河野しげるの日常-11
晴香が寝ぼけ眼の百合を連れて隣の寝室に避難する間、境神は急ぐことなくゆっくりと廊下を歩いてきた。たぶん、このペントハウスの構造上、外にでるためには今彼がいる廊下を通らなければならないことを知っているのだろう。
僕はその時間を利用して、キッチンの前のダイニングテーブルまで移動した。リビングに出てきた境神が銃を向けてくるのと同時に、テーブルを持ち上げて盾のようにかざす。木が砕ける音と共に弾丸数発分の衝撃が襲ってくるが、貫通はしなかったようだ。そのまま隠れていてもらちが明かないので、僕は持ち上げたテーブルを前方へ向かってぶん投げた。できた死角を利用して、境神との距離を一気に縮める。
僕がテーブルの横に回って攻撃を仕掛けようとした瞬間、小気味よい音と共に木製のテーブルが真っ二つに分かれた。ななめ四十五度というその角度は、日本刀が最も切りやすいと言われる数字だ。分かれた木片の影に隠れようと身を躱すが、途端に日本刀による横薙ぎが僕を襲ってきた。ナノマシンによって強化された視覚を最大限に利用して、これを避ける。僕が回避のために体勢を崩したその隙を、ゴムの弾が容赦なく突いてくる。
腹をかすめる弾丸を肌で感じながら、僕は頭上から振り下ろされようとしている刀を、視界の隅に捉えた。弾を避けるために捻った体では、とてもじゃないが対応しきれそうにない。刀の軌道に合わせて反射的に両腕をクロスさせ、僕は振り下ろされた刀を受け止めた。そのまま下に受け流し、無防備になった境神の胸元を加減しつつ蹴り上げる。衝撃で一メートル近くも浮き上がった境神だったが、驚異の身のこなしで受け身を取り、廊下の入り口まで後退した。
いかに境神の身体能力が高かろうと、ナノマシンを有する僕にとってはそれほどの強敵ではない。ましてや峰打ちでくると宣言している相手に後れをとったら、後で母に殺されても文句は言えない気がする。
胸を押さえて苦しそうにしている境神を見て、僕はチャンスとばかりに突進した。先ほどの衝撃で銃は取り落としてしまったらしく、蹴りを食らわせた辺りの床に転がっているのが横目で確認できた。わずか二歩足らずで瞬く間に間合いを詰めた僕が拳を振り上げたその時、強烈な光が僕の目をくらませた。
直後、空気を引き裂くような音と共に、僕の肩を激痛が襲った。全身の筋肉が強制的に収縮し、そのまま抗うこともできず地面に倒れ伏す。体を動かそうにも、脳からの指令が手足に伝わる気配がまったくない。おそらく、スタンガンか何かで電流を浴びせられたのだろう。
ナノマシンの唯一の欠点は、想定外の過電流を浴びると機能が一時的に停止してしまうという点だ。僕の全身に張り巡らせた疑似筋肉は、電気信号で情報伝達を行っているために、いったんその回路が破壊されると回復するのに少々時間がかかるのだ。といっても、実際は数十秒かからない程度の時間なのだが、今この状況では致命的な損失だ。
まだおぼつかない目で横を見やると、ちょうど境神がポケットから取り出した小瓶の中身で、同じく取り出したハンカチを湿らせているところだった。無理やり起き上がろうと体に力を入れるが、まったく動く気配がない。どうやら陳腐な誘拐劇も、ここまでのようだ。せめて薬の効果が一時間に満たないものであることを、僕は心の中で祈った。もしかすると、今この瞬間が今生の見納めになるかもしれない。……ああ、こんなことになるならば、パソコンに入っている隠しフォルダを全部削除しておくんだった。結構ヤバいやつが入っているから、晴香辺りはショックで気絶してしまうかもしれない。
僕がくだらない妄想をしていると、ルーフバルコニーの方から妹のものとおぼしき悲鳴が聞こえてきた。ついに焼きが回ったかと思い、覚悟を決めて目を瞑った僕の耳に、再び妹の声が届く。
「百合ちゃん、だめ!」
今度は疑いようもなく晴香の声だった。百合という言葉に釣られたのか、境神は僕に薬を嗅がせるのを中断し、血相を変えてルーフバルコニーの方へ駆けていった。何だか嫌な予感がした僕は、徐々に回復しつつある体を無理矢理動かして、芋虫のように這いつくばりながら境神の後を追った。
バルコニーへ続く窓が勢いよく開かれ、続いて境神の叫び声が聞こえてくる。
「お嬢様! パラシュートも着けずにそんなところに……いけません! さあ、早くこちらにおいでなさい。我々と一緒に帰りましょう」
「うるさい、来ないで! そこから一歩でも近づいたら飛び降りますわよ!」
怒号を張り上げる百合の声には、尋常じゃないくらいの冷たい感情が含まれていた。抑圧されていた思いが一気に溢れ出すような、危険だけれどどこか清々しい、そんな感情が。
僕はようやく機能を取り戻し始めたナノマシンを駆使して立ち上がり、バルコニーへ飛び出した。途端に肌寒い外の空気が、僕の体にまとわりつく。ペントハウスの実に四分の一を占めるルーフバルコニーには、持ち主の怠惰のせいで何一つものが置かれていない。隣接するリビングとその隣にある寝室へは、窓を通じて出入りできるようになっている。おそらく、百合はそこから抜け出したのだろう。
リビングの窓から見て右手の方を見やると、数メートル先に呆然と立ち尽くす境神の姿があった。さらにその奥では、今にも泣きそうな顔をした晴香が、地べたにしゃがみこみながら一点を見つめていた。
その視線の先、黒々とした夜空に溶け込むようにして、ルーフバルコニーの柵の上に立つ百合の姿が見えた。黒を基調とした着物を着ているために、刺繍してある紫色の蝶と、白磁のように輝く白い肌が、背後に広がる闇夜の中に浮かんで見える。両手につけられていた手錠は、どうやったのか鎖が引きちぎられていて、それぞれの手からぶら下がっている。
僕が見ていることに気づいたのか、百合はこちらに向かってにこやかに微笑んで見せた。その表情には、死への恐怖心など微塵もないように感じる。
「……お姉さま方、こんな愚かな小娘に付き合ってくださってありがとうございました。わたくしは、真っ赤なお花となりにいきますわ」
百合の、おそらく最後だと思われる口上を聞いて、僕はようやく覚悟を決めた。震える足をぴしゃりと叩き、喝を入れる。
死は避けるものではなく、受け入れるものだ。恐怖は喜び。絶望は快感。苦痛は慈悲。突然の侵入者に戸惑い、悲鳴を上げる僕の心に、新しく手に入れた概念を無理矢理ねじ込む。過度のストレスによって体がむず痒くなるが、それもすぐに収まった。同時に、今までとはまったく違う人間になったかのような爽快感に包まれる。
僕はルールを切り替えた。
ゆっくりと、それこそスローモーションのように百合の体が外へ向かって傾いていくのを見て、僕は疑似筋肉を最大限に利用して走り出した。同じタイミングで走り出した境神を抜き去り、今まさに柵から足を離した百合の元へ全速力で突進する。
柵の上に飛び上がり、その縁に足をかけ、僕は地面に向かってジャンプした。
重力加速度に僕の脚力を加えた速度は、先に身を投げた百合にも容易に追いつくほどのものだった。風に煽られそうになっているその華奢な体をしっかりとつかみ、マンションの出っ張りに一瞬だけ足をかけながら、僕は体を反転させて百合を思いっきり投げ上げた。
ピンポン玉のように弾けとんだ百合の体が、屋上の柵の向こうへと吸い込まれていく。ここからだと確認できないが、たぶん遅れて追いついてきた境神がうまいことキャッチしてくれただろう。
いったん収まった落下速度が、足を離したことで再び加速していく。直後、左手のひらに痒いようなくすぐったいような不思議な感覚が沸き起こった。ちょうど空に向かって両手を掲げるような格好をしていた僕は、すぐさま視線をずらして手のひらを確認した。
『Congratulations』
そこに書かれていたのは、シンプルな祝いの言葉だった。初めて仕事をこなしたことに対する気遣いなのか、それとも毎回そのような文字がでる仕様になっているのか。何にせよ、今の僕には皮肉にしかならない。
条件をクリアしたということは、残っていた悪い事を消化したということで、それはすなわち自分のルールを破ったという意味に他ならない。僕は『命を大事にする』という、半ば絶対とも言える原則を、百合のルールを取り入れることで外側からぶち壊したのだ。
あるのはただ、欲望のみ。僕の全身は高揚感に打ち震え、コンマ一秒毎に近づいてくる死に対する期待と恐怖で、心は引き裂かれそうになっていた。この二つの相反する感情こそ、百合が抱えていたパラドックスであり、ブレーキでもあったのだ。そしてバランスはすでに傾き、僕は死に向かって垂直降下していた。
ナノマシンの機能を停止させ、全身の力を抜く。自身の死を完全に受け入れ、いっそのこと目も瞑ろうかと模索していたその時、周囲の空間が唐突に歪み始めた。光がねじまがり、万華鏡のように乱反射し、やがて完全に途切れる。
何もない本当の意味での真っ暗闇に包まれること数秒、再び僕の周りに光が入り乱れ、一つの景色を構築していった。
目の前には、真っ青な顔で僕にしがみつく百合の姿があり、数メートル先に涙で顔をぐしゃぐしゃにした晴香と、混乱したように顔をしかめる境神が立っていた。わざわざ周囲を確認するまでもなく、そこは間違いなく僕が身を投げたはずの屋上だった。
「お、お姉さま……?」
震える声で呟く百合の表情は、何が起こったのかいまいち理解できていない風に見えた。……え、ということは無自覚の覚醒だったのか。案外僕も、危ない橋を渡ってたんだな。
とりあえず命が助かったことに安堵する僕の元へ、晴香が鼻をぐずぐずとすすりながら駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん! なんで飛び降りたりなんか……! ていうかどうして消えたり現れたりできるの? なんで!」
よっぽど困惑したのか、晴香は目をうるうるさせながら僕を揺すってきた。一日に二回も妹の泣き顔を見られるなんて今日は運がいいな、などと不謹慎なことを思いつつ、僕は半ば得意気に説明を始めた。
「うん、それについて何だけど、実は百合に飲ませたナノマシンには、空間操作能力がインプットされていてね。自分や親しい人が命の危険にさらされた時、自動でワープして安全な場所に避難する機能がついているのさ。まあ人体で蓄えられるエネルギーじゃ、せいぜい往復分くらいしか賄えないんだけどね」
「え……ナノマシンってそんなにすごいことができるの?」
「範囲は限られてるけどね」
「ほへー……」
晴香は可愛らしく口をぽかんと開けながら、納得した様子で何度か頷いて見せた。何だかんだで、扱いやすい妹である。
「……ちょっと、待ってくださいませ。それはつまり、お姉さまが身代わりにならなくてもわたくしは助かっていたということですか?」
珍しく眉を吊り上げて怒りの感情をあらわにしながら、百合が鋭い突っ込みを入れてきた。僕はちょっぴり呆れつつも、百合の目を見つめ返した。
「ああ、そうだね。でも百合、その力は君が心の底から助けたいと思った人にしか発動しないんだ。つまり君は、僕が自発的に飛び降りたにも関わらず、それを助けたいと思ったわけだ。違うかな?」
「そ、それは……当たり前のことでございますわ! わたくしなんかのために、お姉さまが命をかける必要なんて――」
自分の主張が持つ矛盾に気がついたのか、百合は悔しそうに唇を噛んで黙ってしまった。ちょっと可哀想になってきたけれど、僕はそのまま言葉を続けた。
「百合は自分の命を助けてくれる人は否定するのに、自分は人を助けるってことだね? それが例え、本人の意思であっても。これじゃあずいぶんと独りよがりのルールじゃないかな?」
「う……。それはっ! お姉さまは最初から助かると分かって――むぐっ!」
まだ言い訳を続けようとする百合の口をむんずと掴んだ。それでも反論しようともがく百合に、最後のだめ押しをする。
「いいかい、百合が死ぬことで悲しむ人が、少なくともここに三人いるんだ。百合が僕たちを大切に思ってくれてるのなら、そんなことはしないで欲しいな」
僕の言葉を聞いてか聞かずか、百合は恐る恐る後ろを振り返り、二つの視線を受け止めた。そこには下手くそな笑みを張り付けた晴香と、拳を握りしめ、おそらく何度となく口を挟みかけて我慢したであろう境神が立っていた。百合の涙腺が決壊するのに、それ以上の言葉はいらなかった。
空を見上げると、都会の明かりにも負けずに輝く幾つかの星が見えた。頑固で一途なそれらの光は、頑なに自分というものを守ろうとする僕たちに似ている気がした。
他人の価値観を認めなさい。でもそれ以上に、自分の価値観を大切にしなさい。
母に言われたこの言葉を、僕たち姉妹は頑なに遵守してきた。それはたぶん、僕たちが生きていく中で唯一変わらないことなのだろう。僕の胸で泣きじゃくる女の子と、どさくさに紛れて抱きついてきた妹を見て、僕はふとそう思った。
明日もまた、良い一日になりますように。
ふう、ようやく一区切りであります。ここからは様々なキャラの視点で書いていく予定です。あくまで予定です。途中で投げ出す可能性もなきにしもあらずなのでお気をつけをヽ(´∀`;)オイ