音の返事
1
壁の向こうで鼻を鳴らす音が、二度。
間隔が揃っていた。
意味のない音は、間隔が揃わない。
透真は洗剤のボトルを戻さず、握ったまま歩いた。
走らない。急がない。
急ぐとカートが鳴る。鳴ったら、向こうが答える。
廊下の赤い光の下で、車輪が小さく光った。
金具が揺れるたび、音になりそうな気配がする。
透真は立ち止まらずに養生テープを引いた。
片手で千切ると音が出る。
だから、引く前にテープを膝に当てて張りを殺す。
繊維がほどけるように切れる。
切ったテープを、カートの金具に巻く。
金属同士が触れる部分を、全部布で隔てる。
ボトルの底にも雑巾を一枚噛ませた。
転がって鳴る前に、鳴らないようにする。
廊下を進みながら、耳が拾ったものがある。
爪の音が、二系統。
一つは重い。間隔が遅い。壁際を歩いている。
もう一つは軽い。間隔が速い。天井に近い位置で、配管を伝っている。
重いのと、軽いの。
前にもいた組み合わせだ。
透真は壁沿いに進み、裏動線へ滑り込んだ。
天井が低い。配管が剥き出し。
ここは現場の匂いがする。鉄と埃と洗剤。
現場の匂いは、少しだけ頭を冷やす。
角を曲がる前に、壁に小さくテープを貼った。
しゃがまないと見えない高さ。自分だけの印。
胸ポケットが微かに震えた。
ドローンが生きている。
画面は見ない。見たら、見ている人の数を想像してしまう。
でも白い文字だけが一瞬、視界の端で光った。
「音で来る。音で返せ」
透真は返事をしなかった。
返事の代わりに、洗剤のボトルを握る手を緩め、空いた指でゴミ袋を一枚取った。
音で返す。
音を出すのではなく——音を"置く"。
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2
清掃用具室の扉は、昨日までの扉だった。
取っ手の剥げ。蝶番の癖。
六割五分で鳴る。七割で鳴る。
透真は六割五分で止め、身体を滑り込ませた。
中は洗剤の匂いが濃い。
棚の下段に紙ものが束で置いてある。ペーパータオル。トイレットペーパー。
音を吸う素材。
透真は紙束を二つ抜き、カートのフレームに挟んだ。
金属が擦れる場所を紙で埋める。紙は潰れても音を吸う。
棚の奥の小箱。
予備のボルトとワッシャー。普段は手すりや看板の修理で使う。
透真はボルトを一つだけ取り、ゴミ袋に入れた。
袋の底で金属が触れ、カラ…と小さく鳴る。
すぐ袋の口を指で押さえた。
鳴った音は小さい。でもこのビルでは大きい。
鳴らすなら、鳴らす場所を選ぶ。
それから、壁際の小さな扉に目が止まった。
ゴミシュート。
薄い金属扉。清掃員用の鍵穴。
透真はマスターキーを差し込み、回した。
扉が開く。
中は縦に落ちる暗い穴。匂いが上がってくる。生ゴミではない。鉄と湿り気。
落ちる場所がある。
吹き抜けより狭い。狭い分、確実に落ちる。
透真はゴミシュートの縁を指でなぞった。
金属が滑らかだ。磨いたことがある。清掃員の仕事だ。
滑らかすぎるのは、掴む側に不利だ。
ゴミシュートの扉を閉めた。
取っ手を最後まで押さえて、音を殺す。
そして——扉の前の床に、養生テープを一本、横切るように貼った。
貼った直後に、刻印板に親指を当てた。
テープに触れたまま。
「……接着」
指の下で、テープの質が変わった。
粘着ではない。貼りつき。
触れたものを、床と結びつける接着。
強度じゃない。
でも"離れにくい"は作れる。
透真は指をテープから離した。
離す時、わずかに抵抗がある。自分のスキルが自分に効いている。
テープ帯が赤い非常灯の中で黒く沈んでいる。
暗い床に、暗い線。見えにくい。
二度目の"落とす"準備ができた。
準備ができた瞬間、背中が重くなった。
これから何が起きるか、分かってしまったからだ。
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3
透真はゴミ袋を、接着したテープ帯の向こう側へそっと転がした。
袋が転がるたび、中のボルトが鳴る。
カラ……カラ…
鳴り方が一定じゃない。一定じゃないから、生き物が動いているように聞こえる。
透真は自分の足を、テープ帯のこちら側に置いた。
踏まない。触れない。
触れたら自分も貼りつく。
カートは廊下側。用具室の中に入れると動けなくなる。
透真は扉を半分だけ開け、外の赤い廊下を覗いた。
目だけ。身体は出さない。
廊下の奥は暗い。非常灯の赤が、遠くほど薄い。
ゴリ……
壁を削る音。近い。
用具室の外、右側の廊下。
透真は扉を閉めた。音を殺す。
扉の内側の暗闘で、息を薄くする。
袋の中のボルトが、もう一度鳴った。
カラン。
わざとじゃない。
でも、偶然の音の方がよく釣れる。
規則的な音は警戒される。不規則な音は、確かめたくなる。
廊下の爪の音が変わった。
軽い方が来ている。
カツ、カツ、カツ、カツ。
速い。天井の配管から降りた音。壁を伝って床に着地した。
用具室の扉が、外から押された。
鍵はかかっていない。
でも扉は開ききらない角度で止めてある。
隙間から、空気が動いた。
吸気。鼻先が近い。
そして——ボルトの音に反応した。
走る個体が、室内に突っ込んできた。
前脚が床のテープ帯に触れた。
一呼吸。
爪が床を掴もうとした。
掴めない。掴んだ瞬間に離れない。
足が止まる。身体だけが前へ行く。
重心が崩れる。
後脚が同じ帯に触れた。
二本目も止まる。
止まると動きが乱れる。
乱れると、袋の音へ飛べない。
魔族が短く息を吐いた。
怒鳴りでも唸りでもない。
失敗した時の音だった。
焦ると——力で解決しようとする。
魔族が床を蹴った。
ゴリッ。
床を削る音。壁を削る音と同じだった。
追えないなら、壊す。
透真の首筋が冷えた。
接着は強度じゃない。時間をかければ剥がれる。
時間を与えない。
透真はゴミシュートの扉に手をかけた。
取っ手を押さえながら、ゆっくり引く。音を殺す。
暗い穴が口を開けた。
魔族は足が動かない。
動かないから、目の前に開いた穴に反応した。
穴は出口に見える。
出口に見えるものは、追う。
魔族が前へ体を倒した。
貼りついた足が残る。身体だけが先へ行く。
先へ行くほど足は剥がれない。剥がれないほど身体は倒れる。
前脚がゴミシュートの縁に触れた。
金属の縁。滑らか。爪が噛まない。
一呼吸。
透真はその一拍を、見たくなかった。
でも見えてしまう。
赤い目がこちらを向いた。
この距離で目が合うのは、二度目だ。
一度目は偶然だった。
二度目は、向こうが選んでこちらを見た。
透真の喉の奥が、小さく痙攣した。
魔族の爪が縁を滑った。
足元が貼りついたまま、身体が前へ落ちる。
足元が引き戻すのに、重心だけが先に落ちる。遅れて、剥がれる音がした。
落ちる。
ゴミシュートの暗闇に、赤い目が消えた。
落下音は遅れて来た。
下のどこかで、鉄と肉が当たる鈍い音。
一度だけ。
透真は扉を閉めた。音を殺す。鍵をかける。
鍵が回る音は出る。でもこの音は"閉じた"の音だ。
透真は床のテープ帯を見なかった。
帯の上に残ったものを見なかった。
透真は手を見た。
震えていない。
震えていないことが、いちばん嫌だった。
透真は膝に手をついて、手順を始めた。
ゴミ袋を回収する。
床のボルトは拾わない。時間がない。
音の種は残す。残した方がいい時もある。
扉の外。
重い呼吸が、まだどこかにいる。
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4
ドローンの画面の端で、白い文字が滲んだ。
「今、落ちた」
透真は画面を見ない。
見たら、見られていることを思い出す。
思い出すと、呼吸が乱れる。
一度目は、条件が揃って起きた。
二・三度目は、落ちる場所を最初から用意した。
足を止める帯を作った。誘う音を置いた。
透真は手を見た。
さっき見た時と同じだ。
震えていない。
それがどういう意味か、透真は考えなかった。
考える代わりに、カートのボトルを数えた。
洗剤、残り三分の一。養生テープ、半分。雑巾、四枚。ゴミ袋、六枚。
数えると落ち着く。
数は嘘をつかない。
廊下の向こうで、吸気が止まった。
止まった後の沈黙が、いちばん重い。
迷っている沈黙ではない。
聴いている沈黙だった。
ゴリ……
金属を削る音。
用具室の外、すぐ近く。
重い個体が来ている。
走らない。嗅ぐ。削る。待つ。
透真はカートの取っ手を握り、用具室の扉を少しだけ開けた。
赤い廊下。
そこに——影がいた。
大きい。肩が広い。
鼻先が壁に近い。壁を舐めるように匂いを拾っている。
そして、床を見ていた。
テープ帯のあった場所。
そこを避けるように、半歩ずつ位置を変えている。
透真は扉を閉めた。音を殺す。
軽い個体は落ちた。
重い個体は残った。
残っただけじゃない。
こちらの"やり方"を、もう見ている。
匂いで返すと、匂いを避けてくる。
音を置くと、音を避けてくる。
床に罠を敷くと、床を見てくる。
こちらが何かをするたびに、向こうがそれを覚える。
透真が怖いのは、この個体が強いことではなかった。
やり方が通じてしまうことだった。
通じるということは、次は通じない。
ドローンの文字が、もう一度だけ光った。
「……相手、返事してる」
透真は返事をしなかった。
返事の代わりに、洗剤のボトルを一本、カートから抜いた。
匂いで返す。音で返す。床で返す。
返し続けたら、いつか返せなくなる。
その前に、別のものを探す。
透真は赤い廊下の向こうで削れる壁の音を聴きながら、ボトルのキャップに指をかけた。
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5
白波ユウは、椅子の背もたれに体を預けて、画面を見ていた。
見ていたというより、見えていた。
画面は三つ。全部違う情報。
でも映っているのは、同じ赤い廊下だった。
ユウは声を落とした。
「……あの人、またやった」
コメントが流れている。速い。でも内容が変わった。
最初の頃は「逃げろ」「やばい」「通報しろ」だった。
今は違う。
> 空調屋:ゴミシュートは各階独立型と貫通型がある。落下距離次第で生存
> 清掃:シュート内壁はステンレス研磨。爪は噛まない
> 防災屋:シュート下部にダンパーがある。閉まっていれば途中で止まる
> 構造屋:このビルのシュート、貫通型だとしたら地下1階まで落ちる
> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了
ユウはコメントを拾い、オーバーレイを出した。
「シュート落下、生存の可能性あり。下層で再出現注意」
打ち込んで、指が止まった。
再出現。
自分が今打った言葉は、落ちたものがまた来るかもしれないという意味だ。
それを、あの赤い廊下の中にいる人間に伝えている。
ユウは視聴者数を見た。
見ないようにしていたが、見てしまった。
数字が増えている。
増えているということは、この映像を見ている人が増えている。
見ている人が増えているということは——
「見てるだけ」の人も増えている。
ユウはマイクに向かって、静かに言った。
「……ここは実況チャンネルじゃない。
情報だけ出してくれ。
出せない人は、黙って見ていてくれ。
それが今、いちばん助かる」
コメントが一瞬だけ遅くなった。
遅くなったのは、止まったからじゃない。
打ちかけた言葉を、消した人がいたからだ。
ユウは画面を見た。
赤い廊下。
清掃カート。
ボトルのキャップに指をかけている背中。
ユウはオーバーレイをもう一つ出した。
「重い方、床を見てる。同じ手は通じない」
送信した後、ユウは自分の手を見た。
震えていない。
でもユウは知っている。
自分の手が震えていないのは、あの廊下にいないからだ。
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壁の向こうで、鼻を鳴らす音が三度——間隔を揃えて鳴った。




