河野しげるの日常-8
僕の妹、河野晴香は、ぬいぐるみマニアである。しかもそんじょそこらの、いわゆる「ぬいぐるみ好き女子」とは次元が違う。集めるぬいぐるみすべてが、とにかく巨大なのである。
例えば今僕の目の前に立ち塞がるキリンのぬいぐるみは、全長で言うと二メートル近くある。素材が綿であることを考えれば自重を支えることなどできるはずはないが、中に支え棒でも入れているらしく、不自然なほどにしっかりと立っている。
「お、お姉さま、動けないのでございますー……」
背後から聞こえてきた切ない声に振り返ると、ぬいぐるみの山から頭だけ突き出た百合の姿が見えた。ただでさえ身長が低い上に手錠付きでは、仕方のないことだろう。というか、よくここまでついてこれたな。
僕は百合との間にあるぬいぐるみを片っ端からどけてスペースをつくり、百合の身体を引っ張り出した。
「……ふう。お姉さま、ありがとうございます。ベッドまでは後どれくらいでしょう?」
「うーん、後半分くらいかな」
「……ま、まだ半分、ですか」
百合は脱力したように、ペタリとフローリングに座り込んだ。
「大丈夫、ここから先はサイズの小さいぬいぐるみが増えてくるだろうから、大分楽になるはずだよ。あ、そうだ、背中のパラシュート降ろしたら? 室内だから、別に外してても問題ないでしょ」
「はい……わかりましたわ」
百合が手錠を着けた手で器用にリュックサックの帯を外すのを横目で見ながら、僕は人間大のぬいぐるみ達を脇へ投げ飛ばして道をつくった。
投げては崩れ、崩れては投げを繰り返すこと数分、ようやく部屋の隅にある妹のベッドまでたどり着いた。
「おーい、晴香。いじけてないで出ておいで。今すぐ出てきたらお姉ちゃんがハグしてあげるよー」
ベッドの上の膨らみに向かって声をかけるが、案の定返事はない。いつもならこの状態から元に戻すのにはかなりの時間がかかるのだが、今の僕には百合という切り札がある。家ではこの通り甘ったれの晴香も、外では品行方正、成績優秀の優等生であるので、家族以外の人間が一人でもいると途端に真面目になるのだ。
「……晴香、お客さん来てるよ」
電光石火とはまさにこのことだろうか。妹……もとい布団の膨らみは、目にも止まらぬ速さでベッドの脇のたんすに近づき、もぞもぞと動きながら青色のジャージを吐き出した。確か先ほどの突進の際に、同じものを着ていた気がする。
用が済んだのか元の場所に戻ってきた膨らみは、唐突に立ち上がり、被っていた布団を投げ飛ばした。
腰に手を当ててこれ以上ないくらいのドヤ顔を披露しながら登場した人物は、まごうことなき僕の妹である河野晴香だった。髪型はサイドをクリップで留めたセミロングで、容姿は年齢と比べてやや幼めな印象だ。身に付けているTシャツとショートパンツは、たった今たんすから取り出したものだろう。
「ふっふっふ、お呼びですかな、お姉ちゃん? して、そのお客とは何処に?」
「……相変わらず、外っ面だけはいいよね、晴香は」
「ふんだ。私の愛の籠ったタックルを避けた人に、何を言われても気にならないもんね」
「そうかい。しかし、その肝心のお客様の前でも、そんな態度を取っていられるのかな?」
「……え? それってどういう――」
僕の顔に浮かぶ笑みを見て察したのか、晴香は焦ったように辺りを見渡し、やがて僕の後ろで身体半分ぬいぐるみにうずくまる百合に目を留めた。その視線に気づいた百合が、ぬいぐるみとの格闘を中断して人懐こい笑顔を妹に向ける。
「こんにちは。姫鶴百合と申します。この度はお姉さまのご厚意に甘えてお邪魔した次第でございます。ご迷惑をお掛けするかもしれませんが、どうか一晩だけご勘弁くださいませ」
「い、いえそんな、迷惑なんてことは――じゃ、ない! ちょっとお姉ちゃん、お客さん呼ぶときは事前に知らせてくれるって約束じゃないの? しかもこんな小さい子を私の部屋に連れてきて、怪我でもしたらどうするのっ!」
待て妹よ、それは偏に自分の趣味を否定しているということじゃなかろうか。というか、僕が百合と会話を交わした時点で、気づいてもいいと思うんだけど。
しかし晴香の怒った顔を見るのは、やっぱり心地がいいな。惜しむらくは半泣きであるところか。ここは一つ姉として責任を持って、止めを刺してやるとしよう。
「お姉ちゃん聞いてるの!」
「はいはい、ちゃんと聞いてるよ。ところで晴香、百合はたった今来たわけじゃなく、僕と一緒にこの家に入って来たんだよね。賢い君なら、この意味わかるよね?」
「…………え? う、嘘! じゃあ私のタックルも……」
「うん、その通り。百合もその時一緒にいたよ」
まるで死刑宣告を受けたかのごとく、晴香の顔からみるみるうちに血の気が引いていった。同時に、はっきりと見てとれるくらい目ん玉がうるみだす。うむ、ここまでくれば後一歩だな。
「いやー、不運だったねえ。晴香がことある毎にお姉ちゃんに抱きついてくる甘ったれで、修学旅行なんかでしばらく会えないだけで大泣きするようなお子ちゃまであることがばれちゃったもんねー。夜中に隙あらば僕の布団に潜り込んだりする寂しがりやさんだもんねー。困った困った」
「…………ふぇ」
晴香の両目から大粒の涙が溢れだし、足元のシーツを濡らした。そのまま力が抜けたかのように、ベッドの上に座り込む。
久々に見る妹の泣き姿に、僕はほんのちょっぴりの罪悪感と沸き上がるような高揚感に包まれていた。やはり妹というものは、泣いている時が一番可愛い。
僕が晴香の泣き顔を存分に堪能していると、ぬいぐるみとの格闘を終えた百合がベッドの上に飛び出してきた。
「ああ、どうか泣かないでくださいませ。すべては我が儘をいってこの家にお邪魔したわたくしがいけないのでございます。ここでのことは誰にも話さないとお約束しますわ。だからご安心なさってください」
「うう……百合ちゃあん」
自分よりも一回り小さい少女に、晴香は躊躇うことなく抱きついた。何だかこの辺りのプライドが曖昧な子である。
「大丈夫、だよ。百合ちゃんは悪くない、から。悪いのは、超ドS変態鬼畜悪魔のお姉ちゃんだから……。百合ちゃんは大事なお客さんだから謝らないで」
我が妹ながら酷いネーミングだな。変態しか合ってないじゃないか。
「というか、百合がお客さんってのは嘘だよ。彼女は誘拐の被害者で、僕が犯人」
「……へ? ゆ、誘拐?」
困惑したように、妹は僕と百合を交互に見つめた。
「うん、誘拐。保護者の目の前でさらってきた。ま、一応合意の上でのことだけど。そうだよね、百合?」
「はい! わたくしがお姉さまに頼んで誘拐してもらったのでございますの! 通りすがりのわたくしを快く誘拐してくださるなんて、本当に親切なお方ですわ」
「え……ええっ! 誘拐? 親切? ……っていうかなんで手錠!」
どうやら色々な情報を色々な情報を一度に伝えられたせいで、錯乱状態に陥ってしまったようだ。もはや泣くことも忘れて、春香は頭を抱えながら考え込んでしまった。
さすがにこのまま放置というわけにはいかないので、僕は春香にこれまでのいきさつを教えることにした。きちんと理解できるようできる限り丁寧に説明したので、すべてを話し終えるのに十数分を要したが、妹の理解力をもってすれば問題はないだろう。理解はしても納得はしないかもしれないが。
話を聞き終えた春香は、何やら難しい顔をして考え込んでしまった。まだ何か、わからない部分があったのだろうか。
「忍者だと思ったら宇宙人だったのですか! やっぱりお姉さまはミステリアスです」
ついでに話を聞いていた百合が頓珍漢な結論に至るが、僕は訂正するのを諦めた。というか、百合はこのままのほうがいい気がする。
「……ねえ、お姉ちゃん。その宇宙人さんは、『日本地区担当』って言ったんだよね。『宇宙人を代表して~』とかじゃなく」
「ん、確かにそういってたはずだよ」
宇宙人にさらわれたのは一昨日のことだから、記憶力に乏しい僕でもさすがに覚えている。
「てことはつまり、他にもさらわれて改造された人が、少なからずいるはずだよね? もしかしたら、日本にも何人かいるかもしれない」
「……な、なるほど。それは思いつかなかったな」
うーむ、さすが我が妹、鋭い洞察である。今まで気にも留めなかった僕が、呑気すぎるとも言えるけれど。
「あれ、というか春香は宇宙人のくだりは信じてくれてるの? この話友久にもしたんだけど、証拠を見せるまで冗談扱いされてたよ」
「……む、お姉ちゃん、私のお姉ちゃんに対する愛を過少評価してますな。嘘かどうかくらい、表情を見ればわかるもん」
「いつもその嘘に騙されてるくせによく言えたものだね……」
「う、うるさいなっ! それに、お姉ちゃんがさっき話してた誘拐のこと、ニュースになってたし。屋根を飛び移る謎の女性っていうタイトルだったから、誘拐だとは思われなかっただろうけど」
うげ、騒ぎにはなると思ってたけど、まさかニュースにまで取り上げられるとは。もう少し慎重に行動すべきだったか。
「でも妹の私ですら、話を聞くまでお姉ちゃんだとわからないくらいちっちゃく映ってたから、たぶん大丈夫じゃないかなあ。まあ念のため、お母さんにも話しておいたほうがいいよね。変な人につけ回されたりしたら困るし」
「え、母さんに話すのか……。確かにいざという時は頼りになるけど、やることが極端だからな。下手したら『俺にもナノマシンをよこせ』とか言いかねないし」
「何か問題なの? 強くなれるんでしょ。お母さん喜ぶよ!」
その喜ぶところが問題なのである。ただでさえ化け物みたいに強い母さんが調子に乗ってはっちゃけたら、人死に沙汰になりかねない。
まあ、いずれにせよバレるのは時間の問題だろうから、僕は夕食の後に改めて話すということで一応の結論をつけた。うまくすれば百合の抱える例の問題も、そこで解決するだろう。
一抹の不安を感じつつも、僕らは夕食までの時間をリビングで過ごすため、ぬいぐるみたちと格闘を始めた。