わんこ男子とチョコと私
バレンタインデー当日の夜、閉店間際のデパートで、私はチョコレートを物色していた。
ゴンドラに詰まれたチョコレートに貼られた「半額」のシールに、頬が緩むのを堪えられない。賞味期限はまだ先だけれど、思いっきり「スイートバレンタインデー(ハート)」なんて書いてある包装紙と、中にいくつか入っているハート型のチョコの所為で、半額にせざるを得ないのだろう。
私はこの日を待っていたのだ。私はにやにやしながら手当たり次第にチョコレートをカゴに放り込んでいく。閉店までもう時間がないから、じっくり選んでいる暇なんてない。
え? こんなに買って誰にあげるのかって? 誰にもあげるわけがない。
このチョコレートはすべて私の物だ。
何を隠そうこの私、宮野彩夏は大のチョコレート好きなのだ。
花よりチョコ。三度の飯よりチョコレート。チョコレートさえあれば私は生きていける。たとえ年齢イコール彼氏いない歴だとしても、私はたくましく生きていける。
大量のチョコを詰めたカゴをどさっとレジカウンターに置く。その瞬間私ははっと我に返って、目の前に立つ店員を見上げた。彼は、お日様みたいな笑顔でにこにこと私を見下ろしていた。
──しまった。
チョコに浮かれ過ぎて、レジ選ぶの忘れてた。
隣の綺麗なお姉さんのレジに行かなかったことを激しく後悔したけれど、今さらレジを移るのもあからさまで感じが悪い。私は諦めてお財布を取り出した。ほんの数分の辛抱だ。
店員の彼がぴ、ぴ、とチョコレートをスキャンしていくのを、私は早く終われ、と祈るように見つめていた。
──私は別にこの男の子と知り合いというわけではない。
ただ、ここでたびたび見かけるだけだ。彼は殆ど毎日ここで働いている。
ポケットにつけられた名札には「山崎」と書いてある。
そこまでのイケメンって訳じゃないけれど、いつもにこにこしていて、愛嬌があって可愛い。なんか年上のお姉さまに可愛がられそうなタイプ。
私が知っているのはそれだけ。
ただ、私は出来ればもう彼には会いたくないと思っていた。
だからこそ、この半年間は一度もこのお店にすら来ないようにしていたというのに。
バレンタインの半額セールに浮かれすぎた。
私はレジに立つ彼と目を合わせないように、現実逃避さながら、このお店に来なくなったきっかけを思い出していた──。
私はバレンタインのフェアがなくても、しばしばデパートにやってきては、箱詰めのチョコレートを大量に買っていた。だって好きなんだもの、しょうがないじゃない。
その日も、大量の箱詰めチョコレートを購入した。うきうきしながらお財布を取り出していたら、チョコを包装していた店員が、急に声を掛けてきた。
「あの、これ、いつも全部一人で食べているんですか?」
声を掛けられたことにぎょっとして、私は顔を上げた。
レジに立っているのは、若い男の子だった。高校生くらいに見えるから、恐らくアルバイトの子だろう。
店員にそんなことを聞かれるとは思わず、唖然として固まっていると、彼はふふっと笑った。
「結構頻繁に来られるから、気になってたんです。でも、これだけの量、一人で食べられるわけないですよね」
変なこと聞いてすみません、と言って彼は笑ったけれど、私はその瞬間一気に顔に熱が集まるのを感じた。
頻繁にチョコを大量買いしていることを、覚えられていたのだということも、一人で食べるわけがないと言われたことも、恥ずかしくて仕方がなかった。
恥ずかしさのあまりカッとなって、私は思わず口走っていた。
「ひ、一人で食べたら、悪いの?」
「え?」
男の子はぽかん、としたように私を見下ろして、それから、ふわりと笑った。何故だかその笑みが、とても嬉しそうに見えた。
「う、ううん。まさか! チョコ、相当お好きなんですね」
その笑顔を見ていたら、彼に悪意は無いということはすぐに分かった。だけど、私はなんだか恥ずかしくてたまらなくて、もうこのお店にはチョコを買いに来られないな、と思った。
お金を払い終えて、チョコの入った紙袋を受け取るとき、男の子は満面の笑みで言った。
「また買いに来て下さいね。──お待ちしてます」
来るかアホ! とは言えなかった。
だってその笑顔があまりにも眩しすぎたのだ。不覚にも、今までむっとしていたことを忘れて、きゅんとしてしまうくらいに。……アホは私か。
とはいえもう二度と行くまいという気持ちは変わらず、私はそれから半年程、この店にはチョコレートを買いに来ないようにしていた。スーパーで安くておいしいチョコを探したり、ネットでお取り寄せしてみたり。最初は、色んなチョコレートを食べ比べるのが楽しかったのに、段々とまたここのチョコが恋しくなってきた。なんせ(今ほど頻繁で無かったとはいえ)、高校生の頃からずっと、ここでチョコを買っていたのだ。
我慢の限界を迎えたのは、折りしもバレンタインの日だった。
バレンタインの夜は、チョコレートが半額になる。
毎年楽しみにしていたそのイベントが気になって仕方が無く、とうとう我慢できなくなった私は、のこのことやって来てしまったのだ。
店員の彼は、にこにこしながらチョコレートをスキャンしていっている。私のこと、覚えているのだろうか。いや、この子のことだからいつでもこんな風ににこにこしているに違いない。半年も我慢したのだから、私のことなんてもう覚えていないはずだ。
そんな期待をしつつ、お財布の口を開けたとき、彼がぽつりと言った。
「もう来てくれないかと思いました」
私はぎょっとして顔を上げた。自分の手元を見下ろしている彼は、少し寂しそうな表情を浮かべていた。
「半年前、あなたに話しかけた後、チーフに怒られたんです。お前にはデリカシーが無いって」
ぴ、ぴ、とチョコをスキャンする音が響く。
「不愉快な気持ちにさせるつもりはなかったんです。もし、いやな思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい」
確かにデリカシーは無かった。嫌な思いもした。恥ずかしかったし、とてもむっとしたことを覚えている。
でも、なんだか耳を垂らした犬のように、しゅんとした表情でそんなことを言われてしまったら、責めることなんてできるはずもなかった。
「別に、気にしてないよ。──最近は、他のお店のチョコにはまってただけだから」
咄嗟にフォローのつもりでそう口にしてから、失敗だったかも、と思う。他のお店のチョコにはまってたとか、なんか嫌味くさいかも。
「ほ、他のって、どこのチョコですか。うちよりもおいしいんですか?」
彼はチョコをスキャンする手を止めて、ちょっとむっとしたように言った。
え、なんでむっとしてるの? っていうか、何その質問。
「そんなこと、答える筋合いないと思うんだけど」
プライドが傷ついたのだろうか? バイトとはいえ、本気でここのチョコを愛しているんだな。思わずそんなことを考えた瞬間。
「す、すみません」
彼はしゅんとしたように謝って、スキャンを再開しだした。
その姿があまりにもしょんぼりして見えるから、怒るに怒れなくなる。いいなあ、可愛い系男子って、それだけで得だなあ。私はそんな馬鹿みたいなことを思った。
ぴ、と最後のスキャンが終わって、彼が金額を口にする。私は代金を支払って、チョコを受け取ろうと手を出した。
だけど、待てど暮らせどチョコが渡されない。
不思議に思って顔を上げる。チョコの沢山入った紙袋の取っ手を握り締めたまま、彼は何故か少し顔を赤らめて、泣きそうな顔で私を見つめていた。
なんだ、この顔。可愛いなあ。頭を撫で撫でしたくなる。って、そうじゃなくて。
「あのー?」
まだ何かあるのか?
「──お、俺、あ、あなたのことが、好きです」
彼は耳まで赤くして、そう言った。
ふうん、そうなんだ。私のこと、好きだったんだ。へー。
…………。
って、はあ!?
「な、ななな、な、なに言って」
びっくりして声が裏返った。
「いつも凄く幸せそうな顔してチョコを選んでるあなたを見て、可愛いなって思ってました。……いつもいっぱいチョコを買うから、誰と食べるんだろうって気になって。彼氏だったらどうしようって、あんな質問しちゃったけど」
え、何、これ。ちょっと待って、理解が追いつかない。
可愛い系男子に可愛いって言われた、いや違う、論点はそこじゃない。
え、待って何これ、駄目だ、わけわかんない。
「あの日は、初めて喋ることができてすっごく嬉しかった。でも、デリカシーがないってチーフに怒られて、あなたが来てくれなくなって。すっごくへこみました」
喋ることが出来て嬉しかったって、私と?
唖然として言葉を紡げない私を圧倒する勢いで、少年は顔を真っ赤にしたまままくし立てる。
「今日、久しぶりに来て下さって凄く嬉しかったんです。幸せそうにチョコレートを見つめるあなたを見ていたら、俺、やっぱりあなたのことが好きだって思いました」
ど、どうしよう。
まるでつられるように、私の顔も熱くなっていくのを感じる。
「バレンタインデーの夜なのに、一人で半額チョコを大量買いしてるってことは、彼氏はいませんよね?」
最後の一言が、ぐさっと心に刺さった。
どうやら、相変わらずデリカシーはないようだ。
「俺と付き合ってくれませんか?」
チョコレートの入った紙袋の取っ手を握ったまま、彼は真っ赤な顔で言った。
「いや、あの、えーと、その、あのね?」
何か言わなきゃ。
そう思うけど、予想外すぎる出来事に、頭が追いついていない。
「えーと……気持ちは嬉しいけど、その、私あなたのこと何も知らないし。あなたも、私のこと知らないよね。私、多分あなたよりも年上だし。しかも、社会人だし」
「山崎祐斗です、十六歳。高校二年生」
ああ、やっぱり高校生だったんだ。
っていうか、十六歳って、十六歳って! まだ子どもじゃん!
「私もう二十歳だから、えーと」
四つも年下。うわあ、駄目だ。犯罪のにおいがする。
青少年保護なんちゃら法でお縄に掛けられてしまう!
「あの、俺頑張っていい大学に行って、きっといいところに就職します! 青田買いして下さい!」
言っていることが意味不明だ。
青田買いして下さいってなんだ。自分で言うな。
呆れた気持ちで見上げた瞳は、捨てられた子犬みたいに潤んでいて。
山崎くん自身も、もう駄目だって、気付いているのかもしれない。悲しげな表情で、じっと私を見つめている。
なんだかいたたまれない。
そんな表情をされると、長女の性だろうか、頭を撫でて「いい子いい子」ってしてあげたくなってしまう。
「青田買い、は、しないけど。……友達、でよかったら」
「え?」
「友達にだったら、なっても、いいよ?」
そう言った瞬間、山崎くんの瞳がぱっと輝いた。
「本当ですか!」
あまりの瞳の輝きように、言葉を間違えただろうかと、なんだか不安になる。
「”友達”だよ?」
付き合う気はない、と念押ししたのに、山崎くんは嬉しそうに笑っている。
「はい!」
なんだこの眩しい笑顔は。
ああくそう、可愛いな。
──そうしてその日、チョコを愛してやまない二十歳の私に、十六歳の友達が出来たのだった。
*
「あやちゃん」
仕事終わり、会社のビルを出たところでそう呼び止められた。耳慣れた声に、びっくりして振り返る。歩道の柵にもたれるようにして、祐斗が立っていた。
「あれ、迎えに来てくれたの?」
びっくりしつつ駆け寄ると、祐斗はにこにこと笑って頷いた。
「今日はバイト早上がりだったから、もしかしたら間に合うかなって思って」
「そっか、ありがと」
祐斗は近寄って来た私の手に自分の手を絡めると、小さく笑ってもう片方の手を持ち上げた。
「帰りに社販でチョコ買っといたよ」
祐斗の手には、チョコの入った紙袋が提げられている。
「うわあ、やったあ! 何、何?」
「冬限定のホワイトチョコと抹茶のシリーズ」
祐斗は得意げに言った。
冬限定のそのシリーズは、毎年販売があるけれど数が限られていて、販売の時期に残業が続くと買えない商品だったりする。
「やった! 私、それ大好き!」
「知ってるよ、毎年買ってたもんね」
ふふ、とおかしそうに笑われて、なんだかちょっぴり恥ずかしくなる。
「楽しみだなあ。帰ったら一緒に食べようね」
にこにこしながら祐斗を見上げたら、祐斗は苦笑いを浮かべて見せた。
「もう、あやちゃんは意地悪だ。……俺がチョコ嫌いだって知ってて、そういうこと言う」
「ごめんごめん、意地悪のつもりじゃなかったんだけど、本当に一人で食べていいのかなって思っちゃって」
そう。実は祐斗は、チョコ──というか、甘いもの全般が苦手だ。
匂いは平気みたいだけれど、食べるのはあまり好きではないらしい。
それなのに、何故デパートのチョコレート売り場でアルバイトなんかしていたのかと聞いたら、本当は友達の代理で一度入っただけだったらしい。「そのときにあやちゃんのことを見かけたんだ。働いていたらもう一度会えるかもって思って」照れたような笑みを浮かべてそう答えた祐斗以上に、私は真っ赤になってしまったのだった。
バレンタインの夜、デパートのレジの前で告白されてからもう四年が経つ。あの日”友達”になったはずの祐斗は、今年の夏、私の”彼氏”になった。
四つも年下なんて犯罪じゃないかと思っていたのに。可愛い、犬みたいな男の子だと思っていたはずなのに。──いつの間にか私も彼を、好きになってしまっていたのだ。
男の子って、変わる。
出会った時には、思わず頭を撫で撫でしてあげたくなるような、年下の可愛い男の子でしかなかったのに。
デリカシーが無くて、ちょっぴり不器用で、お馬鹿さんで。
ぜんっぜん対象外だったのに。
なのに今はこの大きな手にも、私を呼ぶ低い声にも、見下ろしてくる優しい瞳にも、すべてにどきどきさせられる。
祐斗はまだあのチョコレート売り場でアルバイトをしている。本当は大学に入ったら違うバイトをするつもりだったようだけど、「社販もあるし、限定チョコも確実に手に入るから」なーんて理由で、まだアルバイトを続けてくれている。
祐斗はとことん私に甘い。
「じゃあ、晩御飯にハンバーグ作るね。食べていくでしょ?」
チョコのお礼に、と口にしたら、祐斗はぱっと顔を輝かせた。
「やった!」
こういう嬉しいときの可愛い笑顔は、出会った頃と変わらないなあと思う。心が温かくなるようなおひさまみたいな笑顔。こういう可愛い表情を見ると、ちょっとほっとしたりする。
「祐斗はチョコ嫌いだし、バレンタインもハンバーグだね?」
祐斗はきょとん、としたように私を見下ろして、それからふわりと笑った。
「じゃあ俺は、チョコレートケーキでも買って来るね」
「苦いやつ?」
祐斗でも、苦めのビターなら食べられるはずだ。そう思って問い掛けたら、祐斗はううん、と頭を振った。
「とびきり甘いやつにする」
急に立ち止まった祐斗が、身を屈めて唇を重ねてくる。
──こういう不意打ちが、ずるい。
高校一年生のときからずっと、私以外好きになったことなんて無いって言っていたくせに、どこで覚えてきたんだ、こんなの。どきどきして、心臓が口から出そうになる。
唇を離した祐斗は、至近距離でふっと笑った。
「あやちゃん、真っ赤。かわいい」
ああ、くそう。
可愛い、って、言うのは私の方だったのに。ことあるごとに赤くなる祐斗を可愛いってからかっていたのは、私の方だったのに。
いつの間にか、形勢が逆転してしまっている。
「……好きだよ、あやちゃん。大好き」
ううう。
そうやって、とろけるような笑顔で囁くのは、ずるい。
どきどきしすぎて死んじゃうんじゃないかってくらいに、心臓が、自分でも感じるくらいに激しく脈打っている。
「……私も、好き」
ちょっぴり恥ずかしくて、早口でそう返したら、もう一度キスを落とされた。
甘いの苦手なくせに。
祐斗のキスはホワイトチョコよりうんと甘いから、ずるい。