河野しげるの日常-10
僕はまず、一人で残すと一番危険そうな百合から運ぶことにした。彼女がガラスの柵を越えられるとは思わなかったが、念には念を入れたほうがいいだろう。繋いでいた手を一旦離してもらい、僕は百合の身体を持ち上げた。疑似筋肉を起動させ、膝を曲げて力を溜めてから一気に跳躍する。
勢い余って転げ落ちそうになったところをなんとか堪え、僕は塀の向こうの庭に降り立った。庭といっても、反対側にルーフバルコニーがある関係でスペースが限られ、それほどの広さはない。横長に伸びた芝生の中程には、一軒家のような玄関があり、そこから出入りできるようになっている。聞いた話によると、元々ここには塀などなく、霧谷さんが入居後に管理人の許可を得てリフォームしたものらしい。
僕は百合をその場に降ろし、再び塀の上に飛び上がって晴香を迎えに行く。百合よりも若干重いその身体も、バイクを投げ飛ばした僕にとってはたいした違いにはならず、数秒後には三人揃って芝生の上に立っていた。
「さて、一応侵入には成功したわけだけど、どうやって中に入る? 窓を壊そうか」
「ふっふっふ……。その必要はありませんぜ、お姉ちゃん」
やけに得意気な笑みを浮かべながら、晴香はショートパンツの後ろポケットから鍵を取り出して、僕の目の前に掲げて見せた。
「ジャジャーン! 合鍵でーす。これがあればすぐに入れるよ」
「……うん、すぐに入れるのはいいんだけどさ、何で晴香がそんなものを持ってるんだ? 僕は貰ったことがないぞ」
「えっとね、お姉ちゃんに持たせたら家に侵入して悪戯するから嫌だって、霧谷さんがいってたよ」
あの野郎、いい度胸をしているな。望み通り、たっぷりといたぶってあげよう。
晴香が鍵を開けるのに続いて、僕たちはペントハウスの中に入った。ペントハウスといっても、持ち主が装飾にこだわらない性格なこともあって、見た目はごく普通のマンションの一室といった感じだ。入ってすぐ二手に分かれる廊下を左に進むと、ルーフバルコニーに隣接するリビング兼ダイニングルームが現れた。キッチンには、おそらく唯一の趣味であろうワインの空ボトルが所狭しと飾られていた。別に空のボトルを集めるのが趣味なのではなく、飲む方が主らしいのだが、最上階だとゴミ捨てが面倒なのでとっておくことにしたとか何とか。そのくせ僕が触ろうとすると怒るんだよな。かわいそうだから、後でまとめて捨てておいてあげよう。
「わあー、すごいですわね。何だか秘密基地にきたみたいです!」
部屋の様子を見た百合が、嬉しそうに跳び跳ねている。その視線の先には、リビングの床に雑多に積まれた、室内用玩具の数々があった。テレピゲーム用のガンコントローラーに始まり、ボードゲーム、ラジコン、さらにはプラモデルに至るまで、非常に幅広い種類の玩具が軒を連ねている。
無論、これらの品は僕たち姉妹がこの家に遊びにくる度に持ち込んだり無理矢理買わせたりしたもので、今ではほとんど物置代わりになっている。
普段あれだけお行儀の良くても、やはり子どもは子どもだったらしく、百合は晴香の手を引いてあっちこっち動き回っていた。昼間の逃避行で疲れきっていた僕は、とてもじゃないが付き合っていられなかったので、僕は晴香に断ってから仮眠をとるためベッドルームへ向かった。ほとんど使われていない新品同様のシーツに身を委ねた途端、強烈な睡魔が襲ってきた。抵抗する間もなく、僕の意識は深い闇の中へと落ちていった。
仮眠から目覚めてすぐ、僕は時間を確認するためにリビングへ戻った。壁に掛けられた時計を確認すると、時刻はすでに十時を回っていた。リビングのソファーでは、遊び疲れたのか晴香と百合が身を寄せあって眠っていた。落書きしてやりたい気持ちを押さえつつ、僕はベッドルームから毛布を持ってきて、二人にかけてやった。
さて、タイムリミットまで後二時間を切ったわけだけれど、僕には一向に焦る気持ちが沸いてこなかった。ノルマを達成出来なければ死ぬというルールに、あまり実感が伴わないというのもあるのだが、基本的に何があっても日常の延長として捉えてしまうという妙な悪癖が一番の原因であることは間違いない。
というか、そもそも日常というのは今生きているこの瞬間のことである、というのが僕の持論だ。例えば戦時中は戦争をすることが日常になっているわけだけれど、今の僕たちが戦争をするとなると、途端にそれは非日常の世界に感じられると思う。要するに、日々の生活に大きな変化があったときに人々は非日常を感じるということだろう。けれど、それだと完全なダブルスタンダードだ。なぜなら人生には一日として同じ日は存在せず、変化の度合いや対象の違いで定義を変えるのはナンセンスだし分かりにくい。ならばいっそのこと今その瞬間を日常だと解釈し、非日常はフィクションだと割り切ってしまえばいい。
というのが僕の考えだが、おそらくこれは大多数の共感を呼ぶようなものではないだろう。それでいいと、僕も思う。僕だけの『ルール』を、他人に押しつける気は更々ない。
前置きが長くなったが、ようするに僕はすでに宇宙人から与えられた任務を日常として受け入れている、ということだろう。だがそれは、生死がかかった問題をふとしたきっかけで忘れてしまいかねないということでもある。とりあえず覚えているうちに解決しておこうと、僕は霧谷さんが大事にしているワインの瓶を処分するため、キッチンへ向かった。ゴミ箱の近くからポリ袋を入手し、キッチンの台の上に並べられたワインの瓶を、割れないよう丁寧に詰めていく。
すべての瓶を詰め終わると、僕は廊下を通って玄関までいき、そのまま左に曲がってもう一方の廊下を進んでいった。このペントハウスは、下にある最上階の部屋と直通エレベーターで繋がっている。わざわざ塀を越えて戻るのも億劫なので、僕は廊下の端にあるそのエレベーターを使うことに決めた。
廊下の端に到達し、エレベーターの降下ボタンを押そうとすると、ちょうど階数表示が最上階の四十五階から屋上を示すRに変わったところだった。チン、という軽快な音と共に、扉が左右に開いていく。
「やあ、また会ったねお嬢さん。……いや、河野しげるさんと呼んだ方がいいかな?」
そこに立っていた人物は、僕が瞬時に思い立った母でも、家の持ち主である霧谷さんでもなかった。
フォーマルな黒いスーツに、これでもかというくらい整えられた頭髪。知的な印象を与える細く切れ長な目には、見ているだけで焦げ付くような怒りの感情が表れていた。
「ええっと……境神さんでしたっけ? 百合の保護者の。ど、どうして……こちらに?」
ある意味予想通りだったけど、まさかこんなタイミングで来るとは思わなかった。百合から凄腕と聞かされていたわりには、ずいぶん遅い到着だな。
「言わなくても分かっているだろう。百合お嬢様を迎えに来たのだよ。準備をするのに何かと手間取ったが、これでようやくお嬢様をお助けできる」
境神は肩にかけていた筒のような入れ物から日本刀を取り出して、僕の目の前で抜刀して見せた。室内の明かりに照らされて白く光るその刀身を見る限り、まず間違いなく本物だろう。母のせいで武器の類は見慣れているとはいえ、さすがにこの状況は洒落にならない。というか、誘拐犯から人質を救出するのに、普通刀を使うか?
「安心したまえ。峰打ちで勘弁しておいてやる。ただし君の超人的な運動能力はこの目で見て知っているから、それ以上の手加減はできないがな」
まったく安心できない言葉を放って、境神は僕に切りかかってきた。とっさに持っていたゴミ袋で防ごうとするが、衝撃で袋もろとも後ろに突き飛ばされた。砕けたワインの瓶の下敷きにはなるまいと、倒れる寸前に何とか袋を放り出す。
「……おや、この程度なら避けられると思ったのだが。まあいい、どのみちあの脚力で不意討ちでもされたら一溜まりもないからな。失礼して、意識を奪わせてもらう」
刀を中段で構えて今にも足を踏み込もうとしている境神を見て、僕はすぐさまナノマシンを起動した。床を思いっきり蹴飛ばして、境神との距離をとる。一足飛びで玄関まで到達した僕は、そのまま方向転換してリビングへ向かって全速力で走り出した。検討違いの方向へいって撹乱する手もあるが、彼の物言いからして百合の居場所はだいたい割れていると見なしてもいいだろう。それならば、僕が百合を背負って逃げるのが一番確実だ。
リビングに入ると、物音で起きたのか晴香が目を擦りながら呑気に話しかけてきた。
「んー、お姉ちゃんどうしたの?」
「晴香、すぐに百合を連れて逃げ――」
ろ、と言おうとした瞬間、僕の左肩付近を激痛が襲った。衝撃で前につんのめりそうになりながらも何とか後ろを振り返ると、廊下の曲がり角でこちらに向かって拳銃を構える境神の姿があった。
「姫鶴グループが開発した暴徒鎮圧用のゴム弾拳銃だ。至近距離で撃っても殺傷能力は低い」
淡々と説明する境神だが、左肩を襲う痛みからして、低いというだけで死ぬこともあるのだろう。
「お、お姉ちゃん、大丈夫? ていうかあの人誰?」
「……百合の保護者」
「え! じゃあ誘拐って本当だったんだ……。やばいじゃん、どうするの!」
「うん、晴香はとりあえず百合を連れて下がっててくれ。僕があの人と戦うから、隙を見て母さんのところまでいくんだ」
「らじゃー!」
晴香は真剣な顔で敬礼すると、すぐさま百合を起こしにかかった。こういうときはやけにノリノリになるんだよな、この子。




