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4/18

清掃員の武器は"備品"

1


倉庫の暗闘の中で、ドローンの画面だけが薄く光っていた。


透真はもう、反射でドローンを伏せなかった。

三度目になると、手が覚える。光の漏れる方向を壁に向けて、指で半分隠す。

考えるより先に手が動いていた。恐怖も、繰り返せば手順になる。


画面の上に、白い文字が重なった。


「そのビルの中、どこに何があるか分かる?」


ユウからの二度目の問い。

一度目はさっき、頷いた。

でもユウは確認している。「分かる」の精度を測ろうとしている。


透真は倉庫の壁に目をやった。

暗闘の中で、一枚の紙だけが白く浮いている。


「フロア案内/避難経路図」


三ヶ月前のカレンダーと同じで、誰も更新していない。

端が剥がれかけていて、埃が紙の繊維に食い込んでいる。

去年、透真がこの倉庫を掃除したとき、剥がすか迷って残した紙だ。

剥がさなくてよかった。人生で初めてそう思った。


透真は手袋の親指で埃を擦った。

強く擦ると埃が舞う。舞った埃は喉に入る。咳が出たら終わる。


ドローンを紙に近づける。

カメラが避難経路図を映す。


透真は清掃カートの中段を探った。指先が、油性ペンに触れた。


キャップを外す。

音を立てない。歯で噛まない。指先でゆっくり引き抜く。

ゴムの縁が指先に引っかかって、小さな摩擦だけで抜けた。


透真は避難経路図の端に、丸を一つ描いた。

丸の横に、小さく書く。


「備品庫(今ここ)」


その丸は、きっと向こう側の画面にも映っている。

誰かが見ている。自分がどこにいるかを。


書いた瞬間、不思議な感覚があった。

地図に自分の居場所を書くのは、「ここにいる」と宣言することだ。

隠れているのに、存在を示している。

矛盾していた。でも、誰かに知ってもらわなければ、死んだことすら気づかれない。


白い文字が重なった。


「OK。62F。他に開く扉あった?」


透真は、ペンでもう一つ印を描いた。

さっき試した五つの扉の位置に、小さなバツ。


五つのバツ。全部壁になった扉。


そしてこの備品庫の位置に、丸。

開いた扉はここだけ。


ユウからの文字。


「1/6。生存率みたいだな」


透真は、その文字に返事をしなかった。

返事の代わりに、ペンのキャップを音もなく嵌め直した。


---


2


白波ユウの画面には、手書きの印がついた避難経路図が映っていた。


五つのバツ。一つの丸。

それだけで、六十二階の状況が見えた。


「……五つ閉じて、一つだけ生きてる」


ユウの声が、配信に落ちた。いつもより低い。

自分の声のトーンが変わっていることに、ユウ自身は気づいていない。


コメント欄が動く。


> 5つ壁化ってなに

> 位相封鎖やべえ

> 1個だけ開いてるのが逆に怖い

> 清掃員ニキの手書き丁寧すぎん?

> 特定班動いていい?

> ビルどこか分かれば救援——


ユウは即座に声を被せた。


「特定やめろ。場所の情報は出すな」


言い方が強かった。配信者としては、視聴者を怒鳴ると数字が落ちる。

でも今はそんなことを考える余裕がない。


「理由は一つ。ダンジョンの位相封鎖中は、内部の存在も外部信号を拾える可能性がある。俺は今まで何千時間もダンジョン映像を解析してきたが、閉鎖空間の中で情報が"中にいるもの"に漏れた事例が複数ある。場所を割ったら、敵にも割れる」


コメント欄が一瞬止まった。

止まった後、流れが変わった。


> 了解

> 特定班待機

> ユウさんの判断に従う

> これマジの案件だ


ユウは息を吐いた。吐いた息が、マイクに入らないように顔を逸らした。


画面の中で、透真がペンのキャップを嵌め直す動きが映った。

静かな動作だった。音を殺す動き。自然にやっている。


ユウは、その動きを見ながら思った。


この人は、映像の中で一度も声を出していない。

頷くか、首を振るか、手で示すか。

全部、音を出さない方法で会話している。


それは訓練じゃない。

現場の癖だ。


ユウはキーボードに指を置いた。

短く打つ。光る時間を最短にする。


「次、動けそうなら見せてほしい。裏動線。配電。水回り。扉。どれが生きてるか」


ドローンの映像の中で、透真が小さく頷いた。


ユウは最後に一行だけ追加した。


「ドローンは目だけでいい。光は最小。音はゼロ」


---


3


透真は倉庫の扉を開ける前に、三つのことをした。


一つ目。ドローンのライトに貼ったテープを一段重ねた。

光の隙間を、さらに狭くする。カメラが映る最低限の光量だけ残す。


二つ目。安全靴の靴紐を結び直した。

ここまで緩いまま動いていた。走ることになったら、緩い靴で転ぶ。

転んだら、起き上がる前に終わる。


三つ目。清掃カートの中身を確認した。


中性洗剤——床用。残り四分の一。

中性洗剤——ガラス用。ほぼ新品。

モップ——柄にヒビ。ヘッドは替え可能。

養生テープ——残り二巻と半端。

ゴミ袋——大。三枚。

雑巾——四枚。湿っているものが二枚。

簡易ライト——電池式。未確認。


透真は簡易ライトのスイッチに指を触れたが、点けなかった。

点けたら電池の残量が分かる。でも光が出る。今は、光を出す余裕がない。


代わりに、振った。耳元で小さく振ると、中の電池がかすかに動く音がした。

入っている。生きているかは分からない。でも、空ではない。


これが、今の全財産だった。


探索者なら剣がある。盾がある。回復魔法がある。仲間がいる。

透真には、洗剤二本とモップとテープと雑巾とゴミ袋とライトがある。


笑えるくらい貧しい。


でも透真は、この全部の「使い方」を知っていた。


洗剤は汚れを落とすものだ。でも、床に撒けば摩擦を変える。

テープは貼るものだ。でも、扉に貼れば音を殺す。隙間に詰めれば封鎖になる。

ゴミ袋は被せるものだ。でも、膨らませれば音が出る。濡らせば重くなる。

モップの柄は掃くためのものだ。でも、突っ張れば扉を止める。


どれも「掃除の道具」だ。

「掃除の道具」であることは、誰も疑わない。

疑わないものは、警戒されない。


透真は、カートの中身を見下ろしながら、一つだけ確信していた。


——戦う気はない。


戦ったら負ける。

あの四本足の化け物に、モップで勝てるわけがない。


でも、"戦わずに終わらせる"方法なら、ある。


事故は"起こるもの"じゃない。事故は"条件が揃うと起きるもの"だ。

滑る床。閉じた扉。見えない視界。

条件を揃えれば、事故は起きる。


清掃員は、事故を"起こさない"ために現場を見てきた。

どこが滑るか。どこが危ないか。どこで人が転ぶか。


それを全部、"起こす側"に回せばいい。


透真は、洗剤のボトルを一本、カートから抜いた。

床用。残り四分の一。

この一本が、いま透真が持っている「最も危険な道具」だった。


誰もそう思わない。

洗剤を「危険だ」と思う人間は、現場にしかいない。


透真はボトルをカートに戻した。まだ使わない。

使う場所と、使うタイミングを選ぶ。それが"事故処理"の基本だ。


倉庫の扉に手をかけた。


テープが音を吸う。指先で引く。蝶番の角度。六割五分。


廊下が開いた。


赤い。冷たい。静か。

空調の止まった空気が、粘るように肌に触れた。


カートの車輪には、さっき養生テープを巻いた。

引いて動かす。押さない。

遠ざかる音で移動する。


透真は裏動線に入った。


天井が低い。配管が剥き出しで走っている。

パイプの表面に結露が浮いている。空調が止まったせいで、温度差が露になっている。


透真は結露に触れた。指先が濡れる。


(水は生きてる。)


配管の中を水が通っている。それは、ポンプがどこかで動いているということだ。

電気が、どこかで生きているということだ。


透真は配管を辿るように、視線を天井に沿わせた。

ダクト。点検口。非常灯のカバー。

そして、壁面に埋め込まれた小さな盤。


ラベル。


「SPR-62F」


スプリンクラー系統。六十二階分岐盤。


さっき、倉庫の天井でスプリンクラーのヘッドが動いたのを思い出した。

あのとき「生きている」と思った設備。


透真は盤に手を伸ばしかけて、止めた。

金属の蓋を開ければ音がする。

今は、位置だけ確認する。


ドローンをSPR盤に向けた。カメラがラベルを映す。


透真はさらに進んだ。


次の角を曲がると、通路が少し広くなった。

天井にダクトの合流点がある。ここは空気が動く場所だ——普段なら。

今は止まっている。でもダクト自体は物理的に繋がっている。


透真はダクトの点検口を見上げた。

30センチ四方。ネジ四本。

人が入れるサイズではない。でも、音は通る。

ダクトの中に音を流せば、廊下に反響する。反響は、方向を誤認させる。


透真はその位置を頭に刻んだ。


さらに進む。


足元の床が変わった。

大理石タイルから、ワックスのかかったリノリウムに。


——ここだ。


透真は足裏の感触で分かった。

このリノリウムは、透真が毎月ワックスをかけている床だ。

新しいワックスの上に古いワックスが重なっていて、表面が妙に滑らかになっている。


清掃マニュアルでは、ワックスは古い層を剥がしてから塗り直す。

でも予算が足りなくて、上から重ね塗りしていた。鬼頭の指示だった。

「剥離剤の発注は来月にしろ。まだ使えるだろ」


あのときの手抜きが、今、意味を変えようとしている。


重ね塗りのワックス床は、水をかけると異常に滑る。

清掃員なら誰でも知っている。

毎年、ワックス作業中に「滑って転んだ」報告が出る。


透真は床を見下ろした。


この床に、洗剤を撒いたら。


透真の頭の中で、条件が揃い始めた。


——滑る床。

——反響するダクト。

——まだ生きているスプリンクラー。

——音を出せるWET FLOOR看板。


点と点が、線になりかけている。


まだ繋がらない。でも、見えてきた。


透真は洗剤のボトルに手を触れた。

触れただけ。握らない。

握るのは、場所と時間が決まってからだ。


その瞬間、廊下の奥で影が動いた。


赤い光の中を、四本足の輪郭が横切る。

透真はカートの影に身を寄せた。呼吸を薄くする。


影は止まらなかった。通り過ぎた。


透真は、通り過ぎた方向を見送った。

追わない。確認しない。


代わりに、影が消えた廊下の「先」を見た。

そこに、もう一つの扉があった。


プレート。


「清掃用具室」


透真は、その扉に近づいた。

取っ手。金属。剥げた塗装。何年も清掃員の手が触れてきた跡。


指先で引く。


——開いた。


扉を開けた瞬間、洗剤の匂いが濃く押し寄せた。

棚にボトルが並んでいる。洗剤、洗剤、洗剤。

モップのヘッド。雑巾の束。バケツ。

そして床に、黄色いプラスチックの看板。


「WET FLOOR(すべりやすいので注意)」


透真はその看板を持ち上げた。

軽い。片手で持てる。


投げられる。

倒せば音が出る。

立てれば目を引く。

そして何より——この看板は、"ここが滑る"と宣言するためのものだ。


今夜は、宣言なしで滑らせる。


透真は看板をカートに載せた。

テープを巻いた車輪が、音を吸った。


用具室の棚を、もう一度見る。


洗剤のストック。三本。

これで、カートの中のものと合わせて五本になった。


五本。

五本分の「摩擦ゼロ」が作れる。


透真は棚のいちばん下の段に目を留めた。

ビニール製の大きなシート。床の養生用。

塗装工事のときに敷くやつだ。


透真はそのシートを引き出した。広げない。丸めたまま、カートの下段に押し込む。


シートは滑る。シートの上に洗剤を撒いたら、もっと滑る。


カートが重くなった。


重くなったカートを、透真は引いた。

さっきより重い。でも、さっきより心が軽かった。


——戦う気はない。


帰る気しかない。


でも、帰るために"条件を揃える"ことはできる。


透真は用具室を出て、扉を閉めた。

テープで取っ手の音を殺す。もう何度目か分からない。

でも毎回やる。省略したら死ぬ。


ドローンの画面を見た。


コメント欄が、また高速で流れている。

その中に、ユウからの白い文字が一つ。


「視聴者が言ってる。"この清掃員、備品で戦う気だ"って」


透真はその文字を一秒だけ見て、目を逸らした。


戦う気じゃない。


帰る気だ。


---


4


最上階のラウンジでは、時間が腐り始めていた。


封鎖から何分経ったのか。腕時計の針は動いている。

でも、恐怖の中の一分は、十分の重さがある。


九条玲司が全員をテーブルの周りに座らせた。

テーブルの上には、乾いたオードブルがそのまま残っている。

生ハムの端が丸まって、薄い赤色が茶色に変わりかけていた。

シャンパンのボトルは倒れている。誰かの肘が当たったのだろう。


さっきまで祝宴だった場所が、何も変わっていないのに、まったく違う場所になっていた。


「整理します」


九条の声は平静だった。

だが、その平静さの下に何があるのか、もう誰も信じていなかった。


「現状。通信は全滅。扉は内側からも開かない。外部との接触手段はゼロ。

 我々がいるのは六十二階、最上階。下の階の状況は不明です」


城戸マサキがソファに沈んでいた。

さっきはテーブルを叩いた。今は叩く力もないように、膝を揺らしている。

揺らすのをやめたら、何かが壊れると分かっているみたいに。


「不明って……下に誰かいるだろ。警備とか、清掃とか——」


星野玲奈が端末を見ながら答えた。


「夜間残留者リストでは、清掃員が数名。警備員が二名。

 あとは——私たちです」


「清掃員」


九条がその単語を拾った。

拾い方が、他の単語と違った。品定めをするように、音の重さを測っている。


「何人ですか、正確に」


「……三名。いずれもFランク登録の生活魔法保持者です」


九条は眼鏡を押し上げた。


御影隼人が壁に寄りかかって腕を組んでいた。

さっきから視線が扉に戻る。扉の向こうの沈黙が、御影の意識を引きずっている。


「清掃員がどうした。あいつらに何ができる」


御影の声には苛立ちがあった。

苛立ちの正体は、自分に武器がないことだ。

武器がないことを認めたくないから、別の誰かを下に見ることでバランスを取ろうとしている。


九条は御影を見なかった。


「できることがあるかどうかは、管理する側が決めることです」


つぐみが、テーブルの端で小さく口を開いた。


「……あの、下の人たちは、大丈夫なんでしょうか」


その声は質問の形をしていたが、本当に聞きたいことは別だった。

「あの扉の向こうで助けを求めた人は、大丈夫だったんですか」

それを聞く勇気がなくて、「下の人たち」に置き換えていた。


九条は答えなかった。


代わりに、モニターの《PHASE SEALED — ALL FLOORS》の表示を見た。


「現時点では、我々にできることは限られています。

 外部がこの異常を検知し、対応チームが来るまで——」


「いつだよ、それ」


城戸が遮った。

声が震えていた。震えを怒りで上書きしようとしていた。


九条は沈黙した。

沈黙の長さが、答えだった。


扉の向こうで、爪の音がした。


カツン。カツン。


今度は複数。二つ、三つ。

さっきより多い。さっきより近い。


御影が壁から背中を離した。

拳を握った。武器のない拳を。


九条が御影を見た。


「御影くん」


御影は九条を見返した。

その目に、さっきとは違うものがあった。

怯えではない。怯えの一歩手前の、硬い空白。


九条は静かに言った。


「何か策は?」


御影は答えなかった。


拳を握ったまま、扉を見た。

扉の向こうで、爪の音が止まった。


止まった後の沈黙が、ラウンジの全員を押し潰した。


---


5


裏動線。


透真は、カートを引きながら、頭の中で地図を描いていた。


——六十二階。裏動線。

——使える扉:備品庫、清掃用具室。

——壁化した扉:非常階段×3、設備通路、搬入口。

——生きている設備:スプリンクラー系統(未確認だが可能性あり)、配管の水。

——死んでいる設備:エレベーター、通信、空調、内線。

——手持ち:洗剤×5、モップ、テープ×2半、ゴミ袋×3、雑巾×4、看板×1、養生シート×1、ライト×1(未確認)、ドローン×1。


地図。

頭の中に地図がある。


三年間、毎日このビルを歩いた。

どの階に何がある。どの扉がどう開く。どの配管がどこに繋がっている。

清掃するたびに、身体が覚えた。手が覚えた。足の裏が覚えた。


その記憶が、今、"地図"になっている。


誰にも聞かれなかった地図だ。

「六十二階の裏動線のリノリウム床は重ね塗りワックスで滑りやすい」なんて情報を、誰が欲しがる。

「備品庫の蝶番は六割五分で鳴る」なんて知識を、誰が必要とする。


でも、今は違う。


今、この情報を持っているのは、このビルで透真だけだ。


六十二階の人間で、この床が滑ることを知っているのは、透真だけ。

この扉の鳴り方を知っているのは、透真だけ。

この配管がどこに繋がっているかを身体で覚えているのは、透真だけ。


誰にも必要とされなかった三年間が、たった今、意味を変えた。


透真は立ち止まった。


赤い廊下の真ん中で、カートの取っ手を握ったまま、三秒だけ動けなかった。


三秒の間に、何かが胸の底で動いた。

嬉しさじゃない。誇りでもない。

もっと硬くて、もっと苦い何か。


三年間、この仕事を馬鹿にされてきた。

「食洗機じゃん」と笑われた。

「Fのくせに」と言われた。

「床だけ見てろ」と言われた。


その全部が、今、ひっくり返ろうとしている。


ひっくり返ることが嬉しいんじゃない。

三年間、ひっくり返らなかったことが、ただ悔しかった。


透真は三秒で動き直した。

感傷に浸っている暇はない。感傷は音を出さないが、時間を食う。

時間を食われたら、爪の音に追いつかれる。


透真は裏動線の角を曲がった。


その先に、もう一つの扉。


プレート。


「配電室(中層管理分室)」


透真は取っ手に手をかけた。


金属。冷たい。


——動かない。


壁化ではなかった。鍵がかかっている。普通の鍵。

電子錠ではなく、物理錠。シリンダーキー。


透真は、清掃員用のマスターキーをポケットから出した。

清掃部門に支給されている、裏動線のドアを開けるための鍵。

夜間清掃では、あらゆる裏部屋に入る必要がある。だからマスターキーが渡されている。


鬼頭が渡すとき、こう言った。


「失くすなよ。弁償だからな」


あのとき鬼頭は、この鍵の本当の価値を知らなかった。

清掃員にビルの裏側を全部開ける鍵を渡すことが、何を意味するか。

「掃除に必要だから」としか思っていなかった。


透真はマスターキーを差し込んだ。


回った。


扉が開く。


中は暗い。

簡易ライトを点けたい。でもまだ点けない。

代わりに、ドローンのカメラを入り口に向けた。微かな青い光が、部屋の輪郭を浮かべる。


配電盤。


壁一面に並ぶブレーカーの列。

ラベルが一つずつ貼ってある。「照明」「空調」「ELV」「通信」「SPR」「防火」「非常電源」。


透真は、ラベルを一つずつドローンに映した。


画面の向こうで、コメント欄が加速しているのが分かった。


白い文字が重なった。


「全部映せ。視聴者に設備の専門家がいる。解析する」


透真はドローンをゆっくり動かした。

ラベルからラベルへ。一つずつ。丁寧に。

清掃するときと同じ速度で。拭き残しがないように。


「SPR」 のブレーカーに来たとき、透真は指で触れた。


レバーの位置。


——ON。


スプリンクラー系統は、電源が生きていた。


透真の口元が、ほんの少しだけ動いた。


笑ったのかもしれない。

安堵かもしれない。

あるいは、ただ息が漏れただけかもしれない。


でも、その瞬間、ドローンのカメラは透真の顔を映していた。

赤い光の中で、汗にまみれた顔が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——緩んだ。


コメント欄が、流れた。


> 笑った

> 清掃員ニキ笑った

> いや泣くだろ普通

> SPR生きてんのか

> これ使えるぞ

> 水と電気が生きてるなら——


透真はドローンから目を逸らした。


笑ったつもりはなかった。

でも、見られていた。

自分でも気づかない表情を、知らない誰かが見ていた。


その感覚は、まだ名前がつかない。


透真は配電室を出て、扉を閉めた。

鍵をかける。マスターキーをポケットに戻す。


廊下に戻った瞬間、耳が拾った。


遠くで、爪の音。


一つ。二つ。三つ。


近づいている。


透真はカートの取っ手を握り直した。


手袋の中で、手汗がじっとりと冷たい。

でも、カートの中身は増えた。

頭の中の地図は広がった。

そして、一つだけ確認できた。


——水と電気は、まだ味方だ。


透真は赤い廊下を、音を殺して進んだ。


ドローンの画面が、最後に一行だけ光った。


ユウからの文字。


「あんたの頭の中の地図、全部もらう。——次は、罠を作ろう」


透真は頷かなかった。


代わりに、洗剤のボトルのキャップに、指をかけた。


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