなんて思うの」
少なくとも、私は嫌。そう告げれば、銀の美貌が苦笑を浮かべ、無邪気な笑顔が少女の美貌をまっすぐに見つめる。
「取りあえず、もう、話は確定したわ。私が知っている物語はもうおしまい。此れからは本当にゆっくりできる筈よね」
「そうですね」
ふわりと微笑み、銀の美貌が是と頷く。
「お母様、お手隙でらしたら私の里にいらして下さいませ! 皆でお疲れ様ですパーティーを致しましょう?」
甘えた様な声音に、少女は嬉しいわと笑った。
精霊と意思を通じる事が出来る少女は、どんな所へも一瞬で行ける術を持っている。此の世で起こる不条理な迄に便利な術であるが為に精霊術師は王宮に留まる事を余儀なくされる。……尤も、現在王宮に居る精霊術師が少女に干渉する事は難しいと云える。其の、能力差故に。
「大丈夫です、姫様。最期迄、私がお守りしますから」
私達だってと上がる声を無視して、銀の美貌が剛く微笑む。
血の繋がらない娘を抱き締め、人外の配下を見て。
少女は、うっとりと微笑んだ。花咲く様に、笑った。
王国中興の祖である賢王の御代。
華姫、と呼ばれた伯爵令嬢が居たと云う。
聡明にして公正。
繊細にして苛烈。
悪逆の限りを尽くしたと書かれる書物がある一方、慈悲深く万人に愛された存在だったとも描かれる。
血の繋がりは解からないが、何十人と云う単位の子供が居たとも云われ、遥か古の亡国の女神信仰が民話と入り混じり構築された人物ではないかとの見方もされている。