後変
空が在った。
輝いていた。
風が吹いた。
爽やかな風が。
木々は緑に眩しく、土の香りは万物を育てる其れだった。
男達は、ただただ呆然とした。
するしか、なかった。
なんだ、此の風景は。そう呟いた兵士が居た。愕然と目を瞠る騎士が居た。
其処に、災禍は無く、其処に惨禍は無かった。
遠く近く、人の声が聞こえる。
其処に、苦鳴は無い。
何処迄も何処迄も、其処は平和だった。
「……訊きたい」
騎士団長が、搾り出す様に問う。
「答えられる事なら」
軽やかな声音で少女が返す。
「此処は……何処だ」
「我が伯爵家の地下だけれど」
「「「「「そんな訳あるか!!!!!」」」」」
異口同音に叫ばれた其の言葉には、流石のメイド長も同情の意を示したのか、白刃が振るわれる事は無かった。
だがしかし。
其の抗議を受けた少女は美しい顔に驚きの表情を刷き、次いで酷薄に其の瞳を眇め口唇を開いた。
「まあ、無礼ね」
嘲る様に眉を上げ、口の端に笑みを刻む。
「大体、戦況を正確に把握するのが戦場の常であるでしょうに、目で見た現状が信じられないなんて、無能ではなくて?」
密やかにな侮蔑に塗れた言葉に騎士が兵士が熱り立つ、其の、刹那の前。
「お母様!」
美しい女声が、空を震わせた。
其の声音に、少女は嬉しそうにくるりと振り向くと、大きく腕を広げ声を上げる。
「元気でいて?」
問う声より早く其の広げられた腕に飛び込んできたのは、亜麻色の髪も豊かな妙齢の美女。
ふわりと風を孕む美しく艶やかな髪に相応しい美貌は、何処か異国を思わせる。濃い睫に彩られた明眸は、綺麗な紫だ。伸び伸びとした肢体は、厚手だが可愛らしいチュニックとズボンで適度に覆われている。
「ハイ! ハイ、お母様!!! フルウは元気です!」
うふふ、うふふと少女の小さな胸に只管に頬を擦り付け、フルウと自らを称した美女は寂しかったのですと甘えた様な声音で訴える。
「まあ、相変わらず甘えんぼさんね」
少女も又、何処迄も甘やかな声音で亜麻色の髪を撫でている。
状況が違えば、其れはとても眼福な光景であるのかもしれない。……そう、抱き着いているのが十代前半より幼い少女であり、抱きしめているのが妙齢から老齢の美女であれば。其れは、決して奇異な光景ではない筈だ。――――――だが、しかし――――――現状として、抱き着いているのは妙齢の美女であり、抱きしめているのが僅か十歳の少女である。
異様な、光景と云えよう。
美女がまた非常に肉感的な魅惑の体型なものだから、其の現状に拍車をかけている。
男達が聞くともなしに聞いてしまった二人の話を総合すれば、フルウは此の村の長であるらしかった。
「ところで、お母様? 此の方達はどの様な方なのでしょう?」
ふわり、と微笑みながらフルウが甘えた声音で問う。……だが、男達は……特に、少女に程近い位置にいた騎士達は、見た。フルウの明眸が、ぬらりと輝く毒刃の様な光を宿していた事に。
尤も、そんな事微塵も気が付いていなさそうな少女は、酷く軽やかにあっさりと云った。
「我が伯爵家を捕縛しに来た王国の剣殿よ」
「敵襲――――――!!!!!」
刹那、ばっと少女を背に隠し、美女が鋭く叫びを上げる。
其の声音は、紛れも無い鬨の声だ。
殺気を孕む其れに騎士兵士が一斉に反応し抜刀した刹那――――――彼らに、矢の雨が降り注いだ。
矢の雨は明らかに男達を誘導する様に降り注ぎ、回避をした男達に一切の傷を与えず固めてしまう。抜いた剣が仇になった。振るう事も収める事も出来ない状況に兵士も騎士も……部下にとっさに押し込められてしまった騎士団長すらも警戒する事しか出来ない其の眼前で、槍や弓矢を手にした数十人は居るだろう女性達が歴戦の猛者である男達を完全に抑え込む。
鮮やかと云って良い。
其の滑らかな制圧に、騎士団長は思わず感心してしまった。
「何をしているの、貴方達は!」
だがしかし。
少女は感心どころではなかったらしい。
花の顔に戸惑いと怒りを刷き、少女はフルウの背から一生懸命出ようとしていた。
「お母様、危ないです」
だが、フルウが頑として動かないばかりか周囲の女性達もまた此方へと腕を引く段になり、少女の顔に激しい怒りが刷かれる。敬愛しているのだろう少女の怒気に、僅かに怯えを見せながらもやはり少女を守ろうとする其の時、突然少女の体がふわりと舞い上がった。何時から傍に居たのか、メイド長が其少女をに横抱きに抱き上げる。其の儘何の枷も感じさせぬ滑らかな挙動で宙を駆け、双方の丁度真ん中にふわりと舞い降りた。恭しくメイド長が地面に少女を下ろせば、美しい顔に不機嫌を隠さず少女は双方を見据え、笑う。
「助けに来た筈では、なかったの」
助ける相手に刃を向けるなんて、と言外に吐き捨てられれば攻撃してきたのは何方だと男達が気色ばんだ。……が、少女は全く意に介さず次いで女性達に向かい云い放つ。
「訪れた者に対する態度なのかしら」
其の様に育てた覚えはないわ、と続けられ、女性達……特にフルウは目に見えて狼狽えた。
「だって! だって、お母様!」
妙齢の美女が真珠の様な涙を眦から零しながら必死に言葉を紡ぐ様は、男達の庇護欲を擽り守らねばと思わせるに相応しい姿だ。
だからこそ、伯爵家に捉えられたのだろうな、と騎士団長が冷静に判ずる前で、フルウは必死に言葉を重ねる。
「伯爵家を捉えに来たと云う事は、お母様も捕縛してしまうと云う事でしょう?! 嫌です! そんなの!!!」
「そうです母様! 母様が男達の手になんて!」
「きっと酷い事するわ! 兵士なんて野蛮で頭悪いんだから!」
「お母さんがやな思いする事ないわ!」
「逃げてください! メイド長様と一緒ならお母様を守ってくださいますわ!」
「早く!」
フルウの言葉に周囲の女性達も口々に叫び始めた。其れに加えて弓引きの音さえ聞こえ出す始末だ。
何処迄嫌われてるんだ、俺達は?
些か遠い目になった兵士に罪はないだろう。
「何を云っているの」
だが。
少女は訝しげに眉を顰めた。
「私の事は関係が無いでしょう」
刹那、女性達の顔に絶望が走る。
「お……母、様」
フルウの目から、滝の様な涙があふれ出した。
「「「「捨てないで下さい――――――!!!!」」」」
重なり合う絶叫と共に女性達が少女へ押し寄せる。刹那、メイド長が冷静に少女を抱き上げ、ひょいと跳べば、其の下を女性の一団が通り過ぎ、十重二十重に倒れ伏した。
メイド長がふわりと降りたのは、騎士団長の程近く。
女性の山(比喩的表現ではない)を呆れた様に見つつ、少女はメイド長に抱えられた儘、騎士団長を見遣った。
「取りあえず。此の子達が、私が保護していた被害者よ」
「……随分と元気、だな」
「そうね。万が一此処があの者達にばれた時に生き残れる様に武道の訓練は欠かさなかったし、此の空間を作ったのも精霊だから、力には満ち満ちていたようだし……」
つまりは、相乗効果ね、と何でもない事の様に云い放った少女を騎士団長は眇め見て呟いた。
「精霊が、作った?」
「そう。お願いしたの。……此処を作る経緯は、説明したでしょう」
聞いていなかったのと問われれば、聞いていたと返すしかない。だが、と騎士団長は云った。
「精霊が作ったとは?」
「云った儘の事よ」
何でもない事の様に……何でもない事の様に、少女は云う。
「敷地は広いから。土を圧縮して決して崩れない大きな空間を作って、其処に空気穴を通したの。暗いだけの場所は嫌いだし、火で明かりをとり続けるのも不健康でしょう? だから、空を……昼と夜を作ったのよ。光が当たると輝く鉱石で天井を埋めて、色が変わる透明な鉱石を其の上から貼り付けたの」
空気穴から入る光を乱反射させ、昼と夜を作ったのだと。そう云った少女へ、騎士の一人が戦慄く唇をなんとか湿らせて問う。
「日の光で輝く…………?」
花の顔が是と頷く。
「色が変わる、透明な鉱石……?」
再度、花の顔が是と頷く。……最早、騎士の顔に感情は無かった。如何したと騎士団長が問えば、騎士は明らかな狼狽を目に映し、其の問いに答える。
「察するに、此の天井に使われているのは金剛石と精霊涙です、団長。空の……此の天井の色は、此の深い蒼は、紛れも無く精霊涙の色ですから」
光に当てると自ら発光する上に反射率が高く地上の星と称される希少な宝石と、色を変じる事で有名な……滅多に地上に現れない其れこそ奇跡の様な宝石。
余りに有名な……有名すぎる宝石の名に、周囲が騒めいた。そんな姿に動じもせず、少女はあらと呟いて笑みを浮かべた。
「貴方、騎士の癖に随分詳しいのね」
あっさりとした肯定は、いっそ暴力だ。
「精霊涙は、午前の光には青く、午後の光には赤くなるでしょう? 其の色を金剛石の光で照らせば、こんな見事な空になるのよ」
素敵でしょうと云う少女からは、其の色を変える宝石の為に戦すら起こす現状を見る事は出来ない。
男達の動揺を余所に、少女はあっさりと云い放つ。
「一番光を有効に使える素材だっただけの事だもの」
精霊に、此の避難区を作るにあたっての要望を告げると、こうしてくれたのだと云う姿に、何の気負いもない――――――繁栄している国の国家予算すら凌駕するだろう宝石が、此の場に在ると云うのに。
メイド長が恭しく、少女を下ろす。
白絹のドレスが、ふわりと風に裳裾を揺らす。
黒の巻き毛が、配された真珠が、天井からの……空からの陽光に輝く。
「騎士団長様? 被害者の保護をお願いできるのかしら」
なんだか色々と無駄な回り道ばかりしている気がすると呟きながら、少女が問えば、騎士団長は鷹揚に頷いた。
「王命だ」
「では、宜しくお願い」
少女が笑い、女性達に声をかける。
山を成していた女性達はなんとか人の群れへと戻り……少女を囲んで泣いていた。
お母様、お母様と呼ぶ声に、少女は柔らかに微笑み声をかける。
「貴方達は、ずっと隠れなければならなかったわ。其れは、随分な歪み。でも、貴方達の精神は歪まず、今日まで頑張って来たのだから。此れから外に戻るけれど、如何か健やかに生きて行きなさい」
其の様は、紛れも無く母の様で。
愕然とする男達の傍に、武器を手放した女性達が近寄って来た。
「お世話になります」
頭を下げるのはフルウ。長たるに相応しい優雅さで礼をとる其の姿に、男達は目を奪われた。
「……お前達は、彼女達を連れて王宮へ戻れ」
指示に、腹心だろう騎士が貴方はと問う。
「俺は……」
視線を投げる。
メイド長に守られた、小さな美女を。
騎士団長の視線に、彼女はそっと笑い……ふっと哂った。
「では、皆々様。早々のご退去を」
大半が入り口を潜っていた。
彼女が作り上げたと云う仮想の村に体を入れていたのは、騎士団長と、二人の淑女。
突然の言葉に訝しむ男達の前で、少女は嫣然と微笑んでいた。
「此の場は、土に消えますから」
問う間も、無かった。
反射的に走り出した騎士団長の元居た場所に、どさりと土の塊が落ちてくる。
どさりどさりと土が落ち、粉々に砕かれた宝石だろうか、きらきらとした粉が空間を舞う。
兵士達の怒号。騎士達の叱咤。
入り口に身を滑らせた騎士団長が見る目の前で、降りしきる宝石の粉と降り注ぐ土の塊の先で、少女とメイド長は凛然と立っていた。
宝石が、と叫ぶ兵士を叱る事は出来まい。此の場に居た男共は多かれ少なかれ女達を送り届けた後に此の空間に戻ろうと画策していたのだから。其れは私腹を肥やす為か、其れとも国庫を潤す為か。目的は違えど、手段は同じだ。
美しい村は土に呑まれ、元の姿に戻る。
真っ暗な、土の中へと還る。
ふと見れば、女達は一様に礼を取っていた。
一言も上げず、ただただ敬虔な信者の様に、元村である方を向き、少女へ額づく。
一際大きな音をたて、入り口が塞がれた。
土の、塊。……それはまるで、最初から其処に空間が無かった様な。そんな、景色を作り出す。
入口であった場所を、男達が見上げた。其処に銀のきらめきは無く。最初から……そう、最初から、其処には何もないのだと物言わぬ筈のあらゆる存在がそう叫んでいた。
「さあ、参りましょう。王国の剣様方」
ゆるりと立ち上がったフルウが、静かに促す。玲瓏たる声音に男達が視線を集めれば、其の先に立つフルウは……女達は、毅然とした姿で立ち、微笑んでいた。
「私達は、お母様に生かして戴きました。此の命は、お母様がいらないと云っても、お母様の為に使われるべきものです。王宮の魑魅魍魎の為には、決して使いませんので、如何か、お覚悟を」
少女に向けていた甘やかな感情なぞ全く感じさせない鋼の眼差しに、騎士団長が問う。
「何故、華姫を母と呼ぶのだ」
「あの方が、私達を庇護して下さったからです」
フルウが、云う。
「家族に売られ、国に見捨てられた私達を守って下さったのは、育てて下さったのは、生まれて間もないあの方でした」
「怖くて怖くて泣いてばかりだったのにずっと優しくして下さったわ」
「助けて頂いて、家に帰ったらまた売られそうになった私を此処に連れてきて下さったのもお母様だわ」
「逃げると云えば、心を尽くしてくださった。伯爵家の魔の手以外からも守ると云って下さったのはお母様だけよ」
口々に上る憧憬。
女性達は、心から少女を母と慕っている様だった。
だが、と男達は訝しむ。
「赤ん坊が何を出来るって云うんだよ」
「お母様は、何でもできるのよ」
フルウが云う。まるで一刀両断する様に。
其れ以上の問いを発する事が出来なくなった男達は、其の儘、女達を連れて王宮へと戻った。
数々の悪行を重ねた咎に因り、名門貴族であった古い血筋の伯爵家が途絶えた。
美しく幼い花の姿は処刑場にはなく、人々はきっと王宮で酷く其の花を散らされているのだろうと噂しあう。
いい気味だと笑う者もあれば、小さい子供にと眉を顰める者もあり……だが、伯爵家の断絶は、吉報として王国全土に広まったのだった。
「なんとか、最悪は回避できた様ね」
広い空の下。
何処かの場所で。
そう呟いた美影が在った事を、誰も知らずに。