平塚志之の日常-1
私は弱い。
およそ人生におけるすべての岐路で、私は大多数の人間が選ぶ安定した道を歩んできた。大人の言うことに逆らわず、病欠以外は休まず学校へ通い、できる限りいい大学へ進み、できる限り業績のある会社に就職して、毎日文句も言わずに朝から晩まで働き続ける。その結果、私は一流企業と呼ばれる会社でそこそこの役職と、それ相応の社会的地位を手に入れた。
少数ながらも気の合う友人がいるし、職場での人間関係も良好だ。恋人がいないのが唯一の難点だが、恋愛の経験がないわけではない。仕事でも私生活でも、おそらくは恵まれている部類に入るのだろう。
だが、それだけだ。
私がしてきた努力は、すべて社会から除け者にされないためのものであり、決して自分のためではあり得ない。社会のルールに従い、社会に尽くし、手の届く範囲での親切を、社会に属する人々に与える。共同体主義と言えば聞こえはいいが、ようするに逃げているだけだ。私は他人と意見が対立することを、極端に恐れている。
日本の競争社会における意見の相違は、相手に破滅的な損害を与える。少数だと見なされた方は淘汰され、勝者もまた、少数になることを恐れて自ずから身を引く。争いはなかったことにされ、再び彼らの日常は動き出す。
私の人生は逃走の歴史である。よくかつての学友に、「お前は勝ち組だ」と言われることがあるが、それは間違いだ。私はそもそも戦ってすらいない。戦っていないのだから負けないことは必然で、だからといって勝っているわけでもない。
私には『個』がない。私は社会のバグである。世間の上澄みである。テストの平均点である。国会の与党である。
ゆえに私は強者を嫌う。
社会の泥にまみれ、痛みを知り、理不尽を知り、それでもなお自分を曲げずに生き続ける彼らを、私は心の底から恐れている。『個』もなく『我』もない私にとって、彼らの歩みは恐怖の旋律だ。
いつ食われるのか。その時私はどうなってしまうのか。私の頭は、そんな不安で溢れかえっている。
私の日常に一筋の光明が差し込んだのは、ちょうど私が人生に疲れきり、何か私自身の殻を破る方法はないかと模索している時だった。
彼らは私に力を与え、制約でそれを縛った。それは想像を絶する力であり、まさに私が求めていた現状打破の鍵であった。
そして今夜も私は、制約という名の救いを得るため、人けのない路地をひた歩いていた。目の前には、ビジネススーツに身を包んだロングヘアーの女性がいて、周囲を気にしながら家路を急いでいた。夜道ということで若干警戒してはいたが、数十メートル置きに設置された頼りない街灯の明かりだけでは、足音を殺して歩く私の姿は捉えられないようだった。
駅前から尾行すること約十五分。そろそろ頃合いだと判断した私は、全身に巣食う極小機械に起動命令を下した。その瞬間、意図的に制御していた私の感覚器官が本来の能力を取戻し、それまでとは比べものにならないほど大量の情報が脳を埋め尽くした。おぼろげにしか見えていなかった周囲の空間が、鮮明に感覚される。
私の目には、常人に見えないものが映る。認識できる光の波長は、紫外線から赤外線まで幅広い。私の耳の可聴域は、常人のそれを遥かに上回る。低周波音から超音波に至るまで、私の耳はすべてを聞き取る。私の皮膚はわずかな空気の流動も感じ取れるし、嗅覚は獣並みだ。
五感を強化された私にとって、夜は至福の時間だ。よけいな光の一切が遮断され、ほのかに照り付ける月の明かりが、景色を繊細に染め上げていく。生き物は艶やかな赤い光を放ち、まるで天空を闊歩するかのごとく、単調な色彩の背景に浮かび上がる。
目に映るもの、耳に聞こえる音、肌に触れる空気、鼻をくすぐる都市の匂い。それらすべてが美しく調和し、さながら壮大な晩餐会を楽しんでいるかのようだった。そしてメインディッシュは、すぐ目の前に置かれている。
家に近づいたことで警戒を弱めたのか、もはや前を歩く女性は後ろを振り返ることすらしなくなった。今が好機だと判断し、私は歩行速度を速めて彼女に近づく。
女性との距離が数メートル以内にまで縮まった時、私は背中に収めていたブッシュナイフを引き抜いた。ブレードの長さは約五十センチ。素人では振るうことさえ容易ではない重量を持つが、ナノマシンによって強靭な肉体を手に入れた私にとっては、果物ナイフと同じ程度にしか感じない。
仕事帰りで疲れているだろうに、女性の足取りは軽やかで生き生きとしていた。遅くまでの残業も、まるで対価のための代償だと、きちんと認識しているかのようだ。選択の上でのリスクを受け入れる。それはまさしく『自由な従属』と言えるもので、彼女が自分より強い生き物であることを如実に物語っていた。
恐怖で足がふらつくのを必死に堪えながら、私はブッシュナイフを両手で握り、頭上に振り上げた。
手を伸ばせば届くほどの近距離に、私は彼女の心臓の脈動と、しっかりとした息づかいを感じた。筋肉の動きを見れば、彼女が次にどんな行動をするのかが服の上からでもはっきりとわかる。ここまで近づけば、もはや逃げられる心配はないだろう。
私は全身の筋肉をバネのように引き絞り、女性の首目掛けて横薙ぎにナイフを振り抜いた。腕に凄まじい衝撃が走るが、一瞬のうちに開放される。
生暖かい鮮血が辺りを染め上げ、私の身体にも降り注いだ。鉄のような臭いが鼻をくすぐるが、幾度かの経験で慣れたせいか吐き気を感じることはなかった。地面には二つに分かれた身体が横たわり、まだ体温が残っている血液で、辺りは火の海のごとく光輝いて見えた。
私より遥かに強いはずの彼女の命は、ナイフの一振りで呆気なく消え去った。だが私の心に浮かんできた感情は、快感でも優越感でも、安堵ですらもなかった。あるのはただ、いっそう増幅した底知れない恐怖のみ。
モット……知リタイ。強者ノ仕組三ヲ。
私は全身を包み込む負の感情を糧にして、動かなくなった身体に向かってナイフを突き立てた。何度も何度も。きちんと壊れていることを確認するために。どんなに強くても、人は死ぬのだと納得するために。血糊で刃が滑るようになっても。服が血まみれになっても。心が折れそうになっても。無我夢中で凶器を振るう。
これは仕方のないことだ。やらなければ私は死ぬ。たった今殺した人間とは比べ物にならないほどの強者によって、私の命は消されてしまうだろう。おそらくそれは、彼らにとって削除ボタンを押す程度の労力だろう。
死を回避するには、与えられた任務をこなす必要がある。私の任務は、『一ヶ月以内に特定の数の人間を殺すこと』だ。弱者である私にとって、自分の命より大切なものは他にない。
私を突き動かす動機は、詰まるところそこにある。彼らに対して『できる限りの情報を手にいれたい』と願ったのも、私自身の安全を確保するためだ。すでに私の全身に構築されている情報ネットワークは、目の前に横たわる人間が死んでいると判定を下している。しかしそれでも、私の恐怖は収まらない。静めるには、とにかく壊すことだ。絶対に起き上がらないように四肢を切断し、背骨を砕く。万が一呼吸をしないように、肺を潰す。血液を送れないように、心臓をえぐり出す。助けを求められないように、喉を引き裂く。すべては私が、生き残るためだ。
しばらくたって十分に破壊しつくしたと判断した私は、乱れた呼吸を整えるためにナイフを下ろした。地面を見やると、まだ綺麗なままの女性の生首が転がっていた。別に忘れていたわけではなく、物事を考える、すなわちその人間の価値観の象徴たる頭部を傷つけることは、私のポリシーに反するからだ。それに頭蓋骨は、固くて刃が通りにくい。
あらかた破壊し終えたことを確認し終えた私は、背後で何かが倒れるような音がしたのに気付いた。振り向くと、サラリーマン風のスーツを着た中年の男性が、真っ青な顔をして地面に座り込んでいた。どうやら夢中になるあまり、接近に気が付かなかったようだ。ちょうどいい、今月は四人も殺さなくてはならなくて困っていたところだ。彼で二人目。残りの二十日足らずでもう二人。私の経験から言って、不可能な数字じゃない。
恐怖のあまり腰が抜けたのか、男性は私が接近しても逃げようともせず座り続けていた。何のことはない。彼もまた、社会に迎合する私の同類なのだ。私はそんな彼の様子を気にも留めず、静かにナイフ構えた。私の中の感情は、恐怖から快楽へと変わる。底の見えない欲望の波が、私の身体を包み込む。はちきれんばかりに暴走するそれを解放するため、私はまだ血の滴るナイフを振りかざし――
「――ちょう。ぶちょー! 平塚部長! 起きてください、お客さんですよ」
耳に響く甲高い女性の声が、私を昼下がりのまどろみから解放した。近ごろ仕事が忙しかったのに加えて、休日にもあれだけ活動したことのツケが回ってきているらしい。目の前のデスクには長時間放置したことによって省エネモードに移行したパソコンがあり、その周りを書類の山が覆い尽くしている。傍らに置かれたマグカップの中のコーヒーは、すでに冷めきっているようだった。
「ちょっと、シノさん。聞いてますか? お客さんですってば」
「……聞こえてるよ。というか、そのシノさんっていうのはやめてくれ。私の名前は『シノブ』だ。何度も言っているだろ」
「えー、いいじゃないですか。なんか女の子みたいでかわいいし」
デスクの前に佇む声の主は、そう言って悪戯っぽく微笑んで見せた。かなり短めなミニスカートに黒のパンストという、見せたいのか隠したいのかよくわからない格好をしたその女性は、私のマネージャーを務める御厨怜だ。