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3/17

迷子の配信ドローン

1


透真は廊下を移動していた。


壁に肩を擦りつけるように、背中を丸めて、一歩ずつ。

清掃カートは押さない。キャスターが鳴る。代わりに取っ手を片手で引いて、"引きずる"ように動かした。押す音と引く音では、聞こえ方が違う。押す音は「向かっている」、引く音は「遠ざかっている」。追うものは、遠ざかる音を後回しにする。


ネズミ駆除のときと同じだった。

逃げるネズミを追う人間は、近づく音に反応する。

だから透真は"遠ざかる音"で動く。


赤い非常灯の中で、影が動いていた。


一つじゃない。

さっきまで一つだった影が、二つになっている。

廊下の奥と、その手前。

交互に動く。片方が止まると、もう片方が進む。


挟まれている。


透真の喉が干上がった。唾を飲もうとしたが、唾がなかった。

心臓が速い。速すぎて、鼓膜の裏で脈拍が聞こえる。自分の身体がいちばん騒がしい。


角の手前で止まった。

床の光り方を見る。

赤い非常灯の反射が、角の向こうで途切れていた。そこだけ、光が吸われたように暗い。


清掃員は、光の癖を知っている。

客用廊下は照明が多いから反射も多い。裏動線は少ない。

光が途切れている場所は、裏側だ。暗い方が、見られにくい。


透真は養生テープを指先でちぎった。歯は使わない。歯で噛むと「パチッ」と鳴る。指でゆっくり引き裂くと、繊維がほどけるような小さな音しか出ない。


テープをモップの柄に巻く。握りが滑らないように。

手汗がひどい。手袋の中が湿っている。

手袋を外したい。外したら、道具が滑る。外せない。


角を曲がった。


裏動線。天井が低い。配管が剥き出しで走っている。

その先に、小さな扉があった。「備品庫」のプレート。取っ手の金属が剥げて、素手の跡が何層にも重なっている。


——透真自身の手の跡も、どこかにあるはずだった。


取っ手に手をかけた。


開いた。


身体の中で、何かが緩んだ。膝が、ほんの少しだけ笑った。

壁になっていない扉。昨日までの"扉"がまだ生きていた。


透真は体重をかけずに、指先で少しずつ引いた。

蝶番が鳴る角度と鳴らない角度がある。この扉は右に七割まで開けると鳴る。六割五分で止める。何度も直してきた扉だ。修理の記憶が、指の角度に残っていた。


中は狭い。二畳もない。

段ボール箱、洗剤のストック、替えのモップヘッド、ビニール手袋の予備箱。

空気が古い。埃と洗剤が混じった、地下の匂い。ここだけは空調が止まっても変わらない。


透真は自分だけ滑り込んだ。カートは入らない。廊下に残す。

扉を閉める直前、取っ手の裏に養生テープを貼った。

ドアクローザーのバネで取っ手が戻るとき、「カチン」と鳴る。それを殺すために。


扉が閉まった。


暗い。


赤い光が、扉の下の隙間から細い線で入ってくるだけ。

自分の手が見えない。でも手袋の感触は分かる。自分が"ここにいる"ことは、指先だけが保証していた。


透真は口を開けたまま息をした。鼻で呼吸すると、鼻腔が鳴ることがある。口の方が静かだ。ただし、口が乾く。


耳が勝手に外を拾う。


爪の音。


カツン。カツン。カツン。


近い。廊下を来ている。


止まった。


止まった後に、鼻先で空気を吸う音がした。

犬ではない。もっと深く、もっと長い吸気。

肺が大きい生き物の、嗅覚。


倉庫の扉の、すぐ外。


壁一枚。板一枚。

その向こうに、人間ではないものがいる。

透真は自分の匂いを考えた。汗。洗剤。ゴム手袋。安全靴のゴム底。

匂いは消せない。洗浄スキルは"汚れ"を消すが、生きている人間の体臭は"汚れ"じゃない。


消せない。


心臓が喉の奥まで上がってきた。

動くな。動くな。動くな。

自分に言い聞かせているのに、膝が震える。震えると布が擦れる。布が擦れると音がする。


——頼むから。


誰に頼んでいるのか分からない。

でも、頭の中でその言葉だけが回った。


そのとき、天井で、かすかな音がした。


ブゥン。


虫ではない。もっと精密で、機械的な回転音。

蛍光灯は死んでいる。代わりに、天井の点検口の隙間から、青白い小さな光が漏れていた。


点滅している。


透真は天井を見上げた。


点検口。30センチ四方の樹脂パネル。四隅にネジ。

この倉庫の天井裏は換気ダクトに繋がっている。それは知っていた。


問題は、あの光だ。

扉の外に魔族がいるこの瞬間に、光は最悪だった。


消さなければ。


透真は刻印板に親指を当てた。


声を出す必要がある。生活魔法は、音声で起動する。

囁きでは足りない。声帯が振動する最低限の音量——呼気に言葉を混ぜるように。

自分の耳にぎりぎり聞こえる声。他人の耳には届かない声。

それが、発動の境界線だった。


「——解体」


息の形をした声。


掌から薄い光が広がった。

点検口のネジが"分解"された。回るのではなく、部品に戻る。

ネジの頭、軸、ワッシャー。

透真は左手を添えて、分解されたパーツを掌の上に受けた。

一つも落とさない。落ちたら音がする。


扉の外で、吸気が止まった。

嗅ぐのをやめた——のか、別のものに気を取られたのか。


透真は点検口のパネルをそっと押し上げた。

中から、手のひらサイズの物体が滑り落ちてきた。


受け止めた。


小型ドローン。

四つのローターが折り畳まれている。側面に小さなロゴ。

館内イベント用の配信ドローン。停止指示が出ているはずの機体。


指先にバッテリーの微かな熱が伝わった。まだ生きている。

ローターは止まっている。でもカメラのレンズが、うっすらと青い光を放っていた。


——送信中。


透真の背筋が強張った。


いま、この倉庫の中で最も危険なものは、魔族ではなく、この小さな光だった。

光は「ここにいます」の看板だ。

電波は「ここから出ています」の信号だ。


ドローンのカメラが、透真の顔を向いた。


黒いレンズに、自分の顔がぼんやり映っている。

手袋をした手。汗で張りついた前髪。赤い非常灯の反射で、頬に血が滲んでいるように見える。


見られている。


誰に。どこから。何のために。


その感覚が、扉の外の魔族とは別の種類の冷たさを背中に流した。


---


2


白波ユウは、その夜、いつも通りの場所にいた。


六畳。遮光カーテン。モニター三枚。

机の上にエナジードリンクの空き缶が四本。キーボードのWASDキーだけ文字が完全に消えている。

部屋の明かりはモニターだけ。顔の左半分が青く、右半分が暗い。


ダンジョン発生速報と探索者ランキングの解析。

それが白波ユウの配信チャンネルのメインコンテンツだった。

登録者は多い。顔は出さない。声だけで回す。

「情報だけ信じろ。顔は信じるな」がユウの配信方針だった。


「——じゃ次。今日のダンジョン発生速報な。公式更新は三件、うち二件は地方で——」


言いかけたところで、通信解析ツールが聞いたことのない音を鳴らした。


短く、高いアラート。

ユウの自作ツールだ。通常の配信帯域の外に信号が漏れたとき、引っかかるように組んである。


画面の隅に、ストリームIDが出た。

見たことのない規格。ローカル配信プロトコル。

本来は建物の中だけで完結する、外部には出てこないはずの信号。


「……なんだこれ」


ユウはマウスを動かした。


送信元の位置情報は"未確定"。帯域は極端に細い。

信号の強度が安定しない。点滅するように、途切れては戻る。


ユウは二秒迷った。


二秒は長い。配信者にとって、二秒の沈黙は事故だ。

でもユウは、その二秒の間に三つのことを同時にやった。

キャプチャの二重化。ローカル保存とクラウドミラー。

映像が消えても、記録だけは残すように。


そして、信号を自分の配信画面に取り込んだ。


画面が切り替わった。


映ったのは——赤い世界だった。


非常灯の赤。コンクリートの壁。天井の配管。

画面の端に、清掃用のカートが映り込んでいる。洗剤のボトル。モップの柄。養生テープ。

そして画面の中央に、手袋をした手。

ドローンを掴もうとしている。指が震えている。


「……え」


ユウの声が、配信に乗った。


コメント欄が一瞬止まった。

視聴者は、配信者の「え」に敏感だ。いつも冷静なユウが驚いた。それだけで空気が変わる。


次の瞬間、コメントが走り出した。


> は?

> なにこれ

> 監視カメラ?

> 赤すぎない?

> どこだよ

> カート映ってる 清掃員?

> ドローン視点だろこれ

> リアルか??


ユウは画面を拡大した。

映像にノイズが走っている。電波が細い。帯域が足りていない。

でも音が拾えていた。呼吸音。布の擦れ。指が金属に触れる音。


画面の中で、手袋の手がドローンを掴んだ。

カメラの角度が変わった。天井から、男の顔が映った。


若い。二十代後半か三十前後。顔色が悪い。

汗が額に浮いている。前髪が張り付いている。

目だけが、異様に鋭い。怯えているのに、見ることをやめていない目。


——そして、画面の奥で。


廊下の影が、一瞬だけ横切った。


四本足。肩が高い。関節が人間のものではない。

映ったのは零コンマ数秒。ノイズに紛れて消えた。


ユウの背中が総毛立った。


画面越しだ。自分は安全な部屋にいる。

なのに、本能が「逃げろ」と言った。


モニターの中の映像は、作り物じゃない。

ユウは何千時間もダンジョン映像を解析してきた。加工映像の癖は知っている。

これは——生だ。ノイズの入り方。光の揺れ方。呼吸のリズム。


「……ちょっと待て」


ユウは自分の配信のコメント欄を見た。

もう止まらない。


> ダンジョンだろこれ

> 位相封鎖?

> いやガチじゃん

> 通報しろ!

> どこのビルだ特定班

> あの影なに????

> モンスターだろ

> 清掃員逃げて


ユウは歯を噛んだ。


通報。それは正しい。

だが映像が途切れたら、画面の中の男は一人になる。

赤い廊下の中で、化け物と一緒に。


ユウの指がキーボードの上で止まった。


配信者としてのルールは「一次情報を届けること」。

人間としての反射は「この映像を止めるな」。


ユウは、配信ソフトのオーバーレイ機能を開いた。

映像に文字を重ねて、ドローンの画面に表示させる機能。本来は演出用だ。

でもローカル配信規格なら、双方向の通信路が残っているかもしれない。


キーボードを叩く。


短く。光る時間を最小にする。

向こうは暗い部屋で隠れている。光は敵だ。


画面の左上に、白い文字が一瞬だけ表示された。


「聞こえる?」


---


3


倉庫の中。


透真の手の中で、ドローンの小さな画面が光った。


自分の顔が映っている。赤い光を受けた頬。その上に、白い文字が重なった。


「聞こえる?」


透真は反射でドローンを伏せた。

画面を下にして、光を殺す。

清掃員の反射だった。光るものは隠す。目立つものは消す。存在を消すのが仕事だ。


扉の外で、爪の音がした。


さっきから止まっていた足が、動いた。


カツン。


倉庫の扉に向かっている。


透真はドローンを胸に抱えた。画面の光が服に吸われる。

呼吸を止めた。正確には、止めようとした。肺が言うことを聞かない。


扉の向こうで、何かが金属に鼻先を押し当てる音がした。

嗅いでいる。

扉の隙間から漏れる空気を、吸い込んでいる。


透真は、自分の匂いのことを考えた。

汗。洗剤の残り香。ゴム手袋。安全靴のゴム。

洗浄スキルは汚れを消す。でも、生きている人間の体臭は汚れじゃない。

心臓が速くなるほど、汗が出る。汗が出るほど、匂う。


恐怖が匂いになって、扉の向こうに届いている。


五秒。


十秒。


扉の外で、鼻先が離れた。


爪が一歩、下がった。


もう一歩。


透真の肺に、ようやく空気が戻った。

音を出さないように吸った。喉の奥が痙攣した。


いなくなったわけじゃない。離れただけだ。

でも、離れた数秒が、命みたいに重かった。


透真はドローンを少しだけ持ち上げた。画面を見る。


白い文字はまだ残っていた。


「聞こえる?」


誰かが、こちらを見ている。

この映像の向こう側に、人間がいる。


透真は口を開かなかった。声を出したら、扉の外に届く。


代わりに、ドローンの側面を指先で探った。

小さな穴。マイク。その隣にもう一つの穴。スピーカー。

イベント用のドローンだ。双方向の通信ができるように作られている。


透真は養生テープをちぎった。


まず、ドローンのライトに貼った。完全には塞がない。細い隙間だけ残す。

光は出る。でも正面からしか見えない。横からは闇のまま。


次に、ローターの根元にテープを巻いた。

羽音が出たら終わる。飛ばないドローンは、ただのカメラだ。

ただのカメラでいい。今は、それだけでいい。


最後に、スピーカーの穴にテープを貼った。

音が外に漏れないように。


ドローンの"声"を殺して、"目"だけを残す。


透真はドローンを扉の下の隙間に向けた。

扉と床の間、二センチほどの隙間。

そこからカメラだけを覗かせる。


画面に、赤い廊下が映った。


そして——扉から三メートルほどの場所に、脚があった。

太い。爪が長い。床を掴むように曲がっている。

脚の上に、黒い毛皮と、人間にはない関節の連なり。


透真は静かにドローンを引いた。


画面の隅で、文字が流れた。


「動くな。扉の前3m。まだいる」


透真は目を見開いた。


"見えている"。

向こう側の人間は、この映像をリアルタイムで見ていて、状況を理解していて、透真に指示を出している。


透真はドローンに向かって、ゆっくり頷いた。

声は出さない。頷きは音がしない。


頷きながら、自分の手が震えていることに気づいた。

さっきまでも震えていたはずだ。でも気づかなかった。

誰かに見られて、初めて自分の震えが"見える"ものになった。


画面に、また文字が出た。


「落ち着け。呼吸。ゆっくり」


透真は、その文字を三秒見つめた。


三秒は長い。

でもその三秒の間に、呼吸が一回だけ、深くなった。


倉庫の外で、爪の音が遠ざかり始めた。

ゆっくりと。探しながら。でも、この扉からは離れている。


透真はドローンを胸元に戻した。

小さな機械の温度が、さっきより少しだけ温かく感じた。

バッテリーの熱。自分の体温。

どちらか分からなかった。


透真は画面を見た。


コメント欄が、流れていた。

速い。読める速度じゃない。文字が上へ上へと押し流されていく。


その奔流の中に、一行だけ、目に留まった。


> 清掃員ニキ、生きろ


透真は目を細めた。


口元が動いたかもしれない。動かなかったかもしれない。

誰かが「生きろ」と言っている。

名前も顔も知らない誰かが、画面の向こうから。


それは助けではなかった。

コメント一行で魔族は消えない。扉は開かない。


でも——


さっきまで、この倉庫には透真しかいなかった。

透真の恐怖を知っているのは、透真だけだった。

震えている手を見ているのは、暗闇だけだった。


今は違う。


誰かが見ている。

誰かが「生きろ」と打った。

その指が、どこかのキーボードを叩いた。


それだけのことが、倉庫の暗闇を、ほんの少しだけ薄くした。


——同時に、透真の中で別の感覚が動いた。


見られている。


この状況を、知らない誰かが見ている。

もしかしたら何十人も。何百人も。


透真は、その感覚にまだ名前をつけられなかった。

安心なのか。恐怖なのか。

あるいは、もっと別の何かなのか。


今は分からない。

分からないまま、抱えておくしかない。


このドローンが温かいのか冷たいのか、まだ決められないのと同じように。


透真はドローンの画面をもう一度見た。


コメント欄の洪水の向こうで、白い文字が一つだけ、静かに表示された。


ユウからのオーバーレイ。


「そのビルの中、どこに何があるか分かる?」


透真は、その文字を見て、初めて——ほんとうに初めて——口元を引き結んだ。


三年間、毎日。

毎日このビルを歩いて、拭いて、直して、覚えた。

どの階に何があるか。どの扉がどう開くか。どの配管がどこに繋がっているか。


誰にも聞かれなかった。

誰も興味を持たなかった。

上の階の人間は、清掃員が何を知っているかなんて、考えたこともなかったはずだ。


今、初めて聞かれた。


「分かる?」と。


透真はドローンのカメラを、まっすぐ見た。


頷いた。


一度だけ。深く。


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