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河野しげるの日常-6

 


 そして僕の不安は的中することとなった。

 百合を背中に乗せて民家の屋根伝いに逃亡を試みた僕だったが、さすがに体力が限界に近づいていたので、結局適当なところで徒歩に切り替えて残りは電車で行くことにした。事件が起きたのはその時である。

 いや、僕もまさか頭から吐瀉物としゃぶつをぶっかけられるとは夢にも思わなかった。百合が乗り物に弱いことは道中の彼女の反応で薄々感づいてはいたのだが、歩道に降り立った瞬間にかけられるとはさすがに予想外だった。

 仕方なく、貴重な時間を消費して近くのホテルでシャワーを貸してもらい、昼間に着た特攻服とさらしを身に着け、電車に乗って帰宅した。

 そんなわけで、現在僕たちは東京都世田谷区のとある高層マンションの前に立っていた。地上四十二階建てのその摩天楼の一室が、僕とその家族が住む家である。

「わあ、すごいですわ! わたくしこんなに高い建造物を生で見たのは初めてでございますっ!」

 余程興奮したのか、百合は目をきらきらと輝かせながら跳び跳ねていた。今更だが、あんなに重そうなパラシュートを背負ったままで、よくそんなに動けるものだ。

「そうかい、気に入ってくれたようで何よりだ。ちなみに僕ん家は三十五階だから、景色もそれなりにいいはずだよ」

「三十五階……ですか。最上階ではないんですの?」

 先程までのはしゃぎようはどこへやら、百合は心底残念そうに肩を落とした。

「うーん、最上階は屋上のペントハウス付きだからすごく高いんだよ。一応そこの住人とは知り合いだから、もしかしたら見学させてくれるかもだけど、ほとんど留守だから宛にはならないかな」

「……そうですか。残念ですわ」

 何だかやけに屋上にご執心だけど、そんなに高いところが好きなのだろうか。

「まあ、とりあえずうちに行こうか。女所帯で姦しいかも知れないけれど、少しの間我慢してね」

「いいえ、女性同士の方が気兼ねしなくて助かりますわ。それにお姉さまのご家族なら、良い人たちに決まってますもの」

 ううむ、なんていい子なんだろう。僕がこれくらいの年の頃なんて……うん、やめよう。比べるだけ虚しくなる。

 再びうきうきとはしゃぎだした百合を連れて、僕は無駄に豪華なエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。ちなみにどういうわけか、このマンションのエントランスには小さな噴水が設置されている。僕にしてみればただの浪費にしか思えないのだが、管理人によるとそれを目当てに購入を決める客も少なくないらしい。社会的地位を求めて見栄えをよくするのは極めて非合理的だと思うのだが、それも社会の中で生きていくには必要なことなのだろう。たぶん。

 エレベーターで三十五階まで上がって廊下へ出ると、ホテルと見まがうほどに洗練された内装が、僕たちを出迎えた。床に敷き詰められた絨毯にはシミ一つなく、完璧に整備された空調によって、空気は淀みなく澄み切っていた。

 しばらく廊下を進むと、僕の家である三五〇三号室が見えてきた。鞄から鍵を取り出してドアを開け、百合を引き連れて中へ入る。

「……さてと、百合。ここから先に足を踏み入れる前に、いくつかの注意事項があるんだけど、いいかな?」

「は、はい、なんでしょうかお姉さま」

 草履を脱ぎ捨てて今にもリビングのドアに突進せんとばかりに前傾する百合を、僕は言葉で制した。さすがに何の説明もなしに我が家を訪れるのは、丸腰で戦場へ出向くのと同じくらいの愚挙だ。

「いいかい、まずリビングのドアを開けると人間大の肉の塊が飛び出してくるだろうから、壁際に避難するんだ。奴が廊下を滑走している隙に中へ入って施錠すれば、第一の関門はクリアだ」

「はあ、わかりました。しかしお姉さま、『奴』とはいったい誰のことですの?」

 無論僕の妹を名乗る謎の生命体のことだが、あえて聞かなかったことにして話を続けることにした。どうせ僕が何も言わなくても勝手に自己紹介を始めるようなお人好しだからな。

「――次にリビングへ入ると、八十型液晶テレビでアニメを観て……いや、鑑賞している女性がいるだろうから、何があっても絶対に話しかけちゃだめだよ」

「……わかりましたわ。しかし、どちらもお姉さまの家族の方なのでしょう? そんな失礼な対応をしてよろしいのでございましょうか?」

「うん、大丈夫。むしろ正しい対応だよ」

 というか、まともに対応していてはこちらの身が持たないのである。

 僕は百合を連れて廊下を進み、ドアの前の適切な位置で彼女を待機させた。続いてドアノブに手をかけ、開けると同時に百合とは反対方向の壁に張り付く。

「お姉ちゃんおかえりぃぃぃぃいいいい!」

 間髪入れずに飛び出してきた肉塊は、もちろん目標を捉えることなく宙を舞い、そのままツルツルというシュールな効果音と共に玄関へと向かって突進していった。

 呆然と立ち尽くす百合を引っ張ってリビングに入り、鍵を閉める。ちなみにこのドア、何故か内側から施錠できるようになっているのだが、正直日常生活で使う機会はまずない。まったくもって必要のない代物である。まあ、今回ばかりは役にたってくれたけれど。

「何だか……すごくパワフルなお方ですわね。妹さんですか?」

「うん……一応生物学上では姉妹かな」

「ああ、羨ましいですわ。わたくしも兄弟が欲しかったのでございます」

 今のを見てそれを言えるとは。もしかしてこの子、優しいのを通り越してちょっとばかり抜けてるんじゃなかろうか。

 さて、これで第一の関門を突破したわけだが、問題なのはこの次である。正直言って、妹はあの通り少々変わってはいるものの、我が家の中では一番の常識人だ。故に鬱陶しいと思った時はいくらでもあしらえるし、そもそも先ほどの突進だって、いつもならば正面から受け止めてあげるくらい、僕は妹に甘いのだ。

 しかし、世の中には常識というものが一切通用しないような人間が存在する。それがマイナスの方向へ向かうものならば、まだ対策のしようがある。なぜなら欠点を改善しようともがくことは、それそのものが前向きな発想だからだ。だが我が家に住まう悪鬼には、欠点という名の非常識は存在しない。むしろそのベクトルは限りなくポジティブな方向へと向かっており、ゆえにそれを抑制しようと思ったのなら、止める側の人間が逆のベクトルへと向かう他ないのである。……まあ、簡単に言うと、この家に彼女を止められる人間は一人としていないということだ。

「……よし。じゃあ百合、あっちの奥にあるテーブルに座って少しの間待っててくれ。僕は君を泊めてくれるよう、我が家の(あるじ)に交渉してくるから」

「はい、わかりましたわ。頑張ってください、お姉さま!」

 百合は鼓舞するように拳をぎゅっと握ると、半ば逃げるようにして僕が指定したテーブルに向かった。おそらく、右手の居間から発せられるただならぬ気配を感じとったのだろう。

 その根源である人物、河野燎かわのりょうは、僕の予想通りリビングにある大きなソファーに体育座りをして、テレビの画面を食い入るように見つめていた。頭には、周囲の音を遮断するためにヘッドフォンを着ける熱の入れようだ。怠惰の証しである伸び放題の髪の毛は頭の後ろで一つにまとめられ、ソファーを経由して床にまで到達している。しかも何本ものヘアゴムで段階的に留めることによって、髪が広がらないようにしているという、まさに手抜きの究極とも言うべき髪型だ。

 そして何よりも問題なのは、彼女の隣に立てかけられた長さ二メートル弱の槍である。黒光りする柄には一切の装飾がなく、穂先の刃もまっすぐでシンプルなものだ。確か、素槍すやりというタイプだったと思う。模造品なので実際に刃がついているわけではないが、木製の柄だけでも十分凶器になりうる。

 ここでいまいち状況を把握できていない人のために、我が家の家訓を教えておこう。基本的に放任主義のこの家における唯一のルールは、『俺に意見をしたければ力づくで』だ。『俺』とは言うまでもなく僕の母親である河野燎のことで、『力づく』とは単なる暴力のことではなく、特定のルールに従ってなおかつそれに勝利しろ、という意味である。

 例えば今の状況だと、母に僕の話を聞いてもらうためには、頭についたヘッドフォンを奪い取らなければならないというルールが発生する。なぜなら母は、たとえ身ぶり手振りで訴えようと、目の前で土下座しようと、アニメを観るのをやめないからだ。彼女にとってのヘッドフォンは音を取捨択一するための手段であり、他の音を遮断するという意思表示だからだ。

 僕は全身に張り巡らせた疑似筋肉に加え、新たに視覚情報の処理をナノマシンに補助させるプログラムを組んだ。これにより、動体視力がこれまでの比じゃないくらいに強化されるはずだ。

 疲れきった身体を無理矢理動かし、僕は母のいるソファーに向かって突進を始めた。

 強化された視力によって、僕の視界はスローモーションのようにゆっくりと流れた。体感では十数秒、実際にはそれの五分の一にも満たない時間で、両者の距離を一気に詰める。

 母の間合いに入った瞬間、非の打ち所のないほどに正確な『突き』が、僕の鳩尾(みぞおち)目掛けて飛んできた。今までなら避けようがなかっただろうその攻撃も、強化された僕の目は槍を掴んで突きに至るまでの動きをしっかりと捉えていた。

 身体を左に捻って槍を避け、母の頭に向かって手を伸ばし――――


 僕の右手は空を切った。


 ドスンという着地音に振り替えってみると、そこには槍を抱えて喜色満面の笑みを浮かべる、河野燎の姿があった。

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