河野しげるの日常-7
「お、誰かと思ったらしげるじゃないか。なんかここ二、三日でやけに強くなったな、お前。まさか背中越しのカウンターをかわされるとは思わなかったぞ。ちゃんと成長しているようで、お母さん嬉しいナー」
まるで自分のことのように喜ぶ母だが、まさしくその通りで、彼女は自分のために喜んでいる。相手が強ければ強いほど燃えるという、フィクションの世界の強者に有りがちなアレだ。
「……母さんこそ、まさか宙返りで避けるとは思ってもみなかったよ。相変わらず、化け物みたいな運動神経してるね」
というか、一応僕の身長は百六十二センチあるはずなんだけれど。
「お? なに言ってるかはわからんが、その雰囲気からして、俺のことを誉めてるな。礼を言っておくぜ。ありがとな!」
何だろう。別に間違ったことは言ってないのに、イライラするこの感じは。
「ま、なんにせよ、お前の『ルール』は理解したぜ。望み通り、俺からヘッドホンを奪えれば、お前の要求を聞いてやってもいい。ただし、俺がそれを許可するかどうかは別問題だがな」
「分かってるよ。とりあえず話を聞いてもらえるだけで、僕としては大満足さ。てか、母さんにそれ以上を求めるのは無意味だし」
「おう、なんだか知らんが了承の意味で捉えるぞ。いやー、耳が聞こえないってのは不便だなー。読唇術でも覚えようかしらん」
「どうせ覚えても使わないくせに」
「はっはっは。まあそう言うなって。ところでお前、珍しいカッコしてるな。特攻服か? ダメだぞー、もっと女の子らしいカッコしなきゃ。モテないぜ!」
「うるさいな。別に僕がどんな服を着ようと、母さんの知ったことじゃないだろ」
「あ、別に答えなくていいぜ。どうせ聞こえないから」
……もう、殴っていいかな。
「あははっ! そうイラつくなよ。さてと、背後からの奇襲っていうハンデも無くなったことだし、これはもう要らないかな」
そう言って、母は手に持っていた槍を足元に放り出した。これは僕に対する思いやりでも何でもなく、百パーセント彼女自身が楽しむためだ。
いいだろう。この機会に、その強さ故の油断が命取りに成りうることを、僕が証明してあげよう。幸いなことに、今の僕はナノマシンによって超人的な運動能力を手に入れている。いくら母が強いといっても、生身の人間ではさすがに限界がある。まあ、ちょっとずるい気がしなくもないが、今回の勝負はヘッドフォンを取れるか否かなので、やり過ぎなければ問題ないだろう。
いつでも来いと言わんばかりに微笑む母に向かって、僕は再び駆け出した。同じ轍を踏まないように、今度は少し速さを抑えて、想定外の動きにも即座に反応できるよう意識を集中させた。
後一歩で手が届くというところの距離で、母は膝を曲げて跳躍の構えを見せた。そうはいくかと、僕は股を大きく開いて急ブレーキをかけ、あわよくば飛び上がった母からヘッドフォンだけを掠め取ろうと身構える。直後、母の身体が沈みこんだかと思うと、次の瞬間には僕の股の間を黒い影が通り抜けていった。さすがに股抜けは予想外だったが、僕はすぐさま身体を反転させ、追撃を試みた。
疑似筋肉の収縮によって得られた運動エネルギーは、瞬く間に僕の身体を母の元へと運んだ。こちらを振り返って再び方向転換しようとする母の胸元目がけて、必要最低限にまで威力を絞った正拳突きをお見舞いする。
「――うおっとぉ!」
拳は両腕でガードされたが、その衝撃で母の身体はソファーの辺りまで突き飛ばされた。体勢を立て直される前にと、僕は勢いを殺さずそのまま直進した。
手を伸ばし、指がヘッドフォンに触れるか触れないかというところで、僕の腕は母に掴まれた。離れようと身構えた時にはすでに遅く、僕はぐるりと一回転した挙げ句、ソファーに叩きつけられた。柔道の試合なら間違いなく一本を取られていただろう、鮮やかな背負い投げである。
「かっかっか! いやー、大したもんだ。力も速さも俺よりずっと上じゃねえか。お前一体どんな訓練をしたんだ? まあ、しかし、テクニックの方は対して進歩してないみたいだな。そんなんじゃあ、まだまだ俺には勝てないぜ!」
投げられた衝撃で視界がおぼつかない僕を見下ろして、母は一方的な勝利宣言を行った。これは負け惜しみではなく、これ以上やると娘の身体を傷つけ兼ねないという、彼女なりの愛情なのだ。
「さってと。運動して頭も冴えたことだし、そろそろ夕飯でも作るか。今日は一人分余計に作らなきゃならんみたいだしな」
そう言って、母はヘッドフォンを床に投げ出して、キッチンの方に向かって歩き出した。……え、ちょっと待て、何してんだこの人。
「か、母さん! 何でヘッドフォン外してるの? アニメは?」
「……ん? 『猫耳剣士みーこ』のことか? あれは六時半からの放送だから、しげるが帰ってきた頃にはほとんど終わってたぞ。ほら、見ろ」
言われるままにテレビを見ると、ちょうど七時からのニュースが始まったところだった。同時に、僕の全身をたとえようもない虚脱感が襲った。というか、そんないかにもなタイトルのアニメが、こんな時間に放送されている方が驚きである。
「ま、そう落ち込むなよ。意識の八割がテレビに向いていたとはいえ、いい線行ってたぜ」
「いや、そんなことは最初からどうでもいいんだけどね……。それよりも、アニメ見てないなら僕の話を――」
「分かってるよ、百合ちゃんだっけ? 泊めてほしいんだろ。ちょうど部屋も一つ余ってることだし、一晩くらいなら問題ないだろ」
……聞こえてたのかよ。もう嫌だこの人。
「あ、そうだ、後で晴香のやつ呼んできてくれや。たぶんお前に拒絶されたと思って、部屋でいじけてるだろうから」
再び歩き出した母は、そう言い残してキッチンへと入っていった。ちなみに我が家のキッチンは、ダイニングと完全に隔離されている。何でも料理を作っている途中で何を作っているか悟られたくないという母の要望で、新たに壁が増設されたらしい。おまけに、興味を持ったことには全力を注ぐという性質を持つ彼女は、一度料理を始めたら納得のいく味になるまでキッチンから外に出ることはない。今でこそプロ級の美味しさを誇る母の料理だが、新婚当初はあまり褒められたものではなかったらしく、待ち時間も相応に長かったとか。父曰く、酷いときは一週間カップラーメンで過ごしたこともあったらしい。……そこは一応生死を疑っておけよ、父。
僕はソファーから起き上がると、言い付け通り大人しくテーブルで待っていた百合の元へ向かった。
「やあ、待たせたね。どうやら一晩くらいなら泊まってもいいみたいだよ。まあ、とはいえどのみち君を誘拐しっぱなしにしておくわけにはいかないから、これからどうするか考えなきゃ。何かいい案はあるかい?」
僕の質問に、百合は少しの間考えるような素振りを見せ、やがて諦めたように溜め息を一つついた。
「一晩だけで充分ですわ、お姉さま。どうせ彼らから逃げ続けるのは不可能ですし、わたくしの我が儘にお姉さまとお家の方をこれ以上付き合わせるわけにはいけませんもの」
僕を安心させるためか、はたまた自分を誤魔化すためか、百合は満面の笑顔を僕に向けた。鈍い僕でも、無理をしているのが一目で分かる。
仕方がない。少々探りを入れてみるか。
「ねえ、百合。ちょっと質問があるんだけど、いいかな?」
「はい、なんでしょう?」
「君の手首にある手錠、一体何のためにつけてるの? ただのアクセサリーにしては無骨すぎると思うんだけど」
「ああ、これですか? アクセサリーではありませんわ。これはわたくしの行動を縛るためのものですの」
「縛るって……まさかそういうプレ――」
「ぷれ? なんですの、ぷれって?」
「い、いや何でもない、続けてくれ」
「はい……。実はわたくし、高いところに行くと無性に飛び降りたくなるという悪癖がございますの。手錠をかけるのは、行動に制限を加えることによって飛び降りるまでの時間を稼ぐためですわ。今回だって、こんなものがなければもっと簡単に飛び降りられましたのに……」
そう言って、百合は心底恨めしそうに、手首にかかった手錠を見つめた。なるほど、パラシュートを背中に背負っているのは、いつでも飛び降りられるようにするためか。まったく共感できないけれど、一応筋は通っている。
「ふーん、じゃあ百合はスカイダイビングが好きなんだね。まだ小さいのにすごいじゃないか」
「すかいだいびんぐ……? お、お姉さま! わたくしをそんな世俗的な人間と一緒にしないでくださいませ! それにわたくしの年齢でスカイダイビングをするのは無理だと思いますわ」
「そう、ごめん……。それじゃあ飛び降りるのが好きなのかな?」
どっちにしても変わらないような気がするのは気のせいだろうか。
「いいえ、飛び降りるのが好きというよりは、飛び降りずにはいられないと言ったほうが正しいですわ。パラシュートも、万が一のための救命装置という意味しかありません。本当はこんなもの着けたくはないのでございます。わたくしの弱い心では、落下している最中にどうしても使いたくなってしまいますから……」
なんだか聞いているだけで足が竦むような話だな。落ちることを怖がる「高所恐怖症」とは、まさに真逆にある症状だ。
「落ちずにはいられない……か。あ、まさか最上階にやけにこだわってたのも、そのせいかな?」
「はい、お恥ずかしいですが、その通りでございます。やはりどうせ飛び降りるのなら、高いほうがいいですもの! わたくしの夢は、世界一高い場所から飛び降りて、地面に咲く真っ赤な薔薇になることでございますわ」
まさしく薔薇のように真っ赤に染まった頬に手をやって、百合は堪えきれないというようにくねくねと身もだえした。同時に僕の顔面が真っ青に染まったのは、言うまでもないことである。あ、これ絶対夢に出るな。
「そそ……そうなんだ、いつか叶うといいねー。……おおっとぉ! そういえば母さんから妹にかまってやるよう言われてたんだった。夕飯まで時間もあるし、良かったら百合も一緒になだめてくれないかな? あの子一度いじけると機嫌直るまでが長いから困るんだよね」
「あら、そういうことでしたら大歓迎ですわ! 妹さんにきちんとご挨拶もしておきたいですし」
こみ上げてくる悪寒を何とかこらえながら、僕は百合の手を引いて、先ほど鍵をかけたリビングのドアへと向かった。




