表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/14

ダクト戦

1


赤い廊下の先に、魔族がいた。


走ってこない。


透真は壁際に背中を寄せたまま、相手を見ていた。

四本足。体が大きい。肩が広い。さっきダクトで音を出した個体より、一回り重い。


そして——床を見ている。


透真の足元を見て、透真の顔を見て、また床を見る。


赤い目の中に、怒りはなかった。

恐怖もなかった。

もっと静かな何かがあった。


計算している。


この床は安全か。この人間は何をしたか。

ここを走って、さっきと同じことが起きないか。


透真の手袋の中で、指先が冷えていた。

追われる怖さなら、走れる。逃げるという選択肢がある。

「待たれる」怖さには、逃げ方がない。


動けば追われるかもしれない。

動かなければ、向こうが先に答えを出す。


透真は横にずれた。

壁に沿って。足音を出さないように。踵を浮かせて、つま先だけで体重を運ぶ。


視界の端に、扉のプレートが見えた。


「空調機械室」


透真は相手から目を離さないまま、手だけで取っ手に触れた。

金属が冷たい。指先が濡れているから余計に冷たい。


マスターキーを差し込む。

鍵穴に金属が入る音。小さい。でも、この静寂では十分に大きい。


魔族の耳が動いた。


透真は鍵を回した。


開く。


透真は中に滑り込んだ。

カートは入れない。車輪が鳴る。

取っ手だけ引き寄せて、廊下に残したまま扉を閉めた。


閉める瞬間、手のひらで取っ手を押さえ、金具が戻る音を殺す。


扉の向こうで、爪の音がした。


カツン。


一つだけ。一歩だけ。


こちらに来たのか。

それとも、別の方向へ行ったのか。


次の音が来ない。


透真は呼吸を止めた。

止めても心臓は止まらない。

心臓だけが、自分の意思を聞かない。


---


2


空調機械室は、赤くなかった。


非常灯の赤が届かない。

代わりに、薄い緑の非常誘導灯が床をぼんやり照らしている。


匂いが違う。

鉄。油。ゴム。そして、どこかで回っているモーターの、焦げた温かさ。


透真は壁に背中をつけた。

コンクリートの冷たさが、シャツ越しに背骨に触れる。


耳を澄ます。


遠くで、低い連続音が鳴っている。ブゥン、という重い回転。

空調は止まっている。でも、この音は空調ではない。


排煙ファン。

火災時に煙を排出するための設備。防火系統に属する。

配電室で「防火:ON」だったのを思い出した。防火系統が生きているなら、排煙ファンも動く。


止めてはいけない設備。法律で決まっている。

だから、位相封鎖の中でも死ななかった。


透真は天井を見上げた。


太いダクト。排気用。

人が入れるサイズではない——と思っていたが、清掃員の体格なら入れる。

透真は痩せている。食事を削っているからではなく、この三年間の深夜勤務で削られたからだ。


ダクトの脇に、点検用の梯子。

そして天井に、点検口。ネジ四本。


透真は胸ポケットを触った。

ドローンはまだ温かい。バッテリーの残熱。

画面は見ない。《CONNECTION LOST》の文字を見たくない。

無いものを確認すると、無いことが確定する。


扉の向こうで、爪の音がした。


カツン。


近い。

扉のすぐ外。


透真は天井の点検口を見た。


上に逃げるか。

上に逃げたら、降りる場所を決めなければならない。

降りる場所がなければ、ダクトの中で詰む。


でも、この部屋にいても詰む。

扉一枚。接着で封鎖しても、長くはもたない。

接着は「密着」であって「強度」ではない。繰り返し叩かれれば、剥がれる。


上に行く。

上に行って、条件を作る。


透真は刻印板に親指を当てた。


排煙ファンの回転音が、部屋の空気を震わせている。

この音の中なら、声を混ぜられる。


「——解体」


点検口のネジが、回るのではなく分解された。

部品が透真の掌に落ちる。金属音ゼロ。


透真は点検口を押し上げ、肩からダクトに滑り込んだ。


膝をつく。金属の板が冷たい。薄い。体重で微かに撓む。

腹這いになる。体重を分散させると、音が減る。


点検口のパネルを戻した。

接着は使わない。声を出す余裕がない。

置いただけ。載せただけ。

でもそれで十分だ。下から見れば、閉まっているように見える。


ダクトの中は狭い。

天井が、背中に触れそうなほど低い。

息が金属に当たって反響する。自分の呼吸が、四方から返ってくる。


透真は口を閉じ、鼻で吸い、口で細く吐いた。

吐く息を、回転音の振動に合わせる。

音を音で消す。現場で覚えた技だ。騒音の中で会話するとき、機械音のリズムに合わせて喋ると声が通りにくくなる。


下で、扉が軋んだ。


取っ手を押さえきれなかった。テープを貼る時間がなかった。

小さな音。でもこの静けさの中では、十分に大きい。


魔族が、機械室に入ってきた。


---


3


ダクトの中を、透真は進んだ。


四つん這い。腹を金属に擦りながら。

手袋が板に触れるたび、キュ、と鳴りそうになる。

鳴りそうになった瞬間に力を抜く。押さない。滑らせる。


左に行くと戻り。右に行くと排気側。

排気側へ進む。回転音がある方へ。


音のある場所が、いちばん安全だった。

音が透真の存在を隠してくれる。


ダクトの分岐を右に曲がったとき、下から音が聞こえた。


爪が金属を叩く音。


カツン、カツン。


機械室の中を歩いている。

重い足音。広い肩の、大きな個体。


——あの「待つ」やつだ。


次の瞬間、別の音が混じった。


軽い。速い。爪の間隔が短い。


カツ、カツ、カツ、カツ。


違う。

重い足音と、軽い足音。同時に。


二体いる。


透真の背中に冷たいものが走った。


軽い方の足音は、さっきの「待つ」個体とは明らかに違う。

リズムが速い。歩幅が短い。体が小さくて、脚が長い。

走るために生まれたような足音だった。


重い個体は「待つ」。軽い個体は「走る」。

役割が違う。


そして——軽い個体の足音が、上を向いた。


天井を叩く音。


ドン。


ダクトの板が撓んだ。

透真の身体が跳ねる。


来る。


透真は進んだ。止まったら追いつかれる。

進めば音が出る。でも止まればもっと出る——心臓の音が。


排煙ファンの回転音が近づいてきた。

ダクトが振動している。空気が引っ張られる。頬が乾く。


前方に、丸い金属の円筒。排気ファンのハウジング。

その脇に、金網のグレーチング——メンテナンス通路への出口。


透真はダクトからメンテ通路に降りた。


金属の格子が靴底に触れる。雑巾を接着した足が格子に引っかかる。滑らない。


透真は通路の端に立ち、下を見た。


縦に落ちる空洞。排気シャフト。

吹き抜けとは違う闇。こちらは鉄と油の匂いがする、細い闇。


底は見えない。


透真は格子板を見た。

メンテナンス用の金属格子。取り外し可能。固定はクリップ二つだけ。

点検のために簡単に外せるようになっている。

透真は年に二回、これを外して格子の下を清掃してきた。外し方は身体に入っている。


外せる。

外せるなら、穴が作れる。

穴があれば、落ちる。


透真は知っていた。

自分がこれから何をするか。


さっき、吹き抜けで一体落とした。

あのとき、目が合った。赤い目。爪が手すりを掴んだ一秒。

その記憶が、まだ手のひらに残っている。


もう一度、同じことをする。

「同じこと」を、知っていてやる。


一度目は無我夢中だった。手順を組み立てて、手が動いて、結果が出た。

二度目は違う。結果を知っている。

穴に落ちるものが何か、知っている。

落ちた後に何が起きるか、知っている。


知っていて、やる。


透真の手が、一瞬だけ止まった。


その一瞬の中に、何があったのか、透真自身にも分からなかった。

躊躇か。嫌悪か。恐怖か。

それとも、「自分はこういうことができる人間だ」という、冷たい発見か。


一瞬で終わった。


終わったのは、後ろのダクトから爪の音が聞こえたからだ。


軽い個体が来ている。速い。近い。


透真は刻印板に親指を当てた。

回転音に声を混ぜる。


「——解体」


格子のクリップが分解された。

金具が掌に収まる。落下音ゼロ。


格子板を一枚、持ち上げた。

音の出ない角度で。脇の梁に立てかける。


穴が開いた。

黒い穴。格子一枚分の暗闇。


透真は養生テープを千切り、穴の手前の格子に小さく貼った。

暗い中でも指先で触れば分かる印。

自分がこの穴に落ちないための、最低限の目印。


次に、ゴミ袋を穴の「向こう側」へ、そっと転がした。

中のボルトが、ビニール越しに金属と触れ、微かな音を立てる。


カラ……


小さい音。

でもこの狭いダクトの中では、反響して大きくなる。


透真はメンテ通路の端——ファンのハウジングの影に、身を低くした。


待つ。


後ろのダクトから、軽い爪の音が近づいてくる。


カツ、カツ、カツ、カツ。


速い。迷いがない。

この個体は「待つ」やつではない。「走る」やつだ。音に反応して、まず飛ぶ。


メンテ通路にグレーチングの出口から降りる音がした。

軽い。着地が速い。脚が細い。

体が小さく、頭が鋭い。赤い目が二つ、暗闇の中で光った。


透真は見ていた。

ファンの影から、息を殺して。


魔族は穴の向こう側で鳴った金属音に、頭を向けた。

身体が沈む。後ろ脚に力が入る。


跳ぶ。


格子を蹴って、一直線に、音のした方へ。


前脚が格子を踏む——はずだった。


格子がない。


脚が空を掴んだ。


一瞬、赤い目が広がった。

驚きの形だった。人間ではないのに、驚きだけは人間と同じだった。


身体が穴に落ちた。


透真は見ていた。

今度は見ていた。前回は見なかった。覗かなかった。


でも今回は、ファンの影から見えてしまった。

落ちる瞬間の、赤い目。

自分を見ていた目。


一秒。


シャフトの下から、鉄と肉がどこかに当たる鈍い音がした。

遅れて、金属がきしむ反響。


回転音だけが残った。


透真はファンの影にいたまま、五秒間、動けなかった。


五秒は長い。

五秒の間に、呼吸を三回した。三回とも浅かった。


さっきの赤い目が、瞼の裏に残っている。

吹き抜けの一体目と合わせて、今夜二つ目。


二つ目の方が重い。


一つ目は「条件を揃えたら起きた」結果だった。

二つ目は「起きることを知っていて、条件を揃えた」結果だった。


同じことだ。

同じことなのに、重さが違う。


透真は手袋を見た。

震えていた。前回と同じだ。


でも前回は、震えの理由が「恐怖」だと思っていた。

今回は分からない。恐怖なのか、それとも別の何かなのか。


透真は穴を覗かなかった。


覗かないのは、前回と同じだ。

でも理由が変わっていた。

前回は「見たくない」から覗かなかった。

今回は「見ても何も変わらない」から覗かなかった。


透真は格子板を戻さなかった。


穴はこのままにする。

次のために。


この穴は「罠」ではなく「地形」になる。

透真が作った地形。透真だけが知っている地形。


養生テープの目印が、穴の手前にある。

暗闇でも指先で触れば分かる。自分だけが分かる。


透真はメンテ通路を逆方向へ、静かに移動し始めた。

回転音が背中で鳴る。

その音が、今は自分の呼吸を隠す毛布みたいだった。


---


4


白波ユウの画面は、まだ暗かった。


《CONNECTION LOST》


その四文字が、モニターの真ん中に座っている。

動かない。消えない。


コメント欄は止まらなかった。


> 返せ

> 映像返せ

> 切れてから何分だ

> 大丈夫なのか

> 特定すれば——

> するなって!

> 落ち着け

> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了(※切断直前まで)


ユウはマイクに向かって言った。


「……静かにしろ」


声が低かった。低すぎた。自分でも分かる。


「焦って特定したら、助ける前に殺す。俺はそう言った。変わってない。

 今やるのは、回線の穴を探すこと。それだけだ」


ユウは解析ツールを回した。

ローカル規格の信号残響を追う。途切れた回線の「端」。

微弱なビーコンが、数秒に一度だけ跳ねる。生きてはいる。繋がってはいない。


ユウは視聴者に言った。


「通信屋、電波屋。この規格に詳しいやつ、手順出せ。

 穴を再現できるなら、回線を戻せるかもしれない」


コメントの色が変わった。騒ぎから、報告へ。


> 無線屋です ローカル配信規格は中継アンテナが必要

> ただし金属ダクト内で導波管みたいに電波が伸びることがある

> 排煙設備付近なら外部まで届く可能性

> 排煙ダクトは屋上まで貫通してるはず

> ダクトが生きてるなら、電波の「道」ができてる


ユウは画面を見たまま、唇を噛んだ。


ダクト。

排煙ダクト。

もしあの清掃員が今、ダクトの中にいるなら——。


ユウにはどうしようもない。

画面が暗い。声が届かない。

「動け」とも「止まれ」とも言えない。


何千時間もダンジョン映像を見てきた。

探索者がピンチになる映像。危機一髪で生還する映像。

画面の前で「行け」「逃げろ」と叫んだことは何度もある。


でもあのときは、全部「終わった後」の映像だった。

結果を知っていた。


今は違う。

結果を知らない。

画面が暗い。何が起きているか分からない。

分からないまま、待つことしかできない。


ユウは、自分の手を見た。

キーボードの上で、指が震えていた。


配信者の手が震えるのは、事故だ。

事故だと分かっているのに、止められない。


ユウはキーボードから手を離し、膝の上に置いた。

そして画面だけを見つめた。


暗い画面。

《CONNECTION LOST》。


ユウは言った。


「……待つ。待つしかない。あの人が生きてるなら、回線は戻る。

 あの人はダクトの中の配線も、排煙の経路も知ってるはずだ。

 俺たちより、あの人の方がビルを知ってる」


コメント欄が、静かになった。

静かになったのは、人が減ったからではない。

全員が、同じ暗い画面を見ているからだった。


---


5


透真は、メンテ通路の出口からダクトに戻り、点検口を下ろして機械室に降りた。


床に足がついた瞬間、膝が笑った。

ダクトの中では気づかなかった疲労が、地面に触れた途端に押し寄せてくる。


機械室の空気が重い。排煙ファンの回転音が壁を伝って振動している。


透真は壁に手をついて、三秒だけ目を閉じた。


まぶたの裏に、赤い目が浮かんだ。


今夜、二つ目。


透真は目を開けた。

三秒で十分だ。三秒以上閉じたら、眠るか泣くかのどちらかになる。

どちらも今は許されない。


透真は機械室の扉に近づいた。


耳を当てない。当てると自分の呼吸が壁に反響する。

代わりに、扉の下の隙間を見る。赤い光の線。


揺れていない。

外は静かだ。


透真は取っ手に手をかけた。

鍵を回す。扉を開ける。


赤い廊下に出た瞬間、胸ポケットのドローンが震えた。


振動。通知。

回線が戻りかけている。


透真は足を止めず、ドローンを手のひらで覆いながら画面を見た。


暗い画面に、薄い文字が浮かんでいた。


《RECONNECTING…》


次の瞬間、映像が戻った。


赤い廊下。天井の配管。透真の手袋。

カメラが透真の顔を映す。緑の非常誘導灯から赤い非常灯に変わった光が、頬を切るように照らしている。


白い文字が重なった。


ユウのオーバーレイ。


「映ってる。生きてた」


透真はその文字を、二秒だけ見た。


「生きてた」。


過去形だった。

ユウは、透真が死んでいる可能性を考えていた。

考えていて、でも待っていた。


透真はドローンのカメラに、小さく頷いた。


その頷きが、画面の向こう側に届いたとき。

コメント欄が壊れた。


> いた!!!

> 生きてる!!!

> 清掃員ニキ!!!

> うわああああ

> よかった

> よかった……

> まって泣いてる無理

> 配信者も震えてたぞ


透真にはコメントが読めない速度で流れていた。

でも、流れの「量」が変わったのは分かった。

画面が文字で白くなるほど、流れている。


透真はドローンを伏せた。


光を殺す。いつもの動作。


でも今回は、伏せる前に一瞬だけ、画面の光を見た。

文字の洪水が、白い光になって、手のひらを照らしていた。


温かくはない。液晶の光に温度はない。

でも、暗闇の中で光を見ると、目が温かくなる錯覚がある。


透真は廊下を進んだ。


カートは機械室の外に置いたままだった。倒れていない。金具も鳴っていない。

透真は取っ手を握り直した。


洗剤、四本と少し。モップ。テープ。雑巾。看板。シート。ライト。

全部ある。減っていない。

今の事故処理では、洗剤を使わなかった。

ダクトの穴と、音だけで落とした。


備品が減らなかった。

それだけのことが、今は「まだ戦える」という意味になる。


透真はカートを引いた。


そのとき、廊下の奥——さっき「待つ」個体がいた場所から、音が聞こえた。


透真は足を止めた。


爪の音ではなかった。


吸気の音だった。


長い。深い。鼻先で空気を吸い込む音。

壁に鼻を押し当てているような、粘つく呼吸。


匂いを嗅いでいる。


透真は自分の体を見下ろした。

手袋。安全靴。シャツ。汗。

汗の匂い。洗剤の残り香。ゴムの匂い。鉄の匂い。


消せない。

洗浄スキルは汚れを消す。でも、生きている人間の体臭は汚れではない。


あの個体は、床を警戒して走ってこなかった。

だから、走る代わりに嗅いでいる。


走れないなら、嗅ぐ。

目で追えないなら、鼻で追う。


学んでいる。


透真の胃の底が、きゅっと縮んだ。


床で滑らせる罠は、もう通用しないかもしれない。

「相手が知らないこと」で勝つ方法が、一つずつ減っている。


敵が学ぶ。

透真も学ぶ。

でも、敵の方が数が多い。学ぶ速度が同じなら、数が多い方が勝つ。


透真はカートの中を見た。


洗剤。テープ。モップ。雑巾。ゴミ袋。シート。看板。ライト。ドローン。


同じ道具。

でも、使い方はまだ全部試していない。


透真は赤い廊下を見た。


奥で、吸気の音が続いている。

ゆっくりと。確実に。こちらの居場所を、匂いで絞り込もうとしている。


透真はドローンの画面を、最後に一度だけ見た。


ユウのオーバーレイ。


「次は"匂い"で来る。対策いるぞ」


透真は頷かなかった。


頷く代わりに、洗剤のボトルを一本、カートから抜いた。


匂いで追うなら、匂いで騙す。

洗剤の匂いは強い。廊下に撒けば、人間の体臭を上書きできる。

ただし撒いた場所が「ここを通った」という地図になる。


匂いで騙すか、匂いで地図を描くか。

どちらに使うかで、次の手が変わる。


透真はボトルを握ったまま、赤い廊下を進んだ。


手汗で手袋が濡れている。

でも、指は動く。


指が動く限り、まだ終わっていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ