前篇
或る時、はたと気が付いたのです。
此の世界が、昔読んだ夢物語の世界であると。
そして、己が。
如何しようも無い程に救い様の無い家の娘であると。
伯爵令嬢であるエアテは未だ十歳の幼子だ。
だが、其の美しさは大輪の花の如く、と謳われ、幼さ残る現状ですら、稀代の美姫――――――華姫、と綽名されていた。美しさに比例する賢さも持ち、そして…………冷酷さも併せ持つ少女は、実家である伯爵家の名家でありながら絶える事のない黒い噂と相まって、悪姫とも、囁かれていた。
美しいが傲慢な少女は、性に悪事に奔放であり金に汚く欲に塗れた父母が何処ぞから常に集めてくるメイド見習いと云う名の奴隷達を声高に叱責し苛め遊んでいると専らの評判で、愛らしい彼女の笑みにメイド達の試練を思い憤る者も少なくなかった。
「偽善よね」
さらりと、美しい花の顔が呟く。
此処は、伯爵邸の一室。
豪奢極まりない此の部屋が、僅か十歳の少女の為のみに設えられたのだと知れば、貴族階級の中でも眉を潜める者もいるだろう。
事実。
今、現在。
此の部屋に大挙して押しかけた兵士と、其の先頭に立つ騎士達の視線は決して優しいモノではなかった。
少女から見れば雲霞の如く、と見えるだろう男の群れに、だがしかし、花の顔はなんの感慨も無く……いっそ退屈そうに僅かに目を伏せ、手にしていた紅茶を口にした。
少女は、彼女お気に入りの真白なソファに優雅に腰を下ろしていた。傍らに控えるのは、メイド達。少女達の顔色は一様に悪く、其れこそが此の伯爵家が行っていた悪行の証拠と男達は更に其の顔を険しくしている。
殺気。
まさにそうとしか云えない空気の中、胆力がある人物でも顔色を失うだろう雰囲気に呑まれもせず、彼女は紅茶を味わうと、極自然に其のカップを脇に置く様に手を動かし宙であると云うのに其の手を離した。が、しかし。カップは僅かなタイムラグも無く控えていたメイドの手の中に納まり、其の儘ワゴンに戻される。
流れる様なやり取りはまるで信頼に満ちた主従の其れで。
ある程度の身分がある男達は、其れを見て僅かな疑念を抱くが、大半である一般兵士の今にも襲い掛かりそうな気配を抑えるのに必死で其れを糾弾する事が出来ない。
「何が、偽善か。華姫殿」
先頭に立つ……此の一団の長である騎士が、問う。深い声音には幼子への容赦は感じられず、あくまで対等に誰何する男の声音だった。其の声音は、歴戦の士に相応しい巌の様な威厳に満ち満ちていたが、彼女はちろりと視線を投げ、困った様に微笑んで見せた。
「だって、騎士団長様? 我が伯爵家の悪事は市井の者すら知っている暗黙の真実でしたのに、文句と噂話ばかりで、だあれも此の子達を助けてはくれませんでしたのよ?」
白絹をふんだんに使ったドレスは、美しく広がる釣鐘型のスカートと、デコルテぎりぎりまで覆う上半身部分に分かれている。薄紅色の薄絹で作られた小さな花が胸の中央で咲き、其処から同色のリボンが広がりドレスを飾っている。美しく豊かな黒の巻き毛は結い上げられずそのまま流され、糸でつながれているのか、真珠が波間に揺れる様に飾られていた。
対して、メイド達のお仕着せと云えば。付け襟、付け袖は白。蛍袋を思わせる長いスカートのワンピースは、普通の令嬢の衣服に比べれば、厚手で上部が取り柄の生地で作られていた。色は紺。髪は纏め上げられ、見苦しくない、と云える程度の白布で抑えられている。
明らかに、支配者層である彼女の言葉に、男達……特に、兵士からの殺気が膨れ上がった。
くらり、とメイド達が体を僅かに揺らす。
「控えろ!」
其の様を殺気に充てられたと判断した騎士団長補佐役が背後の兵士達を叱責するのと、少女があらまあと声を上げたのは同時だった。
「貴方達、もう、だめ?」
揶揄する様に少女が問うたのは、メイド達へだ。
男達が訝しげに苛立たしげに少女へ視線を集めれば、其の先で少女とメイド達……其の場には五人程控えていたが、其の全員が、顔色の悪い顔を少女に向け、申し訳なさそうに頷いた。
「此の、人達が、居る間、居たかったの、だ、けど」
「其れは無理よ」
ふふふ、と軽やかに笑い、少女はメイド達へ向けた視線を柔らかに和ませる。
「だって、あの男と女が捕まったと云う事は、貴方達の妄執が解けたと云う事だもの」
でしょう? と問われ、メイド達は一様に……だが、ぎくしゃくと同意を示した。
「でも、心配、なの」
「此の、人達、が、貴方を、いじめたら」
「コイツラ、が、貴方を、害し、た、らど、し、よう?」
「わた、し、ミタいに、なった、ら」
「消えた、ラ、貴方、を、まもれな、い」
メイド達の言葉に、男達がざわりと唸る。此れでは、自分達が悪者ではないかと。
「大丈夫よ? 私、強いもの」
微笑みながら少女が云えば、メイド達はそうねと笑い――――――次の瞬間、土塊となって其の場に蟠った。
うわあ、と野太い悲鳴が上がる。あら、根性の無い、と少女が嘆息する。
「其れでも王家の剣なのかしら? 此の程度で驚くなんて」
「何をした」
眼光鋭い騎士団長の言葉に、少女は全く変わらぬ愛らしい表情で何がかしらと問い返す。
「何故、メイドが土になる」
「元々、土人形だもの」
さらり、と云われて、騎士団長は再度問う。
「あの者達は、伯爵家当主が、借金のかたに連れてきた者達だろう」
「あのね?」
ぱちり、と瞬きして、少女は呆れ果てたような口調で言い放つ。
「見目麗しければ男女の差無く子作りに励もうとする莫迦の傍に、なんで若い子達を置いておけると思うの」
間。
静寂が、満ちた。
何を言うべきか解からない上層部を素っ飛ばし、背後の兵士が此の下法使いめと怒鳴り声を上げると、少女は声高く高らかに笑い声を上げた。
「ならば! 下法使いと云うならば! 私、お前を土塊に変えてもいいのかしら?」
うふふ、と冷たく笑いながらソファから其方を睨めば、兵士達は一転して顔色を悪くして震えだす。
「……では」
そんな空気を全く意に介さず、騎士団長は其の強い視線を少女へ向けた。
「メイドであった者達は、何だ?」
「此の家に殺された悪霊よ」
さらり、と返す言葉に、男達の声なき悲鳴が重なる。
そんな様子に目を眇めつつ、少女は淡々と口を開いた。
「あの莫迦共は、随分と昔からあくどい事をしているのね。私が生まれた直後から、恨み節を云いにくるぼんやりとした存在達がとてもとても沢山いたの。悔しいって。仲間をまだ増やすのかって。だから、云ったの」
何でもない事の様にさらりと、美しい少女が云う。
「じゃあ、手伝いなさいって」
良い考えでしょう、と笑う少女に、男達は答えられない。
「連れて来られた者の身代わりをしてと頼んだの。精霊にお願いして、依代を作ってもらって、其処に入ってって。そうすれば、助けられるでしょ」
そう云って、彼女は男達を見た。
「国が助けないのだもの。助けなかったら、死んじゃうのよ」
幼いが透徹な視線が、声高に叫んでいた。
此の、無能。と。
ぐう、と唸り、騎士団長は其れでも毅然と問いを繰り返す。
「怨霊を、使役したと云う事か」
「手伝ってもらったのよ」
死んだ人間は、稀に意識のみの存在としてこの世に存在する。善き感情、悪しき感情。理由は様々で、善き感情で残った存在は守護と云い、悪しき感情で残った存在は怨霊・悪霊と呼ばれる。其れ等……特に怨霊を使役したり、死体を意のままに操る術師を、此の世界では下法使いと呼び、優秀な術師と認めながらも忌避する向きがあった。……特に、貴族の血で、下法は忌み疎まれる特性だった。
なのに、此の少女は堂々と、己が下法使いであると云うのか。
騎士団長を初めとした男達が驚きを露わにすれば、少女は呆れた様に溜息を吐いて言葉を続ける。
「決断は、相手に任せたの。私は精霊と協力して、そっくりの土人形を作るだけ。でも、此の屋敷にいたぼんやりした人達は、あの子達を見捨てる事が無かったから、皆、隠れる事が出来たし、事によっては逃げる事が出来たの」
大変だったわと笑う。
其の清々しい様子に気後れしつつ、騎士団長はではと再度口を開いた――――――刹那。
けたたましい音と主に壁が破砕され、長身の影が躍り込む。
男共が臨戦態勢をとるより早く、放たれたのは叱責の声。
「おやめ!」
少女特有の高い声が、刃の鋭さで部屋に響いた。
愕然とする兵士騎士の目の前に現れたのは、凛とした黒髪の女性。
「貴方は、大丈夫なの」
「勿論、デス」
声音は固く、口調はぎこちなかったが、動きはあくまで滑らかで、女性は身に纏うメイドのお仕着せに似合わぬ身のこなしで少女の前に堂々と立った。
「ゴ無事、デシタか」
「一寸、寂しかったの」
くすくすと笑い、少女は女性のお仕着せに頬を摺り寄せる。
「皆、還ってしまったから。……もう少し、平気?」
一緒に居てくれる?と問う少女へ、女性は凛とした表情で是と頷いた。
「私ハ、メイド長デス。めいど、の、頂点ニ、アル存在、デス」
いや、メイド長ってそういう存在じゃなかろうよ。
男達の心の声は奇しくも一体化したが、残念ながら、そして賢明な事に、其れが外に出る事は無かった。
「メイド長だものね! そうね! 凄いわ!」
うふふふふ。
嬉しそうにすりすりと頬を寄せる少女の姿に、顔色が悪いが凛とした女性は、嬉しそうに目を和ませ彼女の黒髪をそっと撫でた。
其の時だった。
廊下の奥の方……男達の向こう側で、慌てた様な伝令の声がした。
「大変です! 保護した奴隷がみんな土塊になってます……!!!」
其の声をどこか遠くで聞きながら、騎士団長は少女に向き直った。
「では」
少女へ、云う。
「逃げた者達は、何処にいるのだ」
鋼の声音に、少女は頬を摺り寄せた儘、あどけない声音で云った。
「地下よ」
と。