平塚志之の日常-3
出掛ける前に、私は念のためにナノマシンを起動して、家の周囲を見渡した。ちなみに私の家は極普通の一軒家で、広さもそれほどではない。居間を基点として全方角を調べてみた結果、十数メートル先に二人分の赤い影を発見した。方角からして、おそらくすぐそこの道路に車でも停めているのだろう。
一応殺人事件の容疑者であるらしいので、その二人が刑事である可能性は否定できない。仕方なく、私はいつも殺人を行う際に着ているカモフラージュ用の衣類に着替えてから出発することにした。服の上下は、サバイバルゲーム用の迷彩服。手には証拠を残さないための革手袋。顔の下半分を覆面用の黒いマスクで覆い、その上から狐のお面をつける。珍妙な格好だが、だからこそ人に見られた時その他の印象が薄れてくれる。
最後に殺人の道具である刃渡り五十センチのブッシュナイフを背中に背負うと、あらかたの準備は完了した。玄関から靴を持ってきて、人影の方向からは死角になる二階の窓へ行き、そこから建物の突起物などを伝って屋根の上まで這い上がる。
まさか屋根の上までは監視していないだろうが、念のために私は人影の様子を確認した。予想通り、すぐそこの道路の脇に、男二人が乗った車が止まっていた。
私はなるべく音を立てないように注意しながら、隣の家の屋根に飛び乗った。後ろを振り返って人影に動きがないことを確認しながら、慎重に距離をとっていく。確実に安全だと言い切れるほど離れてから、道路に飛び降りて移動を続ける。
あらかじめスマートフォンに入力しておいた候補者の位置情報を元に、人目を避けながら慎重に進んでいく。もっとも近い住所は世田谷区で、私の家がある杉並区とは隣同士だ。距離にすれば数キロメートル足らずという近場なので危険ではあるが、むしろ現状ではアリバイが作りやすくなる。そのトリックは至って単純。事件現場と自宅との間を、誰にも見られずに『通常ではありえない速度』で移動すればいいのだ。そして自宅に戻ってすぐに、張り込みをしていると思われる刑事の前に姿を現せば、私のアリバイは完成する。証人は現職の警察官。疑うべくもない証拠である。
赤外線感知によって周囲にいる人間の位置をつかめる私は、物陰に隠れて通行人の視線を避けながら、目的地へ近づいていった。入り組んだ路地をひたすらに移動していくと、やがて交通量のやたらと多い、大きな道路へ突き当たった。東京都道311号環状八号線、通称環八通りと呼ばれる巨大な環状道路だ。首都交通の中心であるこの場所で騒ぎを起こせば、間違いなく同類にも伝わるだろう。
日は完全に落ちていたが、街の明かりによって辺りは光に満ちている。視力を強化された私にとっては、少々眩しいくらいである。おまけに道路は行き交う車の廃棄熱で真っ赤に染まり、中にいる人間をうまく視認できないほど、視界を覆い尽くしている。
私は赤外線の感度を若干押さえつつ、誰をターゲットにしようかと周囲を見渡した。往来の激しい道路とあって、歩行者の姿はあまり見受けられない。
やはりもう少し歩行者の多い場所にしようかと悩んでいる私の耳に、遠くの方から不快な爆音が響いてきた。その瞬間、私は今でき得る最大限のパフォーマンスを思いついた。
車が少なくなった瞬間を見計らって、私は車道の真ん中付近に移動した。歩道を歩く数少ない歩行者の視線が集まるが、気にせずそのまま立ち続ける。やがて爆音は徐々に私の方へ向かって近づいてきて、音の発生源が小さな影として見え始めた。猛スピードでこちらにやってくるその真っ黒いバイクは、改造マフラーによって騒音をまき散らす暴走車だ。社会のルールに従わないという点では、彼らもまた強者と言える。
私の中に例の恐怖が沸き起こり、全身を支配した。ナノマシンをフル稼働して、その瞬間に備える。やがてバイクの運転手の姿がはっきりと捉えられるくらいに距離が縮まり、私は背中から得物である刃渡り五十センチのブッシュナイフを引き抜いた。
バイクが私の横を通り抜ける。まさにその一瞬を狙って、ナイフを水平に振りかざす。腕に凄まじい衝撃が走るが、全身の疑似筋肉をバネのように使ってそれを緩和する。道路の熱による輝きが飾りに思えるくらい大量の血しぶきが辺りに拡散し、私の身体を赤く染めた。
主を失ったバイクが横滑りし、隣の車線へと突っ込んだ。後続車が立て続けにブレーキを踏み、たちまち渋滞が発生する。比較的前方にいた後続車の中から、真っ青になったり悲鳴を上げたりしながら人々が歩道に避難していく。何もできずに震え上がる彼らは、間違いなく私と同類の弱者だ。しかし私の恐怖は、収まる気配がなかった。その源は探すまでもない。なぜなら今この瞬間にも、暴走車の数百メートル後方から追随してきた銀色のバイクが、停止した車の間を滑るように通り抜けてこちらへ突っ込んできているからだ。
音もなく近づいてくるその人物は、タイミングからしておそらく私が切り捨てた男を追っていたのだろう。私は血糊のついたナイフを再び振り上げ、こちらをはね飛ばさんとばかりに突進してくるその影に向かって振りかざした。
私の目論見とは違い、銀色のバイクは驚くほどの反応速度で車体を傾け、ナイフを避けた。普通ならばそのまま横滑りしているところだが、運転手の技量なのかバイク自体の性能がいいのか、タイヤを軸に一回転して姿勢を持ち直した。
半ばドリフト走行のような形で停止したバイクから、全身を黒っぽい服装で固めた男が降りてきた。身長は少なくとも百八十センチ以上はあり、服の上からでもわかる筋肉質な体格をしている。男は臆することなく私を見据え、ヘルメットに手をかけた。
現れたのはツンツンに逆立った金髪と、凛々しくもどこか柔らかい顔立ちをした青年の姿だった。年齢は、私が思っていたよりもだいぶ若い。ただしその瞳に宿るのは、周りで怯えている大人よりもずっと大人びた、強い意思だ。彼は自分のしている行動を、しっかりと認識している。
「……そこに倒れている男は、暴走族だ」
前置きも何もなく、青年は言葉を発した。あるいは、そんなものは必要ないと考えたのかもしれない。
「といってもどこかのグループに所属しているわけじゃない。いつも一人で何かに憑りつかれたように走っていた。そのせいで他の族と揉めたりもしたが、頭の切れる奴で毎回うまく躱してきた。何度か話してみたが、もうそろそろこんなことはやめにしたいとも言っていた」
青年は地面に転がる死体を物憂げに眺めた後、再び私を見つめてきた。まるでお面の下の素顔を、透かして見ようというように。
「もう少し……だったんだよ。もう少しで終わりにしてやれたんだ。普通に人生を楽しめるような、そんな人間にしてやれた。あんたが何でこんなことをしているのかは知らないが、それだけは覚えておいてくれ」
青年の言葉は、私を責めるものでも怒りをただぶつけるようなものでもなかった。彼は私が殺したのが、意思を持った一人の人間であったことを伝えたかったのだ。それはどんな罵倒の言葉より、私の心を揺さぶるものだった。私の恐怖はまだ収まらない。全身を、より広く、より深く浸食していく。
間違いない。この青年は、私が出会った中で一番の強者だ。
青年はヘルメットをバイクの座席に置き、上着を脱いでそれも同じ場所に置いた。白いタンクトップ姿になった彼は、そのまま一歩二歩とこちらに近づいてきた。たった今、超人的な身のこなしで走行中のバイクの運転手を殺して見せたこの私の元に。
「俺の名前は唐薙友久。今からあんたをブッ飛ばして、刑務所に放り込む男の名前だ。一体全体あんたが何と戦っているのかはまったくわからないが、少なくとも今の俺たちは敵同士だ。一応名前を聞いておきたいんだが、いいかな?」
ここで私が本名を言うのはただの愚かな行動だ。唐薙友久という男がどれだけ誠実であったとしても、私には受け入れられない問いかけである。しかしもう一つの名前なら、くれてやってもいいかもしれない。恐怖より生まれたもう一人の私。二重人格ではなく自己の側面として存在するそいつにも、そろそろ呼び名が必要かもしれない。
常に一定の数存在する、自己形成という面での弱者。社会に迎合したいがために自分を捨てる臆病者。まるでしつこく反復される執拗低音のように、凡夫な存在。私には、お似合いの名前だろう。
私は声帯に巣食うナノマシンを起動して、音声の質を変換した。個人的な情報は、なるべく残さない方がいい。
「……オスティナート。ソレガ、私ノ名前ダ」
でてきた声は、よくテレビなどで耳にするような加工された音声だ。機械的で、どこか耳障りな音。
「へえ、オスティナートね。変わった名前だな。その声は、あんたがそいつを殺せたことと何か関係があるのか?」
言いながら、唐薙はすべてを知っているかのような不敵な笑みを浮かべた。やはりこいつは――
「じゃあ始めるぜ。頼むから手を抜かないでくれよ。じゃないとうっかり殺しちまいそうで怖い」
私が結論に至る前に、唐薙は堂々とした宣戦布告を行った。それと同時に、彼の身体から黒く粘着質な液体があふれ出し、全身を包み込んだ。頭部は髪を含めてすべてが黒い膜の中に包み込まれ、一部の隙間もなく密閉された。その異様な姿を例えるのならば、余計な装飾の一切を省いた、戦隊物のヒーローのような感じだろうか。目の前に叩きつけられたこの圧倒的な現実は、私の不安が的中していたことを語っていた。
「オマエモ、同類カ。私ト同ジ、人成ラザル者」
「まあ、俺の場合は成り行きでこうなっちゃったわけだがな。たぶん、似たようなものだ」
先ほどよりも少しくぐもったその声を聞きながら、私はナイフを構えて攻撃に備えた。