三か月限定の身代わり花嫁です。更新の可否は私が決める契約でした
結婚式の三日前、双子の姉のヴィオラが、いなくなった。
置き手紙には、たった二行。
『好きな人と生きます。あとはお願いね、アデル』
お願い、と言われても。
相手は、北方に広大な領地を持つヘルムート公爵。国の有力者との政略結婚だ。式をすっぽかせば、父の伯爵家は取り潰しになりかねない。
父は青い顔で、私に頭を下げた。
「アデル。三か月でいい。ヴィオラの身代わりとして、公爵家へ嫁いでくれ。その間に、必ずヴィオラを連れ戻す」
私は、ため息をついた。
「条件があります。書面で契約を」
「契約? 親子で何を」
「身代わりは、三か月の期間限定。更新の可否は、私が決めます。その旨を、公爵閣下にも伝えて、同意をいただいてください」
父は戸惑いながらも、頷くしかなかった。
◇
公爵閣下との顔合わせは、挙式の前夜だった。
ヘルムート・ラインハルト公爵。三十一歳。黒髪の、背の高い方だった。
彼は私の顔をしばらく見つめ、静かに言った。
「ヴィオラ嬢とは、違う人間だな」
「はい。妹のアデルです。事情はお聞き及びかと思います」
「聞いた。三か月の身代わりだと」
「はい。そのように契約書にも」
私は書面を差し出した。
『身代わり婚約・婚姻に関する契約』
第一条。期間は挙式の日から三か月間とする。
第二条。姉ヴィオラの帰還をもって、本契約は終了する。
第三条。期間満了時の更新の可否は、アデルが決める。
閣下は、書面を最後まで読み、顔を上げた。
「更新の可否が、君にあるのか」
「はい。私は巻き込まれた側ですので」
「……なるほど」
彼の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「承知した。署名しよう」
あっさり署名して、閣下は付け加えた。
「三か月だけだ。君に、何も期待はしない。だから君も、何も気負わなくていい」
それは、突き放すような言葉に聞こえた。けれど、不思議と冷たさはなかった。
◇
公爵邸の暮らしは、想像と少し違った。
屋敷は広く、使用人は優秀。ただし、家の中は驚くほど静かだった。
閣下は朝早くに執務室へ入り、夜遅くまで出てこない。食事は書類を読みながら、一人で。屋敷には、女主人がいない。
「奥様、旦那様は、一昨年から夕食を召し上がっておりません」
侍女のエルゼが、困った顔で教えてくれた。
「召し上がらない?」
「いえ、お部屋に運ぶのですが、冷めてから、手をつけるのです。お忙しくて」
私はしばらく考えた。
三か月だけの妻だ。深入りする義理はない。
けれど、その夜、閣下の執務室の前を通りかかると、扉の隙間から、苦しげな咳が聞こえた。
翌朝、私は料理長に頼んで、温かい麦粥を作ってもらい、自分で執務室へ運んだ。
「閣下。朝食です」
「後で食べる」
「今です。冷めると、おいしくないので」
閣下は不思議そうに私を見た。
「君は、三か月で出ていく身だろう。なぜ、そこまで」
「三か月間、同じ屋敷で暮らす者として、健康に気を配るのは当然です。契約書の第四条にも、日常の協力は含まれています」
嘘だ。第四条は、居住に関する規定だった。
閣下は、じっと私を見た後、スプーンを手に取って、粥を一口すすった。
「……温かいな」
それは、三年ぶりに温かい食事を取った人の顔だった。
◇
三か月の間に、私はいくつかのことをした。
食事を毎朝、一緒にとること。冬支度の薪を領民の家に配る手配をすること。それから、河川の治水工事のために王宮へ出す嘆願書を、閣下の代わりに整えること。
閣下は書類は完璧だが、人に頼むのが苦手で、頭を下げるのを嫌う方だった。それを私が夜会で貴族の奥様方に笑顔で話し、少しずつ根回しをした。
結果、工事の予算が、ついに王宮で認められた。
報告を聞いた閣下は、執務室で長いこと黙っていた。
「……なぜ、そこまでしてくれた」
「契約期間中は、公爵夫人ですので」
「それだけか」
「さあ、どうでしょう」
私は笑って、はぐらかした。
本当は、少しだけ、この屋敷での暮らしが好きになっていたのだ。
◇
契約期間が終わる、三日前。
公爵邸の門の前に、一台の馬車が止まった。
降りてきたのは、ヴィオラだった。
「アデル! 帰ってきたわよ」
姉は、日に焼けた顔で、にこやかに手を振った。
「駆け落ち相手と別れたの。思っていた人と違ってね。それで、公爵夫人の座、やっぱり私が貰うわ。あなたはもう帰っていいわよ」
あまりの言い草に、言葉を失った。
「お姉様、それは――」
「だって、元々私の結婚でしょう? あなたは身代わりだったんだから、本物が戻ったら交代するのが当然じゃない」
屋敷の玄関先で、姉は堂々と言い放った。
そこへ、閣下が現れた。
「確認させていただきたい」
彼は静かに、懐から書面を取り出した。
「この契約書の第二条には、『ヴィオラの帰還をもって契約は終了する』とある。つまり、貴女が戻られた以上、契約は終了する。ここまでは、よろしいか」
「ええ、もちろん」
「第三条。期間満了時の更新の可否は、アデルが決める」
ヴィオラの笑顔が、ひきつった。
「そして、貴女は、挙式当日に失踪された。婚姻の誓いの場にいなかった以上、貴女と私の間には、婚姻の事実がない。婚姻の事実があるのは、アデルとの間だけだ」
「え?」
「貴女が戻られたことで、身代わりの契約が終わる。だが、アデルとの婚姻そのものは、契約とは別に有効だ。解消するか継続するかは、アデルが決める」
閣下は、私のほうを向いた。
その目は、これまで見たことがないほど不安げだった。
「アデル。更新は、してくれるか」
私は、少し意地悪をしたくなった。
「閣下。三か月前、『何も期待しない』とおっしゃいましたよね」
「……言った」
「今は、いかがですか?」
「期待している。毎朝、粥を持ってきてほしい。夕食は一緒にとりたい。書類を読みながらでなく」
言葉を探すように、閣下は続けた。
「それから、君がこの屋敷からいなくなると、僕はたぶん、また食事をとらなくなる。だから、その、更新を」
最後は、ほとんど懇願だった。
三十一歳の公爵閣下が、玄関先で、私に向かって、声を震わせている。
姉が口を開けたまま固まっている。
私は、こらえきれずに吹き出した。
「更新の条件を、お伝えします」
「何でも聞く」
「期間は、無期限。解約は、双方の合意のうえで。それから、毎朝の粥は、閣下が私に作ってください」
「僕が、君に?」
「ええ。たまには、私も温かい朝食をいただきたいので」
閣下は、目を丸くして、それから、人生で初めて、という顔で笑った。
「分かった。腕を磨く」
後ろで姉が何か叫んでいたが、使用人たちが穏やかに馬車へ誘導していった。
契約書は、更新された。
新しい署名の隣に、閣下は、ぎこちない字で、小さく書き添えた。
『追記。妻の笑顔を、毎日見ること』
それは契約条項というより、ただの願い事のようだった。
私は、その一行に、迷わず署名した。
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