音楽室の仕掛け
我が杯戸呂喞筒校には、幾つかの噂や言い伝えがある。300年位昔にここで合戦があって武者の幽霊が現れるとか、兎が食中毒を起こしたとかで、兎を飼うと祟られるとか。嘘かマコトか判らない話が、結構存在している。
私は紺野真純、中学一年生。夏休み、吹奏楽部の合同練習で、高等部の校舎へ場所を移ることになった。練習は午前と午後、どちらかを選べるのだけれど、朝起きの苦手な私は午後の部を選ぶ。
小学校を卒業する前に始めたピアノ、何とか今でも続けている。「譜面が読めなくても楽器は弾けます! 超技巧天才世界NO.1のジャズピアニストのオスカーピーターソンは譜面が読めないそうです! しかし我々凡人は読めた方が何かと便利です! さあ読めるように練習しましょう! そうしましょう!」と謳われて習い事ないし部活にまで入ったわけなんだけど。天才だか何だか知らないけれど、ピーターソンさんに失礼なんだかどうだか解らないけれど、私はピアノにこれからの青春をかけることにした。
譜面は、簡単な位なら、読めるし弾けるかもっていうレベル。歌いながら弾けるなんて上級はまだ程遠い。
高等部の校舎の3階、カタカナの『コ』の字に似た校舎の、端っこに音楽室はある。クーラーの無い室内は、窓を開けなきゃ死ぬ程暑い。窓を全開にして、入ってくる風を有り難いと感じながらの合同練習。私の与えられたパートは、実はフルート。あれ、ピアノじゃないのと言われそうだけれど、ある日中学の先輩が「紺野さん紺野さん」「はい?」「明日からフルートよろしくね、はいこれ譜面」「ふめ?」「じゃあねばいちゃ~☆」と、まるで明日が誕生日のような軽いノリで、何枚かになる紙を渡された。
それは、今度に開催される県の発表会での曲目。「何ですと」一番上の紙に発表会の予定が書いてあり、曲目等の予定も記載されており、紙をめくると「フルート」と頭に赤字で書かれた譜面が目に飛び込んできた。もうおわかり、先輩は私にフルートを吹けというのだ。「いー」勘違いしないでほしいけれど、これは我が杯戸呂喞筒校に以前からあるシキタリである。先輩の言うことやることが絶対君主主義。先輩に巻かれろ。抱けと言われたら抱け。嫌な慣例。
ああ蒸し暑い。中等部の方が涼しかった気さえしてくる。
「本日の練習は、ここまでー」
「解散ー」
指揮にあたっていた先輩が、声を全員にかける。皆、文句は言わないけれど全然と音が揃わなかったし風は弱くて暑いし、散々だったなかでのその鶴のひと声に、何もかもが救われた思いだ。あー、やっと終わった。無理やりに与えられたパート。始めてから数日経つのに、進歩の兆しがまだ闇の中。
「早く片づけて帰ろ、真純。用事があるんだ」
「さっちゃん、なら先に帰ってよ。私下手だから、もう少し練習して帰る」
「えー、頑張っちゃうの。明日もあるのにィ」
「だって今日、先輩に睨まれちゃったもの。発表まで日もないしさ。せめて最後までトチらずに吹けないとさァ……」
肩を竦めて落ち込みつつも無理に笑顔をつくった。正直、足手まといになるのは御免だ。例えいきなり与えられた無理難題でも。「私ピアノなんですけど」って言い返さなかった私も悪いと、ここでも無理やり思うことにしている。なーに、練習すれば何とかなる! ……きっと、たぶん。
「そお。じゃ、先帰るから。無理しないでねー」
「うん。ありがと」
友達は手を振って、自分の使っていたフルートを片手に、音楽室を去って行った。流れるようにして他の人も、去って行く。
やがて先輩も行ってしまって、私はひとりきりになった。おかげで気楽に練習ができる。「ふう……」孤独な練習は、夕方の、陽が遠くの山にさしかかる頃になるまで続けた。
何とかなる程度にまで吹けるようになったかな、と僅かな手ごたえを感じた所で、練習を本日はここまでとした。私だけだったけれど。
「さ、帰ろうかな」
私は、フルートを片づけに音楽室の隣にある準備室に行った。鍵のかかった戸棚にしまうと、ふと、隣の戸棚に目が入った。「ん?」おかしい、と思ったのは、その棚の鍵だった。不用心にも、棚に鍵がつけっ放し。先輩が忘れて帰ったのかなと思った。「確か……」そこでひとつ思い出す。我が杯戸呂喞筒校のシキタリを。「先輩の顔をたてよ」を。「うーん」と私は唸った。他にも、「先輩第一」や「先輩とすっぽん」等を思い出した。「ううーん」私はまた唸った。安全でも月すっぽんでも何でもいい、どうしようか。因みに、諺のすっぽんは『朱盆』が訛っただけのもので、すっぽんは実は全く関係がない。すっぽんに迷惑。
とりあえず、鍵を一緒に職員室に返しておこうかな。私はそう考えて、鍵を掛けて抜こうとした。それがだ。
鍵が壊れているのか、掛けても抜けない。「えー」と私は棚に抗議した。鍵を捻ると戸は開く、それは解る。「どうしたもんか」私はひとり言を言った。すると。
よく見たら、戸棚に入っていたのは、紙の束。それだけだった。私は何だこれと、束を手に取って確かめる。タイトルの無い譜面だった、どうやら全部が譜面みたいだ。「へー、何かで使われた曲かな。適当に置いといたんだろうか」私は興味を注がれた。ピアノ魂、ちょっと弾いてみようかな、という考えが浮かんだ。
と、いうのも。曲名が書いてなかったもんだから、一体何の曲なんだろうかという、単純な興味。簡単な譜面なら読めるから、だいたいは解るだろうけども。
「ちょっと弾いてみるべ」
私は音楽室へ戻り、ピアノに向かって座って、楽譜の束を前に置いた。
すー、と、深呼吸をして。静かな空間を味わう。
静か、とはいっても、遠くで蝉は鳴いてはいるし、運動部員が居るグラウンドの方から、「だっはー」とかいう大声が聞こえてくる。耳を澄ませたら、風に騒ぐ葉のささずれの音も。
夏だね。
ピアノを弾くのも、久しぶり。次は来週に入ってからなんだ、習い事の方。
私は、鍵盤に指を置いた。ちょっと緊張したけど、弾き始めると、何のその。明るい音が、音楽室に響いた。私が今、弾いている曲は「犬のおまわりさん」。
弾き始める前から察しはついていたけれど、弾いてみると楽しい。「ようし、もういっちょ」
誰だ、こんな時間に「犬のおまわりさん」を弾いてる奴は、って言われそうな。ふふ、と私はひとりで笑っていた。
そうしたらだ。
「あ~あ。弾いちゃったね」
私だけのひとり空間だったはずの所に、場違いな音が混ざった。
ぎくり。私の手は止まってしまった。「遅かったようだね。それ、弾いちゃった」と、音の主は言う。言った主――ピアノの向こうで、ドアの辺りで、男の子がひとりで立っていた。
「あなたは」
私は立ち上がって、その男の子を見つめる。半袖のカッターシャツに黒のズボン、制服からして高等部の先輩だ、先輩。「いそじまけんべい」と先輩は言った。なのでついつい、「わ、私は紺野真純」と答えてしまった。折れていたスカートを整えながら。
先輩は腕を組みながら開いていたドアにもたれかかっていたのだけれど、私の方へ近づいてきた。
「ここではね、してはいけない『決まり』があるんだ」
そんなことを告げながら。
「と、いうと?」
私は不安になった。
「ここで、『犬のおまわりさん』を弾いてはいけない」
不安は的中、しかし。「は?」
「ここで、『犬のおまわりさん』を弾くと、こわいことがおこる」
先輩は無表情で言った、だからか、余計に不安が増した。「えええ!」本気なのか冗談なのかが判らない。こわいことが――おこるって。
「まさか、幽霊が。お化けが。人魂が、鬼火が、物の怪が!?」
私はパニックになった。
「それ全部一緒だから。んー、でも」と先輩に少し砕けた表情が見えた。え、実はそんなには深刻でもない? 私は半ばホッと一息入れる。だがそれも束の間だったみたいで。
「とにかく、見てご覧な」
先輩は、窓から向かいの方へ視線を向けた。
校舎からは、反対側の校舎が見えるのだけれど。
「あ」
私は信じられないものを見た。妖怪がいた。
校舎のなかに。
「ひ?」
意味のない声を私はあげた。これは悲鳴。私が見下ろす反対側の校舎2階、校舎はカタカナの『コ』の字になっているのだけれど、明らかに人間ではないものの姿が見えたのだ。
にや。
しかも、「そいつ」は笑っている。歪んだ顔。
「ちょ、まっ、えええ!」
ちょっと、待って、何ですかあれ、ええ!? が、上手く言えない。「そいつ」はゴジラみたいな肉厚と肌で、目が血走っていて(いるのかは想像内)、恐竜でいうティラノサウルスのミニみたいな、史上最大級の肉食恐竜の一つに数えられるティラノサウルスなんだけれど、一応の二足歩行で歩きながら、3階に居るこっちを見上げているじゃないか!
「何あれぇ!」
私はまた悲鳴をあげた。と咄嗟に、逃げようとした。首ねっこを捕まえられる。
ゆっくりと振り向くと、先輩の顔がすぐにあった。微笑んでいる。
「こらこら。駄目だよ。してしまったことには責任をとらなくちゃ」
先輩は落ち着いていた。
「わわわ私が何を」
「見てご覧もう一度。ほら」
先輩に言われて、改めて向かいの校舎を目を凝らして見た。
「ぎゃーす」
吠えてる。
そして、生徒を喰ってる。
「有り得ない!」
私も吠えた。
「彼はね、腹をすかしているんだ。あれは生徒でも、君が言っていた人魂、幽霊だね。何処にでも居るんだけどそんなもの」
先輩も有り得ないようなことをさらっと言った。「ゆゆゆ幽霊がそこらじゅうに居るってんですかい!」と私は憤慨した。「居るよ」先輩と、首ねっこを掴まれたままの私の目とが、合った。
「まさかアナタも……」
「さあねえ」
先輩はすっとぼけた。怪しくて妖しい。いや、おかしい。「きゃああああ!」悲鳴が正式に飛ぶ。混乱して何が何だか分からない。
「そいつ」は、廊下を歩いているみたいなんだけれど、通りかかった生徒――制服を着て、対向から歩いてくる生徒に『見える』ものを、ひゅる、ぱくり。と、大口を開けて食べてしまっているのだ。何処かで見たことがある、テレビか授業で、か。動物達の暮らしの映像、あんな風に、野性の動物達は獲物を隙あらば突いて食べてしまうのよ。
心の準備もなしにそんな光景を見せつけられたみたいで、気持ちが悪いことこの上ない。
「あれは何なのよお!」
「あれが有名な『コワイさま』だよ。生前は美少女で、名前は『古和井琴』。ほうら、君がピアノを弾いたから、コワイさまがお怒りだ」先輩は教えてくれた。
『犬のおまわりさん』を弾くと、こわいことが、おこる。
ああ成る程。
「どうして」
「どうやら、『犬』と『おまわりさん』が凄く嫌いみたいなんだ。だからここではタブー」
「ひ、弾くとどうなるの」
「君を捜しているみたいだね。八つ裂きにされるよ」
「あ嫌あぁぁぁあああ!」
私は逃げようともがいた。必死だった。
だが先輩の力が圧倒的に強くて、逃げた所で首ねっこを掴まれているもんだから、もがけばもがく程息ができなくて苦しい、いやそれより死ぬ。
「無駄だって。家でも電器屋でも何処までも追いかけてくるだろうから。それより君、紺野さん。ここへ奴を呼んで、ワルツを弾くんだ」
「無理です」
即答だった。舞曲、猫ふんじゃったをようやく弾けるようになったばかりの人間がイケるんですかそれ。アイスよりオイシイの? 何でワルツなんだ、癒されるとでも?
「呼ぶのも無理、ワルツも無理。じゃあ仕方ないねさよなら」
「そんな! 誰か助けて!」
先輩と私の押し問答が続く。そうこうしている間に、急展開。何と、生徒を喰い続けていたコワイさまが、こっちを睨むと、窓枠に身を乗り上げて、ぴょーい、と、反対側の校舎――即ちこっちへと跳んできた。
何て軽やかなステップだったのだろうか。いとも簡単に、私達が居る方へやって来た。
ぺた。
例えるなら、赤と青の蜘蛛の御方。手や足に吸盤でもくっついているのだろうか。壁にぺたりとひっついて、窓の桟に立った。私より背丈が低いが、そんなことはどうでもいい。
「きゃああああああ~!」
ホラーだ。絶叫の方の。「来たァァアア!」「ようこそコワイさん。久しぶり」先輩との温度差が私を襲う。どうなってんだ? 先輩とコワイさまが見つめ合っている。
何だアナタ達、ひょっとしてお知り合い?
「ししし知ってるの? どういうつもり?」
震えながら、先輩に解放された私は一歩退く。
「実は昔の親友」「はぁ?」もう驚かなかった。
私は先輩達から離れて、様子を見守った。ここからが先輩達の妖怪劇場、人間の私はお断りなのだ、というよりこの世界、私ついていけない。
コワイさまは先輩を見てはいるものの、食べようとはせず、穏やかに話しかけた。
『よくも我が眠りを覚ましたな……。あれ程、弾いてはいけないと』
対して先輩も、落ち着いた声で話しかけている。
「僕の監督不行き届きだった。すまない。この子はまだ中学生で、この高等部の決まりを知らないんだ。ここはひとつ、僕の顔で許してやってくれないか」
先輩は振り返ると、私に……優しく微笑みかけていた。
胸が高鳴る。だけど周りでは時が止まったように感じられた。置き去りにされた自分だけの空間が戻ってきたかのように、懐かしく思った。
今なら、奇跡が、ワルツが弾けるかもしれないとさえ。
『そんなに言うのなら、お前の顔で、許してやる……』
地響きにも似たコワイさまの御声が頭に響く。でも、コワイさまの顔は、さっきのギョロギョロとした厳つい眼を思い返すと、比較的柔らかく緩んだ顔に見える。
もしかして、本当に許してくれるの?
期待が高まった。一心に見つめていた、すると。
がぶり。
先輩が喰われた。
頭だけ。
「ぎゃあああああ!」
顔どころか、頭が無くなった。「ああああああ!」絶叫しかない。
私は、気を失った。後は、知らない。
・ ・ ・
気がついたのは、見回りにきた先生が私を起こしてからだった。
「おい、大丈夫か」
ぱちぱちと音がする。先生が、私の顔を叩いた音だ。「は……」寝ぼけている声を出すと、先生の安心した顔が目に飛び込んだ。「おお良かった。お前、ここで何してる。頭は大丈夫か? 打ってないか。先生が家まで送っていくぞ、もう遅い」先生がそう言うので壁に掛かった時計を見ると、7時前で、陽は落ちかかっていた。「あ」
私、何してたんだろうか。思い出そうとするが、妙に疲れて記憶が出てこない。何か、恐ろしいことが起こったような気がするのだけれど。
「とにかく帰りなさい。先生も見回りが終わったら帰るから、家まで送ってやる。中学生か、そういえば吹奏楽部はそうだったな、居残りか、ご苦労さん」
先生は立ち上がると、私の手を引っ張って起こしてくれた。それから、熱中するのもいいが、熱中し過ぎは熱中症になるから気をつけるんだぞとか、散々と注意を受けた。言ってることは分かるんだけれど、頭に入らないというか。もう注意とか決まりとか、今は勘弁してって思ってる。
足元に、散乱していた紙。
何故か、真っ白な紙だった。何故か、って……何故?
「えーい!」
突然に叫ぶ。凄く驚いて先生は見ていた。私は、真っ白の紙を破きながら放り投げて、高らかに笑った。「あはははは!」どう見てもおかしかったのは言うまでもない。
先生の呆れた顔がまた面白い。愉快でならなかった。破れて紙は、開かれた窓の外へと飛んでいく、私は『決まり』を破った、伝統を破った、今だけはいいと思った。
紙片は夕方の、空に向かって。
あと2、3年したら、私はまたここへ来る。高校生になって、大きくなったら、また。
それまで、さようならと思い出せない記憶を閉じる……。
新たに追加された言い伝えを耳にするのも、その時だ。
「頭の無い幽霊が出るんだって」
《END》
読了ありがとうございました。
この作品は、小説家になろう夏のホラー2012企画作品です。
http://horror2012.hinaproject.com/pc/
有志企画、空想科学祭でも後日に提出予定ですので、宜しくお願いします。
http://sffestafinal.kumogakure.com/
ではでは。