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9/14

音の返事

1


壁の向こうで鼻を鳴らす音が、二度。


間隔が揃っていた。

意味のない音は、間隔が揃わない。


透真は洗剤のボトルを戻さず、握ったまま歩いた。

走らない。急がない。

急ぐとカートが鳴る。鳴ったら、向こうが答える。


廊下の赤い光の下で、車輪が小さく光った。

金具が揺れるたび、音になりそうな気配がする。


透真は立ち止まらずに養生テープを引いた。

片手で千切ると音が出る。

だから、引く前にテープを膝に当てて張りを殺す。

繊維がほどけるように切れる。


切ったテープを、カートの金具に巻く。

金属同士が触れる部分を、全部布で隔てる。

ボトルの底にも雑巾を一枚噛ませた。

転がって鳴る前に、鳴らないようにする。


廊下を進みながら、耳が拾ったものがある。


爪の音が、二系統。


一つは重い。間隔が遅い。壁際を歩いている。

もう一つは軽い。間隔が速い。天井に近い位置で、配管を伝っている。


重いのと、軽いの。

前にもいた組み合わせだ。


透真は壁沿いに進み、裏動線へ滑り込んだ。

天井が低い。配管が剥き出し。

ここは現場の匂いがする。鉄と埃と洗剤。

現場の匂いは、少しだけ頭を冷やす。


角を曲がる前に、壁に小さくテープを貼った。

しゃがまないと見えない高さ。自分だけの印。


胸ポケットが微かに震えた。

ドローンが生きている。

画面は見ない。見たら、見ている人の数を想像してしまう。


でも白い文字だけが一瞬、視界の端で光った。


「音で来る。音で返せ」


透真は返事をしなかった。

返事の代わりに、洗剤のボトルを握る手を緩め、空いた指でゴミ袋を一枚取った。


音で返す。

音を出すのではなく——音を"置く"。


---


2


清掃用具室の扉は、昨日までの扉だった。


取っ手の剥げ。蝶番の癖。

六割五分で鳴る。七割で鳴る。

透真は六割五分で止め、身体を滑り込ませた。


中は洗剤の匂いが濃い。

棚の下段に紙ものが束で置いてある。ペーパータオル。トイレットペーパー。

音を吸う素材。


透真は紙束を二つ抜き、カートのフレームに挟んだ。

金属が擦れる場所を紙で埋める。紙は潰れても音を吸う。


棚の奥の小箱。

予備のボルトとワッシャー。普段は手すりや看板の修理で使う。


透真はボルトを一つだけ取り、ゴミ袋に入れた。

袋の底で金属が触れ、カラ…と小さく鳴る。


すぐ袋の口を指で押さえた。

鳴った音は小さい。でもこのビルでは大きい。


鳴らすなら、鳴らす場所を選ぶ。


それから、壁際の小さな扉に目が止まった。


ゴミシュート。


薄い金属扉。清掃員用の鍵穴。


透真はマスターキーを差し込み、回した。

扉が開く。

中は縦に落ちる暗い穴。匂いが上がってくる。生ゴミではない。鉄と湿り気。


落ちる場所がある。

吹き抜けより狭い。狭い分、確実に落ちる。


透真はゴミシュートの縁を指でなぞった。

金属が滑らかだ。磨いたことがある。清掃員の仕事だ。

滑らかすぎるのは、掴む側に不利だ。


ゴミシュートの扉を閉めた。

取っ手を最後まで押さえて、音を殺す。


そして——扉の前の床に、養生テープを一本、横切るように貼った。


貼った直後に、刻印板に親指を当てた。

テープに触れたまま。


「……接着」


指の下で、テープの質が変わった。

粘着ではない。貼りつき。

触れたものを、床と結びつける接着。


強度じゃない。

でも"離れにくい"は作れる。


透真は指をテープから離した。

離す時、わずかに抵抗がある。自分のスキルが自分に効いている。


テープ帯が赤い非常灯の中で黒く沈んでいる。

暗い床に、暗い線。見えにくい。


二度目の"落とす"準備ができた。


準備ができた瞬間、背中が重くなった。

これから何が起きるか、分かってしまったからだ。


---


3


透真はゴミ袋を、接着したテープ帯の向こう側へそっと転がした。


袋が転がるたび、中のボルトが鳴る。


カラ……カラ…


鳴り方が一定じゃない。一定じゃないから、生き物が動いているように聞こえる。


透真は自分の足を、テープ帯のこちら側に置いた。

踏まない。触れない。

触れたら自分も貼りつく。


カートは廊下側。用具室の中に入れると動けなくなる。


透真は扉を半分だけ開け、外の赤い廊下を覗いた。

目だけ。身体は出さない。


廊下の奥は暗い。非常灯の赤が、遠くほど薄い。


ゴリ……


壁を削る音。近い。

用具室の外、右側の廊下。


透真は扉を閉めた。音を殺す。

扉の内側の暗闘で、息を薄くする。


袋の中のボルトが、もう一度鳴った。


カラン。


わざとじゃない。

でも、偶然の音の方がよく釣れる。

規則的な音は警戒される。不規則な音は、確かめたくなる。


廊下の爪の音が変わった。


軽い方が来ている。


カツ、カツ、カツ、カツ。


速い。天井の配管から降りた音。壁を伝って床に着地した。


用具室の扉が、外から押された。

鍵はかかっていない。

でも扉は開ききらない角度で止めてある。


隙間から、空気が動いた。

吸気。鼻先が近い。


そして——ボルトの音に反応した。


走る個体が、室内に突っ込んできた。


前脚が床のテープ帯に触れた。


一呼吸。


爪が床を掴もうとした。

掴めない。掴んだ瞬間に離れない。


足が止まる。身体だけが前へ行く。

重心が崩れる。


後脚が同じ帯に触れた。


二本目も止まる。

止まると動きが乱れる。

乱れると、袋の音へ飛べない。


魔族が短く息を吐いた。

怒鳴りでも唸りでもない。

失敗した時の音だった。


焦ると——力で解決しようとする。


魔族が床を蹴った。


ゴリッ。


床を削る音。壁を削る音と同じだった。

追えないなら、壊す。


透真の首筋が冷えた。


接着は強度じゃない。時間をかければ剥がれる。


時間を与えない。


透真はゴミシュートの扉に手をかけた。

取っ手を押さえながら、ゆっくり引く。音を殺す。


暗い穴が口を開けた。


魔族は足が動かない。

動かないから、目の前に開いた穴に反応した。


穴は出口に見える。

出口に見えるものは、追う。


魔族が前へ体を倒した。


貼りついた足が残る。身体だけが先へ行く。

先へ行くほど足は剥がれない。剥がれないほど身体は倒れる。


前脚がゴミシュートの縁に触れた。

金属の縁。滑らか。爪が噛まない。


一呼吸。


透真はその一拍を、見たくなかった。

でも見えてしまう。


赤い目がこちらを向いた。


この距離で目が合うのは、二度目だ。

一度目は偶然だった。

二度目は、向こうが選んでこちらを見た。


透真の喉の奥が、小さく痙攣した。


魔族の爪が縁を滑った。

足元が貼りついたまま、身体が前へ落ちる。


足元が引き戻すのに、重心だけが先に落ちる。遅れて、剥がれる音がした。


落ちる。


ゴミシュートの暗闇に、赤い目が消えた。


落下音は遅れて来た。

下のどこかで、鉄と肉が当たる鈍い音。

一度だけ。


透真は扉を閉めた。音を殺す。鍵をかける。

鍵が回る音は出る。でもこの音は"閉じた"の音だ。


透真は床のテープ帯を見なかった。

帯の上に残ったものを見なかった。


透真は手を見た。


震えていない。


震えていないことが、いちばん嫌だった。


透真は膝に手をついて、手順を始めた。

ゴミ袋を回収する。

床のボルトは拾わない。時間がない。

音の種は残す。残した方がいい時もある。


扉の外。


重い呼吸が、まだどこかにいる。


---


4


ドローンの画面の端で、白い文字が滲んだ。


「今、落ちた」


透真は画面を見ない。

見たら、見られていることを思い出す。

思い出すと、呼吸が乱れる。


一度目は、条件が揃って起きた。

二・三度目は、落ちる場所を最初から用意した。

足を止める帯を作った。誘う音を置いた。


透真は手を見た。

さっき見た時と同じだ。

震えていない。


それがどういう意味か、透真は考えなかった。

考える代わりに、カートのボトルを数えた。

洗剤、残り三分の一。養生テープ、半分。雑巾、四枚。ゴミ袋、六枚。


数えると落ち着く。

数は嘘をつかない。


廊下の向こうで、吸気が止まった。


止まった後の沈黙が、いちばん重い。

迷っている沈黙ではない。

聴いている沈黙だった。


ゴリ……


金属を削る音。

用具室の外、すぐ近く。


重い個体が来ている。


走らない。嗅ぐ。削る。待つ。


透真はカートの取っ手を握り、用具室の扉を少しだけ開けた。


赤い廊下。


そこに——影がいた。


大きい。肩が広い。

鼻先が壁に近い。壁を舐めるように匂いを拾っている。


そして、床を見ていた。


テープ帯のあった場所。

そこを避けるように、半歩ずつ位置を変えている。


透真は扉を閉めた。音を殺す。


軽い個体は落ちた。

重い個体は残った。


残っただけじゃない。

こちらの"やり方"を、もう見ている。


匂いで返すと、匂いを避けてくる。

音を置くと、音を避けてくる。

床に罠を敷くと、床を見てくる。


こちらが何かをするたびに、向こうがそれを覚える。


透真が怖いのは、この個体が強いことではなかった。

やり方が通じてしまうことだった。

通じるということは、次は通じない。


ドローンの文字が、もう一度だけ光った。


「……相手、返事してる」


透真は返事をしなかった。

返事の代わりに、洗剤のボトルを一本、カートから抜いた。


匂いで返す。音で返す。床で返す。

返し続けたら、いつか返せなくなる。


その前に、別のものを探す。


透真は赤い廊下の向こうで削れる壁の音を聴きながら、ボトルのキャップに指をかけた。


---


5


白波ユウは、椅子の背もたれに体を預けて、画面を見ていた。


見ていたというより、見えていた。

画面は三つ。全部違う情報。

でも映っているのは、同じ赤い廊下だった。


ユウは声を落とした。


「……あの人、またやった」


コメントが流れている。速い。でも内容が変わった。


最初の頃は「逃げろ」「やばい」「通報しろ」だった。

今は違う。


> 空調屋:ゴミシュートは各階独立型と貫通型がある。落下距離次第で生存

> 清掃:シュート内壁はステンレス研磨。爪は噛まない

> 防災屋:シュート下部にダンパーがある。閉まっていれば途中で止まる

> 構造屋:このビルのシュート、貫通型だとしたら地下1階まで落ちる

> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了


ユウはコメントを拾い、オーバーレイを出した。


「シュート落下、生存の可能性あり。下層で再出現注意」


打ち込んで、指が止まった。


再出現。


自分が今打った言葉は、落ちたものがまた来るかもしれないという意味だ。

それを、あの赤い廊下の中にいる人間に伝えている。


ユウは視聴者数を見た。

見ないようにしていたが、見てしまった。


数字が増えている。

増えているということは、この映像を見ている人が増えている。

見ている人が増えているということは——


「見てるだけ」の人も増えている。


ユウはマイクに向かって、静かに言った。


「……ここは実況チャンネルじゃない。

 情報だけ出してくれ。

 出せない人は、黙って見ていてくれ。

 それが今、いちばん助かる」


コメントが一瞬だけ遅くなった。

遅くなったのは、止まったからじゃない。

打ちかけた言葉を、消した人がいたからだ。


ユウは画面を見た。

赤い廊下。

清掃カート。

ボトルのキャップに指をかけている背中。


ユウはオーバーレイをもう一つ出した。


「重い方、床を見てる。同じ手は通じない」


送信した後、ユウは自分の手を見た。

震えていない。


でもユウは知っている。

自分の手が震えていないのは、あの廊下にいないからだ。


---


壁の向こうで、鼻を鳴らす音が三度——間隔を揃えて鳴った。


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