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隣にいるだけでは、もう足りない

作者: アル
掲載日:2026/08/27

「りっちゃん、きょうもおむかえ?」


保育園の門から飛び出してきた陽向が、俺の脚に抱きついた。


「今日も俺。残念だったな」


「ざんねんじゃないよ。やったーだよ」


三歳児にそこまで真っ直ぐ喜ばれると、悪い気はしない。


俺――榊原律は、陽向の小さなリュックを受け取った。保育士に挨拶をして、駅とは反対の道へ歩き出す。


向かうのは俺の家ではない。実家の隣にある、水瀬家だ。


そこには、十六年間好きな女が住んでいる。


水瀬結衣。二十九歳。俺と同い年の幼馴染で、陽向の母親。


そして、一年前に離婚した。


「ママ、おそい?」


「あと一時間くらいかな。腹減った?」


「へった。オムライスがいい」


「昨日も食べただろ」


「きょうのぼくは、きのうのぼくじゃないよ」


誰に教わったんだ、そんな言い訳。


仕方なくスーパーへ寄り、鶏肉と卵を買った。


水瀬家の鍵は預かっている。


結衣の父親は、俺たちが二十四歳のときに亡くなった。その翌年には母親の持病が悪化し、二年前に亡くなっている。今、この家で暮らしているのは結衣と陽向だけだ。


俺は五駅先の部屋で一人暮らしをしているが、週に何度もここへ来る。結衣の帰りが遅い日は陽向を迎えに行き、夕飯を作る。手の空いている休日には、庭の草むしりや重い物の買い出しも手伝った。


幼馴染だから。


そう言えば、何をしても不自然ではなかった。


「りっちゃん、おなべ、あわあわ」


「うわ。陽向、ちょっと離れてろ」


慌てて火を弱めると、陽向が得意そうに胸を張った。


「ぼくが見てたから、だいじょうぶだったね」


「はいはい。助かりました」


陽向を椅子に座らせ、出来上がったオムライスを食卓に並べる。陽向の皿には、ケチャップで不格好な笑顔を描いた。


ちょうど食べ始めたところで、玄関の扉が開いた。


「ただいま。ごめん、遅くなった」


「ママ、おかえり!」


結衣がリビングへ入ってくる。急いで帰ってきたのだろう。肩まである髪が少し乱れ、頬が赤くなっていた。


「律、今日もありがとう」


「別に。俺も食いたかったから作っただけ」


「オムライスを?」


「……陽向が食いたいって言うから」


「やっぱり陽向のためじゃない」


結衣が笑う。


たったそれだけで、今日ここへ来てよかったと思ってしまう。


十六年も片思いをしていると、笑顔一つで喜べるようになるらしい。我ながら安上がりだ。


結衣が高校一年で初めて彼氏を作ったときも、その翌年に別の男と付き合ったときも、俺は一番に報告を受けた。


大学二年で付き合い始めた男と結婚すると聞いたときには、「おめでとう」と笑った。


陽向が生まれたときには、病院まで祝いに行った。


一つ祝うたびに、胸の奥で何かが潰れた。それでも、結衣との関係がなくなるよりはよかった。


結婚した男は、夫になると変わった。家に帰らず、生活費も入れなくなった。結衣は一人で働きながら陽向を育て、母親のことまで支えようとした。


俺にできたのは、頼まれたときに手を貸すことだけだった。


夫婦の問題に踏み込みすぎないように、境界を越えないように。それでも結衣と陽向が困っているときだけは、すぐ隣にいられるように。


その結婚が終わって一年が経っても、俺はまだ同じ場所にいる。


「りっちゃん」


陽向の声で、意識を戻した。


「なんだ?」


「りっちゃんのおうち、ぼくのおうちのとなりでしょ?」


「それは俺が育った家。今は電車で五つ先に住んでる」


「となりにすまないの?」


「住もうかなって思ってる」


最近、本気で考えていることだった。


実家には母が一人で暮らしている。部屋は余っているし、職場までの時間も大して変わらない。戻ってくれば、今より結衣たちを支えやすくなる。


「ほんと?」


陽向の顔が明るくなる。


しかし、次に出てきたのは予想外の言葉だった。


「でも、となりじゃなくて、ぼくのおうちに住めばいいのに」


スプーンが皿に当たり、乾いた音がした。


結衣が固まっている。


俺も、たぶん同じ顔をしていた。


「だって、りっちゃんがいたら、ママわらうよ。ぼくもたのしいよ。さんにんでオムライス食べられるよ」


「陽向」


結衣が困ったように名前を呼ぶ。


「そういうことは、簡単に言うものじゃないの」


「なんで?」


「なんでって……律にも、律の生活があるから」


陽向は納得していない様子だったが、やがてオムライスに意識を戻した。


俺は戻せなかった。


三人で暮らす。


十六年間、考えないようにしてきた未来を、陽向はいとも簡単に言葉にした。


食事のあと、結衣が陽向を風呂に入れた。


パジャマ姿になった陽向は、眠そうに目をこすりながらも、俺のところへやってきた。


「りっちゃん、おやすみ」


「おやすみ。ちゃんと目を閉じて寝ろよ」


「め、あけたままねられないよ」


もっともなことを言い残し、陽向は結衣に手を引かれて寝室へ向かった。


俺はその間に食器を洗うことにした。


三人分の皿を洗い、子ども用の小さなコップを水切り籠へ伏せる。蛇口を止めると、急に家の中が静かになった。


少しして、結衣が一人で戻ってきた。


「寝た?」


「うん。今日は早かった」


結衣は俺の隣に立つと、洗い終えた皿を布巾で拭き始めた。


しばらく、食器の触れ合う小さな音だけがキッチンに響いた。


「律」


最後の皿を棚へ戻した結衣が、俺を見た。


「実家に戻るって、本気なの?」


「そのつもり。母さんも一人だし、ここにもすぐ来られる」


「私たちのため?」


答えに詰まった。


それだけで、結衣には伝わったらしい。


「駄目だよ」


「何が」


「私たちのために、律が自分の生活を変えるのは」


「別に大したことじゃない」


「律にとって大したことじゃなくても、私には大したことなの」


結衣は視線を落とした。


「これ以上、甘えられないよ」


「甘えればいいだろ」


「どうして?」


「どうしてって、幼馴染だから」


いつもの言葉を口にした瞬間、結衣の表情が曇った。


「また、それ?」


「またってなんだよ」


「律はいつもそう。幼馴染だから。隣の家だから。頼まれたから。私がどれだけ助けてもらっても、全部それで終わらせる」


「それの何が悪いんだ」


「悪くないよ。律は何も悪くない。だから困るの」


結衣は唇を結び、少し間を置いてから続けた。


「私はもう、律の優しさを、ただの幼馴染だからって受け取れない」


胸が大きく鳴った。


期待するな、と十六年間で身につけた癖が頭をもたげる。


「迷惑だったなら、減らす」


「そうじゃない」


「じゃあ、なんだよ」


「分からないの?」


分かるわけがない。


俺はずっと、分からないふりをしてきたのだから。


結衣を好きになったのは、中学一年の冬だった。


飼っていた犬が亡くなり、誰もいない家に入るのが嫌で、門の前に座り込んでいた。そこへ学校から帰ってきた結衣が現れた。


結衣は何も聞かず、俺の隣に座った。自分のマフラーを半分だけ俺の肩へかけて、「無理に元気にならなくていいんじゃない」と言った。


泣くのは格好悪いと言った俺に、結衣は前を向いたまま答えた。


『誰も見てないよ。私しかいないから』


『お前が見てるじゃん』


『じゃあ、見てないふりしてあげる』


あの日、結衣が立ち上がるまで、俺は一人ではなかった。


だから今度は、俺が隣にいるのだと思っていた。


けれど、それだけではなかった。


とっくに、それだけでは足りなくなっていた。


「結衣」


顔を上げた結衣を見る。


怖かった。


十六年前よりも、結衣の結婚を聞いた日よりも、ずっと怖い。


それでも、陽向に言われてしまった。


隣ではなく、同じ家に住めばいいと。


その未来を望んでいるくせに、幼馴染という安全な場所に隠れ続けるのは、もう無理だった。


「俺は、幼馴染だからお前を助けてるんじゃない」


結衣が息を止める。


「中学一年のときから、ずっと結衣が好きだ」


言ってしまった。


たった一言を口にするまでに、十六年かかった。


「結衣に彼氏ができるたび、嫌だった。結婚すると聞いたときも、陽向が生まれたときも、嬉しかったのに苦しかった。それでも、お前の隣からいなくなるほうが嫌だった」


結衣の目に涙が浮かぶ。


「離婚したからって、すぐに告白するつもりはなかった。弱ってるところにつけ込みたくなかったし、今だって返事を急かす気はない。ただ……俺が実家に戻りたいのは、結衣と陽向の近くにいたいからだ」


結衣は何も言わなかった。


やはり言うべきではなかったのかもしれない。


今までどおりではいられなくなる。


十六年間、それだけを恐れてきた。


「ごめん。今日は帰る」


テーブルの脇に置いた鞄へ手を伸ばすと、服の裾をつかまれた。


振り返る。


「帰らないで」


結衣はうつむいたまま、震える声で言った。


「私、律は私のことなんて、家族みたいにしか見てないと思ってた」


「そんなわけないだろ」


「分からないよ。彼氏ができたって言ったら笑ってくれたし、結婚するときも一番に祝ってくれた」


「泣いて止めればよかったのか?」


「少しくらい、寂しそうにしてくれたらよかったのに」


無茶を言う。


そんな顔を見せたら、すべて気づかれてしまうと思っていた。


「離婚してから、律が来てくれる日を待つようになった。陽向のお迎えをしてくれるからでも、ご飯を作ってくれるからでもなくて、律がここにいると安心した」


結衣が、ゆっくり顔を上げる。


「でも、つらいときに助けてくれたから、そう思い込んでいるだけかもしれないって怖かった。だから一年間、考えたの」


「……答えは出た?」


「今、出た」


結衣は泣きながら、少しだけ笑った。


十六年前、俺の隣に座ってくれたときと同じ顔だった。


「私も、律が好き」


廊下から、ぺたぺたと小さな足音がした。


「ママ……」


寝ぼけた陽向が、目をこすりながらリビングへ入ってくる。


「どうしたの?」


「おしっこ」


結衣は慌てて目元を拭うと、陽向をトイレへ連れていった。


戻ってきた陽向は、俺がまだいることを確かめるように見上げる。


「りっちゃん、まだいた」


「いるよ」


陽向は小さくあくびをしてから、夕食のときの話を思い出したように尋ねた。


「いっしょにすむの、きまった?」


「陽向、それはまだ早い」


俺が答えると、陽向は頬を膨らませた。


「じゃあ、いつ?」


結衣と顔を見合わせる。


今度は、どちらからともなく笑った。


「まずは、隣に戻ってくるところからかな」


結衣がそう言った。


「それから三人で、ゆっくり考えよう」


十六年前、結衣は泣いていた俺の隣に座り、見ていないふりをしてくれた。


それから俺は、自分の気持ちを見ていないふりをしたまま、結衣の隣に居続けた。


けれど、もうその必要はない。


来月、俺は五駅先の部屋を引き払い、実家へ戻る。


いつか本当に三人で暮らす日が来るのかは、まだ分からない。


それでも今度は、ただ隣にいるためではなく、結衣と陽向と同じ未来へ進むために戻るのだ。


十六年目の今夜、ずっと見ないふりをしてきた恋が、ようやく俺の前で笑っていた。


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